マリアについて気になることを問いかけよう(AMOR流リサーチ)


クールに済ませられないテーマ

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そぼ
先月ぶり! 前回は「王」について質問して、りさっちにいろいろ調べてもらったね。今回はマリア?
りさ
前回に続いて、こんにちは。たしかに今回のAMORの特集は、カトリック教会、いや、世界とマリアについて一望しようとするもののようです。アート&バイブル38でもラファエロの聖母画を眺めているようですし。
そぼ
マリアはカトリック教会の信仰生活を象徴する存在のようだけど、わかりにくいなと思うこともいろいろあるんだよね。簡単に教えてもらっていい?
りさ
いいですけど、簡単にいえないことのほうが多いと思いますよ。それに、自分も、この件に関しては、情報検索だけしてクールに答えるだけでは済まないことになるかもしれないのです。
そぼ
あれっ、りさっちにしては珍しく歯切れが悪いね。
りさ
……実は私事なのですが、洗礼名がマリア・ベルナデッタなのです。
そぼ
え、だれ?
りさ
ベルナデッタとは、ルルドで聖母の出現を受けたフランス人少女で、のちに列聖もされているベルナデット・スビルー(生没年1844~1879)のことですよ! それで、ときどきどうしても熱くなってしまうかもしれません。
そぼ
へー、そうなんだ。マリアとベルナデッタ、人となったルルドの奇跡だね。たまには、熱くなった人間味のあるりさっちも見たいな!
りさ
面白がらないでくださいね。

 

マリアの影響はいたるところに

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そぼ
さて、じゃあ本題だけど、カトリック教会ではマリア像が至るところにあって、信者さんたちも「アヴェ・マリアの祈り」をよく唱えているよね。「マリア様」という呼び方もよく耳にするよ。

そのマリア様が出現した場所は、知っている限り、今言ったルルドとか、あとファティマの聖母とか? どちらも一大巡礼地だよね。巡礼という宗教現象がついて回ることが多いんだね。

りさ
はい、それはほんとうにそうです。カトリック教会とマリアのつながりはとても強いものがあります。

 

ビートルズにもあるマリア・ソング

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そぼ
それにマリアに関する歌もいろいろあるし。子どもたちのいるミサで、わかりやすくてすぐ覚えたのは「マリアさまのこころ」(『典礼聖歌』407)かな。「マリアさまのこころ、それはサファイア」。そうなのかな、と思ったよ。あと「しあわせなかたマリア」(『典礼聖歌』371)もわかりやすいね。
りさ
「しあわせなかたマリア」は「アヴェ・マリアの歌」そのものです。教会の外でもマリアの歌は、知られているのではないでしょうか。「♪ア~ヴェ~・マリ~イア~」というグノーの歌は、クラシック歌曲としてはいちばん有名かもしれません。
そぼ
あー、聞いたことある!
りさ
ところで、ビートルズにもマリア・ソングがあるのですよ。
そぼ
ええっ? ビートルズにも!?
りさ
はい。「レット・イット・ビー」です。出だしのところは、「僕が悩みの中にあるとき、聖母マリアがやって来た。知恵のことばを語りながら。『あるがままに』」という意味なのです。
そぼ
へー、そんなに宗教的な歌だったのか。それに、マリアがやって来たなんて、マリアの出現体験みたいだね。
りさ
関連記事もありますよ。「マリアのlet it be」も読んでみてくださいね。

 

マリア学が必要みたい

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りさ
さて、まぁ全部の歌詞が宗教的かどうかわかりませんが、さわりはともかくそうです。それらも一例として、マリアの存在やマリアとのかかわりは、教会の典礼や信者の祈りの枠を超えて、広く文化や社会にまで影響をもっているということです。

