なぜ「集う」のか


酒井瞳(日本福音ルーテル教会信徒)

コロナウイルスと教会。

ここ最近、色々とあった。個人的にショックな事があって霊的な危機に遭遇していたが、それ以上にこの2020年に襲来したコロナウイルスという疫病によって次々とミサや礼拝や集会が中止になっている。信教の自由を奪われない限り、こんな出来事が起こるとは思わなかったので、本当に寝耳に水だった。致死率はともかく、感染力が強いからといって、自分のキリスト者生活がここまで阻害されるとは思っていなかった。そう言うと物凄く身勝手で、周りを考えていないと言われそうである。しかし、実際にはたから見ればそうなのだろう。教会には常日頃「少子高齢化」と言われるように高齢者の方が多いし、いくら若者は重症化しないと言っても、保菌者になって他の人々に感染させる可能性がある。そのような意味では、キリスト教的精神というのか、他者性を大事にするのであれば、いくら自分の信仰や理由であっても、ここは出来る限りおとなしく過ごす事が大切なのかもしれない。

ただ、私は信徒として、何も考えないわけにもいかないと感じた。ただ上層部の通達や意見に従うだけではなく自分なりに考えてみて、書き起こしてみたいと思った。

私は奇妙なことに、日本福音ルーテル教会とカトリック教会の両方に関係している信徒である。その事もあり、今回の事態も、カトリック教会はやたら「教会の外や内」と言う割にはこのコロナウイルスの影響もモロに受けており、そのような意味ではたとえ教会の外の出来事でも無視できないものなんていくらでも存在するのだと改めて感じたのが、3月頭の当初の気持ちだった。正直、その後にここまで悪化の一途をたどるとは、思わなかった。

カトリック教会のキリスト者たちにとって聖体拝領を欠かす事は、色々な意味で霊的に生命を脅かす可能性があるのではないかと危惧している。それだけ聖体拝領はカトリック教会において本当に大切なものだと感じる。私たちは限りある肉体を持つ存在ではあるが、同時に、霊的な存在であることも、忘れてはいけない。

だが、「もし自分が牧会する側の立場になったら」と考えると、とても難しい問題に感じる。礼拝を行うか、しないのか。実際に、現時点(2020年3月11日)までにカトリック教会は、最初に東京大司教区のホームページで1月31日に喚起を出したが [1]、それはあくまでも注意喚起のレベルだった。しかし、2月25日から、決定的な「公開のミサ中止」の報せが出た [2]。ここから先いつまで続くのか、そして本当に予定通りに「3月15日以降に復帰する予定」になるのかは正直わからなかったが、この記事を書いている3月10日には「3月29日まで主日のミサにあずかる義務を免除する [3]」と宣言された。この日に日に宣言が出る状況は、本当に未体験のものである。去年はフランシスコ教皇の来日で喜びに満ちていたのにも関わらず、翌年にはこのような危機に遭うなどと、夢にも思わなかった。

一方、プロテスタント教会でも動画配信や、ZOOMというオンラインミーティングなどを通して、様々な教会が祈祷会や集会の可能性を探している。元々Facebookでつながっている人々の中には日曜日の礼拝の説教を配信している人もいたので、そこまで違和感や抵抗感はない。しかしパソコンを持っていないご老人もいるし、そのようなアプリや道具を使っても上手く使いこなせず、そのネットワークからこぼれ落ちる信徒がいるのは事実である。なかなか良い方法が見つからない部分もある。

また、礼拝をギリギリ維持している場所もある。これが正しいのかどうかはわからない。確かに、プロテスタント教会の中にはカトリック教会のように規模が大きくない教会も多い。日本には海外のようなメガチャーチもない。そのためか全てにおいて画一的な対応をしない教派も多いようだ。しかし、自治体が「不特定多数の集会」や「屋内の集会」、「人と人が至近距離」での「一定時間以上」の中止を多く呼びかけている中で、警告を全く無視することもできない。また、不用意に集会を行き交通機関を利用することにより、より周りの人間に感染を拡大する危険性もある。何が正しい行動かと言えば、一概に言えないのが現状である。

