ミサ曲4 あわれみの賛歌 Ⅲ

齋藤克弘

 グレゴリオ聖歌のシリーズでも触れましたが、教会改革のまさに先陣をきったのがアウグスチノ会の修道司祭だったマルティン・ルターでした。結果的にはローマ教皇庁とのボタンの掛け違いから、宗教改革という西方教会における大きな教会分裂に至ってしまいましたが、その反動としてローマ教皇庁もトリエント公会議において教会改革にも乗り出します。その中の一つが教会音楽の改革でもあり、これまで作られた教会音楽を教会改革の視点から見直して、大幅に整理してタガを締めました。その一つは世俗の歌詞が入り込んでいるようなものを禁止すること。もう一つは「ミサ曲」の中で数多く作られた「トロープス」を廃止することでした。

他の「ミサ曲」ではそれほど顕著でなかった、この「トロープス」。「あわれみの賛歌」ではかなりのものが「トロープス」で歌われていたことから、「トロープス」の挿入句を省き、歌詞の部分は「キリエ」と「クリステ」の「エ」を伸ばして歌うことにしました。ちなみに、現在のグレゴリオ聖歌の楽譜集である「グラドゥアーレ・ロマームヌ(Graduale Romanum)」の「ミサ曲」にはタイトル、たとえば、よく知られている「ミサ曲Ⅷ」には De Angelis というタイトルがついていますが、これは最初の「キリエ」の後に歌われていた「トロープス」の冒頭の二つのことばからとられているようです。

このようにしてグレゴリオ聖歌をはじめ「ミサ曲」は簡素になりましたが、実際にはグレゴリオ聖歌でミサが行われることはほとんどありませんでした。先にも書いたように、各国各地域の大きな教会や貴族の宮廷礼拝堂にはお抱えの作曲家がいて、そこでのミサのために様々なミサ曲が作曲されていったからです。皆さんも名前をご存知のことと思いますが、聖ペトロ(サンピエトロ)大聖堂の楽長だっ

サン・ピエトロ大聖堂

たパレストリーナ(ジョバンニ・ピエルルイージ)を始めとして、ルネッサンス時代にも続くバロック時代にも多くの作曲家によって「ミサ曲」が作られていくようになります。
ところで、ルネッサンス時代前半までは教会音楽は司教座聖堂付きの教役者や修道院の修道士たちがその担い手でしたが、次第に一般の民衆が演奏に携わるようになります。それにはいくつかの要因があります。まず第一に楽譜が印刷されるようになったことがあります。グーテンベルクが活版印刷の技術を発明するまでは、楽譜はすべて人の手書きによる「写本(マニュスクリプト)」でしか作ることができず、時間も費用もかかっていたことは「グレゴリオ聖歌」のシリーズでも触れましたが、活版印刷の発明によって楽譜も短時間に大量に印刷することができ、費用も安くなったことから、多くの人が手にすることができるようになりました。

もう一つの理由は教会音楽の演奏にも多様な楽器が導入されるようになったことです。皆さんもご存じのように教会の楽器で、すぐに思い浮かべるのはオルガンだと思いますが、封建領主を兼ねた司教や修道院、あるいは貴族の宮廷礼拝堂では、次第に管楽器や弦楽器が教会音楽にも用いられるようになっていきました。特に貴族の宮廷礼拝堂付きの作曲家や演奏家は礼拝のためだけではなく、宮廷で催される舞踏会などの演奏や作曲にも携わっていたのです。また、ルネッサンス後期からバロック時代にかけては、楽器の性能もよくなり、大きな聖堂やホールでも十分に響くような楽器が作られるようになり、管楽器や弦楽器は、単なる伴奏楽器ではなく、人の歌う歌と肩を並べるほど重要な表現をするようになりました。いわゆるオーケストラの走りですが、多くの楽器の演奏には教役者(聖職者)や修道士だけでは足りず、特に、貴族の宮廷においては一般の民衆の中から楽器の演奏に長けた人たちが宮廷の演奏者として召し抱えられるようになりました。いわゆる職業演奏家の時代に入ったのです。

歴史の話が長くなりましたが、実はこのような時代と礼拝や音楽の背景を知っておくことがルネッサンス後期以降の時代の「ミサ曲」の理解に欠かせないのです。

対抗宗教改革では典礼、ミサや聖務日課などに関して、司祭や修道者たちがトリエント公会議で決められた規定通りに行ったかどうかが最大の焦点になりました。言い換えれば典礼においてもあるいは教理に関しても教会の定めたとおりに正しく行ったか、従っているかどうかが重要な関心事になったのです。が、残念なことに、そればかりが強調されたことから、司祭や修道者たちが正しく典礼を執行すれば、会衆や聖歌隊は何をしても(というと言いすぎかもしれませんが)よいという風潮が次第に広まっていきました。せっかく整理されたミサ曲なども、作曲家が自らの表現をするための作品となり、テキストの大幅な繰り返しや楽器の演奏が長く続くようになっていきました。「あわれみの賛歌」も本来は Kyrie eleison 、Christe eleison、Kyrie eleison をそれぞれ3回繰り返すだけだったものが合唱や独唱者が何度も繰り返して歌い、必要以上の長さになっていきました。これは他のミサ曲でも同様でしたが固有のところに関してはそれぞれのところで触れていきます。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲3 あわれみの賛歌 Ⅱ

齋藤克弘

 グレゴリオ聖歌の時代からトロープスのできた「あわれみの賛歌」は、聖歌と同様に次第に複数の旋律で歌われるようになります。複数の旋律で歌われるようになると、これもグレゴリオ聖歌の時に書きましたが、定旋律と呼ばれるグレゴリオ聖歌の旋律の部分以外では、次第に元のトロープスとは異なった歌詞が歌われるようになりました。さらに時代が下ると、修道士・教役者が旋律すべてを自分で作曲するようになります。今で言う作曲家の始まりです。グレゴリオ聖歌の旋律にほかの旋律を付けるのは今でいう「編曲」に当たるでしょうか。

