末森英機(ミュージシャン)
「あなた方はキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(コリントⅠ 12:27)
「神さまのおかげで、わたしは無神論者ですよ」とおっしゃる方がいる。彼の家の前を、いつのころか、同じ時間にあるお乞食さんが、通るようになった。毎日、そのお乞食さんに、茶碗一杯のお茶と、わずかばかりの食べ物をプレゼントするようになった。「両手で受け取るんですね。笑顔で」。エピソードといえるほどのことでもないので、誰にも言わないでほしい、と最後に。もう一人、「神さまのおかげで、こんなに神狂いなんですよ」と神さまと水いらずの暮らしが、いかに幸福かを語る人がいる。日々、祈りを唱え、教会へ欠かさず通い、告解も絶えない。チャリティ活動へも積極的に参加される。「主のそばにいると、罪を認めるようになるんですから」と結ぶ。『ひとつの霊によって、わたしたちは、皆ひとつの体となるために、洗礼を受け、皆ひとつの霊を飲ませてもらいたいのです』。神狂いの、あの信者さんは、お乞食さんに触れたことはないんだそうだ。教会では、ともに苦しむと、つねづね、歌っていないか? ともに苦しむとは、同じ傷を引き受けるということではなかったろうか? 平和について、話し合いながら、戦争の準備をしている。どれだけの人が、そのように今を生きているだろう? ナザレの大工は、決して、罪の告白の席のための、いすを、おつくりにはならなかった。
いかにもカトリック信者。
積極的に様々な活動をして布教にちからを込めてカトリック信者としてどんどん仲間を増やしていく。
神父さまのお手伝いを自分のやるべき仕事として模範的に生きたいと信じる。
反面一生懸命神さまを追いかけているためでしょうか❔
自分の行動が他の人にキズを負わせていることに気づかない。
そんな信者のかたもいます。
一方、自分の生き方を絶えず反省しながら
一歩づつ神さまの生き方に倣うように勤める生き方もあると思います。
かみさまは両者をよく見ていると信じます。
わたしは後者が好きです。(笑)