祈る


鈴木和枝(カトリック三島教会)

「祈る」というと、静かな聖堂でひたすら十字架のイエス様と対話する。そんな時間こそが祈りの時間と考えていた。今も、仕事や日常の雑事でわさわさした頭と心をリセットし、神様が与えてくださった自分本来の姿を取り戻すのには、一番の時間と捉えている。

しかし、それだけが「祈る」ことではないことを3.11以降に知ることになった。東日本大震災は、東北地方に甚大な被害をもたらしたが、被災地に住んでいなくても、意識的な面で多くの人や組織の考えを変えることになったと思う。災害への対応に関する危機管理、ボランティア活動のあり方、原発問題による日本のエネルギー政策への関心など、それまでボーッと生きていた私にとっても考えるべき要素が増えたのは事実だ。

何回か被災地を訪れ、カリタスのベースを拠点にボランティア活動を行った。ベースではどこも活動が終わると、参加者たちの分かち合いが行われた。分かち合いとは別にお祈りの時間を設けるところもあった。高度成長期のピークの時代には、日本という国も人々も、努力すれば国は富み、生活は豊かになると信じていたと思うが、こうした大きな災害を経ると、人間の努力だけではかなわない大きなものの前に、人間の無力さを感じてしまう。被災地の人々の喪失感や絶望感、そうした人々と寄り添っていくのには、ともに過ごす時間と「祈り」という支えが必要であることを痛感した。

この震災で私たちは原発事故を経験した。私は理科教師をしていながら、原子力発電や放射線科学には全く無関心であったことに気づかされ、教会内外の勉強会に参加するようになった。カトリック教会では日本と韓国が協力し合い、勉強会やフィールドワークを行い、核を使わない(脱核)平和な社会を目指す活動に取り組んでいる。韓国ではサムチョクという東海岸の都市で原発建設が計画されていたが、サムチョクのカトリック教会は市民の反対運動の核となり、住民投票、脱原発派の市長当選に至ったことなどを教えていただいた。サムチョクの信者さんたちは自分の町に原発ができることに反対してミサを献げてもいたが、福島の人たちのためにも日々祈ってくださっていることも知った。

私はその後、ソウルに行き、脱核を目指す信者さんたちと再び会うことができた。ともに街を歩き、人々に原発の危険性や核を使わない平和な社会を目指すことの大切さを訴える時間をもった。また、原発問題を含め、時の政権に抗議し政権交代を願う祈祷集会に一緒に参加することを通し、韓国の人々の社会正義に対する祈りのパワーを肌で感じたのである。人々の思いは朴政権を終わらせ、原発を廃止する方向で政策を立てている文在寅大統領が就任したことは周知の通りである。

その後も韓国では、原発以外の社会的問題に対しても人々が連帯して祈り、行動し、実現する事例にいくつか出遭った。みな自分の利益や欲望のためではなく、そして自国のためだけでもなく、安全で安心な世界、子どもたちが大人になったときの社会のあり方などを考え、自分の時間を捨てて集まっていた。信者さんたちの熱い祈りは霊のはたらきに乗って神様に届けられ、多くの課題を解決しつつあることを知るにいたった。

一人で祈ることも大切。人々と寄り添い、みなで連帯して祈ることも大切。門が開かれることを信じ今日も祈る。

 


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