このように、自分で旋律を作る作曲家たちは、さまざまな試みを行うようになり、世俗曲の旋律の一部をモチーフ(主題)にして「ミサ曲」を作曲するようになります。このような手法で作曲されたものを「パロディーミサ」と呼んでいます。音楽史では「アルス・ノヴァ」と呼ばれる時代で、およそ14世紀。代表的な作曲家としてギョーム・ド・マショーがあげられます。また、アルス・ノヴァとその前のアルス・アンティカの時代以来多くの作曲家(といっても教会音楽の作曲家)は教役者としてだけではなく、王侯貴族のお抱えの作曲家としても働いていました。ですから、彼らは教会音楽だけではなく、宮廷で舞踏会の時に演奏される舞曲などの作曲も手がけました。このようなわけで、世俗音楽にも精通していたことから先に挙げた「パロディーミサ」が作曲されるようになったと考えられるでしょう。

この後、時代はルネッサンスに移り、音楽の様式も年代と地域によって変わっていきますが「ミサ曲」に対する基本的な考え方は変わりませんでした。ウィキペディアなどでこれらの時代の作曲家を調べてみると、数多くの作曲家の名前を見出すことができます。これはどういうことを意味しているでしょうか。グレゴリオ聖歌の時にも触れましたが、紙はまだ高価なものでしたし、グーテンベルクによって印刷術が発明されたのは1450年、最初の楽譜が印刷されたのは1473年です。この楽譜の印刷も現代のように、一回ですべてを印刷できたわけではなく、五線、歌詞、音符と三段階の工程を必要としました。高価なものですから、印刷したからといって一般庶民の信徒は手に入れることはできなかったでしょう。また、交通機関も現代のように発達していたわけではありません。ヨーロッパの王侯貴族の間で馬車が広まるのは16世紀に入ってからですから、まだ、移動手段は徒歩がほとんどだったでしょう。

このような社会状況を考えると、各地の王侯貴族や修道院、司教座聖堂にはそれぞれの作曲家がいて、その宮廷や聖堂で歌うための「ミサ曲」を始めとする聖歌や舞踏会のための舞曲を作曲していたことは容易に伺えます。もちろん近くの作曲家同士では交流もあったでしょうが、イタリアとオランダとの間とか南フランスとイギリスとの間といった遠い地域間での交流は、楽譜の交換も含めて、まだまだ困難な時代だったと思われます。

話が「あわれみの賛歌」からだいぶ離れてしまいましたが、このような時代状況をきちんと踏まえておくことは「ミサ曲」ばかりではなく、この時代の音楽や教会の状況を理解するうえでも大切なことだと考えられます。「賢者は歴史に学び、愚者は習慣に学ぶ」と言われます。わたしたちが真の意味で、主キリストが降誕されたときに東の国から主を拝みに来た「博士」たちのような「賢者」になるためにも、歴史を振り返り、その時代の状況を精査し、そこから分かることを現代に適応していくことが求められます。それが「歴史に学ぶ」ことなのです。

さて、このように教会の中での聖歌の繁栄は他の芸術の面でも盛んになっていきましたが、その弊害として、教会の制度の面でも芸術の面でも世俗化が進んでいくことになります。教会の中では、しばしば、教会改革が求められてきましたが、なかなか実現する状況にはありませんでした。また、ミサの様態も古代の教会から比べると大きく変化していきます。古代は司教は司祭は祈りのことばを大きな声で歌唱して唱え会衆もそれに応えていましたが、教会が地中海世界だけではなくヨーロッパの特にアルプス以北に広まると、会衆はラテン語を理解できなかったので、ミサの式文も次第に教役者だけが唱えるようになり、一部の式文は「聖なることば」として「沈黙のうちに唱えられる」ようになっていきました。一方でもともと会衆の歌だった「ミサ曲」は会衆全体の代わりに「聖歌隊」だけが歌うものとなったのです。

このように一向に進まない教会改革、また、会衆と遊離した典礼に関して、次第に疑問を持つ空気が教会の中にも現れてきます。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲 2 「あわれみの賛歌 Kyrie」Ⅰ

齋藤克弘

 前回は「ミサ曲」全体の基本的なことについて書いてみました。今回からは「ミサ曲」それぞれの由来などについて書き進めていきたいと思います。

「ミサ曲」の中で最初に歌われるのが「あわれみの賛歌 Kyrie」です。前回も書いたように「あわれみの賛歌」の歌詞 Kyrie eleison Christe eleison はギリシャ語がそのまま歌詞として残りました。ということは「あわれみの賛歌」はどうやらギリシャ語を話す地域の教会が起源ではないかということが容易に推測できますね。事実その通りです。ローマを中心とするローマカトリック教会のことばは昔からラテン語だったと思われているかたがおられるかもしれませんが、実は、ローマに教会ができた頃は、ローマの教会の典礼や聖書の朗読のことばはギリシャ語でした。ちなみに使徒パウロがローマの教会への手紙を書いたのが紀元58年頃と言われていますので、ローマにはかなり早くから教会共同体ができていたようです。以後、しばらくの間ローマの教会はギリシャ語を用いていましたが、3世紀に入るとギリシャ語を理解できない人たちも多く教会共同体の中に加わったことも一因にあるからでしょうか、ローマの教会では典礼や聖書の朗読のことばをギリシャ語のまま残すのか、ラテン語に変えるかで大きな議論があったようです。最終的にはローマの教会はラテン語を使うことになりましたが、それまでもギリシャ語など地中海地方の教会でも残されていた「アーメン」「アレルヤ(ハレルヤ)」「ホザンナ」というヘブライ語の短い言葉はそのままヘブライ語で残されました。

さて、本題に戻りましょう。3世紀には式文もラテン語になったローマの教会ですが、簡単なしかし重要なヘブライ語の単語が残ったのと同様に、ギリシャ語の祈りのことばも残ることになります。5世紀の終わり(492年から496年)にローマ司教(教皇)としてゲラジウス1世が在位していた時に、東方、おそらくギリシャ教会からミサの冒頭に嘆願の祈りが導入されます。最初の嘆願の祈りは助祭(東方教会では輔祭)が唱え、会衆は最後に Kyrie eleison と応唱していたようです。ローマの教会では同じ嘆願の祈りである「信徒の祈り」(現代の共同祈願)が後の部分(説教の後)にあったことから、嘆願の祈りが重複しないように、この嘆願の祈りが省略されて、Kyrie eleison と Christe ekeison の祈りだけが唱えられるようになりました。この祈りは主キリストにあわれみを乞う祈りとして司式する司教が合図をするまで何回も繰り返されていましたが、8世紀の頃には 最初のちKyrie eleison 次のChriste ekeison 最後のKyrie eleison をそれぞれ3回繰り返して終わるようになります。
9世紀になるとこの3回ずつの唱え方を最初のKyrie は父である神への祈り、次は文字通りキリスト(子)への祈り、最後のKyrie は聖霊への祈りというように、三位一体の神への祈りと解釈されるようになり、それが信心書で広まっていきました。しかし、元来、初代教会からKyrie とはナザレのイエスに対して特にパウロが好んで用いた尊称でした。実はこのKyrie という尊称はローマ皇帝にだけ用いることが許されたもので、それをナザレのイエスに対する呼び方としたことは、ローマ皇帝に対する反逆とみなされ、初代教会時代の迫害の原因の一つとなったものだったのです。

