齋藤克弘
しばらく、ご無沙汰してしまいましたが、典礼音楽の転換点、今回は少し、というよりかなり時間軸を戻して、1500年代半ばに開かれた「トリエント公会議」について扱ってみたいと思います。トリエント公会議というとキリスト教の歴史やヨーロッパ史に詳しくない方でも、ルターの宗教改革に対抗してカトリック教会が行った教会の会議、ということはご存じでしょう。くわしい方は、たとえば、秘跡は7つであることを決定したとか、それ以降の典礼のことばはラテン語にした(正確にはローマ典礼おいてはラテン語にした)ということを知っておられると思います。
ここで一つ疑問が浮かんで来たらすばらしいですね。なんで、トリエント公会議が典礼音楽の転換点になったのか、もう一ひねりすると、それ以前の典礼音楽とトリエント公会議以降の典礼音楽がどのように変わったのかということです。
トリエント公会議というと、上にも書いたように、対抗プロテスタント改革という様相が非常に強く、教会の典礼の言語はラテン語に限るとか、秘跡は7つであるとか、司祭が一人でミサをささげることは有効であるとか、原罪の問題とか、実体変化の問題とか、くわしいことを書き出したらきりがありませんが、こういうことを、すなわちプロテスタントの神学者たちが否定したカトリック教会の教えを命題として規定したことに非常に関心がもたれています。ちなみに「カトリック教会」という呼び名は、プロテスタントに対抗する呼び名として、この公会議以降に普通名詞として使われ始めたものです。
さて、このような教理の問題以外に、実は、トリエント公会議が決定した重要なことがあるのですが、それが実はあまり知られていないことは、残念なことです。では、それは何かというと、カトリック教会内の教会改革です。ルターの宗教改革(という言い方も本来的には正確ではありませんが)も当時、さまざまに要求されていた教会改革の一つとしてルターが呼び掛けたものが、ローマ教皇庁とのボタンの掛け違いがきっかけ、売り言葉に買い言葉が高じて西方ヨーロッパ世界における教会の大分裂になってしまったのです。もっともその背景には、当時、対立のあった、イタリア・フランス・ドイツという3国相互の政治的な対立があったことも見逃せない問題なのですが、ここでは、そこまで深入りすることはしないでおきましょう。
で、これらの前提には、14世紀にはじまった教皇のアビニョン捕囚とその後の大シスマ(教会分裂)がありました。15世紀の初めにコンスタンツ公会議でようやく教会分裂が収まりましたが、その後も、各国間の対立、国ごとの教会への干渉は収まりませんでした。このように世俗権力が教会の司教や司祭、修道院長の任免権に干渉することは、教会の世俗化へとつながっていきました。
音楽の面でもルネッサンス以降、教会音楽の分野で有名な作曲家が現れてきますが、彼らは教会の司祭であると同時に、宮廷の音楽を作曲する人たちでもあったのです。それ以前からも、世俗の歌詞や、教会の信仰に関わりのない歌詞が歌われるようになっていましたが、ルネッサンス以降には、世俗の楽曲をモチーフにしたミサ曲(パロディーミサ)も作曲されるようになりました。
15世紀には教会の改革の必要性が求められていましたが、肝心の教皇庁は本腰を入れるのをためらっていました。そのような中でルターが声を上げたのですが、それが残念な結果になってしまいました。そこで教会も本腰を上げたのがトリエント公会議だったのです。上にあげたような教理決定以外に、トリエント公会議が掲げた教会改革は「教会からの世俗化の排除」だったのです。これは、教会への世俗権力の排除だけではなく、教会内部からの世俗要素の排除でもありました。そうすると、なぜ、教会が典礼のことばを西方典礼ではラテン語に限ったかもはっきりしてきますね。ラテン語は当時すでに一般社会で話される言語ではありませんでしたから、ラテン語を使うことは言語における世俗化の排除だったわけです。
さて、それは、教会音楽でも同様の改革が求められ促されました。それ以前に使われていた、さまざまなトロープス、セクエンツィア、モテットなど、世俗の要素が入った曲や複数の歌詞が一緒に歌われるようなものは禁止され、なるべくシンプルで、典礼文に沿った内容の歌詞のものだけが使われるようになり、ルネッサンスやそれ以前のアルス・アンティクァ、アルス・ノヴァといった時代の作品は使うことがほとんどなくなったのです。
トリエント公会議のこのような決定はあまり知られていません。しかし、これは教会音楽の歴史にとって大変重要な問題なのですが、残念ながら、この後も、教会における世俗化の影響が、再び、教会音楽にもみられるようになっていきます。次回は、それを踏まえた近代における転換点に目を向けてみたいと思います。
(典礼音楽研究家)