聖人伝3 パドヴァのアントニオ

これは、聖人をこよなく愛する姉・嘉島理華(かとう・りか)と、その弟・嘉島理貢(かとう・りく)と一緒に、聖人について学んでいくノベルゲームです。

 

【注意事項】

※パソコンでのプレイを推奨していますが、スマートフォンからプレイする場合は、全画面表示にすると見やすくなります。
※また、今回は Internet Explorer や Microsoft Edge では動作しない演出があります。Chrome、Firefox、Opera などのブラウザでお楽しみください。
※一文目が表示されるまで時間がかかることがあります。しばらくそのままでお待ちください。
※音が出ます。

 

【参考文献】
池田敏雄『聖人たちの生涯』(中央出版社 1967年)、188-191頁。
石井健吾「アントニウス〔パドヴァの〕」上智大学新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』(KODオンライン版)。
パドヴァのアントニウス『主日説教集・祝日説教集』伊能哲大訳、上智大学中世思想研究所編『中世思想原典集成』第12巻(坂口昴吉監修:フランシスコ会学派)(平凡社 2001)、197-272頁。
S. Clasen, “Anthony of Padua, St.” New Catholic Encyclopedia 2nd Edition vol.1 (Detroit Gale, 2002) 506-507.
K. S. Frank, “Antonius v. Padua” Lexikon für Theologie und Kirche 3.Auflage 1 Bd, (Herder 1996) 791.
H. J. Thurston S.J., D. Attwater eds., “Bulter’s Lives of Ssaints: Complete Edition” vol.II (Texas Christian Classics 1956), 534-537.
K. Zimmermanns, “Antonius von Padua” Lexikon der christlihcen Ikonographie (Hg. G. G. Martin/F. Tschochner) Bd.5 (Herder 1990), 219-225.

(企画構成・シナリオ=石原良明:聖書研究者/イラスト=高原夏希:AMOR編集部)

 


若者とメディアと召命

2018年4月27日、カトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で第四回召命担当者の集い「青年と召命」が行われました。この記事は、その中のプログラムの一つ、講演『若者とメディアと召命』(講師:聖パウロ修道会 井手口満修道士)をまとめたものです。

 

メディアとは

まず、「メディア media」とは「medius」の複数形で、「仲介」や「媒体」を意味しています。最初は巫女やシャーマン、預言者などのように「神と人とを媒介する」という意味で使われていましたが、産業革命によって電話や印刷機などが発明されたことにより、18~19世紀には今のような意味で「メディア」と使われるようになりました。

メディアには、一方通行的なマス・メディアと、双方向的なソーシャル・メディアがあります。前者はテレビ、新聞、ラジオ、映画など、後者はTwitter、LINE、Facebook、Instagramなどが挙げられます。そのほかにも、人や空間もメディアと言うことができます。

 

教会とメディア

カトリック教会では、1962~65年に行われた第2バチカン公会議において、『広報メディアに関する教令』が公布されました。そこでは「出版、映画、ラジオ、テレビおよびこれに類するものは、その性質上、個々の人間だけでなく大衆や人間社会全般に影響を及ぼし、これらを動かしうる手段であるから、それらの発明の中でもとくに優れており、まさしく広報メディアと呼ばれる」(1項)と述べられています。

メディアが正しく活用されるなら、憩いとなり、精神を富ませ、神の国を宣べ伝え、人類に大きく貢献しますが、創造主の計画に反してメディアを用いるなら、人類の損失となります(2項参照)。例えば、今年の「世界広報の日」の教皇メッセージにもフェイクニュースが取り上げられています。

さらに、第2バチカン公会議は「広報のメディアに関する主要な問題を取り扱うことをその任務と考える」(2項)としており、メディアの正しい使用について人々に教示することや、あらゆる種類の広報メディアを利用し、また所有することなどが教会の任務として挙げられています(3項)。そして、「これらのメディアを正しく利用するには、それに携わる人が皆、道徳秩序の規範をよくわきまえ、この分野でそれらの規範を忠実に実践することが必要」(4項)なのです。

それは教会だけではなく、私たち一人ひとりの信徒にも当てはまります。「教会のすべての子らは……使徒職のさまざまな活動に際し、種々の有害な企画に打ち勝つために、倦まず弛まず全力を挙げて一致協力し、事由と時節の状況に応じて広報メディアを活用すること」(13項)とあるからです。

また、「メディアに携わる信徒も、精力的にキリストをあかししなければならない」(同上)とあります。現在カトリック教会には、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)という団体や、カトリック新聞やカトリック生活といった出版物、心のともしびやカトラジ、このwebマガジンAMORなど、多数のメディアが存在しています。

 

メディアを使った福音宣教

聖パウロは、手紙というメディアを使って宣教した最初の人でしょう。そんな聖パウロの名前を冠した聖パウロ修道会は、産業革命によって生活の価値観が変わり、自由主義や近代主義によって神と宗教が否定され、人々が教会から離れてしまった時代に創立されました。創立者であるアルベリオーネ神父(Giacomo Alberione, 1884~1971)は、共産党の印刷物を使ったプロパガンダを参考にして、印刷物による福音宣教を試みます。1914年に少年たちの印刷学校が開始され、これが聖パウロ修道会となりました。

翌1915年にはテクラ・メルロという女性に協力してもらい、聖パウロ女子修道会を創立。そこに託された最初の仕事は、イタリア北部アルバ教区の教区新聞発行でした。さらに1924年には師イエズス修道女会を創立しましたが、この修道会は「人類とパウロ家族(樹)が豊かな恵み(樹液)を得るために、教会とパウロ家族の中で祈り、自己を捧げ、教会と人々に奉仕する『根』の役割」をしています。つまり、活動ばかりしていると枯渇してしまうので、祈りをもって養分を与えるということです。

この後もアルベリオーネ神父は修道会や在俗会を次々と創設し、合計10の修道会は「聖パウロ家族修道会」と呼ばれています。日本には名前を挙げた3つの修道会が来日しており、出版やインターネットショップ、売店などを通して宣教活動をしています。

 

新しいメディアと若者

総務省の調査によると、携帯電話やスマートフォン、パソコン、タブレットなど、何らかの情報通信端末の世帯保有率はほぼ100%に達します。その中で、近年、ソーシャル・ネットワーキング・サービス(social networking service、以下SNSと略)が急速に発達してきました。SNSとは、インターネットを介して人間関係を構築できるスマートフォン、パソコン用のサービスの総称で、情報の発信・共有・拡散に重きを置いているのが特徴です。代表的なSNSに、前述のTwitter、LINE、Facebook、Instagramが挙げられます。

