切支丹の声


服部 剛(詩人)

「日本人とキリスト教」―― この両者は互いに溶け合わないようで、実は、遠い過去から密かな糸で結ばれているのではないか、と私は思う。もし、今までの日本にキリスト教が存在していなかったとしても、この国は変わらずに存在してきたかもしれない、とも思う。そう仮定するほど、「日本人の心に届くキリスト教」は、未だに実現していない。作家・遠藤周作はそのテーマを生涯追い求め、道標(みちしるべ)となる作品を世に遺していった。

日本は島国であるゆえに、昔から異国の文化を〈受け入れる〉という性質をもっている。その〈受け入れる〉という性質は、母性に通じている。女性が子を生むように、日本は異文化を自らの内に受け入れ、より良いものとして生み出してきた。例えば、自動車も日本にきて、より性能の良いものとしてリニューアルされた。仏教についても、禅寺の庭を眺めるひと時に感じるのは、遠い国から渡ってきた仏教の根本的な宗教性を受け入れ、生かしながら、日本人にとって血の通うものへと変容されていった。だが、キリスト教については、日本人の文化や精神になじんだ変容が成されていないように、私は感じる。

遠藤周作文学館(長崎市)、書斎の再現

〈異国のものを受け入れ、日本らしく生み出す〉という性質をキリスト教で考えるならば、遠藤はパイオニアであり、その象徴の一つは、迫害時代に隠れながらも切支丹が拝んだ「マリア観音」であろう。遠藤は短篇『母なるもの』の中で、父と別れた母が縋(すが)った信仰についての葛藤を、自らの思春期を投影しつつ描いている。母の信仰に背を向けるように、悪友と遊ぶ自分の心の中には絶えず、後ろめたさがあったという。

やがて大人になった遠藤は、すでに世を去っていた母の信仰のルーツでもある長崎へ旅に出る。そして、切支丹の里を巡り、その子孫の家を訪れ、神棚の垂れ幕がゆっくりめくられると、キリストを抱く聖母の絵が現れた。それは聖母であると同時に、野良着姿で胸がはだけ、乳飲み子を抱く農婦の姿であった。

「私はその不器用な手で描かれた母親の顔からしばし、眼を離すことができなかった。彼等はこの母の絵にむかって、節くれだった手を合わせて、許しのオラショを祈ったのだ。彼等もまた、この私と同じ思いだったのかという感慨が胸にこみあげてきた。 ~中略~ 私はその時、自分の母のことを考え、母はまた私のそばに灰色の翳(かげ)のように立っていた。*1」

同記念館のテラス

かつて、迫害の恐怖の中で踏み絵に足をかけながらも、心の中では許しを乞い、信仰を棄てきれなかった隠れ切支丹の後ろめたさと、自分が信仰に生きる母に抱いてきた後ろめたさは通じるという、時を越えた「切支丹の声」を、遠藤は長崎の旅で聴いたのだった。

そして、遠藤文学の中の登場人物のような誰かが、どんなに失敗しても、回り道をしても、汚れた足で再び立ち上がれるように、「母なるもの」の密かなまなざしは今日も、夕焼け空の雲間から、悲嘆の人の心にそっと光を射すであろう。

(文中、敬称略。*1は『母なるもの』遠藤周作(新潮社文庫)より引用しました。)

 


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

2 × 3 =