クリスマスと風土

齋藤克弘(典礼音楽研究家)

わたくしの担当しているコーナーは一応「音楽の神髄」というタイトルなのですが、今回は少し音楽を離れてクリスマスの文化と風土について語ってみたいと思います。

クリスマス前、日本では大体12月に入るとあちこちで、クリスマスソングがBGMとして流れることは前回も書きました。その他にも、クリスマスツリーが飾られ、イルミネーション(昔は電飾と言いました)が街を明るく灯します。教会の中では、主イエス・キリストが生まれた場面を模したプレセピオ(馬小屋)が飾られ、常緑樹と紅いヒイラギなどの実が装飾されたリース=クランツが置かれ、その輪の中には4本のろうそくが立てられ、日曜日ごとに1本ずつ灯されるろうそくが増えていきます。このようなクリスマス独自の装飾は、なんの疑問もなく行われていますが、ちょっと視点を変えてみると、実は、なんでこういうものが飾られるんだろうと思うことがあるのです。皆さんはそういう疑問を持ったことはないでしょうか。

前回も少し触れましたが、降誕祭にその誕生を祝われるイエス・キリストは、ユダヤのベトレヘムで生まれました。現在のイスラエルですね。イエス・キリストの誕生を記しているのは、イエスの生涯を書き記した4つの福音書のうち、マタイによる福音書とルカによる福音書の2つで、ほかの2つ、マルコとヨハネの福音書にはその記述はありません。しかも、マタイとルカでは、書かれていることが全く異なっています。これは、キリスト降誕の出来事が作り話ということではありません。

バルトロメ・エステバン・ムリーリョ『東方三博士の礼拝』(トレド美術館、1655年頃)

「グレゴリオ聖歌」でもお話ししましたが、この時代には現代のように、スマートフォンやビデオカメラがなかったのはもちろんのこと、その場でメモを取れるようなペンや紙すらありませんでした。福音書が書かれたのはキリストが昇天してからさらに数十年後のこと。それぞれの福音書を書いたマタイとルカが話を伝えようとした人々も異なっていて、いわば、自分が伝えたい興味も違っていたことから、自分が伝える必要がないことは書かなかったわけです。現代のように事実だけを伝えるノンフィクションというジャンルで書かれているのではないのです。

さて、わたくしたちがキリスト降誕の場面としてよく知っているのは、マリアとヨゼフは宿屋がいっぱいで泊まるところがなかったので、馬小屋で休んでいるときにマリアが産気づいて、イエスが生まれた、そしてそこに、天使からその誕生を伝えられた羊飼いたちと東方から3人の博士たちがキリストを拝みに来た、というものですが、ここで当時の時代背景や風土を考えてみると、いくつか不思議なことが思い当たります。

まず 「馬小屋」ですが、当時の地中海の周辺世界では、馬は農耕には使われず、むしろ戦車をけん引する動物として使われていました。ですから、宿屋に馬小屋が併設されていることは考えられません。農耕に使われた動物は牛、ほかにもロバが荷物運びに使われていましたので、これらの動物を泊めるところでマリアはイエスを産んだということになります。

次に、現在、クリスマスは寒さも募る12月に祝われていますが、ルカ福音書では「野宿していた羊飼いたちに」天使がイエスの誕生を伝えたと記されています。しかし、現在のイスラエルでも夜はかなり冷え込み、12月のというこの時期に野宿するのは生命の危険を顧みない無謀な行為と言っても過言ではありません。事実、2~3世紀にかけてアレキサンドリアで活躍した神学者のクレメンスはキリスト降誕を5月20日と推測しています。

キリスト降誕の日が12月25日に祝われるようになったのは、前回も書いたように325年のニカイア公会議頃の後、ローマにおいてですが、 その背景にあるのは、2世紀の殉教者でもある神学者のユスティノスが、ローマ人の太陽崇拝に対して「キリストこそ正義の太陽である」と著作で述べたことから、ローマ人が多く崇拝していたミトラス教の「不敗の太陽神」を祝う冬至祭がキリスト教化されたものとされています。

もう一つ、東方からキリストを拝みに来た博士たちは「3人」と言われていますが、マタイの福音書には博士の人数は書かれてはいません。ギリシャ語では「マゴイ」 と複数で書かれているので、一人ではないことは間違いありませんが、人数については全く触れられていません。では、なぜ3人になったのかと考えると、博士たちが持ってきた贈り物が「黄金」「乳香」「没薬」の三種類だったことから一人が一種類ずつ持ってきたと解釈されて、3人と考えられるようになったようです。ちなみに、のちに、この博士たちには、名前まで付けられています(もちろん、聖書には名前すら書かれていません)。

さて、クリスマスの飾りというと最初にも挙げたクリスマスツリーやクリスマスリース(クランツ)あるいはイルミネーションですね。

クリスマスツリーの起源には諸説ありますが、ツリーに使われる「もみの木」や「ドイツトウヒ」といった木はどれもキリストが生活したイスラエルには自生していません。リース(クランツ)の材料のヒイラギも然りです。イルミネーションに至っては電気がふんだんに使えるようになったこの数十年のものですね。これらもキリストが生きていた時代のイスラエルとは何の関連もないことがわかりますね。

もう一つ、クリスマスというと欠かせないのがサンタクロース。サンタクロースは北ヨーロッパの北極圏あるいはそこに近いところに住んでいて、赤と白の衣装をまとい、トナカイの牽く(ひく)そりに乗って子供たちにプレゼントを届けます。この、サンタクロースのモデル、実在する教会の司教さんです。現在のトルコの小さな村、ミュラの司教のニコラウス。言い伝えでは、隣に住んでいた貧しい家族の娘たちが身売りされそうになったので、とある夜、その家に金貨をそっと投げ入れて、娘たちが安心して暮らせるようにしたことから、子供たちにプレゼントをもってきてくれる好々爺(こうこうや)とされたようです。ちなみに、投げ入れられた金貨は暖炉に下げられていた靴下に入ったことから、靴下を準備する習慣が生まれたようです。

