ティツィアーノ・ヴェチェッリオ『キリストとよき盗賊』
稲川保明(カトリック東京教区司祭)
ティツィアーノ(生没年1490頃~1576)は、長く活躍した画家ですので、初期のころと晩年とでは画風も変わってきています。今回の絵は1536年に製作されており、後期(1530~50年)の作品にあたります。1516~30年頃の色彩にあふれた作風から、落ち着きや陰影を感じさせる作風へと移りつつあります。色彩豊かなティツィアーノの作品も素晴らしいのですが、人生の深みを感じさせる後期の作品には人間性がにじみ出てきている気がします。
この作品『キリストとよき盗賊』で扱われている場面は様々な画家が描いていますが、多くの場合、キリストの十字架を中心としてたくさんの人物が描かれている中の一部分となっています。ですが、ティツィアーノはイエス・キリストと回心した盗賊の二人だけの姿に焦点を当てて描いています。ルカ23章32~43節の内容を思い起こしてみましょう。
イエスは、「されこうべ」と呼ばれる所で十字架につけられます。その両側に犯罪人が一人は右に一人は左に十字架につけられます。十字架のイエスに対して、議員たちはあざ笑って「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」と言い、兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と言います。イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札が掲げられています。
十字架にかけられていた犯罪人の一人もイエスをののしって言います。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。すると、もう一人の方がたしなめて「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」と言い、イエスに向かって、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言います。するとイエスは言われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」
【鑑賞のポイント】
(1)イエス・キリストの体には光があたっており、頭は盗賊の方に向けられていますが、顔は下を向いています。盗賊はY字型の十字架にかけられていますが、腕は縄で縛られているだけで、釘づけにはされていません。それゆえ、右手を上げて、「あなたが御国においでになるときには、わたしのことを思い出していただけませんか?」と信頼を込めて語りかけている様子が描かれているようです。
(2)このよき盗賊の名前は「デュスマス」であったという伝説があります。「ふさわしい」とか「正しい」という意味です。回心せずイエスを罵った盗賊の名は「ゲスタス」と伝えられます。「愚かな」とか「頑固な」という意味です。
(3)キリストの足は重ねられ、足の甲には釘が刺さっています。足台は描かれておらず、むしろ腰を支えるような小さな横木が添えられています。よき盗賊の足は縛られておらず、自由になっているところが回心した彼の魂を象徴しているように思えます。
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