佐藤真理子
もうすぐ聖霊降臨祭(ペンテコステ)ですね。これはイエス・キリストが復活し、天に昇った後、聖霊が降った時のことを記念した日です。その日を記録した記述が、上に引用した聖書箇所です。ペンテコステは五旬節を表すギリシャ語に由来した言い方です。
イエス様は生前、このような約束をします。「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」ヨハネの福音書14章16節。この約束が成就されたのが聖霊降臨の出来事です。イエス様は死とともにご自身の霊を引き渡されましたが、その神の霊が、皆に与えられるものとなりました。これは私たちにとっても例外の出来事ではありません。コリント人への手紙第一12章3節には次のような言葉があります。「聖霊によるのでなければ、だれも『イエスは主です。』ということはできません。」人がキリストを信じることは、聖霊の働きによるのです。
イエス様はこの聖霊を「助け主」と呼びました。私たちの内におり、同時に私たちを包む人格化された愛、それが聖霊です。この聖霊に導かれて歩む道が、キリストを信じた者の道です。聖霊は私たちを正しい方へと導く、神様のGPSのようなものです。このGPSに正しく導かれ歩むとき、キリスト者の人生は神の栄光を余すことなく光り輝かせるものとなります。
私の大好きなキリスト者に、マザー・テレサとジョージ・ミュラーがいます。マザー・テレサはご存知の通り、「神の愛の宣教者会」の創立者であり、貧しい人々の隣人として生き抜いた人です。ジョージ・ミュラーは19世紀、イギリスで多くの孤児院を設立した牧師です。彼は、「聖書に記された神が今生きていることを証する」ために生きました。ミュラーは祈りと信仰のみによって、次々と大きな孤児院を設立し、多くの孤児たちを救いました。
貧しい人々を救ったマザー・テレサと孤児たちを救ったジョージ・ミュラー、カトリックとプロテスタントという異なる教派を背景に持ちつつも同じ神に仕えたこの二人の生き方は、とてもよく似ているような気がします。二人は、深く神を信頼し、聖霊に委ねて生きたのです。
マザー・テレサは、最初にいた修道院に留まって生きることもできたでしょうし、そのほうがずっと安心できる選択だったかもしれませんが、神の導きに従い、もともと自分のいた修道院を出て貧しい人のところへと行くという一歩を踏み出しました。神の導きに従うということは、聖霊の促しに従うということです。つまり、自分の感情や思考を超えた力によって動かされるということです。ホセア書には「わたしは人間の綱、愛の絆で彼らを引いてきた。11:4」という言葉がありますが、それはちょうど愛の絆で神に引っ張られるようなものです。ミュラーもまた、聖霊の強い促しにより、孤児院の設立に一歩を踏み出しました。全く先の見えない状況で、神のみに信頼し、勇気をもって一歩を踏み出したことで、同時代の人だけでなく後代の人に対しても神の栄光を輝かせる彼らの人生が始まりました。その後の歩みにおいても二人は人の計画ではなく、神の計画に信頼しました。人為的に経済的な安定を求めるのではなく、神に委ね、時にかなってマナのように与えられる一つ一つの恵みによって、その働きを完遂させたのです。同じ神を信じ、同じ聖霊に導かれているのだから、二人の生き方が似るのは必然かもしれません。
二人の生き方を、自分と無関係な偉人の人生として捉えることは、彼らの願いとも、また神の願いとも違うのだと思います。マザーもミュラーも聖霊に委ねて歩んだ人です。聖霊は、信じた者皆が持っています。しかし、信じた者の本当の喜びは、自分自身を聖霊ご自身のものとすることです。キリストを信じることは、ただ日曜に教会に行くことを意味するのではありません。神様は私たちの人生すべてに関わりたいと思っておられます。それは神の愛を信じ、神ご自身を信頼し、神の言葉であるみことばを何よりも確かなものとし、どんな時も神の御計画が必ず成就すると信じる歩みです。それは愛と喜びと希望のあふれる歩みです。神は愛と喜びと希望の源だからです。神は人知を超えた知恵を持っています。その知恵に導かれて歩むとき、私たちの人生は想像を遥かに超えた素晴らしいものとなっていくでしょう。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
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