さて、同じことばの繰り返しだけの「あわれみの賛歌」でしたが、グレゴリオ聖歌の時にもお話した「トロープス」という様式で作られるようになります。これもグレゴリオ聖歌のところでもお話ししたかもしれませんが、もともと「ミサ曲」は会衆の歌として歌われていましたが、北から南へと移動してきた人々が教会共同体へ加わり、あるいはキリスト教自体がアルプスよりも北へと広まっていくと、まったく異なったことばを話す人々にはラテン語を理解することはできず、「ミサ曲」は次第にラテン語を学ぶことができた修道者や教役者(聖職者)が歌うものとなっていきました。音楽的にも訓練を受けたこれらの人々にとって、同じことばの繰り返しでは満足できなかったことが「トロープス」を生み出す要因の一つになったのでしょう。詩を作ることにも曲を作ることにもつながった「トロープス」によって歌い方はどんどん複雑になっていきました。この頃になると聖歌は皆がこころを一つにして一緒に祈るものではなく、一部のエリートが神様だけに聞かせる歌になってしまったのです。今のわたしたちの常識から考えれば残念なことですが。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲 1

齋藤克弘

 教会の音楽というと一番なじみの深いものは「ミサ曲」ではないかと思います。音楽を専門に勉強されていない皆さんも「ミサ曲」という名前はご存じでしょう。モーツァルトのミサ曲、特に「戴冠ミサ曲」をはじめ、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」、あるいは、バッハの「ロ短調ミサ曲」など、どこかで聞いたことがあるかもしれませんね。モーツァルトでは映画「アマデウス」で有名になった「レクイエム」も正式には「死者のためのミサ曲」と言います。他にも古くは14世紀ごろから現代まで、多くの作曲家が「ミサ曲」を作曲しています。
名前もご存じで聞いたこともある「ミサ曲」。その実態については意外とご存じないことが多いのではないでしょうか。そこで、今回からこの「ミサ曲」について少しうんちくを傾けてみたいと思います。

「ミサ曲」と言っても現代のミサは式次第(式文)すべてを歌うことが原則ですからミサ自体が一つの曲のようになっているわけですが、1962年から開催された「第二バチカン公会議」による典礼の刷新以前、式次第のほとんどの部分は司祭が一人で、場合によっては沈黙で祈っていたので、信徒が唱えたり歌ったりする部分はほんのわずかでした。その中で特に信徒が大きな役割を担えたのが「ミサ曲」だったのです。今は一般的なことばである「信徒」と書きましたが、当時、すなわち典礼の刷新以前は「信徒」と言っても「ミサ曲」を歌ったのは、多くの場合「聖歌隊」だったようです。その理由は、といったことはおいおい書いていくことにして、まず、ちょっと固い言い方ですが「ミサ曲」の定義についておさらいしておきたいと思います。

「ミサ曲」(ラテン語=Missa)は「あわれみの賛歌(Kyrie)」「栄光の賛歌(Gloria)」「信仰宣言(Credo)」(ニケア・コンスタンチノープル信条)「感謝の賛歌(Sanctus 、後半の Benedictus を別曲とする時代もあり)」「平和の賛歌(Agnus Dei)」の五曲を総称する呼び名です。時代によっては派遣のことば Ite Missa est (行きなさい ミサは終わった)を加える場合もありました。最初にも触れた「レクイエム=死者のためのミサ曲」の場合は構成が異なりますが「レクイエム」についてはこのシリーズの中で何回か触れる機会を作って、そこで詳しく書きたいと思います。なお、「ミサ曲」五曲の「信仰宣言」が入っていないものを「Missa blevis(短いミサ曲)」と呼ぶこともあります。また、プロテスタント教会の場合は、式文の中に「感謝の賛歌」と「平和の賛歌」がないことから「あわれみの賛歌」と「栄光の賛歌」の2曲だけを「MIssa blevis」と呼びます。

もう一つ、現在ではほとんど使うことがないことばですが、「ミサ曲」をはじめとする一年を通じて基本的にことばが変わることのないし気分を「通常式文(ordinarium)」、その日の典礼によってことばが変わるものを「固有式文(proprium)」と呼びます。前者には「ミサ曲」のほかに「主の祈り」などがあり、後者は「入祭の歌(入祭唱 introitus)「答唱詩編(昇階唱 graduale)」「アレルヤ唱(alleluia)」などがあります。現在では奉献文もそこに含まれる叙唱も季節や典礼の種類に応じて使い分けをすることなどから、この「通常式文」と「固有式文」という名称は用いられなくなっています。ただ、音楽史などの勉強をする場合には、まだ、この名称が使われる場合がありますので、覚えておくこと便利かもしれませんね。

最後になりますが、今までの記述の仕方を見ていただいてわかると思いますが、「ミサ曲」は基本的に、第二バチカン公会議の典礼の刷新以前は基本的にラテン語の歌詞が用いられていました。「基本的に」と書いたのは最初に歌われる「あわれみの賛歌」Kyrie leison Criste eleison はギリシャ語の借用、感謝の賛歌の中の Hosanna はヘブライ語からの借用です。ほかにミサの式次第の中では「アーメン」と「アレルヤ(元はハレルヤ)」がヘブライ語からの借用なので、ここからも「ミサ曲」は相当古い起源をもつ歌ではないかと想像できると思います。このようなことを基本にして、次回から「ミサ曲」のいろいろな側面を見ていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)

 


