佐藤真理子
先日はイースターでしたね。主のご復活おめでとうございます!
はじめまして。今回から聖書のメッセージを伝える連載をさせていただく佐藤真理子といいます。私はこれまでラジオで宣教する働きを通して、聖書のメッセージを伝えていました。今はポッドキャストFaith Hope Loveを通して同じように聖書のメッセージを伝えています。この連載を通して、聖書が私たちに伝えていることを届けることができればと思っています。
初めに自己紹介として、私自身のお話をさせていただければと思います。私の母はプロテスタント教会のクリスチャンで、私は幼いころから聖書の話を聞いていました。中学校からはカトリックのミッションスクールに通い、上智大学の神学部に入学しました。とは言ってもそれまでの私は信仰深いといえるような状態ではありませんでした。自主的に礼拝に出席することもあまりなく、聖書もほとんど読んでいませんでした。半ばご利益宗教のように何か特別に頼みごとがあるときだけ思い出したように祈ったりはしていましたが、キリスト教は自分の中でどこか価値観の一つに留まっており、優先順位が低いものでした。他にもっと大事なことのように思えるものが沢山あったのです。しかし母の勧めで受験を考え、聖書を読んでいるうちに、キリストの復活後に別人のように力強く宣教を始める弟子たちの姿が心に残り、神学部で学ぶことを決めました。
大学2年の時、母が病気で一時的に入院することになりました。不思議なことに母は入院中、それまでよりもずっと生き生きしていました。それは聖書の次の言葉が自分に語られたからだと言っていました。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」ヨハネの福音書11章4節。
そのことを通して、私は聖書に語られた神が今、生きているのだということを知りました。その頃から、私の世界を見る目は変わりました。もう道ですれ違う人も電車でたまたま同じ車両に乗っている人も、私には他人でなくなりました。キリストは出会う人々に優しさを表す人にこう語ります。「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」マタイ25章40節。この聖書の言葉ゆえに、出会う人は私にとってキリストとなりました。キリストは、私の人生そのものとなりました。
それから私は神様に仕えて生きていきたいと思うようになりました。一緒に勉強していた神父さんやシスター達の存在にもとても励まされました。カトリックの神学部でプロテスタント教会に属する自分が学んでいる意味も考えさせられるようになりました。私はもうしばらくここで学ぼうと思い、大学院の修士課程で新約聖書の論文を書きました。
その後、プロテスタントの神学校に行き、そこでも新約聖書をテーマに修士論文を書きました。神学校を卒業してから放送伝道の道に導かれ、ラジオを通して宣教することになりました。メディアを通してキリストを伝えることは、組織や教派を超えての働きを願っていた私にはとても喜びのある働きでした。始めたばかりですが、今ポッドキャストを通していろいろな方に聖書のメッセージを伝えることができるのも、こうしてAMORというカトリックのウェブマガジンを通してキリストを伝えることができるのも、大きな喜びです。
こうして私の歩んできた道を振り返ると、私の意志で道を選んだようでいて、神様の愛によって全てが整えられてきたのだと思います。
母の病がなければ、今の私もなく、このような記事を書かせていただくこともなかったと思います。渦中にあるときはもちろん楽ではありませんでしたが、「この病は神の栄光をあらわすため」というみことばは、やはり真実だったのだとわかります。聖書には、神様によって全てのことが益となると書かれています。一見負の要素に見える出来事であってもです。旧約から新約に至るまで、聖書にはこの原則が貫かれています。私の好きな讃美歌「御手の中で」の歌詞にこのような言葉があります。「御手の中で、すべては変わる。賛美に。」「御手の中で、すべては変わる感謝に。」信じる者にとっては、その通りなのです。新型コロナウィルスの影響が世界中に広がっていますが、この神様の原則に従って、今起こっていることを見たとき、失望は大きな希望に代わるのではないかと思います。パウロが語る通り、「この方に信頼する限り、失望させられることはない。」のです。
初めに記したのは、私の大好きなみことばです。これまでイザヤ書43章の言葉に何度助けられてきたかわかりません。神学校に入学してからも、一番困難を覚えた時期にイザヤ43章1-2節にとても救われました。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったからだ。わたしは、あなたの名を呼んだ。あなたは、わたしのもの。あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにいる。川を渡るときも、あなたは押し流されず、火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに追いつかない。」
聖書が一貫して語るのは、神は愛であるということです。愛の神が語られるのは、新約聖書だけではありません。聖書が語るのは初めから終わりまで、一貫してイエス・キリストを遣わした唯一の神です。イエス・キリストをひたすら待ち望む人々の言葉によって紡ぎだされた旧約聖書にも、神の愛は溢れています。旧約聖書のイザヤ書の内容を語る預言者(神の言葉を語る者)イザヤは、キリストの誕生の700年以上前から活動した預言者ですが、救い主であるキリストについての預言を特に多く残しています。イザヤ43章4節は、キリスト教の中核、また聖書の中核を成す言葉です。この一言が、私が生涯を通して皆に伝えたい言葉であり、その価値があると思った言葉です。この言葉が、キリスト教の全てを、聖書の全てを表していると言っても過言ではありません。この言葉が、聖書が示す神の全てです。神が人に伝えようとしているメッセージの全てです。
佐藤真理子(さとう・まりこ)
東洋福音教団沼津泉キリスト教会所属。上智大学神学部卒、上智大学大学院神学研究科修了、東京基督教大学大学院神学研究科修了。
ホームページ:Faith Hope Love