佐藤真理子
主よ あなたは私を探り、 知っておられます。
あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知りぬいておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み 御手を私の上に置かれました
そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて 及びもつきません。
詩篇139 1-6節
自分のことを一番知っているのは誰でしょうか。多くの人は自分を一番知っているのは自分であると考えるかもしれません。聖書の答えは違います。もし私以上に私を知っている人がいるとしたら……今回は、その答えを示した箇所である詩篇139の冒頭にスポットを当てみたいと思います。
自分のことを一番よく知っている人間は、紛れもなく自分です。しかし、私自身、時々私の中に自分の知らない領域があることに気づかされます。物心つく前の記憶は勿論曖昧ですし、数年後、数十年後自分がどうなっているのかも確実なところは分かりません。また、日頃自分が自覚せずに無意識のうちに感じていることも多くあります。
聖書は、世界の創造者は神であると伝えています。私たちを創ったのは、聖書によれば、神です。例えば私たちが何かを作るとき、私たちはその作品の材料、性質、目的、またその作品の限界をよく知っています。もし神が人を創造したのであれば、神は誰よりもそれを熟知しているはずです。
私が大学生だったとき、詩篇139の言葉が強く心に焼き付けられる経験をしました。
私の仲の良かった同じ年の友人が、突然亡くなったという知らせを受けた時です。私はその子が大学に入学する前に色々な未来を思い浮かべていたことを知っていたので、その知らせは本当にショックでした。その頃、当然のように将来のことを考えていた私は、「将来」とは人にとって不確かなものであることを感じました。しばらくその子の死を私は全く受け入れることができませんでした。生きていれば当たり前のように経験する多くのことを知らずにその子は突然この世から去ってしまいました。私にその子の死を伝えてくださったご家族の声は、言葉にならないほど苦しそうでした。
私はその時、神様のした事に対して全く納得がいきませんでした。なぜこんなことが起こったのかと神様に問い続けました。
そういった思いの中で聖書を読んでいたとき、突然私に強く訴えかける箇所に出会いました。それが今回取り上げた詩篇139篇です。
あなたは、私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読み取られます。
あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知りぬいておられます。
ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。
あなたは前からうしろから私を取り囲み 御手を私の上に置かれました
そのような知識は私にとって あまりにも不思議 あまりにも高くて 及びもつきません。
詩篇139 1-6節
これを読んだとき、「あなたがその子を知っている以上に、私はその子を知っている。あなた以上に、私はその子を愛している。」という神様からの語り掛けを感じました。ご家族の気持ちを考えると本当にやるせない思いに駆られましたが、その時こうも語られている気がしました。
「その子の親以上に、私はその子を知っている、愛している。私がその子を造ったのだから。」
とにかく、それが答えなのだと思いました。聖書にはキリストがラザロという少年の死を前にして涙を流す描写があります。私や、ご家族同様、またそれ以上に神様の心がその出来事を通して痛んでいるのを感じました。とにかく、神様はその子の誕生する前からその子を知っており、骨や髪の毛の数まで、またその子の心に思い浮かぶことやその子の歩む道のりすべてを知り尽くしていたのだと思いました。神様がその子を愛する思いは、それほどまでに深いのだと思いました。
また同時に、人の目にはその子の生きた時間は短いけれど、神様の目には異なるものが見えているのかもしれないとも感じました。聖書は「永遠」という概念を示しますが、永遠とは、時間の存在しない次元です。その詩篇を読んでから、人の時間軸で測りきれないものが、その子の人生にあったのかもしれないと私は思うようになりました。
聖書を読むとき、私は時々、自分が読んでいるようでいて、実は私の心が聖書に、つまり神様に読まれているような気がします。
詩篇139のはじめ、1-6節では神がすべてを知っておられる方であることが示されています。神様は私自身が私を知るよりも遥かに私のことをよく知っており、私が心に何か思い浮かべるその前に、神様は私がどんな思いを抱くのかを知っておられます。私が歩んでいく道を神様ははじめからご存じで、私がどこで苦しみ立ち止まるのかも見守っていてくださいます。また私が話しているその前に、神様は私がどんな言葉を発するのか知っています。
人が根源的に求めるのは、喜びだけでなく苦しみ、葛藤、生まれてから今日にいたるまでの歩みといった自分のすべてを知り尽くす他者の存在ではないかと思います。聖書は、それが神だと語っています。この神は遥か高みにいる非人格的な存在ではなく、一人一人を個人的に深く知り、個人的に関わりをもち、語り掛け、励ます神です。孤独を感じることがあっても、神は必ず誰よりも傍にいて、決して離れ得ないと聖書は伝えています。
神は私たちを、想像もし得ないほど深い愛で愛しています。それが、全ての疑問に対する聖書の答えです。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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