SNSを利用している年代は、20代以下~40代が多く、LINEがよく使われているようです。一方、50~60代以上はFacebookやTwitterの利用率が高くなります。自分で発信もしますが、他人が発信したものに対して「いいね」をクリックし、情報を共有するという使い方が多いようです。また、20代以下~30代が「内容が面白い」というときに多く「いいね」をクリックするのに対して、50~60代以上は「情報の信憑性が高いかどうか」「社会的に重要な内容かどうか」というときにクリックすることが多いという傾向が見られます。

 

SNSを使った召命活動

各修道会では、さまざまなSNSを使って召命活動をしています。ここでは例として、サレジオ会、イエズス会、コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会、聖パウロ修道会のサイトが紹介されました。

サレジオ会のサイトには、「神父・修道士として生きる」という召命に関するページや、サレジオ家族の教会や学校の活動情報、ドン・ボスコ社の最新情報などをお知らせするTwitterがあります。イエズス会のサイトには、召命チームのブログや「イエズス会ボケーション」というFacebookがあり、新司祭の写真や講義の動画、召命プログラムや黙想会のお知らせなどが載っています。コングレガシオン・ド・ノートルダム修道会のサイトには「シスターになる」というページがあり、それぞれのシスターが語る「CND召命ものがたり」を動画で見ることができます(※CND:Congrégation de Notre-Dameの略号)。また、Facebookで世界のいろんな召命の情報を見ることもできます。

そして、聖パウロ修道会は最近、管区でSNSグループを作り、若いブラザーを中心にホームページを制作し、森司教様の主日の黙想などを行っています。また、神父様やブラザーに9枚のカードの中から3枚をめくって出たカードの質問に答えるというような動画や、ミサのライブ中継の動画なども配信しています。

 

ネットの中にキリストが

『広報メディアに関する教令』2項からもわかるように、SNSやインターネットを使うことは諸刃の剣であり、インターネットを危険視する人も多くいます。同じように、アルベリオーネ神父が印刷を使って福音宣教をした当時は、それをタブー視したり、どうしてそんなことをするんだと言ったりする人がいました。

しかし、聖パウロ家族修道会の聖堂には「恐れるな わたしがあなたたちと共にいる わたしはここから照らそうと望む 悔い改めの心を保ちなさい」という言葉が掲げられています。「SNSやインターネットが危険だから排除する、使わないというのではなく、SNSを使って福音宣教もできる、ネットの中にもキリストはいるということを考えたいと思います」と井手口さんは話し、特定非営利活動法人BONDプロジェクトを例に挙げました。

SNSで「死にたい」「消えたい」「必要とされたい」「寂しい」と発信し、助けを求めている10~20代の女性がたくさんいます。彼女たちに対して、「声をあげていいんだよ」「一人じゃないよ」「一緒に考えていこうよ」と応えてくれるのが、BONDプロジェクトなのです。これはまさにインターネット上における福音です。さらにBONDプロジェクトでは、その子の場所がわかればそこに駆けつけて話を聞き、シェルターで一時保護をして安心を与えるなどの活動をしています。「ここにはキリストが存在しているのではないでしょうか」と井手口さんは語りました。

 

終わりに

ヨハネによる福音書に「イエスはまことのぶどうの木」という箇所があります。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15章4~5節)。

井手口さんはこのたとえを受けて、「本当につながっていたい。それは枝としての私たちの思いでしょう。インターネットを通じて真にキリストにつながるならば、また、私たちがいい真実をインターネットで発信するならば、それは大きな実を結ぶのではないでしょうか」と講演を締めくくりました。

 

まとめ

井手口さんの講演は、今月の特集「福音を伝えるメディアとは?」にも関係する、非常に興味深い内容でした。インターネットメディアが普及した今、教会や修道会にもホームページがあり、召命に関するページも豊富になっています。こちらの記事で、教会ホームページ制作会社代表の丸山泰地さんは「ホームページは教会の玄関」だとおっしゃっていますが、同様に、修道会の玄関もホームページなのです。教会や修道会が近くになかったり、まだ一歩踏み込むことができない場合でも、そのようなページがあればイメージしやすいでしょう。

また、世の中には、インターネット上でしか世界や他者とつながることができない人や、そこで助けを求めている人がたくさんいます。それを逆手にとった悲惨な事件が起こったこともありますが、そのような人たちのために、インターネット上でも他者とつながり、声をかけることや、恐れずに福音的な内容を発信することが大事なのではないでしょうか。

(まとめ:高原夏希/AMOR編集部)

 


第23回「教会とインターネット」セミナーレポート

2018年3月3日、第23回「教会とインターネット」セミナー――インターネットが拓く新・福音宣教(主催:SIGNIS JAPAN、後援:サンパウロ、女子パウロ会)が、カトリック上野教会(東京都台東区)にて行われました。

今回のテーマは「キリスト教会の福音発信術を考える」と題し、教会ホームページとSNSの現状をふまえながら、これからの方向性を考えました。この記事では、講師の丸山泰地さん(キリスト教会専門のホームページ制作サービス「BREADFISH」代表、日本同盟基督教団名古屋福音伝道教会教会員)による講演「キリスト教会の情報発信術 ~大切なのはITスキルではなかった~」をまとめています。

 

BREADFISHを始めたきっかけ

まず、丸山さんは「教会ホームページ制作の技術的な手伝いをしたいと思って、BREADFISHを始めた」と語り始めました。しかし、ホームページ制作を手伝っていくうちに「本当に必要なのは『伝える』こと」であり、「教会の案内や自分たちの魅力などをいかに伝えるかということが大事だ」と気付いたそうです。

 

「BREADFISH」代表の丸山泰地さん

教会ホームページの問題点と対策

教会ホームページの問題点として、丸山さんは「なんとなく情報発信している」「〈相手の聞きたいこと〉より〈自分の言いたいこと〉を優先している」「自分をよく見せようとしすぎ」「誰に向かって話しているのかわからない」「上から目線、説教されている感じがある、おしつけがましい」「戦略がまったくない」などを指摘しました。

その対策として挙げられたのが「〈何の目的で〉〈誰に向けて〉情報発信をするのかを明確に」「読み手との距離感を意識する」「安易に大企業の広告のまねをしない」という三つです。

 

1)「何の目的で」「誰に向けて」情報発信をするのか明確に

ホームページを作るときには何らかの目的がありますが、教会ホームページの一番の目的は「教会に来てもらうこと」でしょう。それについて丸山さんは「1サイトにつき1目的、その目的に合わない内容のものは入れない」と言います。理由は「ホームページというのは目的を持って見に来るものであり、ある程度興味があって検索した人だけがたどりつくものだから」です。例えば、教会ホームページを見るまでのプロセスは以下のようなものが考えられます。