でも、トルコと北極圏ではかなり遠く離れていますよね。中世にヨーロッパで聖人の崇敬が盛んになると、聖ニコラウスの遺骨がイタリアのバーリという町に移されたとされました。ニコラウスのお祝いは12月6日。ヨーロッパではこの日にはミトラ(司教冠)を被り、バクルス(司教杖)を持った聖ニコラウスが地元に住む悪魔を従えて村を練り歩くお祭りが開催されます。聖ニコラウスとサンタクロース、発音があまりに違っているように思えますが、聖ニコラウスのオランダ語読みが「シンタクラウス」。それがアメリカ合衆国の英語読みとしてなまったのが「サンタクロース」なのです。もともと司教だった聖ニコラウスがサンタクロースになってから、北極圏に近いところに住み、赤と白の衣装をまとって、トナカイの牽くそりに乗るようになったのは、アメリカの神学者クレメント・クラーク・ムーア(生没年 1799~1863)の一連の著書が原型になっています。

さて、このように見てくると、わたくしたちになじみのあるクリスマスの文化というのは、本来の主人公である、イエス・キリストやイエスが暮らした時代、あるいは暮らした土地とはほとんど関係ないものが多いことがわかります。

ヨーロッパの北部、特にアルプスより北の地方はゲルマン古来の宗教の習慣が長く行われていたようです。キリスト教を広めた人たちはそれらをただ否定するのではなく、それらの文化をキリスト教に取り入れて人々にキリストの教えのすばらしさを伝えようとしたのです(神学用語ではインカルチュレーション=Inculturationと言います)。

現代の日本では、これらは多くが商業目的に使われているのは残念な気がしますが、だからといって、また、これらの文化がもともとイエスとは関連がないからと、否定するのではなく、これらを用いてキリストの教えのすばらしさ、神の国の豊かさを伝える、端緒(初めの一歩)にできればいいと思いませんか。

 


降誕祭の歌

齋藤克弘

「グレゴリオ聖歌」シリーズが完結していませんが、今回は時節柄「降誕祭の歌」について書くことにしました。12月に入ってから、スーパーやコンビニ、あるいは商店街などでは「クリスマスソング」がBGMで流れるようになりましたね。

洗礼を受けて間もない頃、学生時代に教会の友人から聞いた話ですが、「テレビの街頭インタビューでインタビュアーが呼び込みのお兄さんに『クリスマスに教会にはいかないんですか』と尋ねたら、お兄さんは「え、教会でもクリスマスやるの』」と言っていた、という、笑うに笑えない話がありました。もう40年近い前の話ですが。日本では「クリスマス」というと、予約したケーキやオードブルを買って帰り、みんなで一緒に食べる日という印象が強いですね。

先にも触れましたがBGMで流れているいわゆる「クリスマスソング」も、たまには『讃美歌』(主に1954年版)にあるものもありますが、具体的な曲名はここでは挙げませんが、どちらかというと、クリスマスにちなんだ、ポピュラーソングやフォークソングが主流だと思います。

教会で歌われている聖歌や讃美歌で一番なじみ深い曲は「きよしこの夜(讃美歌)・しずけき(カトリック聖歌集)」でしょう。この曲は1818年に現在のオーストリアのオールベンドルフという村の小教区の助祭だったヨゼフ・モールが作詞した詩に、同じ村の音楽の先生だったフランツ・グルーバーが曲をつけて歌われたのが最初です。元の歌詞は6番まであり、最初はギターの伴奏だったそうです。巷説では、教会のオルガンが壊れたのでモール助祭が急遽、作詞してグルーバー先生がやはり速攻で作曲して、オルガンの代わりにギター伴奏で歌われたと語られていますが、現在の研究によると、そのような事実はなかったようです。この聖歌、最初はこの小さな村の小教区で歌われておしまいになりそうでしたが、さまざまな経緯からドイツ語圏に広まり、さらにヨーロッパ各地の言語に訳されて各国のことばで歌われるようになりました。

この他にも、クリスマスにちなんだ聖歌や讃美歌は数多くありますが、現在、よく歌われているものはほとんどの曲が18世紀あるいは19世紀に作曲されたものです。しかし、よく考えてみると、クリスマスはその頃ようやく祝われるようになったわけではありません。神のひとり子がおとめマリアを通してナザレのイエスとしてこの世に来られた時がその起源です。教会では最初のうちは「クリスマス」という行事は重要視されていなかったようで、現在のように12月25日という日付も定まっていませんでした。詳細を書くと長くなるので簡単にしか触れませんが、この日がキリストの誕生の祝日となったのは325年のニケア公会議の頃以降のこととされています。カトリック教会の場合は「主の降誕」が正式な名称となっています。

さて、話がだいぶ脇道にそれましたが、ナザレのイエスが生まれたその夜に歌われた重要な歌があります。それは聖書にも書かれているもので、現在もその歌詞を歌いだしとして教会では一部の主日(日曜日)を除いたお祝いの日(主日・祝祭日)には必ず歌われているもので「栄光の賛歌=Gloria呼ばれています。イエスが生まれた時に羊飼いたちにその誕生を告げた天使と天の大群が歌った歌で、現在の教会の日本語の歌詞では「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」というものです。

