信じるゆえに語る コリント人への手紙第二4章13節


佐藤真理子

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

コリント人への手紙第二4章13節

 皆さんは説教についてどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか。プロテスタント教会の方は礼拝の核になる部分というイメージがあるかもしれません。カトリックの方は、司祭を通して語られる神の言葉というイメージをお持ちかもしれません。ブレザレン系の教会の方、ハウスチャーチ、無教会、オーガニックチャーチ、シンプルチャーチの方は、何か特定の人がする特別なものというイメージは無いかもしれません。説教に対するイメージはおそらく教派によって異なるものだと思います。

 

 私が初めて説教のようなものをしたのは、学生時代に住んでいたキリスト教の寮での朝の集いでした。そこでは学生が順番に聖書から学んだことを語っていました。その後本格的に説教をしたのはミッションスクールでの聖書科の教育実習の際、朝の全校礼拝でした。その前に私はキリスト教の学生団体の主事達に説教の作り方について聞きましたが、皆聞かれるとはじめは少し困った顔をしたのを覚えています。その時はなぜだろうと思いましたが、いざやってみてその理由がわかりました。説教の仕方に決まったセオリーなどないからです。

 その後神学生となり説教学の授業で毎週学生同士長所と短所を言い合うという授業を受けたり、いろいろな教会で説教をさせていただきダメ出ししていただいたりしました。原典から調べたりあらゆる注解をチェックしたり、話し方を研究したり模索していましたが、そうしているうちに自分が人の顔色を窺って語ろうとしたり「努力するほど良い」という考えに陥ったりしているのに気づきました。

 高齢化が進んだ多くの教会ではほとんどの方が自分より遥かに年上という状況の中で、経験も浅い自分に何が語れるのか途方に暮れたり、すでに「聖書」があるのに自分の言葉を付け加えるのが無意味に感じることもありました。

 

 神学校を出た後、じっくり聖書を読んで、新約聖書にはあまり礼拝という枠組みでの説教が出てこないことに気づきました。殆ど建物の外で語られています。旧約で預言者が語る神の言葉もそうです。また彼らは原稿を用意しているわけでも注解をチェックしているわけでもなく、例話をたくさんよういしているわけでもない事に気づきました。聖書に登場する説教は、完全に神が導くものであって、儀式的な枠組みでなされたものでも、技術や努力によるものでもないのです。

 

また、説教は「祈りとみことばの奉仕」に仕える者だけがするというわけでもありませんでした。使徒行伝6章を読むとステパノが食卓に仕える者であったことがわかりますが、彼は殉教する前に7章で素晴らしい説教を語ります。

 こういった聖書に登場する説教は全てただ神のことを人々に伝えるために聖霊に満たされてキリスト者が語ったものです。

 説教は何か型が決まったものではなく、もともとは信じている者がただ神を伝えるために語った言葉でした。

 

 そのことに気づいたとき、私の中で何かが変わりました。「説教」のために何か技術的なことに固執したり自力で必死になるのは間違っていると思いました。私がすべきことは、ただ生ける神を知ることでした。「ただ神を伝える」のが説教だからです。もし説教に準備がいるなら、日々神との関わりを持ち神の愛を知ることです。そうすることで私が体験したことを真実として話すことができるからです。そして、そのために読むべき本は「聖書についての本」ではなく「聖書」です。聖書は神がご自身を現した啓示だからです。

また、語るときは、私を通して神ご自身が語るように聖霊に委ねるものなのだと理解しました。このように理解したとき、説教で感じていた重荷が私から取り去られていくのがわかりました。

 

 聖書は神についての証言です。それは読む人にどのように聖霊が働くかで一人ひとり心の響き方が異なります。説教はもちろんあくまで人のことばですが、神についての証言という意味で、聖書と同様に人の心に異なる響きを与えます。働くのは神であって、説教の技術や人の努力ではないのです。

 

 聖書はすべての人に同様に与えられたものです。中には聖職者は特別に聖書を解釈する権威を与えられているというイメージのある方もいらっしゃるかもしれませんが、そういった聖書解釈のハードルの高さはよく教会で用いられる次の聖句によるのかもしれません。

「ただし、聖書のどんな預言も勝手に解釈するものではないことを、まず心得ておきなさい。第二ペテロ1:20」

 しかし、続く21節にはこのようなことが書かれています。

「預言は、決して人間の意志によってもたらされたものではなく、聖霊に動かされた人たちが神から受けて語ったものです。」

 つまり最も必要なのは原語や特別な知識ではなく(もちろんそれらは意味のあるもので、私もこれを書く際にも用いています)聖書の理解について一番必要なのは聖霊であり神に聞くということです。

 

 それこそ聖書の原語から理解するなら、説教とは、宣教です。それは信じる者皆に許された特権だと私は思います。

 

私は教会の中で決まっていることを無理に変革すべきだということを意図しているのではありません。しかし、これを読んでくださっている方に、理解してほしいのです。教会とは建物や組織ではなく信じる一人ひとり、つまり「あなた」です。教会そのものであるあなたは、あなたの存在が「宣教」であり宣教師でもあるのです。どんな形であれ人が誰かに聖霊に導かれて一言でも神様のことを伝えれば、本当はそれが「説教」なのです。

 最後にもう一度第二コリント書を引用させてください。

 

「私は信じています。それゆえに語ります」と書かれているとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語ります。

コリント人への手紙第二4章13節

 

佐藤真理子(さとう・まりこ)

東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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