A きっかけ……小説、映画など
B 欲求……教会に行ってみたい
C 検索……「名古屋 初心者 教会」など
D 調査……教会ホームページを見て、どんなところか調べる
E 行動に移す……実際に教会へ行ってみる

丸山さんによると、多くの教会ホームページはAに手をつけがちだと言います。つまり、聖書解説や福音宣教的な内容をホームページに載せ、キリスト教に興味を持ってもらおうとしているということです。しかし、それは「教会に来てもらうこと」とはまた別の目的であり、それも入れると「1サイトにつき1目的」を超えてしまいます。

教会ホームページを検索して調査する人はすでにきっかけがあり、A~Bをクリアしているため、教会ホームページの守備範囲はC~Eということになります。「教会に興味がない人を振り向かせるようなメッセージを入れるのはほとんど意味がない」「教会ホームページは宣教の場ではない」と丸山さんは言います。確かに、福音を伝えたいという気持ちは大事ですが、「まずは教会に来てもらうことが目的で、福音は教会に来てから伝えればいいのではないか」との考えでした。

セミナーの様子

まとめると、教会ホームページは「教会に来てもらう目的で」「教会に行ってみたいという興味を持っている人に向けて」情報発信している、ということになります。したがって、教会ホームページを「教会に興味を持っている人が安心して教会に足を運べるようにするためのツール」であると考えれば、自然とどのような内容を載せればいいのかがわかってきます。

 

2)読み手との距離感を意識する

これは端的に言えば、「読み手に寄りそって、相手の視点でホームページを作る」ということです。

初めて教会に来た人と教会には、信頼関係がありません。そこでいきなり「信じませんか?」などと尋ねても、おそらく「はい」と答えてはくれないでしょう。それはホームページにおいても同じであり、教会に初めて行こうとしている人には、まず信頼感や安心感を持ってもらうことが大事だと丸山さんは言います。

そのためには、初めての人でも安心して教会に来てもらえるような文章を書くことが重要になります。信仰の押しつけがないことを伝え、あまり専門用語を使わないようにして敷居を下げ、服装・持ちもの・所作・ミサや礼拝の手引きといった具体的なことが書いてあるといいそうです。

 

3)安易に大企業の広告をまねしない

広告には、ブランドイメージをアップするための「イメージ広告」と、読み手の反応を得るための「レスポンス広告」があります。前者はある程度知名度がある場合に使うものですが、教会はまず知名度や信頼を得ることから始めなければならないので、具体的・説明的・機能的なレスポンス広告のほうがよいと丸山さんは言います。

そこには「共感」「信頼・安心」「効果(結果)」「期待する行動」という四要素を入れるといいらしく、特に「期待する行動」は明記しておいたほうがいいとのこと。例えば「どなたでも安心していらしてください」「お気軽にどうぞ」「献金をお願いしています」といった具合です。

 

SIGNIS JAPAN顧問司祭・晴佐久昌英神父

教会ホームページはどのように運営すればいいのか

次のテーマは教会ホームページの運営方法です。丸山さんは「毎日更新しなくてもいい」「文章をたくさん書く」「ホームページからあたたかくもてなす」といったポイントを挙げました。

 

1)毎日更新しなくてもいい

ホームページを作っていると、「毎日更新すればアクセス数が増えるのでは」と思いがちですが、今まで想定してきた読み手のことを考えると、教会ホームページを毎日見にくるという人はほとんどいないでしょう。

したがって、「一人の人が教会ホームページを見にくるのはたった一回だと考え、その〈たった一回〉で相手の聞きたいことを伝えるのが重要」だと丸山さんは述べます。そうなると、「最初の作り込みが大事であり、それを改善していくことが大事」になってきます。また、改善するということは必然的に更新するということにもなります。

 

2)文章をたくさん書く

ほかにも、「文章はあまり読んでくれないだろうから、画像や動画を増やそう」と思うことがありますが、前述のように、ホームページの特性は「まったく興味のない人は来ない=ある程度興味のある人が来る」です。したがって、そのような人たちは文章を読んでくれるので、相手の知りたい情報をきちんと書くことが重要になってきます。

読みやすくするため、あるいはわかりやすくするために写真や画像、動画を入れる必要もありますが、それらはあくまで主役である文章を引き立てるための脇役だと丸山さんは語ります。

 

3)ホームページからあたたかくもてなす

読み手がホームページを開いて自分のニーズに合わないと思うと、すぐに離れてしまうので、読み手がどういうきっかけで検索するか、どんなニーズがあるかといったことを想定しながらホームページを作ることが大切になってきます。「読み手との距離感を意識する」で挙げたことのほかにも、トップページに読み手が検索しそうなキーワードをちりばめることで、検索エンジン対策にもなります。

このように、教会に足を運ぶ前から、つまりホームページからあたたかくもてなすことは非常に重要であり、「ホームページは教会の玄関」だと丸山さんは考えています。集会案内の時間・内容・目的などをわかりやすく丁寧に説明するなど、そっけないデータではなくあたたかみのある言葉を載せ、集会の様子を撮影した写真や動画で実際の教会の中が見えるほどにオープンにすることによって、相手に安心感を与えることができるということです。

ほかにも、Googleアナリティクスなどの解析ツールを使うことによって、どのようなキーワードで検索されたか、どのくらいの時間いたか、年齢層や男女比はどうかなどを調べ、より読み手のニーズに合った改善ができるとのことです。

 

セミナーの様子

ホームページで福音は伝えられないのか

丸山さんは「教会ホームページは宣教の場ではない」と述べましたが、ホームページで福音は伝えられないのか、教会のホームページなのにそういうものがないのは変ではないか、という疑問が浮かびます。それに対して丸山さんは、「そのようなホームページも可能だが、教会ホームページとは分けて作ったほうがいい」と言います。

ここで押さえておきたいのは、今回丸山さんがお話しくださった「教会ホームページ」とは、各地に存在する教会(小教区)の案内のようなものであり、上記C~Eをカバーするものだということです。一方、A~Bを担っているものとして有名なのは上馬キリスト教会のツイッターですが、それもやはり教会ホームページとは別の独立したサイトととらえたほうがいいでしょう。

 

教会ホームページにとって大事なこと

最後に丸山さんは、「教会ホームページにこそ愛が必要です。愛を伝える教会のホームページに愛がないのは残念なこと。初めての方々の立場に立ちきって、ホームページからおもてなしを始めていきましょう」と講演を締めくくりました。

(文:高原夏希/AMOR編集部)

 


第42回日本カトリック映画賞レポート

2018年5月12日、第42回日本カトリック映画賞授賞式&上映会(主催:SIGNIS JAPAN、後援:カトリック中央協議会広報)が、なかのZERO大ホール(東京都中野区)にて行われました。

