佐藤真理子
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネの福音書3章16節)
今回はイエス・キリストとは誰か、ということについて書きたいと思います。聖書によれば、イエス・キリストは神であり、神の御子です。この方は、人の罪を贖い、人に永遠のいのちを与えるために世に来られました。
聖書は、神が愛である(1ヨハ4:16)と語っています。神の愛、この世で最も大きな愛はイエス・キリストという人の形をとって世に来られました。
人には罪があります。罪とは神から離れることですが、神は愛であるという聖書の証言からもっと具体的に言えば、罪は愛から離れることです。妬み、怒り、憎しみ、高慢、偽り、悪口などがその例です。罪は人を傷つけるものですが、おそらくそれ以上に「自分自身を傷つけるもの」です。犯罪には刑罰が伴いますが、罪にもまた罰が伴います。犯罪は法律によって定められますが、人に罪があることを示す基準として、旧約には律法が記されています。しかし、生まれてから死ぬまで一点の曇りもない愛だけで生き抜く人がいるでしょうか。罪のない人間は一人もいないのです。2000年前に生まれたイエス・キリストという人物を除いては。
神がこの罪と死からの救い主として与えたのが、イエス・キリストでした。この方は人として生まれましたが、全く罪の無い人でした。イエス・キリストは全ての人の罪のために死なれました。罪のある状態で、父なる愛の神との関係を結ぶことはできません。それはちょうど人が誰かに悪いことをしたとき、謝ることができるまでは相手の目を見ることができないのと似ています。私たちがもはや罪責感に苛まれることなく神との関係を結ぶことができるよう、イエス・キリストは私たちの代わりに罪の罰を受けるため十字架で死なれました。
1941年、7月、ユダヤ人収容所であったアウシュビッツから脱走者がでました。報復のために囚人の中から10人が選ばれ、地下壕で死なさせられることが決まりました。その中に、フランツェク・ガイオニチェクという男性がいました。彼は「私の子供たちと妻は、もう二度と私に会うことはないのか。」と嘆き悲しみました。
すると、一人のポーランド人が進み出ました。「私はカトリックの神父です。私には妻も子供もいませんから、あの人の代わりに私を殺してください。」彼の名はマキシミリアン・コルベと言いました。47歳でした。地下壕へ連れていかれた10人はコルベ神父の導きで祈り、賛美歌を歌い、地下壕は教会のようになりました。彼らは毒薬を打たれ死にました。
コルベ神父の死を、ローマ教皇は「イエス・キリストが勝ち取ったのと同じような勝利である。」と表現しました。それはコルベ神父の死が、身代わりの死だったからです。フランツェク・ガイオニチェクは世界中を回って、マクシミリアン・コルベが自分の代わりに死んだことを伝えました。
キリストの死は、まさに私たち自身の身代わりの死でした。子供を心から愛している親は、あなたの子供が罪を犯したために罰を受けなければならないと言われたならば「できることなら自分が代わりに罰を受けたい」と思うのではないでしょうか。十字架は神の愛のしるしです。神は、私たちが愛に値すると裁いたのです。
神はイエス・キリストの十字架ゆえ、もはや私たちの罪を思い出さないと聖書に語っています。私たちの罪よりも、神の愛は遥かに大きいのです。神の赦しの力は、人の罪をはるかに凌駕するのです。十字架は、神の愛の結晶です。キリストは生前全ての病を癒し、あらゆる罪びとを赦しました。人々が罪人を裁こうとすると、罪の無い者からこの人に石を投げよ、と言ってその人を守りました。そして「わたしもあなたを罪に定めない」と言いました。キリストを信じることは、キリストが私たちにしたように、人に赦しを与え、愛を与えることです。それは私たち自身を束縛から解放します。
キリストはまた、十字架に掛かり死んだ三日後に、復活しました。キリストは、死を滅ぼしたのです。いのちの源は神です。神は再びいのちを回復させました。キリストを信じた者には永遠のいのちを約束すると神は言われました。肉体の死を終わりではなく、復活の希望の幕開けへと変えたのがキリストでした。キリストは十字架で完全に悪に勝利しました。
神はイザヤ書54章の中でこう約束しています。
「わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、私は誓う。たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。――あなたをあわれむ方、主は言われる。」
神は私たちの理解を超えた愛で私たちを愛しています。夕焼けを見、朝日を見る時、その美しさに圧倒されたことはありませんか。その美しさは、その創造主である神の愛のごく一部を表したものです。
キリストは死んでいません。今生きています。今この瞬間生きて、あなたが走ってご自分のもとに帰ってくるのを、両腕を広げて待っています。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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