齋藤克弘
前二回は音楽の話、聖歌の話というよりも、政治の話、ヨーロッパ史の勉強のようになってしまいましたが、簡単にでも知っておいていただかないとグレゴリオ聖歌誕生の歴史に触れることができないからです。現代の日本や欧米諸国と違って、近代までのヨーロッパでも政治と宗教はある時には密接に強調しあい、またある時には敵対しあうという状況で歴史が進んできました。そもそも、政治を専門にする人々も宗教関連の人たちも、農耕牧畜により余剰生産が蓄積されるようになって初めて現れた階級です。
それはさておき、本題に戻りましょう。
西ローマ帝国滅亡後、政治的な連絡網が弱体化し、中央集権的な支配が弱くなると、それに依存してきた教会も各地で典礼や聖歌が少しずつ独自の歩みを始めるようになりました。特に東方教会からアイルランドへ伝えられた修道院は、この地で独自の発展を遂げ、アイルランドの修道院は教会の中核をなし、神学や芸術が発展しました。このアイルランドから、アルプス以北のヨーロッパに修道院制度がもたらされます。おそらく、それに伴って聖歌も伝えられたでしょう。
ところで、楽譜の発展のところでも書きましたが、この時代はまだ楽譜が発明されておらず、歌詞はともかくも、旋律は修道者が暗記して口伝えで伝えるしかありませんでした。ですから、同じ歌詞の聖歌でも、それぞれの地域の人々の音感によって、歌い方が変わっていったことは十分に考えられることです。わたくしの祖母もいくつかの歌を口ずさんでいましたが、現代でいう長調の曲をなぜか短調で(正確には短調ではなく旋法音楽だったかもしれませんが)器用に歌っていたことを今でも覚えています。本人はそうするつもりではなかったのでしょうが、身についていた曲調で歌うとそうなったのだと思います。
話を戻しますが、ローマからアイルランドへ伝えられ、さらにアルプス以北のガリア(フランク)に伝えられた典礼や聖歌は、伝えられるにしたがって、歌詞が変わったり、旋律もそれぞれの地域の人々の歌いやすいものに変えられていったことは容易に想像できると思います。このようにして、典礼や聖歌は各地域、いわゆる民族や都市ごとに独特のものが発展していったのです。
ところが、この様相を一変させたのが、前回の話で登場したフランク王国の王、特にカール1世でした。カール1世の父のピピン3世も
そうでしたが、彼らはローマとの結びつきを強めると、ガリアの典礼や聖歌もローマ式に改めるようにガリアの司教や修道院に命じます。政治的な影響力では自らが上に立てても、宗教的な権威ではローマ教皇を無視することができず、むしろ、その権威に従うことによってガリアの教会もローマの正統な信仰と典礼を受け継いだ教会とすることを望んだのでしょうか。
そのために、ローマにあったスコラ・カントールムに聖職者を派遣したり、あるいは逆にスコラ・カントールムの聖職者を招聘して、ガリアの典礼と聖歌をローマ式に改めていきます。こうして、ガリア典礼はローマ典礼に統一され、ガリア聖歌もローマ聖歌(学問的には古ローマ聖歌)にとってかわられます。しかしながら、悲しいことに、まだ記譜法(楽譜)が作られる以前だったので、歌い方がローマとガリアでは次第に異なるようになっていきました(歌詞は書き留められていたので変わることはなかったようです)。カール1世がローマ典礼とローマ聖歌をガリアに強制したのが9世紀初頭でしたが、その1世紀あとの10世紀ころにローマからガリアを訪問した聖職者は、同じ聖歌があまりにも異なった曲想で歌われているのを嘆いた書簡が存在します。
そのガリア聖歌も政治的な影響力とともにローマにも逆輸入され、ローマの典礼にもガリアで行われていた華やかな装飾が取り入れられるようになり、聖歌もガリアで歌われていたローマ聖歌の変型判が伝えられ、ローマの聖歌(古ローマ聖歌)にも影響を与えていきます。実はこのようにして、古ローマ聖歌と古ローマ聖歌の変型判のガリア聖歌が融合されて変化したものが実は、現在わたくしたちが知っているグレゴリオ聖歌なのです。ですから、グレゴリオ聖歌はカロリング朝フランク王国の誕生とともに産声を上げたといってもいいもので、カロリング朝フランク王国の成立が現代まで続くヨーロッパの成立であるように、グレゴリオ聖歌もその意味では現代ヨーロッパ音楽の源流という言い方ができるのです。
次回は、グレゴリオ聖歌の発展と衰退の始まりについて見ていきたいと思います。
(典礼音楽研究家)