ミサはなかなか面白い57 「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯……」


「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯……」

 

答五郎 さて、前回から奉献文の中で告げられるイエスのことば、いわゆる秘跡制定のことば、聖別のことばと呼ばれるものについて考えているね。ポイントはなんだったかな。

 

 

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問次郎 最後の晩餐のときのイエスのことばを思い起こして、引用して読み上げているというだけではなくて、ミサの中に現存しておられる主が今告げることばであるということが重要ということでした。

 

女の子_うきわ

美沙 それと、その今告げられるパンと杯についてのことばは、聖別の働きをもつという点も重要でした。それについて「聖変化」というだけでは不十分だというお話に入ったところでした。

 

答五郎 そのことを考えるために、まず杯についてのイエスのことばを奉献文で確認してみよう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)。これをわたしの記念として行いなさい」ですね。

 

答五郎 このことばも、四つの新約聖書の本文が踏まえられていることがわかるよ。ざっと見ると、一コリント11・25「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」、ルカ22・20「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」、マルコ14・24「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」、マタイ26・27~28「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。

 

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問次郎 奉献文中の「わたしの血」は四か所すべてに、「多くの人のために流されて」はマルコ、マタイ、「罪のゆるしとなる」はマタイ、「新しい契約」は一コリントとルカ、「契約の血」はマルコ、マタイですね。

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしの血の杯」ということばは見当たりませんね。それと「永遠の契約」という句も。

 

 

答五郎 よく気がついたね。「わたしの血の杯」は、たぶん一コリントとルカの「この杯は」という切り出し方を背景にしていると思われる。「永遠の契約」という句はたしかにこれらの四つの本文にはなくて、典礼の祈りにおける独自な伝統らしい。

 

女の子_うきわ

美沙 「ぶどう酒」ということばも、この中には出てこないのですね。

 

 

答五郎 前後を見ると、ぶどう酒の杯であることがわかる。聖別のことばの前後に「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」ということばがあるのだ。これはマルコ14・25だが、マタイ26・29にもルカ22・18にもある。基本趣旨は同じでも、少し語句のまとめ方が違っている。

 

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問次郎 そう見てみると、「杯」もかなり重要なようですね。

 

 

答五郎 そう、たしかにね。それは、聖体の秘跡というか感謝の祭儀が生まれる過程でも重要だったし、今の典礼でも、杯、つまりカリス(ラテン語)の役割が大きいのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 奉献文ですぐあとに「いのちのパンと救いの杯をささげます」というフレーズがありますが、そこも関係しているのでしょうか。

 

 

答五郎 おそらくね。それはそのときまた触れることにして、聖変化といわれることに関して考えよう。新約聖書の4つの本文でも、典礼文の中でも、パンとぶどう酒についてイエスが告げることばの中で、肝にある語句はどれだったと思うかな。

 

 

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問次郎 煎じ詰めると、「わたしのからだ」、「わたしの血の杯」というところになりますか。

 

 

答五郎 そこで、パンという食べ物がキリストの体という別なものになり、ぶどう酒という飲み物がキリストの血という別なものに変わるというふうに考えると、それは、たしかに聖体への変化、聖なる変化、神秘的な変化ということになる。

 

 

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問次郎 たしかに、自分もちょっと化学変化への連想にひっぱられそうになりました。

 

 

答五郎 「聖変化」とは正確にいえば「聖実体変化」ということで、中世の神学者たちがどのような意味で、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるのかを詳しく議論し考えた結果をまとめた用語なのだ。その意図自体は正しいのだけれど、用語だけが一人歩きすると、あるものが別なものに不思議に変化することだけに関心が行ってしまい、手品とか魔術のように想像してしまうこともあったのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしのからだ」、「わたしの血の杯」の「わたしの」というところが大事なのではないでしょうか。だれかれのものではなく、キリストについてだけのユニークなものというところが。

 

 

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問次郎 そのユニークさを説明しているのが(典礼文でいえば)「あなたがたのために渡されるわたしのからだ」とか「あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」というわけか。

 

答五郎 ほんとうにそうなのだと思うよ。すべての人の罪からのあがないのために、キリストは我々に自分自身を与えた……それは究極的には十字架上の死と復活をとおして、実現したこと、そのことが、今もいつも聖体として与えられるという、とても、大きな事がここでは起こっているわけなのだ。

 

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問次郎 たんなる物の変化というわけではないのですね。

 

 

答五郎 そう、キリストと我々の関係の変化というか、新しい関係が決定されたという出来事が大事なのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「新しい永遠の契約」というのがそれなのですね。

 

 

答五郎 そうなのだよ。キリストの死と復活によって神と人類の新しい契約が結ばれた、それはとても大きなこと、人類史がひっくり返るような画期的な出来事だったのさ。そのことを思い起こし、それだけでなく、今、キリストのからだと血を受けるという中で、その契約関係の中に立ち返り、その契約がキリストによって結ばれていることをたえず喜び祝うというところに、ミサらしさがあるといってもよい。

 

女の子_うきわ

美沙 お祝いの感覚は祭りになくてはならないものですね。

 

 

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問次郎 でも、ミサがあまりお祭りの感じもしないな……。

 

 

答五郎 「契約」ということを深く考えると祝う意味が出てくるのではないかと思うよ。続きは、また次回に考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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