1976年に始まった日本カトリック映画賞は、毎年、前々年の12月から前年の11月までに公開された日本映画の中で、カトリックの精神に合致する普遍的なテーマを描いた優秀な映画作品の監督に贈られます。今回の授賞作は、長谷井宏紀監督『ブランカとギター弾き』です。また、シグニス特別賞が松本准平監督『パーフェクト・レボリューション』に贈られました。

 

『パーフェクト・レボリューション』授賞理由

SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)の顧問司祭である晴佐久昌英神父は『パーフェクト・レボリューション』の予告編を観て、「初めてこの映画を観たときの感動がよみがえりました」と話し始め、続けて「人間は素晴らしい。可能性がある。人と人が出会うことは素晴らしい。未来がある。私たちは本当に何があっても神様によって出会わされている、そのような家族なんだ。そんな思いを持たせてもらった映画です」と語りました。

シグニス特別賞『パーフェクト・レボリューション』の松本准平監督

この映画は、体の障害を持っている人と心の障害を持っている人の出会いを描いた作品ですが、私たちにも躊躇や恐れ、ひるむ気持ちがあり、障害を持っている人たちと上手くつながったり向き合ったりできないことから、「もしかして、私たちみんな恐れているという意味では障害者なんじゃないか」と晴佐久神父は指摘します。

そして、「そこを超えてつながることができたら、この世界はどんなに変わっていくだろうと。まさにパーフェクト・レボリューション。完璧な、完全な革命。神の国はもうすぐそこだ。私たちが障害を超えて、恐れを超えて、つながるならば」と、そのような可能性を見せてくれたことに対する感謝を述べました。

 

『ブランカとギター弾き』授賞理由

次に『ブランカとギター弾き』の授賞理由について、最近涙もろくなったという晴佐久神父は「もう何か申し上げるまでもないという思いでここに立っております」と言い、「今の自分にとって、私たちにとって、教会にとって、この世界にとって、一番大事なことがこの映画の中にこめられている。それを今観て改めて感じて、やっぱり私たちにとって人と人が本当に家族としてつながる、それが何より価値のあることなんだという、当たり前と言えば当たり前なんだけれども、一番この世界が忘れてしまっていることを思い起こさせてくれた」と力強く語りました。

第42回日本カトリック映画賞『ブランカとギター弾き』の長谷井宏紀監督

また、「最後にまったく血縁じゃない三人が、血縁の家族以上につながっているシーンは、私たちにとって本当に大きな励まし、希望、私たちもできるはずというようなそんな力になると、そう感じました」とも述べています。

この作品は上映前にSIGNIS JAPANの土屋至会長から紹介があったように、舞台も役者も言語もすべてフィリピンであり、唯一の日本的な要素は監督が日本人だということです。それについて晴佐久神父は、現在ご自身が力を入れている「福音家族」について説明したあとで、「この映画がそのような本当の家族をもたらす力を私たちに与えてくださるという思いで、この作品に自信をこめて、皆さんも納得していただけたと思いますけれども、シグニスから日本カトリック映画賞を差し上げることといたしました」と、この映画の授賞理由を述べました。

 

ピーターとの出会いと奇跡

晴佐久神父と長谷井監督の対談は、「いつもですと、もうちょっと冷静にお話しができるんですけど」という晴佐久神父のあふれる想いから始まりました。上映が終わったあとの休憩時間に初めて監督とお会いしたという晴佐久神父は、感激で涙が止まらなかったそうです。

話はまず、晴佐久神父の「どうしても聞きたいこと」であったピーターの話題から。映画の中のピーターを演じているのは、キャラクターと同じ名前のピーター・ミラリという人物です。生まれつき盲目だった彼は、8歳で両親を亡くして孤児となり、生きるためにお金を道端で集めて回ることから人生が始まったといいます。

そんなピーターと長谷井監督の出会いは、マニラにあるキアポ教会の地下通路でした。「彼は小っちゃい子にお金の番をさせて歌ってたんですけど、そのときに『この人と映画を作ってみたいな』と」監督は思ったそうです。それは、偶然にも短編映画の登場人物である盲目のギター弾きを演じる役者を探していたときでした。その後、『ブランカとギター弾き』を撮影するためにピーターを一ヶ月半かけて探し、再会。見つけたときは非常に嬉しかったし、ピーターも「また帰ってきたんだね」と喜んでいたそうです。

授賞式の様子

晴佐久神父が「監督とピーターとの出会いがね、すべてじゃないですか。ほかの誰か、役者がやってもこういう映画にならなかったと思うし、最後に『ピーターの魂は映画と共に全世界を旅している』っていうのを読んで、またぐっときて」「神がかってるっていうか、特別な力がすごく働いている作品だなっていうのは観ていてとっても思いました」と述べると、長谷井監督も同意し、「ぼくも撮影する日々の中で、本当にそういう奇跡がきらきらと毎日見えていたので、本当に良い時間を過ごさせてもらったなって」と話しました。

この映画と同じようなことがピーターの人生に起こっていたというのも、奇跡の一つでしょう。ピーターがキアポ教会の前でギターを弾いていると、11歳の女の子が毎日自分の近くに来て歌を歌い始めたそうです。ピーターは「自分はそれでお金を稼いでいるから来るんじゃない」と言ったそうですが、それでも毎日女の子が来るので一緒に稼ごうということになり、教会の前で一緒に歌っていました。そのうち、マカティのクラブのオーナーに誘われてそこでパフォーマンスをしていると、その女の子は大阪から来たカップルに養子に迎えられていった、ということがあったそうです。

何も知らずに脚本を書いていた監督は「そのときはもう鳥肌が立つというか。結局自分が書いてることに何かを招き入れたのか、それとも、何かある場所に招かれたのか、それはちょっとどっちなのかわからないですけど」と言うと、「何かそういうものを呼び込む力というか、選らばれし者みたいなオーラがあるような気がしますけどね」と晴佐久神父はコメントしました。

 

セバスチャンがいた!