グレゴリオ聖歌 8

齋藤克弘

 クリスマスの話題二題で中断しましたが、グレゴリオ聖歌の話題を続けます。音楽史でいうルネッサンスの頃から歌われなくなったグレゴリオ聖歌は、数百年の時を経て現代によみがえりました。フランス革命で廃墟になっていたフランスのソレーム修道院を再興したベネディクト修道会の修道士たちによってこの修道院でグレゴリオ聖歌による典礼が行われるようになりました。グレゴリオ聖歌の研究・復興運動はすでにほかの研究機関などでも行われていましたが、再興されたソレーム修道院では、グレゴリオ聖歌が本来歌われていたのは典礼の場であるから、典礼の祈りとして歌うことで本来の姿を表すことができるという考えに基づいて、グレゴリオ聖歌を自分たちの生活の一部である典礼の場で歌うことで復興したということが大きな特徴といえるでしょう。

ソレーム修道院で復興されたグレゴリオ聖歌は、典礼や聖歌の改革に力を注いでいたピオ10世の助力もあり、教会の最も重要な成果と

ピオ10世

して位置づけられます。そして、20世紀の初めにはグレゴリオ聖歌の規範版(教会の公式の書物)が発行され、ソレーム修道院の歌唱法が教会の標準的なグレゴリオ聖歌の歌い方として全世界の教会に広まりました。ソレーム修道院で確立された歌唱法が広まった理由はいくつかあげられると思いますが、まず、音符の長さが八分音符という、とてもシンプルなものであったことでしょう。その他にこれは音楽的なことではありませんが、グレゴリオ聖歌の誕生期とは違って、印刷した楽譜をだれもが簡単に手にすることができたこと、また、録音技術の発達によって、同じように多くの人が録音されたグレゴリオ聖歌を聞くことができ、楽譜と録音されたものを聞いて歌えるようになったことが考えられます。

その後、四線譜ばかりではなく、最初期の楽譜である「ネウマ譜」の研究が進み、四線譜による八分音符だけの音価(音の長さ)よりも微妙なニュアンスで歌われていたのではないかという推測がされるようになりました。グレゴリオ聖歌を研究する人々の中では、ソレームの歌い方は本来の歌い方ではないということが共通した認識となっています。

では、グレゴリオ聖歌の今後はどうなるのでしょうか。第二バチカン公会議という教会が現代にふさわしいあり方を議論した会議の後、祈りのことばはそれぞれの国や地域の言語で行われるようになり、各地で歌われる聖歌もその地域のことばや音楽で作られて歌われるようになりました。それでもグレゴリオ聖歌は基本的に教会の最も基本的な聖歌であることには変わりありません。

もう一つはグレゴリオ聖歌の歌唱法の問題です。ソレームの歌唱法は誰もが歌いやすいものであったことから教会に広まりました。しかし、この歌唱法はあくまでも19世紀の終わりのフランスの一修道院で考案されたものであり、歴史的にさかのぼることができるものではありません。ですから、グレゴリオ聖歌の本来の歌い方とは異なることもまた事実です。とはいえ、研究者の提案する歌い方も、多くの人が簡単に歌えるような歌い方ではありませんし、四線譜でしか書かれなくなった時代のグレゴリオ聖歌は、ネウマ譜の歌い方では歌うことができず、祈りの整合性(典礼という一つの祈りの流れ)を考えると、異なる歌い方で祈りを統一するということはできません。加えて、ネウマ譜を研究していったとしても、録音が残っていない以上、ネウマ譜の確立期の歌い方とまったく同じ歌い方を再現することができるという保証もありません。

こういうふうに書くと、否定的なように思われるかもしれませんが、やはり一番大切にしなければならないのは、グレゴリオ聖歌の復興に力を入れた教皇ピオ10世が願ったように、祈りに集まった人がこころを一つにして歌える歌い方が大切なのだと思います。人類(ホモ・サピエンス)の本来の食が肉食だったからと言って、現代の人類が昆虫や野生動物の肉を生で食べることができないように、グレゴリオ聖歌の誕生期の歌い方が現代の教会の祈りとしての歌い方としてふさわしいかどうかも考えてみることも必要でしょう。

教会がグレゴリオ聖歌を祈りの歌として最もふさわしいものであると考えているのは、そこで歌われる祈りのことばを最も美しく表現する品位ある音楽であることが一番の理由ではないかと思います。その反面、グレゴリオ聖歌で使われていることばはほとんどがラテン語であり、だれもが生活のことばとしては使っていない言語です。それはどの民族にも国家にも帰属しない客観的な言語であると同時に、だれもが話さない生活とはかけ離れた言語とも言うことができます。この点も長所と短所が併存しますが教会が祈りの歌として勧める一つの理由と考えることができるでしょう。

グレゴリオ聖歌についてのお話、少し尻切れトンボのようですが、今後のことは研究者の努力と教会の実践に委ねることにしましょう。次回からは、皆さんも名前はよくご存じの「ミサ曲」についての話をしていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


クリスマスと風土

齋藤克弘(典礼音楽研究家)

わたくしの担当しているコーナーは一応「音楽の神髄」というタイトルなのですが、今回は少し音楽を離れてクリスマスの文化と風土について語ってみたいと思います。

クリスマス前、日本では大体12月に入るとあちこちで、クリスマスソングがBGMとして流れることは前回も書きました。その他にも、クリスマスツリーが飾られ、イルミネーション(昔は電飾と言いました)が街を明るく灯します。教会の中では、主イエス・キリストが生まれた場面を模したプレセピオ(馬小屋)が飾られ、常緑樹と紅いヒイラギなどの実が装飾されたリース=クランツが置かれ、その輪の中には4本のろうそくが立てられ、日曜日ごとに1本ずつ灯されるろうそくが増えていきます。このようなクリスマス独自の装飾は、なんの疑問もなく行われていますが、ちょっと視点を変えてみると、実は、なんでこういうものが飾られるんだろうと思うことがあるのです。皆さんはそういう疑問を持ったことはないでしょうか。

前回も少し触れましたが、降誕祭にその誕生を祝われるイエス・キリストは、ユダヤのベトレヘムで生まれました。現在のイスラエルですね。イエス・キリストの誕生を記しているのは、イエスの生涯を書き記した4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書の2つで、ほかの2つ、マルコとヨハネの福音書にはその記述はありません。しかも、マタイとルカでは、書かれていることが全く異なっています。これは、キリスト降誕の出来事が作り話ということではありません。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『東方三博士の礼拝』(トレド美術館、1655年頃)

