【素朴な質問2】
「1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に来て、以後キリシタン宣教の時代が始まり、やがて徳川時代初めには激しい弾圧と殉教の時代になることは知られていますが、あの当時、キリシタンの宣教は琉球王国の島々にも及んでいたのでしょうか?」
【探してみました】
そんな問いかけをもって文献を探していると、青山玄著『琉球最初のキリシタン――石垣永将の殉教』聖母文庫(聖母の騎士社、1997年)という本に出会いました。わずか178ページ。文字も大きく読みやすい小さな書。著者は、神言会の司祭で、キリシタン史、日本キリスト教史研究者の青山玄(1930年生まれ)師です。
1970年代、沖縄の日本復帰(1972)頃に高まっていた石垣永将という人物についての関心を受けて、1973年から現地で調査を始めた研究の成果が簡潔にまとめられ、1997年に出版されました。学術論文風ではなく全体として、自身の研究ドキュメンタリーのような書となっています。関係の文書・史料、関係者談話、後世に作られた系譜・伝説、先行研究書、現代作家による小説などをあらゆるものをつぶさに批判検討しながら史実に迫ろうとするところにサスペンス感もあり、専門家ではない読者にとっても興味深く、広く歴史研究を志す人にとっても参考になる事例紹介といえるかもしれません。
この本からは、二人の人物が浮かび上がります。ドミニコ会宣教師ルエダ神父と石垣島の人、石垣永将です。その足跡を探るなかで、あのキリシタン宣教の時代における琉球の位置が浮かび上がってもくるのです。ひとまずは、その研究の成果から、二人の人物の足跡をたどってみます。
ルエダ神父の足跡
フアン・デ・ロス・アンヘレス・ルエダ神父は1578年頃、スペインのブルゴス地方に生まれ、ドミニコ会の学校で育ち、同会に入会し、司祭になったようです。バリャドリードのサン・パブロ修道院にいた1603年、ドミニコ会が極東宣教のために設立した「ロザリオの聖母管区」の宣教師募集に応じ、第8次宣教師派遣団の一員として同年6月セヴィーリヤを出発。大西洋を渡り、西インド諸島に入り、メキシコに到着して滞在。1604年6月マニラに到着しました。日本で、ドミニコ会宣教師は、1602年から薩摩領主島津忠恒に招かれて甑島の長浜村に滞在しており、1604年7月、ルエダ神父もここに来て日本語を学習。1606年2月からは川内町の京泊に移り、日本語学習を継続します。1607年、肥前国浜町に赴任。当時肥前佐賀藩の初代藩主鍋島勝茂がドミニコ会の活動に好意を示したため、宣教は順調に進み、修道院や教会堂の建設も実現しました。
ところが1613年から徳川幕府の宣教師弾圧の方針が及び、肥前佐賀藩主からも追放令が出され、ルエダ神父らはこれに従い、佐賀を出ます。が、その後も1620年まで薩摩・日向以外の九州全域で潜伏しながら司牧活動を続けます。神父はこの活動中の見聞を書簡や報告書に記しており、それはこの時期のキリシタン信徒に対する弾圧・拷問・処刑の様子にとって貴重な史料となっています。しかし、潜伏活動の労苦がたたり、慢性的な病にかかり、ルエダ神父は1620年12月、長崎を去り、マニラに戻ります。
石垣島へ、石垣永将との出会い、そして殉教
マニラでも、ルエダ神父は歴史に残る重要な仕事をしました。ドミニコ会司祭を志願者していた日本人神学生ヤコボ朝長五郎兵衛、トマス西六左衛門(二人は後に殉教し、トマス西と15殉教者聖人に数えられます)の入会を支援したこと、そして、日本にいるキリシタンを励ますために『ろざりよ記録』(1622)、『ろざりよの経』(1623)を出版したことです。そのような中、日本に戻りたいという気持ちを高めていたルエダ神父でしたが、当時は徳川幕府の支配が徹底され、宣教師が追放されただけでなく、外国船の渡来そのものも厳しく制限され、禁じられていく時代。その中で日本に再渡航するための方策として、ルエダ神父はまず「薩摩の殿に所属している琉球の島」に向かい、1624年8月末か9月初めに石垣島に到着。ここで、港の管理を司っているこの地区(宮良、読み:みやら)の行政責任者である「宮良頭」を務めていた石垣永将と出会います。
石垣永将という人は、八重山きっての名家である嘉善姓の出で、父・石垣永正(生没年1550~1620)は石垣頭職という八重山最高の役職(在職年1601~15)にあった人でした。永将は1580年代初めに永正の次男として生まれます。側室の子でしたが、優秀な青年だったようで、30歳代初め、1611年頃に宮良頭職に抜擢されます。そこでルエダ神父の来島を迎えたのでした。神父が20日間あまり滞在していた間、おそらくこの神父から永将は洗礼を受けただろうと考えられます。
