やまじ もとひろ
思いもしなかった新型コロナ肺炎の蔓延で、教育界は経験の無い不安と先の見えない焦燥感にさいなまれています。
対面できない生徒にどのようにして教育の場を提供していくべきなのか、先生たちの試行錯誤が始まっています。
神奈川のある県立高校では、先生たちが互いに慣れないビデオ撮影を始め、授業配信をスタートさせました。ただ、この高校はすでにICT教育が進んでいる学校です。それができない学校が大半でしょう。
顔をまだ一度も見ていない新入生の担任団は、それでも見えない生徒へのメールや手紙による「話しかけ」を始めています。生徒たちが、その温かさを受け取ってくれることを期待しながら。
最も大きな影響を受けているのが、中3、高3の受験学年です。初めは「家でゴロゴロできる」と笑っていた生徒も、休校が2カ月目に入ると焦りを感じてきたようです。ところが参考書を買ってはきたものの、そのベースとなる授業を受けていないのですから、なかなか理解は進みません。
生徒を受け入れ、なんとか講義を続けていた進学塾もありましたが、緊急事態宣言が発出された都市では学校と同じように、塾も休講を余儀なくされることになりました。
とくに困っているのは、大学受験を控える高校3年生です。来春の大学入試は、初めて実施される「大学入学共通テスト」から始まります。
これまでになかった試験を受けなければならないのに、生徒は「右も左もわからない状態」で、受験勉強を進めなければならないのです。たった一人で。
このような事態になって学校の本質が見えてきました。それは「先生と生徒、生徒と生徒が存在する空間」がなければ、学校のアイデンティティは証明できないということです。
これまで「生徒同士の切磋琢磨」とか「先生と生徒の学び合い」など、学校案内パンフレットには美辞のように並んでいたものですが、それはもっともっと根源的な、なければならないものだったのです。
かつて、フランスのノーベル文学賞作家、アルベール・カミュは、小説『ペスト』で、感染が広がって外部と遮断された社会の中で、感染症ペストという見えない敵と闘う市民の姿を描きました。
感染拡大による行政や経済の混乱、封鎖された都市を描写したなかで、人々が経験したこと「それは自宅への流刑であった」と書いています。
いま生徒は教育の場から引き離され「流刑」に遭っています。一日も早く「学校」という社会に帰ってきてくれることを願ってやみません。
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今回は『これからの子どもたちはなにを学ぶか(2)』として、変わりつつある英語教育について、東京都の中学生が受けることになる「東京都中学校英語スピーキングテスト」についてお届けする予定でしたが、新型コロナ肺炎の広がりによる教育界の混乱を受けて予定を延期、変更しました。悪しからずご了承ください。
[つづく]
やまじ もとひろ
教育関連書籍、進学情報誌などを発刊する出版社代表。
中学受験、高校受験の情報にくわしい。