「グレゴリオ聖歌」でもお話ししましたが、この時代には現代のように、スマートフォンやビデオカメラがなかったのはもちろんのこと、その場でメモを取れるようなペンや紙すらありませんでした。福音書が書かれたのはキリストが昇天してからさらに数十年後のこと。それぞれの福音書を書いたマタイとルカが話を伝えようとした人々も異なっていて、いわば、自分が伝えたい興味も違っていたことから、自分が伝える必要がないことは書かなかったわけです。現代のように事実だけを伝えるノンフィクションというジャンルで書かれているのではないのです。

さて、わたくしたちがキリスト降誕の場面としてよく知っているのは、マリアとヨゼフは宿屋がいっぱいで泊まるところがなかったので、馬小屋で休んでいるときにマリアが産気づいて、イエスが生まれた、そしてそこに、天使からその誕生を伝えられた羊飼いたちと東方から3人の博士たちがキリストを拝みに来た、というものですが、ここで当時の時代背景や風土を考えてみると、いくつか不思議なことが思い当たります。

まず 「馬小屋」ですが、当時の地中海の周辺世界では、馬は農耕には使われず、むしろ戦車をけん引する動物として使われていました。ですから、宿屋に馬小屋が併設されていることは考えられません。農耕に使われた動物は牛、ほかにもロバが荷物運びに使われていましたので、これらの動物を泊めるところでマリアはイエスを産んだということになります。

次に、現在、クリスマスは寒さも募る12月に祝われていますが、ルカ福音書では「野宿していた羊飼いたちに」天使がイエスの誕生を伝えたと記されています。しかし、現在のイスラエルでも夜はかなり冷え込み、12月のというこの時期に野宿するのは生命の危険を顧みない無謀な行為と言っても過言ではありません。事実、2~3世紀にかけてアレキサンドリアで活躍した神学者のクレメンスはキリスト降誕を5月20日と推測しています。

キリスト降誕の日が12月25日に祝われるようになったのは、前回も書いたように325年のニカイア公会議頃の後、ローマにおいてですが、 その背景にあるのは、2世紀の殉教者でもある神学者のユスティノスが、ローマ人の太陽崇拝に対して「キリストこそ正義の太陽である」と著作で述べたことから、ローマ人が多く崇拝していたミトラス教の「不敗の太陽神」を祝う冬至祭がキリスト教化されたものとされています。

もう一つ、東方からキリストを拝みに来た博士たちは「3人」と言われていますが、マタイの福音書には博士の人数は書かれてはいません。ギリシャ語では「マゴイ」 と複数で書かれているので、一人ではないことは間違いありませんが、人数については全く触れられていません。では、なぜ3人になったのかと考えると、博士たちが持ってきた贈り物が「黄金」「乳香」「没薬」の三種類だったことから一人が一種類ずつ持ってきたと解釈されて、3人と考えられるようになったようです。ちなみに、のちに、この博士たちには、名前まで付けられています(もちろん、聖書には名前すら書かれていません)。

さて、クリスマスの飾りというと最初にも挙げたクリスマスツリーやクリスマスリース(クランツ)あるいはイルミネーションですね。

クリスマスツリーの起源には諸説ありますが、ツリーに使われる「もみの木」や「ドイツトウヒ」といった木はどれもキリストが生活したイスラエルには自生していません。リース(クランツ)の材料のヒイラギも然りです。イルミネーションに至っては電気がふんだんに使えるようになったこの数十年のものですね。これらもキリストが生きていた時代のイスラエルとは何の関連もないことがわかりますね。

もう一つ、クリスマスというと欠かせないのがサンタクロース。サンタクロースは北ヨーロッパの北極圏あるいはそこに近いところに住んでいて、赤と白の衣装をまとい、トナカイの牽く(ひく)そりに乗って子供たちにプレゼントを届けます。この、サンタクロースのモデル、実在する教会の司教さんです。現在のトルコの小さな村、ミュラの司教のニコラウス。言い伝えでは、隣に住んでいた貧しい家族の娘たちが身売りされそうになったので、とある夜、その家に金貨をそっと投げ入れて、娘たちが安心して暮らせるようにしたことから、子供たちにプレゼントをもってきてくれる好々爺(こうこうや)とされたようです。ちなみに、投げ入れられた金貨は暖炉に下げられていた靴下に入ったことから、靴下を準備する習慣が生まれたようです。

でも、トルコと北極圏ではかなり遠く離れていますよね。中世にヨーロッパで聖人の崇敬が盛んになると、聖ニコラウスの遺骨がイタリアのバーリという町に移されたとされました。ニコラウスのお祝いは12月6日。ヨーロッパではこの日にはミトラ(司教冠)を被り、バクルス(司教杖)を持った聖ニコラウスが地元に住む悪魔を従えて村を練り歩くお祭りが開催されます。聖ニコラウスとサンタクロース、発音があまりに違っているように思えますが、聖ニコラウスのオランダ語読みが「シンタクラウス」。それがアメリカ合衆国の英語読みとしてなまったのが「サンタクロース」なのです。もともと司教だった聖ニコラウスがサンタクロースになってから、北極圏に近いところに住み、赤と白の衣装をまとって、トナカイの牽くそりに乗るようになったのは、アメリカの神学者クレメント・クラーク・ムーア(生没年 1799~1863)の一連の著書が原型になっています。

さて、このように見てくると、わたくしたちになじみのあるクリスマスの文化というのは、本来の主人公である、イエス・キリストやイエスが暮らした時代、あるいは暮らした土地とはほとんど関係ないものが多いことがわかります。

ヨーロッパの北部、特にアルプスより北の地方はゲルマン古来の宗教の習慣が長く行われていたようです。キリスト教を広めた人たちはそれらをただ否定するのではなく、それらの文化をキリスト教に取り入れて人々にキリストの教えのすばらしさを伝えようとしたのです(神学用語ではインカルチュレーション=Inculturationと言います)。

現代の日本では、これらは多くが商業目的に使われているのは残念な気がしますが、だからといって、また、これらの文化がもともとイエスとは関連がないからと、否定するのではなく、これらを用いてキリストの教えのすばらしさ、神の国の豊かさを伝える、端緒(初めの一歩)にできればいいと思いませんか。