ジョマル・ピスヨ演じるセバスチャンは晴佐久神父のお気に入りキャラクターですが、彼を見つけるまでに二ヶ月かかったそうです。「11歳の歌を歌える少女ブランカ」の役に「25歳のアクロバットができる男性」が来るなど、オーディションがなかなか上手くいかず、最終的には監督自ら街を歩きながら役者を探したとのこと。

最初は通り過ぎてしまったそうですが、何かぴんと来るものがあったらしく、引き返して演技をしてもらったところ、「アドリブがどんどん入ってきちゃって止まらない」「フィリピンのクルーも驚いていて、『彼は本当に才能がある役者だ』と言っていた」というほど天性の才能を持っていたと言います。そのとき、監督は「セバスチャンいた。いたんだ」と思ったとか。撮影中に急にいなくなるというトラブルもありましたが(海で泳いでいたそうです)、撮影を始めると一発OKというプロフェッショナルぶりも発揮したそうです。

SIGNIS JAPAN顧問司祭の晴佐久昌英神父

晴佐久神父は「自由で、やさしくて、そして一番大切なことを本人が知らずににじませている存在みたいな、とても新鮮なものを感じました。セバスチャン見つけてくれてありがとう。だから最後にセバスチャンが一緒にいて、またあれがツボでね」と嬉しそうに語りましたが、当初そのラストシーンにセバスチャンは出てこない予定だったそうです。「あの最後のカットはブランカの笑顔と涙っていうのは決めてたんですけど、あそこにセバスチャンはいなかった。ただ撮影をしていく中で、セバスチャンっていうものが本当に大きくなって」と監督は言います。

そのほかにも即興の演技やシーンがいくつも生まれたとのことですが、現場には通訳の人がいなかったため、「本当に言葉じゃなくて、映画って感覚っていうか感情っていうか、それが本当にとても重要」だと感じたとのことでした。

 

子どもたちの本当の豊かさや幸せを伝えたい

「今、日本の若い人たちはすごく狭い世界で常識の中にとらわれていますが、監督自身もお若いのに、こういう自由な発想があったり、フィリピンのストリートチルドレンの中に飛び込んでいったりして、神が降りてくる映画を作っちゃう。その秘密がね、どこにあるんだろうってすごく不思議な気がするんですよね」と疑問を投げかけた晴佐久神父。

それに対して長谷井監督は、基本的にお金を持たない旅なので、いろんな国のスラムや道端で人と出会ってきたと言い、中でもフィリピンのゴミの山で出会った8歳の少年のエピソードを挙げました。なんでも、ゴミの山で仕事をしていた子どもたちにアイスクリームを買うためにポケットから財布を出そうとしたところ、その少年に止められ、「コウキの分は俺がおごるよ」と言われたそうです。そのとき、監督は「この人たちかっこいいなって。世代っていうか、年齢ではないというか。本当にぼくはあそこの子どもたちの力に素晴らしいものを見た」と思い、「それをやっぱりお伝えしたいなっていう気持ちで(この映画を作った)」と言います。

さらに、「子どもたちの中に本当にすごく光る美しいものがあって、彼らの視点から社会を見たときに、何か伝えられるものはないかなっていうのがこの映画で」とも語り、「やっぱり子どもたちの本当の豊かさというか幸せ、そういうことを訴える映画っていうのが監督の今後の一つの(目標ですか)」と晴佐久神父が問いかけると、「そうですね。一つ、それは続けていきたいなと」と監督は答えていました。

 

対談の様子

長谷井監督の不思議な魅力

会長挨拶の中で、『パーフェクト・レボリューション』の松本監督がクリスチャンであることが紹介されましたが、実は長谷井監督もクリスチャンです。「先ほどうかがったんですけど、洗礼を受けてらっしゃる?」と晴佐久神父が尋ねると、「そうなんですよ。セルビア正教」と答えた長谷井監督。

長谷井監督の短編映画を気に入った映画監督がセルビアでリゾート経営をしており、そこで2年ほど食事と寝る場所を提供してくださったそうです。そのときに「コウキ、洗礼を受けてみる?」と言われ、「やってみようかな」と思ったのだとか。「セルビアの新聞の一面に載ったんですよ。日本人が正教の洗礼を受けたっていうのが、本当にもう新聞の一面にばーんと。セルビアにいた日本の大使館からも電話がかかってきて、長谷井さん今めっちゃ注目受けてますよって(言われた)」と当時のことを振り返りました。

そんな監督について、晴佐久神父は「何か最初ぱっとお会いしたときに、イエスさまに会ったような雰囲気が漂っていて。不思議な方ですよね」と印象を語り、「今ここの会場内のみんながきっとこの監督を応援したいってね、心から思っている」と続けると、会場からは拍手が起こりました。

最後に、晴佐久神父は「是非一層の素晴らしい作品を送り出してほしいと思いますし、ともかくピーターに会わせてくれてありがとう。ブランカに、セバスチャンに会わせてくれてありがとう。そういう思いでいっぱいです」と感謝を述べました。そして、「私たちももうちょっと街角ではっと出会うね、セバスチャンと深いかかわりを持ちたいし、通り過ぎるんじゃなく、ピーターと何かこう家族のように触れ合えるそんな恵み」を大事にしたいと言うと、「そうですね。それが広がっていけばどんどん幸せな力が広がっていって、過ごしやすい日常がどんどん増えていくんじゃないかなと」と長谷井監督も同意し、対談を終えました。

(文:高原夏希=AMOR編集部/写真提供:生川一哉)

 


クリスマス・ギフト

このゲームは、聖人をこよなく愛する姉・嘉島理華(かとう・りか)と、その弟・嘉島理貢(かとう・りく)と一緒に聖人を学ぶ「嘉島理華のドキドキ☆聖人伝」のクリスマス特別編です。
前回の話から地味につながっていますが、聖人伝要素は皆無です。

読む速度にもよりますが、エンディングまで30分ほどかかります。
また、エンディングは2つありますので、是非トゥルーエンドに到達してください。

この物語は「ミサはなかなか面白い」の第21回以降をご覧いただくと、より一層楽しむことができます。

皆様があたたかくクリスマスを迎えることができるよう、お祈りしております。

 

【注意事項】
※パソコンでのプレイを推奨していますが、スマートフォンからプレイする場合は、全画面表示にすると見やすくなります。
※一文目が表示されるまで時間がかかることがあります。しばらくそのままでお待ちください。
※音が出ます。

 


聖人伝2 トゥールのマルティヌス

これは、聖人をこよなく愛する姉・嘉島理華(かとう・りか)と、その弟・嘉島理貢(かとう・りく)と一緒に、聖人について学んでいくノベルゲームです。

 

【注意事項】

※パソコンでのプレイを推奨していますが、スマートフォンからプレイする場合は、全画面表示にすると見やすくなります。
※一文目が表示されるまで時間がかかることがあります。しばらくそのままでお待ちください。
※音が出ます。

 

【参考文献】
池田敏雄『聖人たちの生涯』中央出版社1967年、236-239頁。
ヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』第四巻、前田敬作・今村孝訳(平凡社 2006年)、237-259頁。
印出忠夫「マルティヌス 〔トゥールの〕」上智大学新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』(KODオンライン版)。
H. G. J. Beck, “Martin of tours, ST.” New Catholic Encyclopedia 2nd Edition vol.9 (Detroit Gale, 2002) 220.
J. Fontaine, “Martin, hl.” Lexikon für Theologie und Kirche 3.Auflage 6 Bd, (Herder 1996) 1427-1428.
H. J. Thurston S.J., D. Attwater eds., “Bulter’s Lives of Saints: Complete Edition” vol. 4 (Texas Christian Classics 1956), 310-313.