そして、教会が伝統的に大切にしてきた歌、それは「主の降誕」や「主の復活」を記念するすべてのミサで歌ってきた大事な歌が「詩編」です。詩編はユダヤ教の時代に編纂されてキリスト教にも受け継がれた150編からなる歌です。ユダヤ教の時代の歌ですから、直接にイエス・キリストの名前が出てきませんし、ユダヤ教時代の神の民のさまざまな出来事が土台になっているものです。しかし、キリスト教会はこの詩編を単なる歴史の出来事に基づく歌ではなく、旧約時代の人々が、自分たちのうちに来られるであろう「キリストに関する預言」、ユダヤ教徒として生活していたナザレのイエスやイエスの弟子たちが会堂や神殿で歌った祈り、キリストが復活してから弟子たちがキリストの復活について証した聖書の歌、という理解のもとに絶えることなく歌い続けているものです。連載でお伝えしている「グレゴリオ聖歌」でも一番重要な歌詞とされているのが、この詩編ですし、「主の降誕」をはじめ、すべてのミサで、グレゴリオ聖歌では詩編が歌われなかったことは一度もありません。巷には様々な「クリスマスソング」が流れていますが、詩編こそイエス・キリストにまでさかのぼる、伝統的な教会の聖歌なのです。

「主の降誕」のミサでは、夜半のミサで詩編96が、日中のミサでは詩編98が先唱者を通して朗唱されます。皆さんもぜひそれぞれのミサで朗唱される詩編を味わい、その前後に歌う答唱句を歌って、キリスト降誕の喜びをかみしめていただきたいと願っています。

(典礼音楽研究家)

 


グレゴリオ聖歌 7

齋藤克弘

 楽譜の発明によって、共通の歌い方が確立され、多くの修道院で歌われるようになったグレゴリオ聖歌ですが、数百年という長きにわたって歌われ続けてきたわけではありませんでした。現代のように、乗り物も人の流れも速すぎる時代ではありませんでしたから、100年以上は歌われていたようですが、次第次第にグレゴリオ聖歌から派生した他の様式、形式の歌にとってかわられていきます。

グレゴリオ聖歌は皆さんもご存じのように、本来は伴奏のない(ア・カペラ)旋律だけ(単旋律)の歌ですが、このグレゴリオ聖歌の旋律を土台として、まず、上に別の旋律をつける、オルガヌムという形式の歌が作られるようになります。いわゆる「ハモる」歌ですね。でも、この時代の「ハモる」というのは、現代のものと音の感覚が違っています。現代の「ハモる」というのは、たとえばドとミという音楽用語でいうところの3度音程ですが、この時代はドとソという5度音程を使っていました。なぜかというと、ドに対して1オクターブ上のドは音の振動(周波数)が二倍になる倍音、その上のソ(最初のドから1オクターブ半)は三倍音という、いわば音の振動が響きあうからです。これはピアノでト音記号の一番上の線の一つ上のソの音の鍵盤を音を出さないように静かに押したままにしておいて、同じト音記号の下の線の一つ下の線のドの音を強くたたくと、ソの音がかすかに鳴ることで確かめられます。ちなみに現代のピアノの調律はこのような倍音がさほど響かない平均律という調律なのでかすかにしか響きませんが、本来の倍音関係にある音ではもっとよく響くはずです。

このような音の響きをよく感じることができた歌い手がいて、興味半分に違う旋律をつけるようになったのかもしれません。そこから、オルガヌム(Organum)という形式ができました。オルガヌムは最初、上の旋律でグレゴリオ聖歌の元の旋律を歌い、下では最初同じ音から歌い始め、途中でこの五度や四度の音程を歌い、最後はまた同じ音で歌終わるという歌い方がされました。しかし、このオルガヌムも誰がいつどこで始めたのかはまったくわかりません。

同時にもう一つオルガヌムの成立に関係あると考えられるのはオルガン(Organ)の導入です。オルガンというと現代では、キリスト

ドイツ・ベネディクト会ボイロン修道院のパイプオルガン

教の(といってもほとんどの場合、西方=欧米の教会)教会音楽にとっては欠かせない楽器ですが、その成立は古く、すでに紀元前3世紀には現在のギリシャでオルガンが作られています。オルガンは当初、キリスト教会では異郷の楽器として使用が禁止されていましたが、最も早い記録では9世紀にヨハネ8世教皇がフライジング(現ドイツ)の司教にオルガン建造の名手を派遣するようにとの手紙を書き送っています。

そして、オルガヌムの成立とオルガンの教会への導入を見てみると、ほぼ、同じ時代であることがわかります。カタカナではわかりにくいですが、オルガヌム(Organum)とオルガン(Organ)ローマ字で比較するとどちらも全く同じ語幹であることがわかります。ですから、オルガヌムの成立とオルガンの導入が何かしらの関係があると考えることもできるのではないでしょうか。オルガンについてはいずれ詳しく書きたいと思いますが、オルガンのパイプ音列も倍音関係になっています。このことを考えると最初、グレゴリオ聖歌と同じ音を弾いていたオルガンで、人数が多くなったから倍音列のパイプを鳴らしたところ、そこで響いていた倍音を歌う修道士が出てきたのかもしれません。悪い言い方ですが、たまたま伴奏のきちんとした音を歌えなかった「音痴」の修道士の歌がきっかけで、オルガヌムが成立したかもしれませんね。

このように、オルガヌムという複数の旋律を歌う、より複雑な歌い方が次第に普及したことで、単旋律、すなわちメロディーだけのグレゴリオ聖歌は次第に歌われなくなっていきました。他にも、要因はありますが、これが大きな要因の一つではないかと思います。