 


降誕祭の歌

齋藤克弘

「グレゴリオ聖歌」シリーズが完結していませんが、今回は時節柄「降誕祭の歌」について書くことにしました。12月に入ってから、スーパーやコンビニ、あるいは商店街などでは「クリスマスソング」がBGMで流れるようになりましたね。

洗礼を受けて間もない頃、学生時代に教会の友人から聞いた話ですが、「テレビの街頭インタビューでインタビュアーが呼び込みのお兄さんに『クリスマスに教会にはいかないんですか』と尋ねたら、お兄さんは「え、教会でもクリスマスやるの』」と言っていた、という、笑うに笑えない話がありました。もう40年近い前の話ですが。日本では「クリスマス」というと、予約したケーキやオードブルを買って帰り、みんなで一緒に食べる日という印象が強いですね。

先にも触れましたがBGMで流れているいわゆる「クリスマスソング」も、たまには『讃美歌』(主に1954年版)にあるものもありますが、具体的な曲名はここでは挙げませんが、どちらかというと、クリスマスにちなんだ、ポピュラーソングやフォークソングが主流だと思います。

教会で歌われている聖歌や讃美歌で一番なじみ深い曲は「きよしこの夜(讃美歌)・しずけき(カトリック聖歌集)」でしょう。この曲は1818年に現在のオーストリアのオールベンドルフという村の小教区の助祭だったヨゼフ・モールが作詞した詩に、同じ村の音楽の先生だったフランツ・グルーバーが曲をつけて歌われたのが最初です。元の歌詞は6番まであり、最初はギターの伴奏だったそうです。巷説では、教会のオルガンが壊れたのでモール助祭が急遽、作詞してグルーバー先生がやはり速攻で作曲して、オルガンの代わりにギター伴奏で歌われたと語られていますが、現在の研究によると、そのような事実はなかったようです。この聖歌、最初はこの小さな村の小教区で歌われておしまいになりそうでしたが、さまざまな経緯からドイツ語圏に広まり、さらにヨーロッパ各地の言語に訳されて各国のことばで歌われるようになりました。

この他にも、クリスマスにちなんだ聖歌や讃美歌は数多くありますが、現在、よく歌われているものはほとんどの曲が18世紀あるいは19世紀に作曲されたものです。しかし、よく考えてみると、クリスマスはその頃ようやく祝われるようになったわけではありません。神のひとり子がおとめマリアを通してナザレのイエスとしてこの世に来られた時がその起源です。教会では最初のうちは「クリスマス」という行事は重要視されていなかったようで、現在のように12月25日という日付も定まっていませんでした。詳細を書くと長くなるので簡単にしか触れませんが、この日がキリストの誕生の祝日となったのは325年のニケア公会議の頃以降のこととされています。カトリック教会の場合は「主の降誕」が正式な名称となっています。

さて、話がだいぶ脇道にそれましたが、ナザレのイエスが生まれたその夜に歌われた重要な歌があります。それは聖書にも書かれているもので、現在もその歌詞を歌いだしとして教会では一部の主日(日曜日)を除いたお祝いの日(主日・祝祭日)には必ず歌われているもので「栄光の賛歌=Gloria呼ばれています。イエスが生まれた時に羊飼いたちにその誕生を告げた天使と天の大群が歌った歌で、現在の教会の日本語の歌詞では「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」というものです。

そして、教会が伝統的に大切にしてきた歌、それは「主の降誕」や「主の復活」を記念するすべてのミサで歌ってきた大事な歌が「詩編」です。詩編はユダヤ教の時代に編纂されてキリスト教にも受け継がれた150編からなる歌です。ユダヤ教の時代の歌ですから、直接にイエス・キリストの名前が出てきませんし、ユダヤ教時代の神の民のさまざまな出来事が土台になっているものです。しかし、キリスト教会はこの詩編を単なる歴史の出来事に基づく歌ではなく、旧約時代の人々が、自分たちのうちに来られるであろう「キリストに関する預言」、ユダヤ教徒として生活していたナザレのイエスやイエスの弟子たちが会堂や神殿で歌った祈り、キリストが復活してから弟子たちがキリストの復活について証した聖書の歌、という理解のもとに絶えることなく歌い続けているものです。連載でお伝えしている「グレゴリオ聖歌」でも一番重要な歌詞とされているのが、この詩編ですし、「主の降誕」をはじめ、すべてのミサで、グレゴリオ聖歌では詩編が歌われなかったことは一度もありません。巷には様々な「クリスマスソング」が流れていますが、詩編こそイエス・キリストにまでさかのぼる、伝統的な教会の聖歌なのです。

「主の降誕」のミサでは、夜半のミサで詩編96が、日中のミサでは詩編98が先唱者を通して朗唱されます。皆さんもぜひそれぞれのミサで朗唱される詩編を味わい、その前後に歌う答唱句を歌って、キリスト降誕の喜びをかみしめていただきたいと願っています。

(典礼音楽研究家)

 


グレゴリオ聖歌 7

齋藤克弘

 楽譜の発明によって、共通の歌い方が確立され、多くの修道院で歌われるようになったグレゴリオ聖歌ですが、数百年という長きにわたって歌われ続けてきたわけではありませんでした。現代のように、乗り物も人の流れも速すぎる時代ではありませんでしたから、100年以上は歌われていたようですが、次第次第にグレゴリオ聖歌から派生した他の様式、形式の歌にとってかわられていきます。

グレゴリオ聖歌は皆さんもご存じのように、本来は伴奏のない(ア・カペラ)旋律だけ(単旋律)の歌ですが、このグレゴリオ聖歌の旋律を土台として、まず、上に別の旋律をつける、オルガヌムという形式の歌が作られるようになります。いわゆる「ハモる」歌ですね。でも、この時代の「ハモる」というのは、現代のものと音の感覚が違っています。現代の「ハモる」というのは、たとえばドとミという音楽用語でいうところの3度音程ですが、この時代はドとソという5度音程を使っていました。なぜかというと、ドに対して1オクターブ上のドは音の振動(周波数)が二倍になる倍音、その上のソ(最初のドから1オクターブ半)は三倍音という、いわば音の振動が響きあうからです。これはピアノでト音記号の一番上の線の一つ上のソの音の鍵盤を音を出さないように静かに押したままにしておいて、同じト音記号の下の線の一つ下の線のドの音を強くたたくと、ソの音がかすかに鳴ることで確かめられます。ちなみに現代のピアノの調律はこのような倍音がさほど響かない平均律という調律なのでかすかにしか響きませんが、本来の倍音関係にある音ではもっとよく響くはずです。

