ミサで信条が唱えられる意味
答五郎……さて、前回からミサの信仰宣言で唱える信条について考え始めているね。聖子さん、使徒信条を唱えてみてもらえるかな。
聖子……えっ、はい。「天地の創造主……(略)」ね。
答五郎……ありがとう。では、瑠太郎くん。ニケア・コンスタンチノープル信条を頼む。
瑠太郎……はい。「わたしは信じます。唯一の神……(略)」
答五郎……ありがとう。日本語の文として使徒信条が200字余り、ニケア・コンスタンチノープル信条が470 字程だから、確かにニケア・コンスタンチノープル信条は倍以上の長さだということがわかる。でも、聞いていてどうだろうか。
瑠太郎 構造というか、流れは似ているので苦にはならないですね。はじめに創造主である父である神のこと、神の子、わたしたちの主イエス・キリストのこと、その生涯の要約、そして聖霊とか教会のことが出てくるというものです。
聖子……さすが、キリスト教はこのことを信じているんですよ、というエッセンスね。
答五郎……それでこそのシンボルム、つまり、キリスト者であることを証明するしるしという感じがするだろう。この信仰宣言をミサでは主日と祭日に行うこととされているのだよ。ということは……?
瑠太郎……主日つまり日曜日のミサ、祭日のミサは、キリスト教の信仰をはっきりと宣言する集会という意味ももつのですね。
答五郎……そうだね。ところでこの宣言ということは、だれに向けての宣言なのだろう。考えたことはあるかな。
聖子……キリスト教はこれを信じています、と宣言するからには、キリスト教を信じていない人、他の宗教の人や、無宗教の人を意識して自分たちのことを主張しているのではないかしら。
答五郎……うーん。それもあるかもしれないけど。
瑠太郎……やはり、ミサの中で唱えているかぎりは、そこは、基本的にキリスト信者たちの集会なのですから、他の宗教の人に向けて宣言する必要はないと思います。「天地の創造主、全能の父である神を信じます。/父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます……」といって、やはり父である神、そして、キリスト、聖霊などに向かって宣言しているのではないですか。
答五郎……たしかにそこは重要だ。信条のもとには洗礼式の信仰宣言があったらしいと言っただろう。そのときも、洗礼式の中で父である神とキリストと聖霊に向かって信仰を告白する形のものだったわけだ。それが公会議で決まった正統信条の宣言文となると、異端に対してとか、他宗教の人々を意識した人間的主張の宣言文のような姿をもつことにもなったのだよ。
聖子……でも、ここで考えているのは、ミサの中での信仰宣言だから、神に向かう宣言という姿がはっきりしてくるのね。
瑠太郎……もう一つ、信者さん自身に向けての宣言という意味もあるのではないですか。それをもって、自分が信じていることを思い起こすというか、意識の中で明確にするという……。
答五郎……たしかにそれはあるね。一つの宣言行為がさまざまな方向をもっていて多面的なわけだね。それと、同じ信条文であっても、これがキリスト教の教えのテキストに使われる場合もあるよ。いろいろな役立ち方があるということだ。一つの文もそれが使われる文脈で役割が変化するわけだね。
瑠太郎……今は、ミサという文脈での意味を考えているわけですね。
答五郎……しかも、「ことばの典礼」という文脈の中で、だよね。すると、さらにもう一つ意味が見えてくるんだ。聖書朗読のところで考えたことを思い出してごらん。
聖子……聖書朗読は全体として「神のことば」が告げられ、それを聞き、受けとめることだったわね。
瑠太郎……そうか、すると、その「神のことば」に信者一同が信仰宣言でもって応答するのですね。
答五郎……そうだね。「ことばの典礼」の展開として、神のことばを聞いてそれに応える部分にあたる。
聖子……そういえば、見学したミサで、司祭が「神のみことばに応えて、わたしたちの信仰を宣言しましょう」って呼びかけてくれる場合もあったわ。
答五郎……ミサの流れの中で自然に感じられるだろう。そのように「神のことば」に応えて、キリスト教の信仰を宣言するというのが、特に主日のミサの不可欠な要素となっているわけだ。
瑠太郎……教会は日曜日ごとにそうしているのですね。信仰宣言の集いでもあるということですね。
答五郎……いいことを言ってくれるね。神に向けても、人々に向けても、といわなくてはならないがね。ところでね、ここで言っている信仰宣言は、具体的には信条の唱和だけれど、「信仰宣言」ということを広い意味でとるなら、信条の唱和だけが、ミサの信仰宣言ではないのだよ。
聖子……信条だけが信仰宣言ではない!? ええっ、なんてどんでん返しなの。
答五郎……難しいことではないよ。ミサ全体が信仰宣言なのだということさ。次回、そのことを考えてみよう。
(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)