神さまの絵の具箱 15


末森英機(ミュージシャン)

あなたはそれを、奇妙な病と呼べるのだろうか。ほかのすべてのものがなくても、やっていけると、みているのだろうか。信仰は全能で、口にあふれる祈りの前に、自然の力もそれを支配する兆しも、すべて萎縮して、それら聖句に道を譲ると思うのだろうか。どんなに乾いたあなたのハートも、海の水は満たさないと言うのだろうか。信仰こそ全能だと。どんな大海だろうと高い山脈だろうと、あなたは沈まず転げ落ちることもなく、水の上を雲のすぐ下を歩いてゆけると信じているだろうか。そして、あなたの受ける報いは、あなたの神への愛の深さに比例すると、気づくのだろうか。あらゆる罪のなかに、最たるよこしまな罪も許される絶対に会えるのだろうか。あなたに対して、愛ふかくいらっしゃる神は、帰依、祈り、自己放棄であった。これらすべてにかかわらず、光に手なずけられようと、あなたは狂人のように闇を探りつづける。無知はあなたを神から遠ざける。だが、あなたはもう知っている。本当のあなたが、肉の体ではなく、霊の普遍の賜物であることを。あなたがその生涯に一度、神を求めるという狂気にさらされ、とらえられたなら。そのときにこそ、なにもかもがはっきりとする。なにもかもがやってくる。強烈な真理への愛、甘美な神への愛。与えたいだけ、ひとに隣り人に、赤の他人に、見知らぬ邂逅(であ)ったばかりのひとに与えるがいい。あなたは、言われたとおりのことをすればいい。地獄の光景をまとうようなことになろうとも。
別の、そう異世界から現われたあなたの手は、神のみ名の甘い甘い甘露水のなかの癒やしの手となる。ひとは寄らば触れればこう言うだろう。「この神に酔いしれた者は、いったい何者だろう」と。神狂うとは、歓びに満ちて、幼(いたいけ)な子どものようで、実に賢く、おどろきあやしむほど甘美で、なんと神々しいのか。神狂いとは、すべての善きものの与えてのこと。
「わたしたちが気が狂っているのは、そんな神のためであり、神の愛がわたしたちに強く迫っているから」(コリントⅡ5:13〜14)


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