ミサはなかなか面白い 80 欠席者にも届けられていた聖体


欠席者にも届けられていた聖体

答五郎 こんにちは。とうとう80回目になったね。ミサの式次第順に見てきて、なんでまた初代教会からの歴史を振り返っているのか、だったかね。

 

 

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問次郎 もう、物忘れですか? 「交わりの儀」を見ているなかで、どうしても、初期の姿から振り返ってみなくてはならないと言われたからではないからですか。

 

 

答五郎 あぁ、そうだったね。つまり、聖体を拝領するという言い方や意識と、「交わり」(コムニオ)という言葉が伝統的に使われている意味とか、今、信者ではない人もミサにいることが多いわけだけれど、それはどうなのかとか……。

 

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問次郎 自分たちのような見学者のことですね。

 

 

答五郎 それから、カトリック教会とは違う教会、教派に属している人がカトリック教会のミサに来たときに、聖体を受けられるのかどうなのか、とか。教会の周囲のこと、キリスト教の歴史から生まれた問題などが、この“聖体を受けての交わり”というところに集約されて出てくる気がするからなのだよ。

 

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問次郎 それは、大変だ!

 

 

答五郎 きょうは、初期の二つの資料をもとに考えてみようと思う。一つは、『十二使徒の教え』、通称『ディダケー』と呼ばれるものだ。時代的には1世紀の終わりから2世紀の半ばまでのものだろうということ、漠然としているけれどシリア・パレスチナ地域でまとめられたとされる。その9章、10章の祈りが、ふつうに食卓を囲む程度の会食仲間としての信者の集会で行われる「エウカリスティア」(感謝の祭儀)の祈りといわれている。キリストによってもたらされた「生命と知識と不死」、「霊的な食物と飲み物そして永遠の生命」に感謝する、ということが基調なのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「エウカリスティア」とか「感謝します」というのが、ミサの基本であるというところから、今は「感謝の祭儀」とか「感謝の典礼」という呼び名が出てきているのですね。

 

 

答五郎 ところでね、この祈りの中で、イエス自身のパンや杯に対して「このパンは……」「この杯は……」ということばが入っていないことでも注目されているのだよ。いろいろ議論があったのだけれど、現在では、奉献文の初期形態と考えられている。きょう考えたいのは、この書で、「主の名において受洗した者以外には誰も、あなたがたのエウカリスティアから食べたり飲んだりしてはならない」と述べられていることなのだ。

 

女の子_うきわ

美沙 ふつうに洗礼を受けた人でなければ聖体が受けられないと言っているのですよね。

 

 

答五郎 うん、つまりキリストを記念して感謝の祈りをささげて集まった信者がパンを受けるという典礼祭儀には、洗礼を受けてなければ参加できない、聖体を受けられないという当然のことを言っている。これは、今も変わらない。ということは裏返せば、洗礼を受けた人は皆集まって、そこで聖体(霊的な食物と飲み物)を受けていたと推測される。

 

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問次郎 はやい話、食事型典礼なのだから、そこに参加したらふつうにそれを受けて、食べ飲みするということですね。

 

 

答五郎 そのとおり、典礼に参加したからには、皆、当然のように食べていただろうということだよ。もう一つ、ユスティノスの『第一弁明』から見ておこう。「パンとぶどう酒と水とが運ばれ、指導者は同じく力の限り祈りと感謝をささげるのです。これに対し、全会衆はアーメンと言って唱和し、一人一人が感謝された食物の分配を受け、これにあずかります。また欠席者には、執事の手で届けられるのです」。この食物の分配というところが今の聖体授与・聖体拝領になるのだけれど……。

 

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問次郎 欠席者には届けられていたのか!

 

 

答五郎 そう。現代の大都会の教会では、まず考えられないだろうね。在籍者が1000人いても、ミサに参加するのはその20~25%。欠席者のほうが圧倒的に多いのだから。

 

 

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問次郎 そうですね。この文書の前提としている共同体のあり方とは違いそうです。欠席者は割合少ないという状況が前提になっていたのでしょうね。

 

 

答五郎 まず、顔見知りの仲間(会食仲間)が前提となっていることがわかるね。だから、病気かなにかの理由で来られなかった仲間のために、執事(今のカトリック教会では「助祭」にあたる)が届けていたという光景が浮かぶだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 つまり、感謝の祭儀では、参加した信者は、皆聖体を食べ、飲みしているというのが当たり前だったということですね。

 

 

答五郎 そうなのだよ。ユスティノスの伝える典礼の様子は、だいぶ式次第に近づいていて、整ってきている感じがする。ただ、それでも、食事型の典礼、食卓仲間での典礼という感じで、いかにもパンとぶどう酒(水のこともいわれるのだけれど)の上に祈りをして、それが分けられるという感じなのだ。それに、ね。『第一弁明』の66章の最初の部分を読んでみてごらん。

 

女の子_うきわ

美沙 「この食物は私共の間で『エウカリスティア』と呼ばれ、これにあずかることのできるのは、私共の教えを真理と信じ、罪の赦しと新生のための洗礼を受け、キリストが伝えた通りに生活する者に限られます。それ以外は誰もあずかることができません」ですね。さきほどと同じく、洗礼を受けていないとこの食物(聖体のことですね)にあずかれないということですね。

 

答五郎 洗礼を受けなければ、という点はずっと強調されることだけれど、ここから逆に、洗礼を受けて信者になっている人は皆、聖体を受けていたということ、聖体を食べ飲みしていたという、基本のことが確認されるというわけさ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 すみません。質問です。「この食物が『エウカリスティア』と呼ばれる」とありますが、エウカリスティアって、「感謝」という意味ではなかったでしょうか。

 

 

答五郎 そうだよ。その同じ言葉が、感謝(エウカリスティア)の祈りが唱えられて、キリストのからだと血になったもの、つまり聖体のことを指す言葉にもなっていると報告されているのだよ。ちなみに、それ以来、エウカリスティアは、聖体を意味する単語にもなっていくのだ。それは英語、ドイツ語、フランス語など、ヨーロッパの諸国語にも受け継がれているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 単語の語源から思いつかない意味合いになるのですね。

 

 

答五郎 ユスティノスの著作は2世紀半ばのものだが、その200 年後には、キリスト教や信者たちをめぐる社会環境が大きく変わってきて、その中で感謝の祭儀(ミサ)や聖体に対する意識が少し変わっていくことになるのだよ。次回、見ることにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

《引用邦訳文献》
*『十二使徒の教え』=『初期ギリシア教父』中世思想原典集成1、上智大学中世思想研究所編訳
・監修(平凡社 1995)23〜45ページ
*ユスティノス『第一弁明』=邦訳:『ユスティノス』柴田有訳、キリスト教教父著作集1
(教文館 1992)83〜85ページ


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