《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 43:「感謝の典礼」の生まれたての姿


「感謝の典礼」の生まれたての姿

答五郎……ミサの「感謝の典礼」に目を向けて3回目になるね。前回は、その全体像の根底にイエスが行っていた食事の動作の記憶があるということを見たのだったね。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい、いろいろな儀式やことばが連なっている式次第の中心にイエス・キリストがいて、そのイエスとの食事の動作なのだと考えると、理解しやすくなるかもしれないと思いました。

 

答五郎……きょうは、新約聖書を手がかりにして「感謝の典礼」の始まりに思いを馳せてみよう。問次郎くん、1コリント11章23節から25節を読んでもらおうかな。

 

 

252164

問次郎……はい。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」

 

答五郎……そう。パンを「わたしの体」、杯を「わたしの血によって立てられる新しい契約」と告げたところで、ここが聖体の制定、主の晩餐の制定と呼ばれていることは知っているだろう。

 

 

252164

問次郎……はい、ミサの中でもそのようなことばが告げられていますから。

 

 

答五郎……同じような内容がルカ22章14~20節、マタイ26章26~29節、マルコ14章22~25節にもあって、制定の意味がそれぞれに語られている。美沙さん、ルカ福音書による最後の晩餐のところを頼む。

 

 

女の子_うきわ

美沙……はい。「それから、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。『これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。』食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である』」

 

答五郎……マルコ、マタイの記述との比較は省くけれど、「わたしの体」とは「あなたがたのために与えられる」もの、「わたしの血」についても「あなたがたのために流されるもの」とあるところからパンとぶどう酒の杯で表されているのは、イエス自身のいのちのことだとまず考えられるね。

 

252164

問次郎……「あなたがたのため」というところが重要なのですね。

 

 

答五郎……そう。自分自身の生涯全体そして最後の十字架上での死が、「あなたがた」つまり弟子たち、ひいてはすべての人のために与えられるささげものであること、罪のゆるしをもたらす(マタイ26・27参照)、つまり、あがないのいけにえであるというイエス自身の自覚、そして新約聖書に反映しているように、使徒たちの理解も告げられていると考えられるのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙……「あがないのいけにえ」……まだ、あまりよくわかっていないのですが、ともかく、そのような意味合いをこめて、そのあと、「信仰の神秘」と歌われ、「主の死を思い、復活をたたえよう」とみんなが唱えるのですね。

 

答五郎……十字架上の死は復活と一つのことで、それを含んでの「わたしの体」「わたしの血」だよね。「あがないのいけにえ」であるキリストの死と復活によって、神と人類の間に新しい契約が打ち立てられたということが、このパンとぶどう酒の杯で表されているのだよ。

 

252164

問次郎……12人の弟子たちとの会食がとても大きなスケールの出来事となっている感じがします。

 

 

答五郎……そもそも、まずキリストの十字架での死、それは復活と切り離せないから、キリストの死と復活全体が、人類史的な意味をもつ出来事、さらには宇宙論的な出来事というべきものなのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙……それほどスケールの大きな意味深い出来事を記念するために、パンとぶどう酒の杯による食事を行いなさいとイエスが言われたこと、それが「感謝の典礼」の制定ということでしょうか?

 

答五郎……そう。だから、「感謝の典礼」は、イエスの出来事、その生涯の意味を思い起こしながら神に賛美と感謝をささげる祈りを行って、パンと杯をいただく食事をすることがもとになっている。そのかぎりは、外観としては、会食、祈りを伴う宗教的な会食儀礼だったということだ。

 

女の子_うきわ

美沙……そういう行いだから「主の晩餐」と言われているのですね。

 

 

答五郎……パウロが1コリント11章17~22節でいうのは、共同体の中に分裂があるとしたら、一緒に集まっていても「主の晩餐」を食べることにはならない、ということで、主の晩餐で一つのパンを裂くことはキリストの体にあずかること、賛美の杯は、キリストの血にあずかること(1コリント10・14~18節)だと強調している。何のための主の晩餐なのか自覚を求めているのだよ。

252164

問次郎……最近、ミサでよく聞く、「主の食卓」という呼び名もあるのですか。

 

 

答五郎……1コリント10章21節で、「悪霊の食卓」つまり他の宗教の神々に供えられたものを食べる食事との対比で語られている。いろいろな教えの流れの中で、キリストを記念し、キリストの体と血にあずかる食事型典礼の意味が説き明かされているともいえるね。

 

252164

問次郎……それと、当時のコリントの教会でのあまりよろしくない状態も浮かび上がってきて、それはそれで興味深いです。

 

 

答五郎……使徒言行録2章42節の簡潔な記述「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」というところの「パンを裂くこと」も主の晩餐を指しているといわれる。ほかに2章46節、20章7節にも同じ言い方が出てくる。

 

女の子_うきわ

美沙……ほんとうにキリストが中心となっている食事、会食ということが、「感謝の典礼」の始まりだったですね。「あがないのいけにえ」という意味はまた今度お願いします。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

twenty − six =