この後、オルガヌムは二声から三声へと声部が増えていき、歌い方も複雑になっていきます。それと同時にグレゴリオ聖歌は次第に歌われなくなり、楽譜だけでかろうじて生き残ることになります。その楽譜も、16世紀にはメディチ家というイタリアの富豪によって作られた楽譜において勝手に音を変えられることになり、演奏においても楽譜においてもグレゴリオ聖歌は大きな痛手を受けることになってしまいます。このようにして、見失われたグレゴリオ聖歌にもう一度光が当てられるのは、この後、およそ300年後のことです。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 6

齋藤克弘

 なかなか話が進まなくてじれったい方もおられるかもしれませんが、もう少し、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃の状況を知っておいていただきたいと思います。

皆さんは、小学校から中学校、つまり、義務教育を受けているとき、学校で教科書を持っていない児童や生徒はいなかったと思います。大きくなった(というとおかしな言い方ですが)皆さんも、自分で本を買ったり、最近は少なくなったかもしれませんが、図書館で本を借りたりしたときにも、自分で本をもって読むのは当然ですね。しかし、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃、今から1100年くらい前は、今のように自分で本を持つということは考えられない時代でした。

この時代、まだ紙でできた書物はヨーロッパにはありませんでした。何か記録をするには羊皮紙といって羊の皮をなめした(きれいにした)ものを使わなければなりませんでした。羊の皮をなめして作ったものですから、大量に作ることもできませんし、それだけの費用も掛かりましたから、到底個人では手に入れることはできませんでした。また、現代のような印刷をする技術もありませんでした。世界史で習われたかもしれませんが、16世紀にドイツでグーテンベルクが活版印刷の機械を作るまでは、大量の印刷物を作ることもできませんでした。ですから、グレゴリオ聖歌が広まりだした時代、楽譜を作るには、羊皮紙を手に入れることができるだけの財力と、そこに、手で楽譜を書いてゆく(あるいは書き写す)ことのできる人材と時間が必要だったわけです。

実際、このようなことができたのは、当時、財力のある修道院だったわけです。修道院は良くも悪くも多くの人の巡礼や貴族たちからの

Vera Minazzi(ed),Musica: Geistliche und weltliche Musik des Mittelalters,(Herder 2011) 48.所収

寄進によって富が集まってきました。修道士の人数も多かったので、グレゴリオ聖歌の楽譜をはじめ、ミサや典礼で使われる儀式書を専門に作る修道士がおり、その修道士たちが文字や絵を羊皮紙に書いていきました。その作業は時間と忍耐と根気と集中力がいる作業だったと思います。皆さんの中にも写経や聖書のことばをその通りに書き写す作業をされた方もおられるかもしれませんが、修道士たちが行っていた作業は、一日や数日でできるものではなく、何か月もかかって一冊の本を完成させ、それが完成すると次の本を作るというものだったでしょう。こうしてできたグレゴリオ聖歌の楽譜は今でいえば座布団くらいの大きさがあり、それを暗い聖堂の中で何人かの修道士が楽譜の周りに集まって、練習し、それを暗譜(暗記して楽譜は見ないで歌えるように)したと考えられています。

もう一つ、この時代の儀式のことばはほとんどがラテン語でした。ラテン語はもともとローマ人が話したことば。でも、フランクやゲルマン、あるいはイングランド、スコットランドの人たちがなぜ、自分たちのことばで儀式をしなかったのか疑問ですよね。なぜなら、この時代、ラテン語以外のことばは文字を持たず、字にして書くこと(文書化と言います)ができなかったのです。ちょっと信じられないかもしれませんよね。でも皆さん、ちょっと考えてみてください。皆さんの中で、アイヌ語で書かれた本を知っている方はおられますか。アイヌ語も文字を持たなかったので、文書化して書物を作り、出来事の記録をすることができなかったのです。ここで、一つ断っておきますが、言語が文書化できるかどうかと文化の優劣とは全く関係はありません。

キリスト教が広まった現代のヨーロッパ世界では、このように文書化して文字を記録することのできることばがありませんでした。それは、もう一つ、翻訳ができなかったということにもなります。しかしながら、教会の典礼祭儀(儀式)を文字を持たない言語の文字を作って、その言語の文書化できる状態にして、翻訳するまで待つことはできませんね。そんなことをしていたら、その間、ミサも祈りもできなくなってしまいます。ですから、当時のヨーロッパ世界ではラテン語で典礼を行っていく以外方法がなかったのです。

さらに、この時代には現代のように教育制度がありませんでしたから、ラテン語を勉強できるのは、これも財力や権力、あるいは時間に余裕のある人々に限られていました。すなわち、王侯貴族や修道院などの修道士たちだったのです。このように書くと、教育も読み書きもこのような人たちが独占して、一般の人々を排除したような印象を持つかもしれませんが、先にも書いたように、自分の生活のことばを文字で書き表すことができないということは、すべての人が読み書きをする状況になかったのです。

グレゴリオ聖歌の楽譜が発明されて、グレゴリオ聖歌の楽譜を見て、グレゴリオ聖歌を歌うことができたのは、修道院の修道士やその修道院から楽譜を買うことができた、大きな教会(司教座聖堂)の司祭たちだけだったのです。このような人々の間で歌われたグレゴリオ聖歌、しばらくはその黄金時代を享受しますが、その繁栄も長くは続きませんでした。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 5