ルルドやファティマのほかにも、マリアにちなむ巡礼地はたくさんあります。今の日本風にいえば、一つひとつがパワースポットと言えるものです。

そぼ
なんとなく、日本人風の信心やお遍路さんのことを思い出したよ。
りさ
たしかに、マリアへの崇敬や信心は、他の宗教に見られるメンタリティーや行為と似たものが多いとも言われます。女神崇拝や母性神を崇める人間の精神性が、キリスト教ではマリア崇敬となって現れているというような言われ方もします。そういったマリア現象、マリア文化はとても広く、正しい信仰や教会の教えの範囲の外まで出てしまうこともあります。

ですので、それら全体をとらえようとするような、いわば「マリア学」といったものが必要かもしれません。なかなかそんな文献は少ないのですが、英米仏のカトリック大事典類がまずその窓口になると思います。

日本の『新カトリック大事典』(上智大学編、研究社発行、1996~2010)の「マリア」の項目も、聖書と教会の教えに基づいて解説する部分と、マリア崇敬・信心、マリアの出現、マリアの清心、マリアの喜び、マリアの悲しみなど民間に根づいた信心についても解説する部分がバランスよく出てきます。今回のリサーチも基本は、『新カトリック大事典』に依っています。

そぼ
あ、「マリア論」ってことばは聞いたことがあるよ。
りさ
それは、今言った前者の聖書や教会の教えをまとめていく神学の一部門ですね。マリア論に関していえば、今、もっとも重要なのは、第2バチカン公会議の『教会憲章』の第8章「キリストと教会の神秘の中の神の母、聖なる処女(おとめ)マリアについて」です。全部で18項目の文章ですが、教会のマリア理解のもっとも核心的なところが述べられています。

 

それはマリア教では?

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そぼ
んー、マリア現象は面白いと思うけれど、マリアがちょっと苦手だなと思うところもあるんだよね。
りさ
というと?
そぼ
まず、聖書にごくわずかしか出てこない人なのに、こんなにカトリック教会では大きな存在になっているのかが疑問だね。それに巡礼とかルルドの水とか、そこまでマリア崇敬に熱心になる気持ちがいまいちよくわからないかな。マリアの出現という出来事をどうとらえたらいいのかなとさえ思うよ。だんだんキリスト教じゃなくてマリア教なんじゃないの?って気持ちになってきちゃって。
りさ
そうなのですね。でも、それは大丈夫です。キリスト教はキリスト教であって、マリア教ではないのですから。マリアに関していちばん大事なのは、キリストとの関係をしっかりと踏まえるということですよ。
そぼ
具体的にいうと、どういうこと?
りさ
なんとなく、きょうは「出現」ということが話題のようなので、そうしますけれど、キリスト教ではマリアの出現と比べ物にならないぐらいに重要な出現があります。それは、復活したキリストの出現です。福音書の終わりのほうに数々エピソード的に語られています。
そぼ
エマオに向かう弟子たちの現れの話(ルカ福音書24・13~35)は、印象深かったな。

 

公的啓示と私的啓示という考え方

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りさ
そうでしょう。その復活したキリストの出現は、弟子たちの体験でもあったので、普通なら夢・幻として片づけられたかもしれないのですが、キリスト教の場合は、むしろこれが弟子たちそれぞれの経験でありつつ、使徒たち共通の根源的な経験となっていきます。

広い意味では、受難・十字架上での死から、ルカ福音書や使徒言行録で述べられる主の昇天、聖霊降臨の体験までを含む一連の出来事であり、経験です。それは、キリスト教を成立させた根源的な出来事であり、そこに全人類の救いをもたらす神の計画が決定的に実現されたという意味で「啓示」、とくに「公的啓示」だという言われ方をします。それは、新約聖書が証言する内容として、完了したということも教会の大事な理解です。

そぼ
公的啓示……難しいことばだね。

 

キリストの木に咲く花

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りさ
教会の時代に入ると、マリアや殉教者、さまざまな聖人から啓示を受けたという体験が報告されるようになってきます。しかし、キリスト教の根幹にあるのは、いつもキリストのその一連の出来事です。これは過越(すぎこし)の神秘とも言われ、先ほど述べた公的啓示、キリスト教の核心です。その他の啓示は、私的啓示といわれ、いわば根幹から展開した枝葉だという理解を教会はもつようになるのです。
そぼ
つまりマリアのことは枝葉末節ってこと?
りさ
枝葉というと重要でない印象をもちますか。でも、枝葉があって初めて木らしくなるのではないでしょうか。それに花も咲きますから、私的啓示は枝葉、ときには花といってもよいのでは。重要なマリア出現は、そんな花のようなものでしょう。

 

出現は信者にとってだけのもの?

