Maria. M. A
初めて聖書の言葉と出会ったのは、12歳。中学受験の集団面接の時だった。4人の他の受験生と一緒に小さな部屋に入ると、山上の説教の一節が読まれ、どう感じたかを小さな紙に書き、ひとりずつ順番に発表した。それが、どの箇所だったのか、マタイだったのか、ルカだったのかは、よく覚えていない。
よく分からないけれど、お金のある人より、貧しい人の方が幸いというのは、分かる気がする。貧しい人の方が、お金の大切さをしっているから。というようなことを答えたことは今でも覚えている。
入学して、教科書と一緒に聖書が渡された。重たく、週に一度の宗教の時間にしか出番のないその本は、ロッカーのすみっこが定位置だった。
宗教の授業では、水戸黄門の印籠のごとく、授業の後半、終了15分前に登場することが常だった。授業に説得力を持たせるための引用されるもの。神さまは××なのよ。という講義の後に、聖書を開くように言い、『ほら、ここに○○って書いてあるでしょう? だから神様は××なのよ。』と授業をまとめる。
放蕩息子のたとえ、99匹の羊のたとえ。どう思うか、感想を求められても、そこに自由に発言できる雰囲気はなく、シスターの欲しい答えは大体決まっていた。初めから迷子にならない方が良くない?と思っても、その思いを素直にぶつけることはできず、解せない気持ちだけが残った。
その頃の私にとって聖書は、読み方の決まった、とても窮屈なものだった。
想像を膨らませて、自由に読むことを知ったのは、大学に入ってからだった。書かれた時代、生活、文化的な背景を理解した上で、聖書を読むと、登場人物ひとりひとりの暮らしが見え、生き生きと感じられた。耳慣れない言い回しや単語にとらわれないで、そのエピソードを通して、記者が何を伝えようとしているのか、エッセンスを掴み取る。
聖書のなりたち、イエスの言葉、教えをイエスの死後に弟子たちがまとめたもの。事実ではないかも知れないけれど、全くのフィクションでもないであろうこと。もちろん知識として教わったこともたくさんあるが、中でも一番印象に残っているのは、聖書に書かれた出来事を体験したという話だ。
持ち寄りのパーティをしたら、みんなが少しずつたくさん持ち寄ったせいで、食べ物が余ったこと。
アジアの田舎で、精肉するために殺される豚の断末魔を聞いて、他の豚たちが大声を上げて騒ぎ出したこと。
出来事そのもののインパクトより、先生が実際に体験したことを聖書の出来事と結びつけて考えたという発想そのものが、先生の信仰に触れたように感じた。そんな風に先生は聖書を読んでいるんだなと思うと同時に、実際の自分の生活と聖書が結びつくことを知った。聖書と自分との距離がぐっと近づいた瞬間だった。
今でも大学時代に使っていた聖書を手元に置いてはいるが、実際に開いて読むことはめったにない。そんな生活の中でも、ふと聖書の言葉が思い浮かぶことがある。
娘を見ていると、幼子のように~って言うのは、こういう事かな。親になってからは、マリアに思いを馳せることが多くなった。
何度も繰り返し読んだエピソードでも、読むたびに、印象が変わる。ある時は、兄、ある時は弟、ある時は父。子どもを産んでからは特に、親の視点に立つようになった。親になって初めて、『父』である神の眼差しに気が付くようになった。
聖書の読み方は、経験によって変わってくるのだろう。年を重ね、新しい経験をすることで、今まで読んだとことのある聖書個所も違ってくるのかもしれない。
(カトリック信徒、日本出身、シンガポール在住)