齋藤克弘

カロリング朝フランク王国の政策の一つとして、ガリア典礼とガリア聖歌のローマ化がはかられたわけですが、実際には両方の典礼、聖歌の混合したようなものが広まっていったわけです。楽譜の話でもふれたように、グレゴリオ聖歌がガリアをはじめとするアルプス以北の修道院で広まるにつれて、その中のどこの修道院が起源かはわかりませんが、ネウマ譜が作られるようになります。このころから修道院の数も増えていき、修道院間の交流も活発になっていったことから、楽譜は各地の修道院へ普及していきます。楽譜が普及していくということは、単なる耳覚え(口伝)ではなくなるわけですから、共通の旋律や共通のニュアンスで歌えることになります。現代に続くグレゴリオ聖歌はこうして記録されるようになりました。歴史に「もしも(イフ)」ないのですが、もしも楽譜の発明が教皇グレゴリオ1世、もう少し後の時代、カロリング朝フランク王国の成立前であったら、古いローマ聖歌が現代まで歌い継がれていた可能性もあったかもしれません。

それにしても、どうして教皇グレゴリオ1世時代のローマではなく、カロリング朝フランク王国の時代のアルプス地方の修道院でネウマ譜が発明されたのか。一つだけ言えるのは、ジャレド・ダイアモンドが指摘するように、人口の多いところで発明の可能性が高まったということ以外には結論付けることができません。この場合の人口とはヨーロッパ全体の人口というよりも、修道院の人数(修道士の数)と言ったほうがよいでしょう。

この楽譜の発明に関しても、実は、どこの修道院でどういう修道士が楽譜を発明したかについては全く知ることができません。現代に生きるわたくしたちにはかなり理解が難しいのですが、まず、修道士というのは個人的な私物を所有しません。敷地や建物、祭儀に使う者から始まって、食器や果ては衣服に至るまですべてが修道院の資産です。いわば修道院が一つの人格体となってすべてを所有しています。言ってみれば人間の細胞が意識を持たずわたくしたち一人ひとりが意識を持っているのと同じような感覚ですね。修道士一人ひとりは物も所有せず、修道院あるいは院長の決定したことに必ず従います。ちょっとわたくしたちの生活からは考えられませんがそういうところで発明されたものは、個人の発明・発見であってもその人が今でいう著作権や特許権を主張することはなかったので、誰が発明したのかはわかっていないのです。

さて、このような楽譜の発明はグレゴリオ聖歌を広くヨーロッパ各地に広めるものとなりました。それまで口伝えで歌われていた古

Vera Minazzi(ed),Musica: Geistliche und weltliche Musik des Mittelalters,(Herder 2011) 48.所収

ローマ聖歌やそのほかの地方の聖歌でも記録されるようになったものがあったかもしれませんが、グレゴリオ聖歌の場合は楽譜をもって修道士が修道院間を行き来したか、楽譜を知っている修道士が自分の記憶を頼りに他の修道院で楽譜を書いて記録として残したのかもしれません。いずれにしても記録されたものは記憶のみのものに比べて、共有できることが確実であり、共有できる範囲が広くなります。記録されていなかった聖歌は記録された聖歌グレゴリオ聖歌にとってかわられていったとしても致し方のないことだったと思われます。

ところで、いずれこのことについても詳しく触れる機会があると思いますが、この時代の楽譜は「羊皮紙」という羊の皮に書かれました。中国からイスラム世界を通してヨーロッパに紙が伝わるのは11世紀頃です。しかも、まだ貴重品ですから、そうやすやすと手に入れることができるものではありませんでした。それは羊皮紙も同じで、羊の皮で作られているのですから、羊を飼っているか羊の皮を手に入れることができる、財力のあるところでなければなりません。とても一般の個人が手に入れることができるものではありませんでした。

また、印刷技術もありませんでしたから、グレゴリオ聖歌の楽譜もすべて手書きで写さなければなりませんでした。そのためには、相当の時間はもちろんですが、きれいに確実に書くことができる技術も必要でした。修道院ではグレゴリオ聖歌の楽譜以外にも聖書の写本、さらに典礼で用いる様々な儀式書の写本が作られましたが、このような写本は写本専門の修道士が何日も何か月もかかって作っていったようです。

話が少しそれてしまいましたが、グレゴリオ聖歌の楽譜はこのように財力を持つ修道院で専門の修道士によって作られました。それでは、この時代どのような人たちがグレゴリオ聖歌を歌っていたのでしょうか。おそらく、お読みの皆さんには想像がつくとは思いますが、次回はこの点からグレゴリオ聖歌を探っていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 4

齋藤克弘

 前二回は音楽の話、聖歌の話というよりも、政治の話、ヨーロッパ史の勉強のようになってしまいましたが、簡単にでも知っておいていただかないとグレゴリオ聖歌誕生の歴史に触れることができないからです。現代の日本や欧米諸国と違って、近代までのヨーロッパでも政治と宗教はある時には密接に強調しあい、またある時には敵対しあうという状況で歴史が進んできました。そもそも、政治を専門にする人々も宗教関連の人たちも、農耕牧畜により余剰生産が蓄積されるようになって初めて現れた階級です。

それはさておき、本題に戻りましょう。

西ローマ帝国滅亡後、政治的な連絡網が弱体化し、中央集権的な支配が弱くなると、それに依存してきた教会も各地で典礼や聖歌が少しずつ独自の歩みを始めるようになりました。特に東方教会からアイルランドへ伝えられた修道院は、この地で独自の発展を遂げ、アイルランドの修道院は教会の中核をなし、神学や芸術が発展しました。このアイルランドから、アルプス以北のヨーロッパに修道院制度がもたらされます。おそらく、それに伴って聖歌も伝えられたでしょう。

ところで、楽譜の発展のところでも書きましたが、この時代はまだ楽譜が発明されておらず、歌詞はともかくも、旋律は修道者が暗記して口伝えで伝えるしかありませんでした。ですから、同じ歌詞の聖歌でも、それぞれの地域の人々の音感によって、歌い方が変わっていったことは十分に考えられることです。わたくしの祖母もいくつかの歌を口ずさんでいましたが、現代でいう長調の曲をなぜか短調で(正確には短調ではなく旋法音楽だったかもしれませんが)器用に歌っていたことを今でも覚えています。本人はそうするつもりではなかったのでしょうが、身についていた曲調で歌うとそうなったのだと思います。

