スペイン巡礼の道——エル・カミーノを歩く 30


古谷章・古谷雅子

5月26日(金) オンタナス~ボアディージャ・デル・カミーノ(1)

歩行距離:26km
行動時間:7時間55分

5時45分、前日アルベルゲの売店で購入したバナナと水だけの軽食後出発。まだ薄暗く、金星が輝いている。アルベルゲの前の道を西に向かうとT字路になり、左へ巡礼路と農道が畑を挟んで並行して延びている。どちらも見事な並木に守られ、畑からはヒバリ、森からはカッコウやヤマバトの声、道端には野草が咲き乱れ、清らかな朝だ。本日も「何もない・退屈」とは程遠い。私たちは静かな農道を行ったが他には人影はない。

2本の道はまもなく合流する。その先でサン・アントン修道院址の中を巡礼路は抜けていく。物語性を感じさせる壮麗な廃墟だ。ここは12世紀に巡礼者の救護所として設けられ、壊疽を治すことで評判だったという。14世紀にはゴシック様式の大きな修道院だったが、今は巨大な二つのアーチと崩れた壁が残るのみ。天井を失った巨大な建物から望む蒼穹は印象的な空間だ。ポルタイユ(正面扉)だったところは他の打ち捨てられた教会などと同じく漆喰で塞がれている。しかしそれを囲む6重のアーキボルト(迫縁)の風化・摩滅した石の彫刻は典雅ともいうべきたたずまいだ。意外なことにこの遺跡の中にもアルベルゲがあった。ここで宿泊すれば極めて非日常的な時間を持てたかもしれない。

シトー派修道院は清貧・貞潔・服従の誓願の下、修道士が共同生活を営んでいた完全自給自足の世界だった。私の浅はかな思い込みとは違い、修道院の塀が高く立派なのは刑務所のように内部の人の逃亡を防ぐためではなかった。勿論俗世との隔絶の象徴でもあったろうが、修道院の中の物資は豊かで、盗賊等の外部からの襲撃を防ぐ必要があったのだ。

しかしこの豊かさは次第に蓄積され、矛盾をも生んだ。また都市の発展とともに人里での布教が重視されるようになり人里離れた修道院は次第に衰退していったという。

この遺跡を出てまもなく次の集落であるカストロへリスが遠くに見えてきた。高い丘の上の城・麓の教会・平原の集落、予習した通りの中世の3要素が一望できる。すなわち、戦う人(城主)-城、祈る人(聖職者)-修道院・教会、働く人(農民)-畑と民家、の3つの要素だ。特に豪勢な施設が残っているわけではないが、典型的な構成が面白い。

村入り口の教会は極めて古い部分も保存されている。13世紀に建てられた「リンゴの木の聖母教会Colegiata de Santa Maria del Manzano」はまだ扉が閉まっている時刻だった。村入り口から細い道が上り坂となり、城山を巡っていくが、城跡そのものは車ででもなければ寄り道しがたい高みにあるので割愛した。その先にちょうど開店準備中のバル「ラ・タベルナ」を発見、広々とした畑地を見下ろすテラス席でお決まりのカフェ・コン・レチェ(ミルクコーヒー)とボカディージョ(サンドイッチ)を食べた。涼しい風が吹きあがってやや空模様が怪しいが、その後も降られることはなかった。

ツバメが囀りながら飛び交う軒下の連なりを抜け、また巡礼路は起伏のある麦畑の中に入る。カストロヘリスは巡礼路によって発展し、アルベルゲもある。サント・ドミンゴ教会の、ルーベンスが下絵を描いたという17世紀のタペストリーがお宝らしいが立ち寄らなかった。判断が難しいところだが、お宝を見始めるとキリが無い。巡礼路上の景観と建築以外は割愛することにした。道端は相変わらず華やかだ。白いカモミール、赤いヒナゲシ、紫のヤクルマギクが特にいい。

この先で小川(リオ・オドリラ)を渡りひと登りで標高900mの丘アルト・デ・モステラレスを越えるが、頂上からはメセタの広がりが一望できる。学齢前の子どもを連れて歩いている韓国から来た若いカップルと話す。巡礼路上で会う東洋人は韓国人が一番多い。エル・カミーノを舞台にした韓国のベストセラー小説があるそうだ。

 


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