石原良明
この話は、半分ジョークみたいなものだと思ってお読みください。
ある時、だいぶ昔の事で誰から聞いたのかも忘れてしまったのですが、この話を教えてくれた人を、仮にAさんとしましょう。Aさんが教えてくれた話なのですが、とある学校で小学生か中学生にキリスト教を教えているシスターが、とある神父さまに、あるリクエストをしたそうです。
「主の祈りを、『私の祈り』にして書いてもらえませんか?」
そもそも「主の祈り」というのは、弟子たちが祈り方を尋ねて、イエスさまが教えてくださった祈りです。マタイによる福音書では、この「主の祈り」に、「神の義」「神の国」をまず求めなさい、と続きます。イエス様ご自身は、これを地上で実現すべく、貧しい人々を満腹にさせ、病人を癒し、たとえ話でその価値観を説いたのですが……。
おそらく、この話に出てくるシスターは、「主の祈り」を子どもたちにとって身近にするために、神父さまにアレンジをお願いしたのでしょう。
この発想そのものは大変わかりやすいものだと思いますし、子どもとは言え、あまりに個人的な生活に踏み込みさえしなければ、頭の体操としても面白いかもしれません。
そこで、この神父さまは、Aさんの言葉を借りれば、
「全部逆にして書いてきた」
らしいのです。ここはAさんの言う「主の祈りの、この部分をあーしてあの部分をこうして」という話からの伝聞の域を出ないので、あくまでも推量にすぎないのですが、その言葉に従えば、以下のようなものを書いてきたものと私は推測します。従って、ここに掲載する「私の祈り」は、私のオリジナルです。
共観表のようにしてみましょう。(スマートフォンやタブレットの方は、横にスクロールしてご覧ください)
主の祈り | 私の祈り |
天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり 地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。 わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。 |
私の中の私の神よ、 私が有名になりますように。 私の時代が来ますように。 私の欲望が頭の中にあるように 実際に実現しますように。 私の財産が未来永劫心配ないように無限に増えますように。 私の罪はおゆるしください。 私は他人をゆるしたくありません。 私は誘惑はスリルだと思います。 悪には眼をおつぶりください。 |
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いろいろなアレンジがあるだろうと思います。一行目は「私の神」としてみましたが、「私という神」や「私の心」でもいいかもしれません。
「全部逆にして書いてきた」というのは、つまり聖書的な価値観を逆転させて、主なる神ではなく人間が神さまになってしまった、というわけです。怖いですよね。人の心のドス黒い部分が前面に出ています(そのように気をつけつつ、一行ごとに表明されている内容を逆さまにすればたくさん作れると思います。普段つい思っていることがうっかりスラスラ出てきます)。
聖書では、「神の国」や「神の義」という難しいことばで表現されますが、要は、大切なものは何なのか、真に大切にされるべき人は誰なのか、ということです。一言で言えば愛、あるいは神さまが何を求めていらっしゃるのか、ということなのですが、答えは自明でしょう。
しかし、分かっていても優先順序を間違えてしまうのが人の心なのかもしれません。事情はどうあれ子どもを粗末にしてしまう親がいます。子どもが死のうと、いじめがあろうと、自分の保身を優先する大人がいます。多くの人々の犠牲を顧みず、責任も果たさずに肩書きに執着する人がいます。世界にはゴミ山で遊ぶ子どもたちがいるかと思えば、世界人口の半数(約38億人)の総資産と同額の資産を超富裕層のトップ26人が持っています。
それでも、あるいはだからこそ、「主の祈り」が述べる、人間の価値観の大転換は意味が出てきます。
こんな世界、どうしたら変えられるのでしょうか。社会運動をがんばれば良いのでしょうか。
「主の祈り」、あるいは聖書全体のメッセージから言えば、その変革には人の罪のゆるしという「奥行き」がどうしても必要です。天と地、垂直方向の神の働き、というといかにも神学っぽいですが、そこはカテキズムや教義学の本をご覧ください。
どういうことかというと、人間は不完全な存在です。きっと、私たち人間が理想社会を作ったとしても、不完全な人間のすることですから、それは失望の国になるに違いありません。だから、「主の祈り」のこの文脈で、わたしたちの罪と人の罪のゆるしが出てくるのでしょう。神さまのみこころが天に実現しているのに地上に実現していないのは、人間のせいだからです。
こんなようなことを考えつつ、もう一度「主の祈り」を読んでみてください。人にはできないことを人は神さまに求めることのできるという、「主の祈り」の突き抜けた世界観、神さまの想いに直面できると思います。
もちろん、未来がどんな形でやってくるのかは誰にもわかりませんし、キリスト教徒でなくても、素晴らしい人間はたくさんいるということは、言い添えておきます。
そういえば、学生時代の話ですが、サークルの合宿で、夜中うとうとしながらだったかと思いますが、友人から、
「よっしーってさ、キリスト教の信者なんでしょ?」
「うん? うん。」
「何かに祈れるっていいよねぇ、実は素朴にうらやましい」
と言われたことがありました。
普通の人は素朴にお祈りできないのか。へぇ、なるほどそうか、そりゃつまりそういうものか、と思いました。私は幼児洗礼でしたので、祈ることそのものや、神さまがいるとかいないとか、特にこれといって何か深く考えたことはあまりなかったのでした。
しかし、これが難しいのかもしれませんが、すべて何でもご存じの神さまに心をひらいて、こんなみじめな自分ですが、こんなみじめな社会ですが、こんなみじめな世界ですが、どうぞ憐れんでください、と思うだけで、本当は十分なんじゃないかと、思います。
(AMOR編集部)
多分この祈りの話を聞いて
我が身を思うひとがいるのではないでしょうか
人間は弱いものと言うところに素直になったとき、想いを広い大きなものに馳せることができるのだと思います。
多分この祈りの話を聞いて
我が身を振り返るひとがいるのではないでしょうか
わたしは弱いものですと素直になったとき、広い大きなものに想いを馳せることができる。
感謝する気持ちが生まれるのだと思います。
おもしろいです! この祈り、私たちの教会(日本長老教会、鳴門キリスト教会)でも紹介させてください
古川和男様
コメントありがとうございます。
昨日のうちにお返事差し上げていれば、本日の礼拝でご紹介頂けたでしょうか。
遅くなりすみません。
この記事を執筆した後で知ったのですが、同じような主の祈りが既にあったようです。
カトリック高崎教会のブログです。
https://cattakasaki.wixsite.com/cat-takasaki/single-post/2018/03/09/%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E3%81%AA%E3%80%90%E4%B8%BB%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A%E3%80%91%EF%BC%9F%EF%BC%81
ただし、「主の祈り」の「誘惑」には、通常の意味での誘惑とは違うという話も聞いたことがあります。
いわく、「天の父なる神さまや罪という文脈で誘惑という言葉が出てくるなら、それは自分で自分を義としたくなる誘惑ではないか」という話です。
今のところそのような議論があるという裏は取れていませんが、そうだとすると「私の祈り」のアレンジは難しくなりますね。
どんな取り返しのつかないヘマやドジ、時に罪を犯したとしても、自分で取り繕ったり言い訳に拘泥せず、過ぎたことを悔いたら、ゆるしの神さまに全幅の信頼をおいて、お委ねして憐れんでいただく、という考え方です。救われますね。
古川様と日本長老教会鳴門キリスト教会の上に豊かな祝福がありますよう、お祈り致します。