齋藤克弘(典礼音楽研究家)
キリスト教の音楽の中で題名として有名なものというと「ミサ曲」ともう一つ「アヴェ・マリア」があげられると思います。その「アヴェ・マリア」で一番知られているのは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第一巻第一番のプレリュード(前奏曲)にグノーが旋律を付けた「アヴェ・マリア」でしょうか。皆さんもきっと一度はお聞きになったことがあるでしょう。ただし、この曲はバッハの自筆譜によるものではなくシュヴェンケンというドイツの作曲家が手を加えたものに旋律をつけたものです。
「アヴェ・マリア」の冒頭の歌詞は大天使ガブリエルがマリアに聖霊によって神の子が宿ったことを伝えた際のあいさつのことばによるものです。この場面も「受胎告知」という絵画で有名ですね。15世紀の画家、フラ・アンジェリコやレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は皆さんもご存じのことと思います。この時代の画家たちの作品は当時のヨーロッパ世界を基準にして描かれているので、背景も衣服もマリアが実際に生活していた時代のものとはかなり異なっています。
ところで、この「受胎告知」ですが、マリアにとって、また、いいなずけのヨセフにとっても大変重大な決断を迫られた出来事だったのです。当時のイスラエルは聖書(旧約聖書)の律法が守られていました。マリアがガブリエルから受胎告知されたとき、マリアとヨセフはまだ結婚しておらず、今で言う婚約が成立した状況でした。この状況でマリアに子供ができたということは、通常の常識では、①ヨセフとマリアが婚前交渉して子供ができた。②マリアがヨセフ以外の男性と関係をもって子供ができた。の二つしかありません。しかし、当時、彼らが居住していたガリラヤの人々は道徳的に高潔でしたし、ヨセフも夢で天使からお告げを受けていますからどちらもあり得ないわけですが、もし、夢でのお告げがなければ、身に覚えのないヨセフにしてみれば、マリアがほかの男性との性交渉で子供ができたと考えざるを得ません。
そうなると、当時のユダヤ社会の法律である律法によると、婚約している女性が婚約者ではない男性との性交渉をした場合、石殺しの刑にされました。石殺しの刑は被告人を約5メートルくらいの崖の上から突き落として、その上から二人の人がようやく持てるくらいの大きな石を被告の上に落とすという、今の時代で考えると、とてつもなく残酷な処刑方法です(死刑という刑自体が残酷でないというとうそになりますが)。ですから、夢でお告げを受けたヨセフがこの夢を信じることなく、ユダヤ社会の裁判を起こした場合、マリアは石殺しにされた可能性がありますし、マリアもガブリエルから受胎告知されたとき、おそらく、真っ先にそのことが頭によぎったのではないかと思います。
つまり、マリアが聖霊によって子供を身籠ったことを受け入れたことは、ヨセフが信じてくれるだろうか、もし、ヨセフが信じてくれなければ石殺しにされるかもしれない、という不安を抱えながらの受胎告知の受け入れだったわけです。また、ヨセフも当時の社会の規則通りの行動をとっていれば、マリアを石殺しにしてしまうという葛藤の中で、天使のお告げを受け入れたわけで、ヨセフもマリアのことを心底大切にしていた、今風の言い方をすれば、心の底から愛していたということができるのではないかと思います。
グノーの「アヴェ・マリア」をはじめ、この曲は甘美で優雅なものがほとんどですが、お告げを受けたマリアとヨセフにとって、このお告げを受け入れることは、ある意味、自分の命を賭けて、一人の男の子を養い育てることの第一歩だったのです。「アヴェ・マリア」を聞くとき、そんな、大きな人生の選択を受け入れた、この夫婦の思いに心を馳せてみていただきたいと思う次第です。