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そぼ
おお、今ちょっと思いが入ったね。ところで、ここで質問タイムです!
りさ
今までも十分質問していたのでは?
そぼ
まあまあ、細かいことは気にしない。えっとね、マリアがテーマと聞いて、自分も聞きたいことがあると、友人のリョウ君からお手紙をいただきました!
りさ
ラジオっぽくなってきましたね。
そぼ
第1問。「マリアの出現は、信徒でない人にも見える(あるいは聞こえる)のですか?」

あ、リョウ君は信者じゃないんだけど、最近、マリアの出現っていう現象があると知ってびっくりしたんだってさ。

りさ
なるほど。ではお答えしましょう。すべての出現現象を実証的に調べ上げたわけではないですが、これまでマリアの出現の現象があったのは、キリスト教世界・諸国、あるいはキリスト教の信者がいるところという場合が多いと思います。

ただ、ルルドのベルナデッタのときも、最初は、洞窟の中で美しい、若い、白い衣を着た女性が見えたというふうにだけ言っていたのですが、またたくまにそれがマリアの出現だという噂が広がっていったというのです。ようやく何回か出現を受けた最後のほうで「私は無原罪の御宿り」というお告げを聞いた、ということがありました。

ですので、「現れ」が「見える」ことに関しては、その人が洗礼を受けているかどうかは関係ないと思います。ただ、それを「マリア」だと悟り、信じるためには、もちろん信者であるということが土台となっていくでしょう。

エマオへ向かった弟子たちも最初だれかがいるなと思っても、イエスとはわからず、パンを裂いて渡してくれたときにイエスだとわかった。そのとたんにイエスは見えなくなるという話ですよね。イエスだとわかったときに、彼らはキリスト者になったと言えるのではないでしょうか。

そぼ
ということは、マリアの出現は、だれにでもあるかもしれないということか。でも、たしかにそれがマリアだとわかるためには、キリスト教の環境や前提が必要なんだろうね。

 

マリア以外にも出現する?

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そぼ
じゃあ第2問!「マリア以外にも出現する『高位』の人はいるのですか」
りさ
出現というのは、いろいろあって、聖人の出現も語られている場合はありますよ。だれかがその人に出現する、あるいは出現したのを見るという体験は、案外人間には普遍的なのではないでしょうか。たいていは自分の主観の中でのこと、夢想・妄想のたぐいと思い過ごしてしまうこともあるでしょう。

いっぽう、そこに何かメッセージを感じて、それがその人の人生を変えたり、新たに形づくったりしたとき、その出現体験の出来事は、大事に記念されるものとなっていくでしょう。それが個人のことだけでなく、その人のいる共同体、社会にとって大きな意味をもったとき、個人経験だけでなく、一つの宗教史的「事件」となっていくのだと思います。そのためには、また何か別なファクターが働くのでしょう。

そぼ
なんとなくわかるような気がするな。

 

出現に外的条件はあるの?

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そぼ
では、第3問。「出現にあたっては天候や季節などの条件のようなものはあるのですか」
りさ
そうですね、すべての現象を実証的に分類・分析したわけではありませんが、おそらく天候・季節は関係ないと思います。少なくともそれが条件となっていくということはないでしょうね。だとしたら、自然現象の一つになるでしょうから。
そぼ
たしかに。
りさ
ただ、19世紀~20世紀の時代に報告されるマリア出現に関しては、ある種の社会的環境が指摘されています。すなわち世の中の宗教心が廃れ、しかも経済状況や戦争などで大変深刻な危機の時代だったということですね。しかも名もなき貧しい民衆の中の、しばしば少女・少年への出現が特にインパクトをもって崇敬を喚起していきました。

それが「マリアの出現」と認識されて人々の心に伝わり、崇敬が盛んになるためには、人々の側の生活状況・心のあり方が関係しているといえる面があります。ただ、どのように出現するかどうかは、言ってみれば、神の意志しだいというふうに考えるものだと思います。

 

人の望みに応じて出てくるもの?

