Tokuさんへ 旅立った父との対話


Yoshi

いつしかTokuさんと呼ばれるようになっていましたね。
大往生とはこのことのためにあるのかと思うほどの96歳9ヶ月、見事な天寿の全うでした。おかげで久しぶりにいとこたちや親戚とも会いました。家族・親族だけの葬儀だったにせよ、町内の人々が多く弔問の訪れや電話でやってきたのには、生前の丁寧な親交ぶりがあかしされていましたよ。残った家族――母や妹たちとのかかわりも、新たなものになりつつあります。体形が似ている自分の中にTokuさんの面影が見える、降りてきているとまで言われます。住んでいた家の中で、自分の体の中にたしかにTokuさんがいるように思われてなりません……。

思い出が漂う町 札幌(藻岩山より筆者撮影。2019年7月)

「救急車で運ばれた!」……母からの慌てたメールをもらってから2時間後、妹からの「終わりました」のメールを受けてからのあの一日。老衰が目立つなか、「もう長くはないかもしれない」と感じつつあった去年の推移。その現実は急にやって来た。土俵際ににじり寄られて、ついに押し切られたようなその瞬間だった。あまりの「急」にうろたえつつ、その日の仕事をこらえながら乗り切ってからの帰省。しかし、それは、布に包まれたその姿を見て、実に見事な終焉だったという感嘆の気持ちに浸る中での、通夜~告別式~火葬までの流れであった。

通夜の式後の夜はどうしても眠れず、式場の大広間にいる遺影との対話の数時間を過ごしていた。生前もそんなにしゃべる人ではなく、とくにずいぶん違う世界で生きるようになった自分との間では共通の話題が少なかった人である。遺影を前にしても、そんなに言葉が出てくるわけではない。自分もいい年になっているので、子どもの時からの記憶とたどるとあまた湧いてくるが、時が立って、ますますクローズアップされるのは、最初と最後の思い出となった……。

いやあ、ほんとによく生きましたね。なぜか、Tokuさんとの最初の思い出が何度もよみがえります。あれは、自分が4歳か5歳でした。銭湯に連れていってもらって帰ってくる夜道(北海道札幌市の北大通)、ちょうど真っ直ぐ先に見えるテレビ塔の中に照明の点滅が繰り返される部分があり、それを見て、幼年の自分は「ついた!」「消えた!」と叫んで歩いていました。たしか左手を握ってもらっていて、「はは」と笑いながら、声を合わせてくれている若いTokuさんがいたはずです。姿は見えないのですが、たしかに父がいるという幸せな実感に満たされていた思い出が、60年以上たった今でも新鮮なんですよ。
そして、最後の思い出は、去年の秋。コロナ禍もあって移動を控えた春夏を過ぎ、ようやく帰省した時でしたね。母が外出していて、二人だけで昼食をしました。Tokuさんと二人だけでお昼ご飯なんてあったかな。初めてではなかったかな。そして、たぶん、これが最後だろう、という思いで向かい合っていました。そこにいるのは、幼児のようなTokuさんで、何かの話題についてしゃべるということもなく、ただ静かに食べるだけ。「まだ食べるかい」「もうお腹いっぱいかい」と語る自分がいただけでした。
あのとき、最後かもしれない、と感じたのは、二人だけの昼食が、という意味だったのですが、結局は、生きて食事を一緒にした最後となりましたよ。ここ10年間、年3回ほどの帰省を大切にしようと努めたなか、東京に帰るとき、車に向かって丁寧に手を振ってくれていて、その姿と写真を大切に留めています。お互い、よく十分に、元気に交流させてもらいました。幸せを得させてもらいました。昼寝の時の安らいだ、軽い笑みの浮かぶ最後の顔がよかったです。きっと永い昼寝に旅立ったのでしょう。地上の人生のよい実りをゆっくり味わい休んでください……。

「100歳まで生きてみたい、生きている気がする!」と3、4年前までは意欲を見せていたことに、感嘆させられていた父の、ついに力尽きた姿には、感嘆と称賛と感謝しかない。こうした気持ちの源が、もっと深く広いことも実感させられてならない。老後に入っている自分の、これからをしっかりと生きなくては、という思いの中……。

 


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