末森英機(ミュージシャン)
「主は与え、主は奪う」(ヨブ1:21)
おじき草の葉のように、捨て犬の子はおずおずと身をすぼめた。みなし児は、地球に落ちてきた木の葉になった。床の上に散らばった、ケーキの砂糖衣のような痩せた裸足の子どもたちだ。ゴミの山に捨てられた子どもは、ひとりぽっちで、星座の空へ、壊れた物置の梯子を登ってゆく。こぼれる涙をだれが革袋に集めよう。汚れた頬を流れる涙はみなし児だった。つまずく頬のうえで、それは神の道のうえのしこりでもある。焚きつけの木切れをひとかかえするかのように、仔犬は抱きかかえられるのに。ひとつのものを愛することができなければ、次のものを愛せるようになれない誰もが、もう、死をいとわないのならば、いつでも愛することができるということを、忘れてしまっている。水で洗礼を授けられた誰もが。聖霊によって洗礼を授けられたあのひとのことを見失って2000年が過ぎた。赤ん坊が産湯につかるようなものだ。けれど、あのひとは、すべての死の責め苦を、過ぎ越された。この星はみだらな狂気をたぎらせまわっている今。与えられている最後の希(のぞ)み。洗礼を授けられたときに、はるか近くに、かたどりとして見えた鳩(ハト)。なぜ、鷲(ワシ)や鷹(タカ)や鴉(カラス)ではなくて、ハトなのかしら? ハトの羅針盤。神が激しく奪う海図のない航海に漕ぎ出すときに、この目に見えるハトこそ、与えられる恵み。ハトの羅針盤。それが身に染みるときがくる。「主がいなければ、この世で生きてゆけなかった」と。