「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 3


父との関係

伊藤 今のお話ですと、お父様ですが、帰って来いと言われるまでは勘当だったわけですか。映画に、お母様のことを思うあまりにというエピソードがありましたけれど……。

後藤 父が再婚すると言った時に、親父をぶん殴っちゃったんです。親を殴るもんじゃないですね。今でも僕の方がトラウマを受けてしまっています。親を殴って平気で神父業をやっているというのは、非常に恥ずかしいですね。

伊藤 映画の中で、お父様は叙階式に来て下さっていますよね。

後藤 それも行かないと言っていたんですが、その日の朝、御聖堂に入るまで父が来ているのを知りませんでした。前の日に急に気が変わって行ってやろうということになったらしいんですね。

父はその時初めてカトリックの式に与ったんです。司式は京都の司教様だったんですが、「なんだ、あのスルメの帽子。ぜんまいの杖を持って。しかもあの指輪はヤクザの指輪ではないか」と言うんです。「あれは誰なんだ」と言うんです。「あれはカトリック教会の中でもえらい司教様というんだ」と説明しましたが、その程度でした。

関係は悪い関係ではないけれども、気持ちのどこかに父を疑っていました。つまり、同じ防空壕に入っていたのに、生きているのは父だけです。後は全員死にました。私と兄は家にいませんでした。ですから全責任は親父にあるというわけで、あんた自分だけ一番先に逃げたんだろうと、責めたんです。やはり本当のことを言っていないなという疑いの気持ちはずっと続きました。だからどうしてもずれるといいますか、確執がありました。

伊藤 その確執があったから、浄土真宗のお寺の息子さんなのにカトリック司祭になった。

後藤 そうです。それは親父に社会的ダメージを与えてやろうという気持ちもあったんです。つまり、坊主の子が耶蘇になるというのは、あんな小さな町では、すぐに評判になります。実際に父は私が洗礼を受けたときに、非常に怒ったわけです。結局「お前のおかげで、自分の立場がない」というようなことでした。その時僕は殉教者気取りですから。

ちょうどその次の年にフランシスコ・ザビエルの聖腕が来ました。1949年のことです。昔の侍者服、真っ赤な袴はいて、オープンカーの前に立って香をもって、ザビエルの右腕に献香しながら、後ろ向きに町中を歩きました。それをたまたま隣のお坊さんが私を見つけて親父に言いつけました。「お前の家のバカ息子が耶蘇になってチンドン屋みたいな格好をしてなんかやっていたぞ」と。それで親父がまた怒りまして、ざまぁみろと思いました。非常に親不孝でした。ま、その償いを今しているんでしょうかね。

伊藤 そんなことがあって、カンボジアの子どもたちを引き受けた時には、必死になっていくわけですね。

後藤 償いですね。

伊藤 「father」というタイトルも、神父のファーザーと父親のファーザーがかけ合わさっているわけですね。

後藤 ですから小文字にしました。大文字にすると、私個人になってしまいます。小文字にしておけば、お父さんですし、神父であるということにもなります。


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