話を戻しますが、ローマからアイルランドへ伝えられ、さらにアルプス以北のガリア(フランク)に伝えられた典礼や聖歌は、伝えられるにしたがって、歌詞が変わったり、旋律もそれぞれの地域の人々の歌いやすいものに変えられていったことは容易に想像できると思います。このようにして、典礼や聖歌は各地域、いわゆる民族や都市ごとに独特のものが発展していったのです。

ところが、この様相を一変させたのが、前回の話で登場したフランク王国の王、特にカール1世でした。カール1世の父のピピン3世も

そうでしたが、彼らはローマとの結びつきを強めると、ガリアの典礼や聖歌もローマ式に改めるようにガリアの司教や修道院に命じます。政治的な影響力では自らが上に立てても、宗教的な権威ではローマ教皇を無視することができず、むしろ、その権威に従うことによってガリアの教会もローマの正統な信仰と典礼を受け継いだ教会とすることを望んだのでしょうか。

そのために、ローマにあったスコラ・カントールムに聖職者を派遣したり、あるいは逆にスコラ・カントールムの聖職者を招聘して、ガリアの典礼と聖歌をローマ式に改めていきます。こうして、ガリア典礼はローマ典礼に統一され、ガリア聖歌もローマ聖歌(学問的には古ローマ聖歌)にとってかわられます。しかしながら、悲しいことに、まだ記譜法(楽譜)が作られる以前だったので、歌い方がローマとガリアでは次第に異なるようになっていきました(歌詞は書き留められていたので変わることはなかったようです)。カール1世がローマ典礼とローマ聖歌をガリアに強制したのが9世紀初頭でしたが、その1世紀あとの10世紀ころにローマからガリアを訪問した聖職者は、同じ聖歌があまりにも異なった曲想で歌われているのを嘆いた書簡が存在します。

そのガリア聖歌も政治的な影響力とともにローマにも逆輸入され、ローマの典礼にもガリアで行われていた華やかな装飾が取り入れられるようになり、聖歌もガリアで歌われていたローマ聖歌の変型判が伝えられ、ローマの聖歌(古ローマ聖歌)にも影響を与えていきます。実はこのようにして、古ローマ聖歌と古ローマ聖歌の変型判のガリア聖歌が融合されて変化したものが実は、現在わたくしたちが知っているグレゴリオ聖歌なのです。ですから、グレゴリオ聖歌はカロリング朝フランク王国の誕生とともに産声を上げたといってもいいもので、カロリング朝フランク王国の成立が現代まで続くヨーロッパの成立であるように、グレゴリオ聖歌もその意味では現代ヨーロッパ音楽の源流という言い方ができるのです。

次回は、グレゴリオ聖歌の発展と衰退の始まりについて見ていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 3

齋藤克弘

西ローマ帝国では中央集権制が衰退して通信網が弱体化すると教会も各地で固有の典礼や聖歌が興隆してきました。また、早くから宣教が進んでいたケルト人の居住地域(現在のイギリスやイングランド)でも特有のキリスト教文化や教会制度が整っていきました。一方、アルプス以北のフランク王国は異端とされたアリウス派の信仰を受け入れていましたが、5世紀の末にはローマの信仰(アタナシオス派)に改宗しています。このフランク王国がローマにも大きな影響を与えることになります。

フランク王国もメロヴィング朝の時代はローマ(使徒座)との結びつきはそれほど強くはありませんでした。しかし、メロヴィング朝においてカロリング家が台頭してくると様相は一変します。ピピン3世はかねてから庇護を求めていたローマ教皇との関係を深め、他の貴族の影響を排除するために、教皇ザカリアスに協力を依頼して、ボニファティウスから塗油を受けます。それまで、つまりメロヴィング朝時代のフランク王はあくまでも地方の王朝であったわけですが、ピピン3世は塗油によって、独立した王権だけではなく、教会の権威によって認められた神聖な王権を手に入れることができたのです。それは、すでに失われていた西ローマ帝国の王権に匹敵するものであり、東ローマ帝国からの独立を示唆するものになりました。こうして、ローマ教皇の権威を利用したピピン3世は事実上のフランク王国の支配者となり、最終的には教皇の黙認のもと無血クーデターによってフランク王国の王権を手に入れることになります。

ピピン3世

この間、ローマではランゴバルト王国からの脅威を取り除くために東ローマ帝国に援助を要請していましたら、東ローマ帝国からは具体的な援助がなかったことから、教皇はカロリング朝フランク王国に援助を要請し、ピピンはランゴバルト王国から占領地を奪還していくつかの都市をローマ教皇に寄進します。これが教皇領の始まりと言われています。また、カロリング朝フランク王国の王権は、世俗における神と人との仲介者、キリストの代理者としての職務としての王権と考えられ、ピピン3世は王国内で司教会議を開催したり、教会に土地を寄付したりという形で、教会の保護者としての職務を行うようになりました。

ピピン3世が死去するとその子の一人カール1世(カール大帝)が王国を支配します。カールは周辺諸部族との戦闘で多くの年月を費やしますが、ローマへも影響力を強めていきます。最終的には紀元800年の降誕祭にカールはローマを訪れ、親カールの教皇レオ3世から戴冠式を受けます。この戴冠はカールが単にフランク王国の王として戴冠しただけではなく、それまで不在となっていた西ローマ帝国の皇帝として戴冠したことを意味しています。東ローマ帝国はこのことを認めませんでしたが、実質上、フランク国王は西ローマ帝国の領土と皇帝権を復活させ、カロリング朝ルネッサンスで活躍したアルクィヌス(アルクィン)をして、彼の支配地を「キリスト教帝国」と言わしめるものになりました。