このような音の響きをよく感じることができた歌い手がいて、興味半分に違う旋律をつけるようになったのかもしれません。そこから、オルガヌム(Organum)という形式ができました。オルガヌムは最初、上の旋律でグレゴリオ聖歌の元の旋律を歌い、下では最初同じ音から歌い始め、途中でこの五度や四度の音程を歌い、最後はまた同じ音で歌終わるという歌い方がされました。しかし、このオルガヌムも誰がいつどこで始めたのかはまったくわかりません。

同時にもう一つオルガヌムの成立に関係あると考えられるのはオルガン(Organ)の導入です。オルガンというと現代では、キリスト

ドイツ・ベネディクト会ボイロン修道院のパイプオルガン

教の(といってもほとんどの場合、西方=欧米の教会)教会音楽にとっては欠かせない楽器ですが、その成立は古く、すでに紀元前3世紀には現在のギリシャでオルガンが作られています。オルガンは当初、キリスト教会では異郷の楽器として使用が禁止されていましたが、最も早い記録では9世紀にヨハネ8世教皇がフライジング(現ドイツ)の司教にオルガン建造の名手を派遣するようにとの手紙を書き送っています。

そして、オルガヌムの成立とオルガンの教会への導入を見てみると、ほぼ、同じ時代であることがわかります。カタカナではわかりにくいですが、オルガヌム(Organum)とオルガン(Organ)ローマ字で比較するとどちらも全く同じ語幹であることがわかります。ですから、オルガヌムの成立とオルガンの導入が何かしらの関係があると考えることもできるのではないでしょうか。オルガンについてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、オルガンのパイプ音列も倍音関係になっています。このことを考えると最初、グレゴリオ聖歌と同じ音を弾いていたオルガンで、人数が多くなったから倍音列のパイプを鳴らしたところ、そこで響いていた倍音を歌う修道士が出てきたのかもしれません。悪い言い方ですが、たまたま伴奏のきちんとした音を歌えなかった「音痴」の修道士の歌がきっかけで、オルガヌムが成立したかもしれませんね。

このように、オルガヌムという複数の旋律を歌う、より複雑な歌い方が次第に普及したことで、単旋律、すなわちメロディーだけのグレゴリオ聖歌は次第に歌われなくなっていきました。他にも、要因はありますが、これが大きな要因の一つではないかと思います。

この後、オルガヌムは二声から三声へと声部が増えていき、歌い方も複雑になっていきます。それと同時にグレゴリオ聖歌は次第に歌われなくなり、楽譜だけでかろうじて生き残ることになります。その楽譜も、16世紀にはメディチ家というイタリアの富豪によって作られた楽譜において勝手に音を変えられることになり、演奏においても楽譜においてもグレゴリオ聖歌は大きな痛手を受けることになってしまいます。このようにして、見失われたグレゴリオ聖歌にもう一度光が当てられるのは、この後、およそ300年後のことです。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 6

齋藤克弘

 なかなか話が進まなくてじれったい方もおられるかもしれませんが、もう少し、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃の状況を知っておいていただきたいと思います。

皆さんは、小学校から中学校、つまり、義務教育を受けているとき、学校で教科書を持っていない児童や生徒はいなかったと思います。大きくなった(というとおかしな言い方ですが)皆さんも、自分で本を買ったり、最近は少なくなったかもしれませんが、図書館で本を借りたりしたときにも、自分で本をもって読むのは当然ですね。しかし、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃、今から1100年くらい前は、今のように自分で本を持つということは考えられない時代でした。

この時代、まだ紙でできた書物はヨーロッパにはありませんでした。何か記録をするには羊皮紙といって羊の皮をなめした(きれいにした)ものを使わなければなりませんでした。羊の皮をなめして作ったものですから、大量に作ることもできませんし、それだけの費用も掛かりましたから、到底個人では手に入れることはできませんでした。また、現代のような印刷をする技術もありませんでした。世界史で習われたかもしれませんが、16世紀にドイツでグーテンベルクが活版印刷の機械を作るまでは、大量の印刷物を作ることもできませんでした。ですから、グレゴリオ聖歌が広まりだした時代、楽譜を作るには、羊皮紙を手に入れることができるだけの財力と、そこに、手で楽譜を書いてゆく(あるいは書き写す)ことのできる人材と時間が必要だったわけです。

実際、このようなことができたのは、当時、財力のある修道院だったわけです。修道院は良くも悪くも多くの人の巡礼や貴族たちからの

Vera Minazzi(ed),Musica: Geistliche und weltliche Musik des Mittelalters,(Herder 2011) 48.所収

寄進によって富が集まってきました。修道士の人数も多かったので、グレゴリオ聖歌の楽譜をはじめ、ミサや典礼で使われる儀式書を専門に作る修道士がおり、その修道士たちが文字や絵を羊皮紙に書いていきました。その作業は時間と忍耐と根気と集中力がいる作業だったと思います。皆さんの中にも写経や聖書のことばをその通りに書き写す作業をされた方もおられるかもしれませんが、修道士たちが行っていた作業は、一日や数日でできるものではなく、何か月もかかって一冊の本を完成させ、それが完成すると次の本を作るというものだったでしょう。こうしてできたグレゴリオ聖歌の楽譜は今でいえば座布団くらいの大きさがあり、それを暗い聖堂の中で何人かの修道士が楽譜の周りに集まって、練習し、それを暗譜(暗記して楽譜は見ないで歌えるように)したと考えられています。

もう一つ、この時代の儀式のことばはほとんどがラテン語でした。ラテン語はもともとローマ人が話したことば。でも、フランクやゲルマン、あるいはイングランド、スコットランドの人たちがなぜ、自分たちのことばで儀式をしなかったのか疑問ですよね。なぜなら、この時代、ラテン語以外のことばは文字を持たず、字にして書くこと(文書化と言います)ができなかったのです。ちょっと信じられないかもしれませんよね。でも皆さん、ちょっと考えてみてください。皆さんの中で、アイヌ語で書かれた本を知っている方はおられますか。アイヌ語も文字を持たなかったので、文書化して書物を作り、出来事の記録をすることができなかったのです。ここで、一つ断っておきますが、言語が文書化できるかどうかと文化の優劣とは全く関係はありません。

