古谷章・古谷雅子
5月31日(水) ビジャレンテ~レオン(1)
歩行距離:13km
行動時間:3時間15分
6時半起床、7時20分出発。ビジャレンテから緩い登りで880mのアルト・デル・ポルティージョの丘を越えてレオンに降りていく。まず国道沿いに町を出ると、分かれ道に久々にモホン(石の道標)があり右の田舎道に入った。ゴミ箱が設置されていてもあふれていたり草が茫々だったりだが、しばらくは昨日の国道歩きのような危険はない。4km先のアルカウエハの村には塔のそばにアルベルゲを兼ねたバルがあり、朝食にした。
さらにバルデラフエンテを抜け丘まで登りきる。ここに新しい大きな十字架があるはずなのだが見つけられなかった。レオン市内に入るには新しい自動車道路の通過がややこしかったが無事に巨大な青い歩道橋を渡って市内に入るルートを確認できた。入り口の道標には巡礼のコスチュームをつけたライオンが描かれていた。語感が似ているがレオンはローマ帝国がここに置いたLegion(軍団)から発した地名だそうだ。とは言えライオンはレオン王国の時代から国章にあしらわれレオンの象徴になっている。
ガイドブックや記録を読むと、マンシージャ・デ・ラス・ムラスからレオンまでの道があまりにも殺伐として危険だ、との苦情が多い。私たちもそのことは同感だが、さりとて巡礼の道がすべて快適で安全であるはずはない。現代は現代なりの危険も不快も受け入れなければなるまい、と思い直した。そもそもエル・カミーノは命懸けの道だったのだから。これまでの旅の中でいくつもの墓標に出会った。頓死(とんし:突然死ぬこと。急死)した人たちの屍を越えて道があると言えば大げさだが、饗庭孝男著『日本の隠遁者たち』(ちくま新書、2000年)からまた引用すると、
「中世の西欧では巡礼に先立って遺言をしたため、司教から推薦状をもらい、施しをする金をもち、『もっと遠くへ(エ・ウルトレイア)!それっ!神はわれわれを助けたまう』と人々ははげましの言葉をかけ合って歩いて行ったのである。これはサンチァゴ・コンポステーラへの旅立ちの様子である……」
(「エ・ウルトレイア」は歌になっている。2回目の旅でログローニョのサンティアゴ教会に泊まった時、食堂の正面に五線譜と歌詞が大きく飾られていて夕食前に静かに合唱した)
巡礼路と周辺の文化的整備は進行中だ。今や世界中から多くの人(2010年は27万2135人)が訪れるが、1985年には2491人だった。バックパッカーとしてフランコ政権時代(1939~75年)にスペインを体験している章は、暗い抑圧された強烈な記憶と2015年に40数年ぶりに訪れた時の明るさとの対比に驚いたそうだ。1975年にフランコが死去するまで独裁体制の中で巡礼路がもてはやされることはなかっただろう。政治体制が整い開明化して外国からの巡礼者を迎え統計を取り始めるまでに10年かかったことになるが、その時点でも今の盛況ぶりを予測はできなかったろう。
車社会である現代なりの危険性はあるにしろ悲壮感はなく、人々は「エ・ウルトレイア」ではなく、ただ「ブエン・カミーノ(よい道程を)!」と挨拶を交わす。でも昨年の旅でブルゴス手前の難所モンテ・デ・オカ(1162m)を越えた時、まだ薄暗い丘の上に現代のモニュメントを見た。フランコ政権時代に殺害された人々の遺体が埋められた跡に建てられた哀悼と平和への祈念を表す碑だ。エル・カミーノは信仰だけを感じさせるのではない。良くも悪くもスペインの様々な時代が厚く降り積もり、歩く者の心を刺激する。