(企画・構成=石原良明:聖書研究者/イラスト=高原夏希:AMOR編集部)

 


聖人伝1 セビリャのイシドルス

これは、聖人をこよなく愛する姉・嘉島理華(かとう・りか)と、その弟・嘉島理貢(かとう・りく)と一緒に、聖人について学んでいくノベルゲームです。

 

【注意事項】

※パソコンでのプレイを推奨していますが、スマートフォンからプレイする場合は、全画面表示にすると見やすくなります。
※一文目が表示されるまで時間がかかることがあります。しばらくそのままでお待ちください。
※音が出ます。

 

【参考文献】
池田敏雄『聖人たちの生涯』中央出版社、1967年、182-184頁。
小高毅「イシドルス〔セビリャの〕」上智大学新カトリック大事典編纂委員会編『新カトリック大事典』(KODオンライン版)。
上智大学中世思想研究所編『後期ラテン教父』中世思想原典集成第5巻(平凡社 1993年)505-599頁。
J. T. Crouch, “Isidore of Seville, ST.” New Catholic Encyclopedia 2nd Edition vol.7 (Detroit Gale, 2002) 602-605.
M. Ruf, “Isidor” Lexikon für Theologie und Kirche 3.Auflage 5 Bd, (Herder 1996) 618-620.

(企画・構成=石原良明:聖書研究者/イラスト=高原夏希:AMOR編集部)

 


第41回日本カトリック映画賞授賞式&上映会レポート

2017年5月20日、第41回日本カトリック映画賞授賞式&上映会(主催:SIGNIS JAPAN、後援:カトリック中央協議会広報)が、中野ZERO大ホール(東京都中野区)にて行われました。

1976年に始まった日本カトリック映画賞は、毎年、前々年の12月から前年の11月までに公開された日本映画の中で、カトリックの精神に合致する普遍的なテーマを描いた優秀な映画作品の監督に贈られます。今回の受賞作は、片渕須直監督『この世界の片隅に』(原作は、こうの史代さんによる同名の漫画)です。

受賞理由について、日本カトリック映画賞を選ぶSIGNIS JAPAN(カトリック・メディア協議会)の顧問司祭である晴佐久昌英神父は「今年ほどこんなに誇らしく、幸いな気持ちで受賞理由を述べるのもめずらしいくらいの大きな喜び、というくらい、この映画が大好きです」と話し、一番の受賞理由として、「最初に映画を観たとき、今という時間や生活、そして一人ひとりを大切にしなければと思いました。一人ひとりのうちに秘められた尊さをもっと大切にしたい。その気持ちを皆さんにも味わってほしい」との思いを語りました。さらに主人公のすず(CV:のん)が自分にとっては実在の人物で家族同然だと述べた上で、「この世界の片隅に誰が住んでいるのか。この世界の片隅に、どうでもいい人がいるわけではない。その人が幸せでなければ私も幸せになれない。この世界の片隅に幸せが訪れない限り、誰も幸せになれない。こんな当たり前なことにもう一度気付かせてくれた。わたしはこれからすずさんと一生いっしょに暮らしていくことになります」と熱く思い入れを語りました。

この映画が教えてくれる福音的なメッセージとして、「これらの小さなものの一人を軽んじないように気をつけなさい」(マタイ福音書18章10節)という言葉を引用し、「聖書の時代も今この現代も、この世界の片隅の一人ひとりが軽んじられている。しかしこの世界の片隅こそが、この宇宙の中心なんです」と話し、他者や弱者を大切にするまなざしや思いを新たにしてくれるこの映画への感謝を述べました。

 

授賞式の様子(土屋至・SIGNIS JAPAN会長より、表彰状が手渡される)

クリスマスみたいなのをやれるのが平和だと思う

晴佐久神父と片渕監督の対談は、「日本カトリック賞と聞いてどう思いましたか」という晴佐久神父の質問から始まりました。片渕監督は「そんな賞があるんだなと思った」と正直に答えましたが、実は家系がカトリックと縁があるとのこと。ひいおばあさんがカトリックの信者で、ご自身も教会に所属の幼稚園に通っていたそうです。

それを受けて、「冒頭で賛美歌が流れていたことと何か関係があるのですか」と晴佐久神父が聞くと、「そういうわけではなく、クリスマスのシーンを表現するために賛美歌を使った」ということです。原作は翌年の昭和9年の1月から始まっているため、このシーンはアニメオリジナルです。これについて監督は「クリスマスみたいなことをやれるのが平和なんじゃないかなと思って」と話しました。このクリスマスのシーンは非常に重要な意味を持っています。

 

理不尽さと救い

次に、晴佐久神父が「映画を観て、普段の生活が突然壊される恐ろしさや理不尽さ、機銃掃射(きじゅうそうしゃ、機関銃で敵をなぎ払うように射撃すること)のリアリティを感じました」と感想を述べると、監督は「本当は日常だけを描きたかったんです」と話しました。しかし、「原作はあえて戦争も描いているので、それによって日常のかけがえのなさや意味深さが見えてくると思った」と続けました。

また、「すずさんと晴美さんが歌を歌ってるところから始まって、それがラッパの音になって、それから大きな音が聞こえてきて、大砲の音が鳴って」というような戦争の描写についても、「音によって戦争が発展していくのは、漫画では表現できないこと」であり、色についてもそれが同じであると監督は言います。空が爆発しているシーンは非常に色とりどりで、晴佐久神父は「きれいだなと思っちゃった」と話しました。実際にお二人が戦争を体験した人から聞いた話には、赤く染まった空がきれいだったとか、B29がきらきらしていたという感想もあったそうです。

できあがった2時間の映画を通しで見たあとに、監督は「すずさんを救いきれていないような気がした」と感じたそうです。生き残ってしまった人が自分のせいで誰かが死んでしまったのではないか、と罪の意識に苛まれてしまう「サバイバーズ・ギルト」というものがあります。監督は、すずさんの背負ったものが大きすぎると感じ、エンドロールにもアニメーションを入れました。「あのエンドロールのおかげで、私たちも本当に救われた気持ちになる」と言う晴佐久神父に対して、監督は「本当にあそこまでそろって一本の映画なんじゃないかな」と応えました。ここもアニメオリジナルのものです。

 

片渕監督と召命

この映画によって救われたのは、すずさんや観客だけではありません。晴佐久神父が「監督のこの映画を作ろうと思ったモチベーションはすごいなと思いました。それはただのエゴや仕事を超えた何か、これはどうしても作らなければっていうような思いが自分の中にあったのではないかと思ったんですが、いかがですか」と尋ねると、監督は「一つはこれを作ることで、自分自身としても救われるんじゃないかなという気がしました」と答えています。