実は、グレゴリオ聖歌はこのような政治的背景の中で生まれ出てきたものなのです。次回は現代「グレゴリオ聖歌」と呼ばれているものがどのような過程を経て、作られていったのかを見ていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 2

齋藤克弘

 教会の中でもグレゴリオ聖歌はグレゴリオ1世教皇の時代、いや、それ以前の昔からローマの教会で歌われてきた聖歌だと考えられていた時代が長くありました。しかし、近年の研究によってグレゴリオ聖歌はかなり複雑な歴史を歩んできたことがわかりつつあります。わかりつつあります、と書いたのは「楽譜の発展」でも書いたように、まず、グレゴリオ聖歌も含めて古い時代の聖歌は正確な記録がなされていないことから、楽譜が書かれるようになる前には、どのような旋律で歌われていたのかがはっきりしないからです。楽譜がかかれるということは何らかの形で歌い方、あるいは演奏の仕方が記録されるということです。どのようなものでも、記録されることで初めて、後世にほぼ誤りなく伝えられるということなのです(伝えられる内容自体に意図的に手が加えられているかどうかは別問題としてですが)。

Portrait of Pope Gregory I — Image by © Bettmann/CORBIS

さて、グレゴリオ聖歌の歴史を垣間見るには、まず、古代からの教会の歴史を簡単に振り返る必要があります。ナザレのイエスがこの世界から去られた後、しばらくの間、まだ「キリスト教」という宗教はありませんでした。現在のキリスト教は「ナザレ派」というユダヤ教の一宗派にすぎませんでした。それが紀元70年、ローマ帝国によってエルサレムの神殿が灰燼に帰し、神殿宗教としてのユダヤ教が消滅すると同時に「ナザレ派」は「キリスト教」という新たな枠組みとして歩みを始めます。古代ローマでは皇帝ネロを初め、多くの皇帝から迫害を受けましたが、それは、ある単語の使用方法が問題となったからです。

それは「主=ギリシャ語のキュリオス(Κυριοs)」ということばです。このことば、当時は神格化されたローマ皇帝だけに使うことが許された称号だったのですが、それをキリスト信者たちは「ナザレのイエスこそわたしたちの主である」とナザレのイエスへの称号としました。そのために、キリスト者たちはローマ皇帝を主として認めない政治的な犯罪者として迫害の対象になったわけです。このような迫害時代を超えて、皇帝コンスタンティヌスによるミラノの寛容令によって、キリスト教を公認すると様相が一変に代わります。それまで、ローマの教会でも典礼(礼拝)における聖書の朗読や祈りのことばはギリシャ語が用いられていましたが、誰にでもわかるラテン語へとことばが変わっていきました。また、教会の祭儀においてもローマ帝国の宮廷の儀式の要素が取り入れられていき、教会の司牧者である司教もローマ帝国の官僚と同じ待遇を受けるようになります。4世紀の終わりにローマ帝国は東西に分割されると、西ローマ帝国は周辺の諸部族の侵入を受けるようになり、5世紀の末にはオドアケルが西ローマ帝国の実質上の支配者になります。

ローマ帝国が統一されていた時代は教会も中央集権化された帝国の連絡網によって情報や制度が補完されていたようですが、帝国が分裂し、さらに西ローマ帝国が周辺諸部族の脅威にさらされるようになると、帝国の連絡網も分断され、教会の典礼も各地で独特の歩みを始めるようになります。それに伴い、聖歌も各地で独特の歌詞や旋律が歌われるようになっていったようです。ただし、この時代のことは政治の混乱もさることながら、楽譜の発展でもふれたように、まだ楽譜がないころのことなので、どのような旋律の聖歌が歌われていたのかどうかは残念ながら知ることができません。

グレゴリオ聖歌の名前の由来となった教皇グレゴリオ1世の時代になると、教会は西ヨーロッパの各地への宣教にも力を入れていきます。特に有名なのが後のカンタベリーの司教となったアウグスティヌスの派遣です。その他にもグレゴリオ1世は周辺諸部族に対してキリスト教的な秩序と精神を受け入れるようにと促しました。このようなグレゴリオの努力によって、ガリアやイングランドにローマ教会と同じ信仰を保つ教会が広まっていったことは疑いの余地がないでしょう。

今回はローマ帝国と教会の歴史の話になってしまいましたが、教会、特にローマ教会の歴史の理解がないとグレゴリオ聖歌の歴史も触れることができなくなってしまいます。次回もこの後の教会の歴史とそれに先立つフランク王国の歴史に触れてグレゴリオ聖歌の成立にまで話を進めたいと思います。

(典礼音楽研究家)


グレゴリオ聖歌 1

齋藤克弘

これまで、楽譜の発展について書いてきました。数世紀を経て、楽譜が次第に複雑になっていくと同時に、それはまた、音楽の多様性を表すためのことであることも理解していただけたと思います。今回からは、その楽譜が発明されるきっかけを作った音楽について書いていきたいと思います。

楽譜の発展のところでも書きましたが、楽譜が発明されるきっかけとなったのはグレゴリオ聖歌と呼ばれる教会の祈りの歌です。グレゴリオ聖歌のグレゴリオとはローマ教皇(日本では法王と言うことが多い)の一人で、紀元590年から605年にかけて在位したグレゴリオ1世を指します。巷説(こうせつ=いわゆる伝説)では、神から降った聖霊がグレゴリオ1世教皇に働きかけて、グレゴリオ聖歌を作らせたとされていますが、それはあくまでも伝説。もっぱらの説は、中世ローマで教役者(きょうえきしゃ=聖職者)の養成のために作られたスコラ・カントールム(聖歌学校)を作ったのがグレゴリオ1世だったという説ですが、現代ではおよそ100年後代の同名の教皇グレゴリオ2世(在位715年から731年)がスコラ・カントールムを作ったとの説が有力です。