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そぼ
つづいて、第4問。「マリアは、呼びかけに応じて出現してくれるのですか、前触れもなく突然出現するのですか。予想などは可能ですか」
りさ
この質問に対しては、「出現は、神しだい」という答えで済むのではと思います。

呼びかけに応じてというと、シャーマニズムの一種のような現象を想像しているのでしょうか。シャーマンという霊能者が呪術で神霊が呼びして直接交渉したり、あるいは神霊がシャーマンに降臨したり憑依したりするという宗教現象です。日本で巫術と呼ばれ、とくに女性シャーマンの巫女のことはよく知られています。

マリアの出現体験も広い意味では、そのような一種の神霊体験と比べられるところがあるかもしれません。とはいっても、奥深い聖書の伝統と教会の伝統を踏まえているものなので、やはりまったく別な事象と考えるべきでしょう。少なくとも、人間の要求に応じて現れてくれるものでないというのは、たしかだと思います。

 

出現にあるメッセージとは?

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そぼ
リョウ君は、もう一つ難しいことを聞いてきているよ。第5問「出現時に啓示を与えてくれる場合、どういう内容の啓示を与えてくれるのですか」。
りさ
たしかに出現と啓示との関係を質問するとは、リョウ君は博識なのですね。啓示ということばは、神の意志・計画を何らかの人・出来事を通じて、人々に示すという意味ですので、出現そのものが啓示であると言えますが、たぶん、リョウ君は、そのときにどんなことばやメッセージを発するのかということを聞いているのでしょう。

たしかに出現のマリアが言ったことばがきわめて重要なメッセージを含んでいるとして、その重要性の面からも、よけいにその出現の重要性が大きくなるといえます。ルルドの場合は、「罪人の回心のために神に祈りなさい」というメッセージが人々の心に大きく響いていったということがあります。出現のときに何かメッセージがあるか、どんなメッセージかはそれぞれの出現の出来事によって多様だということはいえます。

そぼ
ルルドの聖母は、そのメッセージによっても、人を引きつけるものがあったんだね。

ところでりさっち、実はリョウ君からだけでなく、ジュン君からも質問が来てるんだー。たとえば、「マリアが出現したとして、そもそも何のために出てきてくれるのか。出現した場所には何か共通の特徴があるのだろうか」だってさ。

りさ
場所の共通特徴なんて、何やら災害発生についての質問のようなニュアンスですね。また、何のためという点は、出現を体験した人との相関関係が大きいので、そこまで全人類的な出来事というわけでもないのです。

ですが、何かの意味をもつ出来事・体験であるというのは大切なので、それは状況しだいですし、その人の魂の状態も関連するということです。出現場所についても一律の法則性は見いだせないと思います。

ただ、リョウ君の第3問でお答えしたとおり、19~20世紀という時代に関しては、やはり一つの傾向は感じられます。宗教性を喪失していきつつある現代人・現代社会に生きる信者やすべての人に回心と信仰を訴えるメッセージです。

 

出現を受けた人はどうなる?