片渕須直監督(後ろは幸田和生・SIGNIS JAPAN顧問司教)

監督は原作を知ったときから、これは多くの人に観てもらえるものになると思っていたそうですが、「こういう映画を形にすることができるなら、自分が今まで生きてきたこと、経験してきたことが色んな意味でその映画の中で結実できるというか、自分がここまでやってきたことが無駄じゃなかったんだなという意識を抱けると思った」と続けました。

また、この映画を作るための資料集めが苦にならなかったという「オタク気質」な監督は、戦闘機や飛行機がお好きだそうで、その知識も豊富です。そのような積み重ねがこの映画につながっており、「このために僕は存在していたんだろうかって思ったくらい」だと話します。それに対して、晴佐久神父が「カトリックではそれを『召命』って呼ぶんですよ。神に選ばれて使われているんだって考えです」と言うと、監督は「誰かに使われているんじゃないのかなっていうふうな気持ちは本当にしました」と語ります。

 

どこにでも宿る愛

映画の最後のほうで流れる歌に、「どこにでも宿る愛」という歌詞が出てきます。「周作さんという旦那さんとすずさんは本当にたまたまの偶然みたいなもので出会ったかもしれないけれど、出会ったがゆえに愛情が芽生え、育っていくこともある」と監督は話し、「一番最後の広島で見つけてきた孤児ともたまたまの出会いなんですけど、そこに宿る、宿っている、育っていく愛があったろうなと思う」と続けました。

原作では、この言葉はすずさんの失われた右手の言葉として出てくるそうですが、「そういう意味では、悲劇は悲劇だけれども、決して悲劇で終わらず、失ったかに見えるものが非常に大きな働きをしている。希望になりますね」と晴佐久神父は話しました。

 

一人ひとりの大切さ

印象に残ったシーンとして、「群集のシーンが忘れられない。本当に一人ひとりが生きているというか、ちょっと駅ですれ違っているような人、ちょっとおしゃべりしているような人も、その一人ひとりにすずさんと同じ場面や人生というか、喜びや悲しみがあるんだなと思った」と語った晴佐久神父。それについて監督は、「自分は映画の中に存在している群集のほうかなって思ってしまうので、自分もここに存在しているから気にしといてね、という感じで」とコメント。

それを受け、晴佐久神父は「一人ひとりを大切にして作られている映画だなという気持ちになったし、僕らも自分中心で生きているけれども、ふっとすれ違った一人ひとりがとても尊い人生を生きているんだなと感じさせてくれた」と話しました。さらに、一人の司祭としてこの映画を選んでよかったことでも、「この作品の奥に一人の人間の美しさっていうものを私たちはきちんと見ることができる、表現することができる、そういう希望や励ましをもらったのが大きかった」と、動くすずさんに出会えたことの喜びを熱く語っていました。

 

晴佐久神父とアニメ

監督は幼稚園に上がる前からアニメーションを見始め、東映の長編アニメーションや鉄腕アトムというタイトルが出ると、同世代かもしれない、と晴佐久神父が反応(片渕監督は1960年、晴佐久神父は1957年生まれ)。さらには「映画を観ていてカット割りが本当にテンポよくって、こんなに観ていてゆったりしたほがらかな気持ちで観ていながら、よく見るとカット割りは本当に細かくきちんとつながれていてびっくりした」と話しており、受賞理由でも『君の名は。』に触れるなど、晴佐久神父はアニメーションにかなり詳しいようです。「カット割り」は映像関係の専門用語ですが、神父様の口からそんな言葉が出ることに少し驚きました。さすがはSIGNIS JAPANの顧問司祭。

晴佐久昌英神父

晴佐久神父が指摘したように、テンポが速いのには理由があります。原作の漫画は週刊連載でたくさんのエピソードから成っているのですが、それをできるだけ全部入れようとしたためにこのようなテンポになったそうです。晴佐久神父が「本当にテンポがぽんぽんと、もっと観ていたい、美しい絵なのに、あっという間に過ぎていく」と名残惜しそうに言うと、「すずさんのある一日を長く描いて、代表的な何日しか描かないという方法もあったのですが、すずさんがお嫁に来てからその先の丸二年間、こういう毎日があったんだよっていうことを紹介したかったんです」と監督は述べました。

そして、晴佐久神父が「ずーっと長く愛されますよ。『この世界の片隅に』以前以降って言われるくらい、大きな影響力を持っていて、特にこの年代(70代や80代、時には90歳を越えた方もいたようです)の方たちがアニメを観るっていう(のはなかなかないこと)」と絶賛すると、片渕監督は「そういうのは本当にありがたいなと」と述べ、続けて「アニメーションには色んな可能性がまだ秘められていると思っていますので、こういう映画も作れるし、また別のタイプのも作れるでしょう。色んなジャンルがアニメーションという技法で表現できるし、作られると思いますので、もしそういうのを見かけたときは是非ご覧になっていただけたらありがたいかなと」とアニメーションの可能性を語りました。

 

映画の見どころ

対談の様子

最後に、大切に観てほしいシーンを聞かれた監督は、意外にも「服」に注目してほしいと答えました。その理由を「すずさんは色んな服を着ているように見えますが、実はそんなに多くの数を持っているわけではない。小さいころにおばあちゃんがくれた椿の柄の着物や、お義姉さんモガ(モダンガール)だったんですね、と言っていたお義姉さんの服がどうなっていくのかというように、服の上にも歴史があるので、その服の運命を観てほしい。びっくりするくらいドラマチックです」と語りました。

最盛期よりは上映館数が減ったものの、今回のようなホールでの上映や、季節柄8月にも再上映の可能性があるとのこと。最後に、監督は「何度も観ることで、また違ったものが見えてくると思います。群集の一人ひとりに色と表情がついていて、世界の切れ端がこの映画の中にあります。画面の真ん中だけでなく、端っこにもたくさんのドラマが潜んでいるのかもしれません」と述べ、晴佐久神父が「画面の片隅にも注目ということですね」と締めくくりました。

(文:高原夏希、写真:石原良明/AMOR編集部)

 


『ローマ法王になる日まで』トークディスカッション付き特別上映会レポート

2017年4月27日、上智大学において、6月3日より公開される映画『ローマ法王になる日まで』のトークディスカッション付き特別上映会が開催されました。

上映終了後のトークディスカッションは「宗教対立やテロが頻発する現代に大きなメッセージ! 現在のローマ法王・フランシスコの半生から『平和な社会』を考える」と題し、本作の監督であるダニエーレ・ルケッティ氏、上智大学神学部教授でカトリックセンター長のホアン・アイダル神父、イエズス会日本管区長のレンゾ・デ・ルカ神父が登壇しました。二人の神父はアルゼンチン出身で、サン・ミゲルの神学校時代に、ローマ教皇フランシスコ(当時ベルゴリオ神父)から直接指導を受けています。