これは日本だけの問題ではなく、世界の問題でもある。バチカン放送のHPでもコロナウイルスの問題は取り上げられている。イタリアではコロナウイルスによる感染者や死者の数は増え続け、世界中の人々がこの疫病の大流行に恐怖を感じている。ここ数日のイタリアの感染者数と死者数はいきなり上位に入り、私の友人や恩人も既に巻き込まれている可能性もある。日本より厳しい外出禁止令が出ている。フランシスコ教皇の発言が間違って受け取られて、なぜか批判の的にもなっているが [4]、その全文はバチカン放送で確認できる [5]。また、ローマ司教区も、4月3日までの公開ミサを全て中止するという [6]。これだけ感染者が広がっていく中で、私たちは本当に、これ以上死者や病人が出ないことをただ祈る事しかできないのか。もちろん、祈りの力は、何よりも大きなものである。しかし、今ここですべき最善の方法を、常に探し続けることも、必要なはずだ。

 

なぜ「集う」のかという再考。

私が今回の事態から感じたことは「私たちにとって、礼拝に行くことや、集う意味とは、何なのか」という事である。どうして、私たちキリスト者に共同体性が強調されるのだろうか。なぜ、普段はSNSや動画配信の礼拝参加が良いものとされないのか。なぜ直接会って、交わりを持たないといけないのか。なぜ教会に行かないといけないのか。それは、若者だけではなく、多くの未信者や、幼児洗礼を受けたが教会に行っていない人の疑問かもしれない。

動画配信は確かに便利だが、私にはあまりにも日常生活や自分の時間と密着し過ぎており、大事な要素を欠落しているように感じる。「聖なる時間を共有する」という事は、なかなか教会の外では出来ないものだろう。聖体拝領をメインとするカトリック教会も、説教や祈り合う事が礼拝の主体というプロテスタント教会も、どちらも「糧」をいただいている。

話は脱線するが、私にとって説教は「心の糧」だからこそ、上智大学の在籍中でも、それがほしくてミサに行っていた気がする。自分にはそのような霊的な糧が必要不可欠であることは今も感じる。また祝福は祝福で、旧約聖書の中でも大事な要素でもあり、また20歳で洗礼を受ける前の気持ちに戻るようで、結構好きだった。

だが、私自身がそのように礼拝や教会を愛する以上、今回の問題は尚更大きなものだと言わざるをえない。それに、プロテスタント教会であっても、説教やみことばや祈りに重点を置くからといって直接教会に行かなくても動画配信にすれば万事が解決するとは、そうとも思えない。

教会が人々の「居場所」になることも、大事である。そこでしか会えない人間関係も大事だが、それ以上に、神に会い神に触れるという側面も強いだろう。私自身が今こうして、教会に行けない事に「飢餓感」を覚えていることで、それだけ自分の生活や人生において教会というものの役割や存在や意味が大きいことを、改めて思い知った。もしかしたら、教会生活がない事で、気が楽になった人もいるかもしれないし、思い煩いが減った人もいるかもしれないが。

同時に、私は今この現状にある「もしも教会や集会がなかったら」という絶対に存在しない時間軸のようなパラレルワールド状態の現実に、物凄く危機感を覚える。自分の中で、何か大事なものを失っていないかという恐れもある。だが、それは同時に、自分のアイデンティティそのものが教会と密接な関係があることを改めて感じる機会にはなった。

聖書にあるように、神はどこにいても、家の部屋の奥まった場所でも、共にいる存在である。しかし、賛美すること、集まって共に祈ること、そして神が奉仕する、または神に奉仕し、その関係性の中に入っていく事はとても大切であろう。もしかしたら私がそのミサや礼拝の中にただ「いる」だけで、安心してくれて、教会の未来を想ってくれる人がいたら、それはそれで、私は嬉しい。 確かに、礼拝中に集中していない時があっても、それでもそれでいいというのは不思議なものである。洗礼を受ける後輩がいることは嬉しいし、そうやって信仰的な意味での親心も少しずつ身についてきているのかもしれない。しかし、これだけ社会や世間が不安になっている中で、教会は何を提供することができるだろうか。今こうして困っている、助けが必要な時だからこその行動とは、一体何だろう。

 

この軋轢の中にこそ、神をみる。

私は、この世界が基本的に悪いものだとは思わない。物凄く悪い人に出会ったことはないが、それでも過去には虐められ、無理解や不条理の連続もあった。誰からも愛されていないような時期もあった。全く苦労していなかったわけでもないし、将来については今も見通しがつかない部分もある。それでも、不信仰や罪が多い世、世俗に対して、全く嫌悪感はない。確かに、血も涙もないような人間に会ったことがないからだと言われれば、それはそうかもしれない。実際に私が出会った人間は皆ちゃんと血液が流れて、涙を流すような人間だった。

