エンドレス・えんどう 9


近年、私は「傾聴」の活動をするために自分の部屋を『お茶の間』という名前にして、話し相手を求めている方の思いや悩みなどを聴かせていただいています。その趣旨は、私が悩みを解決するのではなく、その方と対話を重ねながら、自分で心を整理して<自ら気づく>ことにより解決の糸口を見出そう、というものです。話をうかがうほど、そのような<心の引き出し>を開けるお手伝いをすることが傾聴のポイントではないかという実感が深まっています。

この原稿を書いている今日も、ある青年が私のもとを訪れ、私と一時間ほど話をしました。彼はまっすぐな性格の持ち主で、月に1、2度、『お茶の間』に通いながら、ゆっくりと私に胸襟を開いてくれており、他人には言えない本音を語ってくれています。

「僕は、両親から愛情を受けたことがないのです――学生時代に深く悩んでいた事を相談しても、まったく助けてもらえませんでした」。その時から、彼はうつ病や不眠症を患い、今もなお苦しみの中にいます。しかしながらも、私は彼と会う機会を持ち続けるうちに、彼の笑顔が徐々に増えていることを感じ始めました。そして、ある日の対話で、彼は「自分は詩を書くのが好きで、書くことで心を浄化できています」と話してくれた時、私は彼の心が軽くなるヒントがこの言葉にある、と直感しました。以来、彼が訪れる際は「詩作のワークショップ」を行うことにしています。

この日はわかちあいとして、遠藤周作の『深い河』5章を共に読みました。そこには戦場での苛烈な体験によるトラウマに苦しむ重病患者・塚田が登場しますが、その塚田に寄り添うボランティアのガストンという青年の姿に「スピリチュアルケア(心のケア)」の核心が描かれています。私は彼と一緒に本を読み進め、章の終わりまで読むと、彼は「もし塚田にガストンのようなわかちあいの相手がいなければ、塚田の最期の日々に癒しはなかったでしょうね…」と、感慨深げに語りました。そして、彼は塚田の苦しみに思いを馳せることで、自分自身の心模様を客観視できたようで、いつもと違った気持ちになれたようでした。私と彼の間にはいつもの互いの湯呑みが置かれ、湯気が昇っていました。

陽も暮れかけた帰り道、私は彼を駅前まで送ると、「じゃあ」と言葉を交わして手を上げてから、別れました。来月も彼は、鞄にノートとペンをしたためて、『お茶の間』の部屋を訪れることでしょう。

(服部 剛/詩人)

 


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