キリスト教が広まった現代のヨーロッパ世界では、このように文書化して文字を記録することのできることばがありませんでした。それは、もう一つ、翻訳ができなかったということにもなります。しかしながら、教会の典礼祭儀(儀式)を文字を持たない言語の文字を作って、その言語の文書化できる状態にして、翻訳するまで待つことはできませんね。そんなことをしていたら、その間、ミサも祈りもできなくなってしまいます。ですから、当時のヨーロッパ世界ではラテン語で典礼を行っていく以外方法がなかったのです。

さらに、この時代には現代のように教育制度がありませんでしたから、ラテン語を勉強できるのは、これも財力や権力、あるいは時間に余裕のある人々に限られていました。すなわち、王侯貴族や修道院などの修道士たちだったのです。このように書くと、教育も読み書きもこのような人たちが独占して、一般の人々を排除したような印象を持つかもしれませんが、先にも書いたように、自分の生活のことばを文字で書き表すことができないということは、すべての人が読み書きをする状況になかったのです。

グレゴリオ聖歌の楽譜が発明されて、グレゴリオ聖歌の楽譜を見て、グレゴリオ聖歌を歌うことができたのは、修道院の修道士やその修道院から楽譜を買うことができた、大きな教会(司教座聖堂)の司祭たちだけだったのです。このような人々の間で歌われたグレゴリオ聖歌、しばらくはその黄金時代を享受しますが、その繁栄も長くは続きませんでした。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 5

齋藤克弘

カロリング朝フランク王国の政策の一つとして、ガリア典礼とガリア聖歌のローマ化がはかられたわけですが、実際には両方の典礼、聖歌の混合したようなものが広まっていったわけです。楽譜の話でもふれたように、グレゴリオ聖歌がガリアをはじめとするアルプス以北の修道院で広まるにつれて、その中のどこの修道院が起源かはわかりませんが、ネウマ譜が作られるようになります。このころから修道院の数も増えていき、修道院間の交流も活発になっていったことから、楽譜は各地の修道院へ普及していきます。楽譜が普及していくということは、単なる耳覚え(口伝)ではなくなるわけですから、共通の旋律や共通のニュアンスで歌えることになります。現代に続くグレゴリオ聖歌はこうして記録されるようになりました。歴史に「もしも(イフ)」ないのですが、もしも楽譜の発明が教皇グレゴリオ1世、もう少し後の時代、カロリング朝フランク王国の成立前であったら、古いローマ聖歌が現代まで歌い継がれていた可能性もあったかもしれません。

それにしても、どうして教皇グレゴリオ1世時代のローマではなく、カロリング朝フランク王国の時代のアルプス地方の修道院でネウマ譜が発明されたのか。一つだけ言えるのは、ジャレド・ダイアモンドが指摘するように、人口の多いところで発明の可能性が高まったということ以外には結論付けることができません。この場合の人口とはヨーロッパ全体の人口というよりも、修道院の人数(修道士の数)と言ったほうがよいでしょう。

この楽譜の発明に関しても、実は、どこの修道院でどういう修道士が楽譜を発明したかについては全く知ることができません。現代に生きるわたくしたちにはかなり理解が難しいのですが、まず、修道士というのは個人的な私物を所有しません。敷地や建物、祭儀に使う者から始まって、食器や果ては衣服に至るまですべてが修道院の資産です。いわば修道院が一つの人格体となってすべてを所有しています。言ってみれば人間の細胞が意識を持たずわたくしたち一人ひとりが意識を持っているのと同じような感覚ですね。修道士一人ひとりは物も所有せず、修道院あるいは院長の決定したことに必ず従います。ちょっとわたくしたちの生活からは考えられませんがそういうところで発明されたものは、個人の発明・発見であってもその人が今でいう著作権や特許権を主張することはなかったので、誰が発明したのかはわかっていないのです。

さて、このような楽譜の発明はグレゴリオ聖歌を広くヨーロッパ各地に広めるものとなりました。それまで口伝えで歌われていた古

Vera Minazzi(ed),Musica: Geistliche und weltliche Musik des Mittelalters,(Herder 2011) 48.所収

ローマ聖歌やそのほかの地方の聖歌でも記録されるようになったものがあったかもしれませんが、グレゴリオ聖歌の場合は楽譜をもって修道士が修道院間を行き来したか、楽譜を知っている修道士が自分の記憶を頼りに他の修道院で楽譜を書いて記録として残したのかもしれません。いずれにしても記録されたものは記憶のみのものに比べて、共有できることが確実であり、共有できる範囲が広くなります。記録されていなかった聖歌は記録された聖歌グレゴリオ聖歌にとってかわられていったとしても致し方のないことだったと思われます。

ところで、いずれこのことについても詳しく触れる機会があると思いますが、この時代の楽譜は「羊皮紙」という羊の皮に書かれました。中国からイスラム世界を通してヨーロッパに紙が伝わるのは11世紀頃です。しかも、まだ貴重品ですから、そうやすやすと手に入れることができるものではありませんでした。それは羊皮紙も同じで、羊の皮で作られているのですから、羊を飼っているか羊の皮を手に入れることができる、財力のあるところでなければなりません。とても一般の個人が手に入れることができるものではありませんでした。

また、印刷技術もありませんでしたから、グレゴリオ聖歌の楽譜もすべて手書きで写さなければなりませんでした。そのためには、相当の時間はもちろんですが、きれいに確実に書くことができる技術も必要でした。修道院ではグレゴリオ聖歌の楽譜以外にも聖書の写本、さらに典礼で用いる様々な儀式書の写本が作られましたが、このような写本は写本専門の修道士が何日も何か月もかかって作っていったようです。

話が少しそれてしまいましたが、グレゴリオ聖歌の楽譜はこのように財力を持つ修道院で専門の修道士によって作られました。それでは、この時代どのような人たちがグレゴリオ聖歌を歌っていたのでしょうか。おそらく、お読みの皆さんには想像がつくとは思いますが、次回はこの点からグレゴリオ聖歌を探っていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)