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そぼ
そのことと関係があるかもしれないんだけど、ジュン君が「出現をした現象を、人間はどのように感じているのだろうか、感じたのだろうか、また、どのようなことをしたのだろうか。または何かが変わった事例があるのだろうか」とも聞いてきてるよ。
りさ
それはとても重要な問いだと思います。出現を受けた人は、それが生き方を変える出来事であったことがしばしばです。ベルナデッタという人は写真も案外残っています。それを見ると、ほんとうに一人の田舎娘がヌヴェール愛徳修道会のシスターになり、ことばを絶するほどの聖女へと変貌していくのです。その人生に、少女時代の出現体験が大きな影響をもったのだろうと思うのは当然でしょう。その事実にこそ、マリアの出現の真実の一端が示されるのだと、この出来事の意味を信じたくなるのです。
そぼ
りさっち、涙ぐんでるよ。はい、ハンカチ。
りさ
ありがとうございます。つい熱くなってしまいました。

 

出現の太陽、出現の明星

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そぼ
さて、ジュン君からの最後の質問です。「わたしたちはマリアの出現にどう接したらよいだろうか。どう考えるべきだろうか」
りさ
すばらしい質問ですね。マリアの出現のさまざまな事例の中には、たしかに超常現象というか超自然的なものが伴われる場合があります。でも、それは、どの宗教に関しても見られるものではないでしょうか。それも人間世界に起こりうるもので、それらがいつもつねに神のわざというふうには考えられないでしょう。

キリスト教的には、それらも神が造られた世界、被造界のものなのですから、一概にそれらを無碍(むげ)に否定することもないです。しっかりその出来事の質、メッセージ性、善をもたらすものであるか否かなど、私的啓示の一つとして吟味検討され、教会指導部による崇敬の許可・不許可ということが出てくるのです。

そぼ
なるほど。
りさ
その理由は、前に言ったように、キリスト教ではなによりも、復活したキリストの出現という出来事も含む過越の神秘、キリストの神秘が中心だからです。どんなパワーが働いて起こる出来事や、パワーが働く場所よりも、キリストのパワーはすべてを超えているという理解です。そして、神学的なマリア論が教えるのは、マリアはあくまでそのキリストに仕える人、神の意志に仕えた人だということです。

そのことを踏まえて、マリアはその仕える生き方の完全性において尊敬され、崇敬される存在であり続けるということです。そのことを生涯の始まりに関して言っているのが「マリアの無原罪の御宿り」であり、生涯の終わりに関して言っているのが「聖母の被昇天」と言えると思います。

そぼ
「マリアさまのこころ」を知るべし、ということだね。
りさ
キリストあってのマリア、キリストの光を受けてのマリアです。金星(明星、暁の星など)にたとえられるマリアのマリアらしさがどこにあるか、そのことを忘れなければ、どんなマリアの出現現象もまずは受けとめ、味わうことができるでしょう。長く記憶し、記念し、崇敬を続けるかどうかは、それぞれのもつメッセージを自分に対してのものと捉えられるかどうかにかかっています。そして、有名になった出現事件だけでなく、ふだんから自分にも訪れているマリア、そしてキリストに心を向けることが大事なのではないでしょうか。

 

日常現象としての“出現”~~祈りの意味

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そぼ
えっ、そんなに出現っていつもあるの?
りさ
超常現象のような出現ではないですが。でも、祈りの中で、すなわち、ミサの全体、特に主の祈り、そしてアヴェ・マリアの祈りの中で、キリストにもマリアにもわたしたちは出会っているはずです。それは「日常現象としての出現」と言ってもいいと思います。
そぼ
うーん。何か含蓄が深そうな気がしてきた! 超常現象にばかり気をとられて、日常の祈りによる出会いの意味を忘れてしまったら、元も子もないもんね。今日のりさっちの話はクールなところとホットなところがあって、ちょうどよかったんじゃないかな。心があったまったよ。
りさ
いろいろ文献をもとにしているのですが、私見のような述べ方になった気がします。このテーマだけはそれもどうかゆるしてください。
そぼ
大丈夫、大丈夫! オレもちょっと感動しちゃったし。「レット・イット・ビー」で行けばいいと思うよ!

 (企画・構成:石井祥裕/脚色・イラスト:高原夏希=AMOR編集部)

 

【参考文献】
ルネ・ローランタン著『ベルナデッタ』ミルサン、五十嵐茂雄共訳(ドン・ボスコ社 1979)
竹下節子『聖母マリア 〈異端〉から〈女王〉へ』(講談社選書メチエ 1998)

 


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