祝福はすそ野、感謝は頂点
答五郎 こんにちは。11月も半ばだね。日本の教会では、あることが行われる時期だけれども、なんだろう?
美沙 教会の11月は「死者の月」とされているので、墓参りでしょうか。
答五郎 まあ、それもあるけれど……。
問次郎 あっ、七五三ですね。
答五郎 そう、これは、実は興味深い現象でね。日本の慣習にある、子どもの成長を言祝(ことほ)ぐ儀礼を教会にも取り入れている例の一つだ。神社にお参りするのが日本式とするなら、教会式は教会の子どもたちがキリスト教の神の祝福を受ける行事ということになるね。
問次郎 日本の風習が教会の典礼に取り入れられているというのは、いいのですか。
答五郎 いやあ、それほど問題になっているという話は聞かないな。そもそも七五三の祝いのもとにある、子どもの成長への感謝と今後の健やかな成長への願いという趣旨が、キリスト教にとって問題なく受容できると考えられているからではないかな。
問次郎 成人式というか成人の祝福もそうですね。
答五郎 そうした祝福のための儀式書も求められているところだよ。カトリック教会には『祝福式』という儀式書があって、さまざまな出来事・場所・物に関して祝福が行われるときの儀式を定めている。日本ではまだ正式にまとめられていないが、ヨーロッパで発達してきた伝統的なものや現代に定められたもののほかに、七五三など、日本の社会に即した新しい祝福の儀式を盛り込む必要も検討されているところだよ。
問次郎 敬老の日にちなむ祝福はないのですか。
答五郎 ああ、七五三や成人式ほどまだ頻繁ではないけれど、長寿を感謝し、健康を祈る高齢者の祝福というものがある場合があるよ。つづいて敬老会のパーティが行われるなどしてね。
美沙 今いわれた『祝福式』というのはずいぶん幅が広そうですね。
答五郎 祝福式で定められている以外に、ミサ典礼書に含まれている中にもたとえば、受難の主日の枝の祝福とか入信式の中での洗礼水の祝福とか、いろいろなところで祝福は行われているよ。
美沙 典礼があるところに祝福があるのですね。前回見た、ミサの中でのあいさつや派遣の祝福を見ても、典礼には祝福がつきものなのだなと思いました。
答五郎 たしかにそう。典礼にとってもっとも普遍的で共通な特色は、祝福だといえるかもしれない。そして、そのときに忘れないでほしいのは、教会が神の民であるということだ。神の民というのは、いわば神の祝福を受けている民ということになる。なによりも、イスラエルの民の祖となったアブラハム(はじめはアブラム)は、その召命のとき、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように」(創世記12・2)と神から告げられている。
問次郎 典礼は神の祝福を受けている民の礼拝なのだから、そこには何事においてもつねに祝福があるのですね。
答五郎 祝福という儀式行為は、難しいことばで「準秘跡」ともいわれる。いわゆる7つの秘跡に準ずるものという意味だ。そして、それらの秘跡と準秘跡の典礼をとおして、信者は「生涯のほとんどすべての出来事が神の恵みによって聖化される」(『典礼憲章』61)といわれるのだよ。「祝福」とは、「神の恵みによる聖化」ともいえるね。
美沙 神は人間のことを、すべてのことをとおして聖化しようとしているのですね。その恵みが実現することが祝福というのですね。祝福と聞いて、嬉しい感じ、喜ばしい感じがするのは、恵みに満たされるという意味だからなのですね。
答五郎 さらに続けてこういわれるよ。「この恵みは、キリストの受難と死と復活という過越の神秘に由来し、すべての秘跡と準秘跡の力はこの神秘をよりどころとするのである」。ちょっと難しい言い方をしているけれど、「キリストの受難と死と復活という過越の神秘」を祝うのがミサ、つまり感謝の祭儀であり、そこにある恵みがまさしく聖体になるわけだから、祝福の根源には、ミサ(感謝の祭儀)、そして聖体の秘跡があることがいわれているのだと思う。
美沙 「信仰の神秘」「主の死を思い、復活をたたえよう」と記念されているところですね。
答五郎 キリストの受難と死と復活は神の恵みの中の恵みで、それにこたえて神の民が賛美と感謝をささげるのがミサだ。とくに「感謝」を意味するギリシア語の「エウカリスティア」がミサの本質をよく表す名前として教会の初期から使われてきたわけだ。
美沙 それで、「感謝の祭儀」というふうに、ミサのことをいうのですね。
答五郎 そう、教会初期の由緒あるこの呼び名が、神の恵みの中の恵み対して教会がすることをもっともよく表していることを示そうとしているのだね。でも、祝福はこれと別なことではなくて、神の恵みによる聖化のもっとも濃いもの、もっとも根源的なものがエウカリスティア(感謝の祭儀)だといえるのだよ。エウカリスティアの恵みをもっとも濃密にもたらすのが聖体だとしたら、もっとも広くもたらすのが祝福だともいえるかな。
問次郎 ミサでの感謝や聖体が、あらゆる祝福と関係していてその根源にもあり、そのクライマックスでもあるというわけですね。
答五郎 そういう関係を示す意味で、七五三や成人の祝福も聖体拝領に続くところ、閉祭の派遣の祝福に近いところで行われる。聖体の恵みとの関係も示され、派遣の祝福の一環だということが明らかにされるよね。こうした、人生儀礼、成長儀礼も祝福に満ちた神からの派遣というわけだ。
問次郎 それは、絶妙な意味合いになりますね! 教会で行われる七五三や成人の祝福は、まったく新しい意味をもつことになるのですね。
答五郎 祝福は教会の典礼のすそ野の広さを示すもので、聖体に凝縮される感謝の祭儀の恵みは、その頂というふうにイメージしたらどうだろう。
美沙 神の恵みが雨のように雪のようにふんだんに注がれている頂から、だんだんと地上に広がっていく……。富士山をイメージしてしまいます。
答五郎 イメージも日本的になってきたというわけだね。さて、ほかに閉祭というか、派遣の祝福との関係で気になることはないかな。
問次郎 閉祭の歌について質問があります。手持ちの式次第にとくに書いていないのに、教会では熱心に行われているのが気になります。
答五郎 なるほど、それは、いい質問だ。次回は、閉祭の歌について考えてみようか。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)