だが、善良と自称する私たちのような集団であっても、「自分たちは礼拝の砦だ」「それでも私たちは礼拝をやめない」と言うならば、その言葉の中にこそ良さと悪さがあるようにも感じる。何が正しいとか、独善的だとか、わからない。そのような青年よりも青い発言には、やはり問題があるようにも感じるし、こいつ、私よりも青年感があるなぁと、本気で思う。馬鹿だなぁと思う。だがそれ以上に、共感してしまう部分もあるのだ。そうだよね、と、言いたい部分もある。だが、「それで本当にいいのかな」という、軋轢を物凄く感じるのだ。ジレンマだ。もし、無理に集まって、日本のキリスト教会が、感染源の一つとなれば、それは社会全体に対して悪影響を与えてしまう。先ほど述べたように、むやみな熱意は、諸刃の剣のように、かえって死者や感染者を増やす恐れがある。

従来、礼拝もミサも基本的には受動的な関わりになりがちなのだと思う。主体的な人間は、本当に一部だけなのだろう。私がもし、自分が牧会者として「やるか、やらないのか」の立場に立たされたら、本気で死ぬほど悩むだろう。とりあえず、役員会と相談するだろう。他の牧師に聞いてみる事もできるだろうし、周りを丹念に調べるだろう。地域性や教会員の規模とか、様々な要素によって判断は分かれるだろう。そもそも、世界中のどこの教会でも、このような非常事態に対する対策なんて、考えていたのだろうか。この現状こそが、一つの解答のない問いなのかもしれない。

今この現状において、どのような行動や判断が正しいか正しくないかは、わからない。一概に言うこともできない。「絶対に中止しない方がいい」という意見にも危険性はもちろんある。だが、聖書の中で、人々は基本的に軋轢とジレンマの中で生きている。皆が皆模範的であるとは限らないし預言者は悔い改めと滅びの宣言ばかりしている。それから随分と時間は経過しても、相変わらず人々は不安や恐れ、怒りといった悪の力に支配されている。私がこうやって書くことも、一つのリスクなのだろうし、問題もあるかもしれない。

しかし、私は簡単に何でも自己責任と騙る人間も好きではない。時には自分一人では負えない責任もあるし、また、関係のない他者を見捨てるような意味で使うことも好きではない。誰にとってもこの先の見えない不安や心配だけが積み重なるような日々の中にあっても、私たちは希望を見出していくように進み続けなければならない。
そして、この件を機に、私たちが普段当たり前のように参加しているミサや礼拝のありがたみが増していくのかもしれない。こうして、私たちが忘れつつあった神が共にいる真の喜びに満たされるのであれば、それはそれで意味のある事なのかもしれない。絶望的な状況でも、救いの希望を求め続ける中にこそ、信仰はあるのかもしれない。しかし同時に、感染者の苦しみや死者に対する悲しみも忘れてはいけない。先の見えない闇の中であっても、イエス・キリストの光を望み、癒しの御手が多くの人に届くことを祈っている。

「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5:3~5)

 


なぜ「集う」のか” への1件のフィードバック

  1. 新型コロナウイルス騒動を通して疑問やなすべきことへの問い。 答えを見つけたいという気持ちなどなど。
    こころの葛藤やジレンマがとめどなく流れている文章に感じました。
    「集うこと」の意味は大事な要素が含まれているとわたしは思います。
    たぶん集うことの意味を強く感じているからこそ、
    思いもよらない伏兵により自分へ迫ってきている状況(危機)がひしひしと感じられるのでしょう。
    わたしは思います。
    日頃の「集い」から得られる同胞感。 仲間同士の絆。 信じるこころ。 安心感。
    それらは仮に今一時的に「集う」ことができなくても
    わたしを大きく包んでくれるでしょう。
    どんな環境に変化、状況の変化があったとしても、互いを信じ、認め合う気持ちを信じていること。
    それが「かみさまにつながる道」と…。
    人はひとりでは生きていくことはできないと…。
    どんなことになろうと「大丈夫。 大丈夫。」とほほ笑んでいる
    かみさまを感じます。 ^^

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

twenty − three =