このグレゴリオ聖歌、わたくしより少々若い方、そうですね、恐らく40代くらいの方なら20世紀の終わりごろに、スペインのサント・ドミンゴ・シロス修道院の録音で爆発的に人気を博したことを覚えておられると思います。このごろは、あまり聞かなくなりましたが、過日フランスのローザンヌ・バレーコンクールを見ていたところ、グレゴリオ聖歌をBGMにして踊っていた15歳の少女がおりました。ま、これほどヨーロッパではなじみ深い音楽であるともいえるわけで、特にフランスの近代から現代の作曲家たちは何らかの方法で、グレゴリオ聖歌を自分の曲に取り入れています。ベルリオーズ、ダンディー、そしてメシアンなど、名前を数えたらきりがないかもしれません。

このようにグレゴリオ聖歌は時代を超えて、ヨーロッパの音楽に影響を与えていますが、その歴史は紆余曲折、複雑怪奇と言ってもいいような道を歩んできました。それは、グレゴリオ聖歌が単に教会の祈りの歌という純粋なところでとどまっていたのではなく、教会におけるさまざまな出来事や音楽を演奏する芸術家の活動とも複雑に関係していたことがいろいろな課題や問題を複雑にしてきた要因でもあるのです。

次回からグレゴリオ聖歌がどのように歴史の波にもまれていったのかを何回かにわたってみることにしたいと思います。その中で気を付けていきたいことは、教会の祈りの音楽という美しさだけではなく、人間の活動という歴史の事実をしっかりと見定めてゆくことを忘れないようにしていくことです。

(典礼音楽研究家)


アヴェ・マリア

齋藤克弘(典礼音楽研究家)

キリスト教の音楽の中で題名として有名なものというと「ミサ曲」ともう一つ「アヴェ・マリア」があげられると思います。その「アヴェ・マリア」で一番知られているのは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第一巻第一番のプレリュード(前奏曲)にグノーが旋律を付けた「アヴェ・マリア」でしょうか。皆さんもきっと一度はお聞きになったことがあるでしょう。ただし、この曲はバッハの自筆譜によるものではなくシュヴェンケンというドイツの作曲家が手を加えたものに旋律をつけたものです。

「アヴェ・マリア」の冒頭の歌詞は大天使ガブリエルがマリアに聖霊によって神の子が宿ったことを伝えた際のあいさつのことばによるものです。この場面も「受胎告知」という絵画で有名ですね。15世紀の画家、フラ・アンジェリコやレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は皆さんもご存じのことと思います。この時代の画家たちの作品は当時のヨーロッパ世界を基準にして描かれているので、背景も衣服もマリアが実際に生活していた時代のものとはかなり異なっています。

ところで、この「受胎告知」ですが、マリアにとって、また、いいなずけのヨセフにとっても大変重大な決断を迫られた出来事だったのです。当時のイスラエルは聖書(旧約聖書)の律法が守られていました。マリアがガブリエルから受胎告知されたとき、マリアとヨセフはまだ結婚しておらず、今で言う婚約が成立した状況でした。この状況でマリアに子供ができたということは、通常の常識では、①ヨセフとマリアが婚前交渉して子供ができた。②マリアがヨセフ以外の男性と関係をもって子供ができた。の二つしかありません。しかし、当時、彼らが居住していたガリラヤの人々は道徳的に高潔でしたし、ヨセフも夢で天使からお告げを受けていますからどちらもあり得ないわけですが、もし、夢でのお告げがなければ、身に覚えのないヨセフにしてみれば、マリアがほかの男性との性交渉で子供ができたと考えざるを得ません。

そうなると、当時のユダヤ社会の法律である律法によると、婚約している女性が婚約者ではない男性との性交渉をした場合、石殺しの刑にされました。石殺しの刑は被告人を約5メートルくらいの崖の上から突き落として、その上から二人の人がようやく持てるくらいの大きな石を被告の上に落とすという、今の時代で考えると、とてつもなく残酷な処刑方法です(死刑という刑自体が残酷でないというとうそになりますが)。ですから、夢でお告げを受けたヨセフがこの夢を信じることなく、ユダヤ社会の裁判を起こした場合、マリアは石殺しにされた可能性がありますし、マリアもガブリエルから受胎告知されたとき、おそらく、真っ先にそのことが頭によぎったのではないかと思います。

つまり、マリアが聖霊によって子供を身籠ったことを受け入れたことは、ヨセフが信じてくれるだろうか、もし、ヨセフが信じてくれなければ石殺しにされるかもしれない、という不安を抱えながらの受胎告知の受け入れだったわけです。また、ヨセフも当時の社会の規則通りの行動をとっていれば、マリアを石殺しにしてしまうという葛藤の中で、天使のお告げを受け入れたわけで、ヨセフもマリアのことを心底大切にしていた、今風の言い方をすれば、心の底から愛していたということができるのではないかと思います。

グノーの「アヴェ・マリア」をはじめ、この曲は甘美で優雅なものがほとんどですが、お告げを受けたマリアとヨセフにとって、このお告げを受け入れることは、ある意味、自分の命を賭けて、一人の男の子を養い育てることの第一歩だったのです。「アヴェ・マリア」を聞くとき、そんな、大きな人生の選択を受け入れた、この夫婦の思いに心を馳せてみていただきたいと思う次第です。