ミサはなかなか面白い 99 キリストの神秘に参入する秘跡として


キリストの神秘に参入する秘跡として

 

 

答五郎 こんにちは。いよいよ最終回が近づいてきたよ。いちおう区切りの100 回で終わりにするからね。

 

 

女の子_うきわ

 

美沙 名残惜しいですが、きりがいいですものね。今、世の中は、新型コロナ・ウイルス感染症問題で大変なことになっていますね。つい今週には、東京オリンピック・パラリンピックの1年程度の延期が決まりました。

 

 

 

答五郎 ほんとに。教会でもミサ公開中止、諸行事、中規模以上の集会が延期・中止というかつてない事態だ。先行き不透明な日が続いている。

 

 

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問次郎 ミサについても、来ないでくださいという通達になるというのは、ある意味で貴重な経験です。

 

 

 

答五郎 逆に、ミサに行けないときでも、その日の聖書のことばに触れることやミサに集まったときのことを思い起こしたり、あるいは東京教区の場合、ミサの映像配信があったりと、いろいろな形でミサとの触れ合い方が生まれているように思う。もちろん、聖体の秘跡を受けることはその場で直接でなければ意味はないのだけれど、家にいても普段の生活の中からのミサの祈りに参加することがさまざまに試みられているのではないだろうか。そして、その分、実際に集まってミサをささげることがどんなに素晴らしいかわかり、それを心から渇望するようになっていないだろうか。

 

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問次郎 そうなのです。実際、ずっと勉強してきて、ようやく入信を志願したところですから、余計に渇望しています。

 

 

女の子_うきわ

 

美沙  関係している教会では、非公開でも復活徹夜祭の典礼が司祭と奉仕者によって行われるので、聖週間の典礼に出席しながら、その中で洗礼を受けることができるようになりました。

 

 

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問次郎 そこで、学びの続きなのですが、前回、難しい用語、イニツィアツィオとかサクラメントゥムとかミュステーリオンとかいっぱい出てきて、一瞬面食らいましたが、でも、よく聞いていると、古代の宗教事情の雰囲気が想像できるような気がしました。その中で、キリスト教の秘跡の典礼がかたちづくられてきたのだなあ……と。

 

 

答五郎 あんな話になったきっかけは、「入信の秘跡」ということをどう理解するかという疑問からだったね。洗礼、堅信は、たしかにキリスト者になるときに受ける秘跡として、そのように「入信の秘跡」と呼ばれるのはわかるのだけれども、聖体の秘跡、つまりミサに参加して聖体をいただくことも、入信の秘跡と呼ばれるのにはちょっと違和感があった、ということだったね。

 

女の子_うきわ

 

美沙  はい、聖体の秘跡は、ミサで毎回、受けるものもので、それが入信の秘跡と呼ばれるのはどうかと思ったのです。

 

 

 

答五郎 だったね。そこで、前回展開したことは結論からいうと、「キリスト教入信式」というときのイニツィアツィオは、かならずしも信者になる始まりのことを指しているわけではないということさ。つまりそれは、ミュステーリオンやサクラメントゥムが意味していることと重なっていて、神秘・奥義がその人、つまり加入式を行う人に明かされるということを意味している。洗礼・堅信・聖体を「秘跡」と呼ぶときも、入信式のときに授けられる秘跡というだけでなく、「キリストの神秘に参入する秘跡」と考えるべきだよ。イニツィアツィオは、秘儀への参入、奥義伝授の意味があったことからすると、その意味合いはもっと深いものがある。

 

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問次郎 なるほど、そう考えると、洗礼、堅信がキリスト者になるための儀式として、入学式のようなものでなくて、毎日の信仰生活の中で繰り返し味わわれるということになるのですね。

 

 

 

答五郎 入学式、なるほど、そうともいえるか。でもね、ある人にとっては、卒業式のようなものだともいわれるよ。入信志願期には、一生懸命、キリスト教の勉強を続けてきたのに、入信式を受けたとたん、ミサに参加しなくなるという場合があるというのだ。

 

 

女の子_うきわ

 

美沙 入信したら、毎回のミサが学びなのだという話も聞きますし、反対に、逆に入信したから学びの場がどこにあるのか迷ってしまう、放し飼いにされるというようなことも聞きます。

 

 

 

答五郎 それは、日本の教会での共通の問題らしいよ。これは、この学びの範囲を超えていることだけど。ともかく、ある人がこう言ったという。キリスト者とは「である」ものではなく、「になる」ものなのだと。だれが言っていたか忘れたけれど。キルケゴールだったかな……。

 

 

女の子_うきわ

 

美沙 ひょっとして、キリスト者になったからといって安心し、安住し、そして安逸するのではなくっていう教訓ですか。たえずキリスト者になっていくプロセスが大事だということですよね。今、ちょうどそんなことを学んでいるので。

 

 

 

答五郎 ミサの典礼も、参加する個々人にとっては、いつも自分の信者としての出発点からプロセスで考えないと、自分自身にとってのミサの意味、実存的な意味といったらいいのかな、そんなところが見えてこなくなるのだよ。

 

 

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問次郎 今までの学びは、どちらかというと、共同体、会衆にとっての共通の客観的な意味のお話でしたね。それを信者個々人の人生というか、実存に即して見直していくことが大事だということでしょうか。

 

 

 

答五郎 まさにそう! 今までの話をもう一回、その観点からやり直そうか? 200 回を目指して!

……いや冗談だよ。でも、共同体の一員としてミサを学ぶことが、まさしくより深くキリスト者になる道の王道なのだからね。あとは自分たちで進んでいってほしい。

 

女の子_うきわ

 

美沙 ところで、聖堂に入るときに聖水を額に付けるという習慣がありますよね。今は感染症対策で、置かれなくなっていますが。あれも、今の話と関係がありますか?

 

 

 

答五郎 あれも、ミサに不可欠なことというより、一つの任意の慣習なのだけれど、あるとしたら洗礼の想起ということにあるようだ。洗礼を受けてミサに集まる初心に回帰するという意味だと学んでいる。

 

 

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問次郎 とすると、「ことばの典礼」も、キリストの生涯を救いの歴史の中で学び、そのことば、福音に学び続けるということで、キリスト者になる道を繰り返し、そして深めているわけですね。それが周期的聖書朗読配分の意味だったわけなのですね。

 

 

 

答五郎 そう、もう自分なりの復習が始まっているじゃないか。そして、信仰宣言のところは、やはり洗礼のときの信仰宣言に立ち返るという意味があるしね。次回は、そんなところを、ゆるやかにざっと振り返る回にするとしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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