カトリック教会のミサの祈りに次のようなものがあります。
「神よ、あなたはまことに聖なる方、すべての聖性の泉。
どうか、あなたの霊の滴で、この供えものを聖なるものとしてください。
わたしたちのために、主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」
カトリック信者の人は、「あれっ。どこかで聞いたことがある!」と思うかもしれません。実は、これ、ミサの「感謝の典礼」のところで、もっともよく使われている「第二奉献文」の冒頭の一節で、そのラテン語原文を直訳調にしたものです。
いまの日本の教会の『ミサ典礼書』では、次のように唱えられています。
「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ。
いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。
わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」
信者さんは「ああ、これこれ」と得心することでしょう。でも、それですぐに通り過ぎないでください。それよりもっと大切なことがこの祈りにはあるのです。
たぶんラテン語原文は言うはずです。「ここには大切なイメージがこめられているんです! 冒頭の直訳文をご覧ください。『泉』(fons:源泉とも訳せる)とか『滴』(ros : 露とも訳せる)とか、水にまつわるイメージが含まれているでしょう。それが、日本語の典礼文では略されてしまっているので、それでは味もへったくれもなくなっているともいうものです!」と。
少し補いながら砕いてみると、こうなります。
「父である神は、すべて聖なるものの聖なるあり方がこんこんと湧き出る泉です。であるならば、どうかそこから、あなたの霊の露を、ここに供えたパンとぶどう酒の上に滴らせてください。それによって、わたしたちにとって、まことのいのちとなる主イエス・キリストの御からだと御血、すなわち聖体となりますように。」
父と子と聖霊の三位が水のイメージでつながっているのは一目瞭然でしょう。聖霊とは、たしかに「風」や「息吹」を意味するプネウマから来ていますが、ここでは「露・滴」です。聖書に親しんでいる方なら、思い起こしてください。
「天よ、露を滴らせよ。雲よ、正義を降らせよ。地が開いて、救いが実を結ぶように。恵みの御業がともに芽生えるように。わたしは主、それを創造する。」
イザヤ書45章8節(新共同訳)で、待降節の入祭の歌として知られるラテン語聖歌「ロラーテ・チェリ」、『典礼聖歌』では「天よ、露をしたたらせ」の詞となっているところです。救いの到来を約束し、その実現を天から滴る露、雲から来る正義の雨と表現しているのです。
滔々と流れる大河の水などとは違って、露の一滴も雨も、長い時をかけた準備の結実として、にじみ出てくるもの。このイメージを溶かし込んだ第2奉献文の祈りには、神と人のかかわりの長い経緯の末、そこでの苦難と忍耐、一途な待望のあとに、ようやく神のはからいの実りとしてイエス・キリストにおいて救いが実現したという感動が込められています。いまは恵み・祝福・喜びの時。そのしるしとして聖体が与えられる……こんな感慨がこもった実に濃い祈りなのです。それでこその、三位一体なる神への賛美と感謝です。
(石井祥裕/典礼神学者)
聖霊のイメージが
伝わってきます。
感謝。