やがて、永将の家にキリシタンの宣教師が匿われているという通報が琉球王国王府になされ、王府は薩摩藩に対応を打診したところ、結局薩摩藩からの命令で、派遣された役人によって石垣永将は火刑に処せられました。彼の火刑の具体的な様子はわかりませんが、この刑を受けるときの態度は、深くキリシタンの人々の心に残っていたようです。事実、同じくキリシタンとなっていた彼の二人の弟も、キリシタン弾圧の激化する1634年、1638年に殉教を遂げることになるのです。
他方、ルエダ神父の最期については、トマス西神父の書簡に書いてあります。それによると、ルエダ神父は、ある寺の僧侶と議論になり、僧侶が琉球王に訴えたことから、その命令により、粟国という島にいったん追放されます。その土地で、神々にささげられた森に、神父は入っていったところ、琉球王に訴えが行き、王によって死刑の宣告が与えられます。ルエダ神父は、他の島へ連れて行くといわれて船に乗せられ、船から海に投げ込まれたか、あるいは船で斬首されて、遺体が海に投げ棄てられるかたちで、殉教を遂げたと伝えられています。1625年か1626年のことでした。
琉球とキリシタン
16世紀半ば、1543年にポルトガル人が種子島に来て、鉄砲を伝え、1549年にフランスシコ・ザビエルが鹿児島に上陸し、キリスト教の布教が始まります。その頃、宣教師から琉球諸島はどのように見られていたのでしょうか。青山師は、ジョージ・H・カー著『琉球の歴史』(琉球列島米国民政府発行、1956年)、岸野久『西欧人の日本発見――ザビエル来日前日本情報の研究』(吉川弘文館、1989年)などを参考にしつつさらに推論を加えています。ポルトガル人は、インドのゴアを1510年から支配、1511年にマラッカを占領し、交易拠点とし、東アジアへの進出の足掛かりとします。この時代まで、琉球の貿易船がスマトラ、ジャワ、マラッカに来ていたようですが、ポルトガル人占領後、諸民族の対立感情が新たに強まると、ここを退き、タイとの交易に限定していくようになっていたそうです。この頃、琉球人の存在が西洋人に知られ、琉球は「レキア」などと呼ばれます。
種子島来航に先立つ1542年に琉球諸島がポルトガル人に知られたと推測されますが、その後、種子島、鹿児島と、ポルトガル人が日本本土に盛んに来航するようになった反面、琉球には接触がありません。それは、明国を宗主国とし、官立貿易を旨とする琉球王国自体が、明国から排斥された中国人や日本人の倭寇、また密貿易に従事していたポルトガル人との接触を避けていたからではないかと考えられています。16世紀半ばになると、明国政府もポルトガル人との交易を許容するようになり、そうなると明国との交易で、琉球人にとってポルトガル人は競争相手になります。ポルトガル人のほうでも日本や中国との関係が広がると、あえて琉球に接触する必要もなかったといえるようです。
そのような中、中国や日本の情勢も変わり、一時的停泊港として琉球にやってくるポルトガル人も増えて、琉球のことがだんだんと知られるようになり、とくに後発のスペイン船やスペイン人の宣教師にとって、琉球は日本に向かう足掛かりとなっていきます。そして、1613年以降、日本でキリシタン禁教令、宣教師追放令が強化されると、薩摩の支配下にあるとはいえ距離的に遠く、また表向きは、明国の属国であるというその特殊な性格の国であったため、日本に潜入するための糸口となっていたと考えられています。
そうした変転の果てに、ドミニコ会スペイン人宣教師ルエダ神父と、琉球最初のキリシタン石垣永将との出会い、そして二人の殉教という出来事が生まれたのです。詳細の不明なところが多い二人の歴史ですが、たしかにキリスト教と琉球、ひいてはキリスト教の近世日本の関係を垣間見せてくれるものとして記憶にとどめられています。青山師は「あとがき」で本書を結ぶにあたり、ルエダ神父と石垣永将について、「彼らは今も隠れた所からそっと琉球の人々に伴い、祈り、導き、手助けをしているのではなかろうか」と記しています。当時の宣教がもっていた信仰心のあり方までも問いかける本書は、さまざまなヒントに富んでいます。
やがて時は流れ、19世紀の前半、琉球と宣教師の出会いの第二の歴史が始まります。
【参考文献】
D. アドゥアルテ 『日本の聖ドミニコ: ロザリオの聖母管区の歴史』 佐久間正, 安藤弥生訳, ロザリオ聖母管区本部 1990: D. Aduarte, Historia de la Provincia del Santo Rosario, O.P., Manila, 1640.
(AMOR 編集部)
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