フィリッポ・リッピ『受胎告知』
稲川保明(カトリック東京教区司祭)
この絵の作者は、フラ・アンジェリコ(1455年没)と同時代に活躍したフィリッポ・リッピ(生没年1406~1469)です。彼も修道者でしたが、自分で修道生活に魅かれ修道院に入ったフラ・アンジェリコとは対照的に、孤児として修道院に育ち、いやいや生活している中で、唯一画業だけには優れた才能を示しました。やがて修道女ルクレッツィアと駆け落ちするなどの事件が起こりますが、彼の才能を高く評価していた老コジモ(Cosimo de' Medici, 1389~1464)のおかげで還俗し、フィリッピーノ(Filippino Lippi, 1457頃~1504)という息子が生まれました。リッピの弟子にはボッティチェリがおり、フィリッピーノはボッティチェリを師として絵を学びました。
【鑑賞のポイント】
(1)この絵のお告げの場所は大変奥行きのある遠近法で描かれた柱廊のような場所で、多くの木や草が生えている中庭の様子が描かれています。書見台の前に立っていたマリアのもとに、白百合の花を携えて大天使ガブリエルが現れ、ひざまずいてお告げをのべています。マリアは驚きながらも(右手のしぐさ)、受け入れる心情(左手のしぐさ)を表しています。書見台から身をひねってガブリエルにまなざしを向け、「驚き」つつも「受け入れる」ことを同時に表しているのです。
(2)左側のパネルには二人の天使が描かれています。お告げの天使といえばガブリエルであり、多くの場合、ガブリエル一人の姿で描かれますが、リッピのこの作品では3人の天使が描かれています。わたしたちの方に視線を向けている天使は右手を伸ばして、あちらの方で大切な出来事が行われていますというようなしぐさをしています。一番奥にいる天使の頭上に、鳩の姿をした聖霊がマリアを目指して飛んでいます。こちらの二人の天使のマントは青と赤という象徴的な色をしています。ガブリエルとマリアのマントの色も青と赤という対照的な色です。
(3)そして、このリッピの作品の中で注目に値するのは、何気なく描かれているガラスの水差しです。その位置はガブリエルとマリアの中間で、床に丸いくぼみをつけて描かれています。その水差しは透明なガラスで、中に入っている水の質感が見事に描かれています。リッピはなぜこのような水差しを描いたのでしょうか? 一つには持ってきた百合の花をこの水差しに差し入れ、花瓶のように用いるためとも考えられます。シエナ派の巨匠シモーネ・マルティーニの受胎告知にも、花瓶に挿しこまれた百合の花が描かれています。しかし、リッピの水差しは水を描くためであったと思います。水は命のシンボルであり、また透明な水は清らかさ、マリアの純粋な信仰、純潔を表すものとして最もふさわしいとリッピは考えたのではないでしょうか? 他の受胎告知の作品には見られないリッピの特徴であると思われます。