 

ダニエーレ・ルケッティ監督

バチカンと世界との間の壁に穴を開けた人物

まず、監督から二人の神父へ、二人の神父から監督へと、交互に質問が交わされました。ホアン・アイダル神父からは、「ヨーロッパ人から見た教皇とは、どんな印象ですか。南米人だなと感じるようなことはありますか。また、今までの教皇との違いなどあれば、教えてください」という質問がありました。

それに対して、ダニエーレ・ルケッティ監督は、「フランシスコ教皇は、ダイレクトな形で人々とコミュニケーションを取っているという印象があります。また、無宗教の人とも話をすることができる。このようなことによって、バチカンと世界との間の壁に穴を開けたと思います」と答えました。また、映画本編(つまり神父や補佐司教時代)の人物像についても、「人々のために有益なことをしようとした人だが、必ずしもヒロイックではない」と述べています。

アイダル神父も「自分の感情を抑えて人々のために、というのは素晴らしいことですが、自分自身の苦しみを生むものでもあったでしょう」と話し、「結び目を解(ほど)くマリアに出会ったことによって、初めて他人のことだけではなく、自分のことも考えていいと思えるようになったのでは」と続けました。この「結び目を解く聖母マリア」というのは、映画本編で非常に重要な意味を持っています。

 

ホアン・アイダル神父

教皇は右でも左でもなく、キリストの側にいる

次に、会場にいた学生からの質問へと移り、その中に「教皇はポピュリストなのですか」という質問がありました。ポピュリズムとは、「民衆の情緒的支持を基盤とする指導者が、国家主導により民族主義的政策を進める政治運動。1930年代以降の中南米諸国で展開された。民衆主義。人民主義」(『大辞林』第三版より)であり、政治的な意味を持っていますが、「ポピュリストが組織や国(の利益)よりも人を大切にする、という意味であれば、そうでしょう」とアイダル神父は答えました。ルケッティ監督は「貧しい人のいる地区に実際に赴くという活動は、あまりヨーロッパの教会ではやっていないように思われます。アルゼンチンでは、政治の力が及ばないことも教会がやっている」と貧しい人を助けるベルゴリオ神父の姿を賞賛しました。

また、映画の中でベルゴリオ神父が「あなたはどちら側の人間か」と聞かれる場面が二度あるのですが、一度目は「そんなことに意味はない」、二度目は「キリストの側にいる」と答えています。これについて、アイダル神父は「教皇は自分がどう見られるかを嫌い、あまりそういうこと(右か左か)を考えていない。それは見る側の問題であって、教皇は右でも左でもないと思います」とコメント。さらに、「枢機卿時代は保守的だったと言われますが、それにも理由があります」と述べ、「政治家がカトリックだと言いつつ、その精神に反するようなことを行なっていたので、彼は真に教会を守る立場にありました」と続けました。

 

レンゾ・デ・ルカ神父

「平和な社会」をめざして

最後に、司会者から「宗教対立やテロが頻発している現代社会において、ローマ教皇の役割や存在はどんな意味を持つと思いますか」というトークディスカッションのテーマに関する質問がありました。

ルケッティ監督は無宗教だそうですが、「宗教は平和をもたらすことができるものだと思います。そしてそれは、自分の宗教の外に対してもそうであってほしい。文化的スペースを広くし、対話を多く持ってほしい」と宗教間対話、あるいは無宗教の人たちとの対話、そして平和についての希望を述べました。

ルカ神父は「教皇はリーダーとしての存在感が非常に大きいです。現代はリーダーに対する不信が見られるので(教皇には期待できる)」と述べ、アイダル神父は「世界を変えたいという思いはどんなリーダーも同じだと思いますが、それぞれ方法が違います。教皇は暴力ではなく、ゆるしや他者中心ということを大切にします。私たちはそんな教皇に希望を持っています」としめくくりました。

 

上映会・トークディスカッションを終えて

リーダーが変わるとき、人は大いに期待します。しかし、その期待がすぐに落胆に変わってしまうことも少なくありません。ところが、教皇フランシスコは、就任から現在までその人気や期待、信頼を持続しているように思われます。それはやはり、教皇にそれだけの実績があるからでしょう。多くの人々とダイレクトに触れ合うことをはじめ、アメリカとキューバの国交正常化交渉の仲介、ロシア正教会モスクワ総主教との歴史的な対話、アメリカと北朝鮮との対話の呼びかけなど、自ら平和のために精力的に働き、カトリック信徒だけではなく世界に大きな影響を与えています。

しかし、この映画の中のベルゴリオ神父は「必ずしもヒロイックではない」のです。ヒーローのようにカッコよくスマートに物事を解決できればよいのですが、現実はもっと複雑で難しく、それこそ「結び目」がたくさんあります。右か左かではなく、「キリストの側にいる」という立場はシンプルではありますが、いざ実際に行動しようとするとなかなか思うようにいかず、政府ばかりか教会内の様々な立場との間で板挟みになって苦しむことになります。

それは、管区長や補佐司教としての責任感や、仲間や友人などより多くの人を助けたいという気持ちが強くあったからでしょう。何より、カトリックのキリスト者としてふるまおうとしたがゆえに、そのような困難に直面していたのだと思います。そして、それが真に平和を作る人間を形づくったのではないでしょうか。

教皇は現在も世界中に存在する「結び目」を解くために奔走しています。すべての人が教皇のように大きな行動を取れるわけではありませんが、人知れず行なわれた小さなことも、身近な誰かの「結び目」を解いているかもしれません。それを多くの人の目に見える形で行なっているのがフランシスコ教皇であり、だからこそ人々は教皇に大きな希望を持っているのだと思います。

(文:高原夏希、写真:石原良明/AMOR編集部)

 

【登壇者プロフィール】

ダニエーレ・ルケッティ監督
1960年ローマ生まれ。友人のナンニ・モレッティが監督した『僕のビアンカ』(83)にエキストラ出演後、同監督作品で助監督、俳優として関わる。CM制作を経て、映画デビュー間もないマルゲリータ・ブイを起用した長編『イタリア不思議旅』(88)でデビュー、イタリアのアカデミー賞にあたるダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の最優秀新人監督賞を受賞、第41回カンヌ映画祭<あ る視点>部門ノミネートされた。代表作は、エリオ・ジェルマーノにカンヌ国際映画祭の男優賞をもたらした『我らの生活』(10)。他に東京国際映画祭で上映された監督の自伝的作品『ハッピー・イヤーズ』(13)など、コンスタントに作品を発表しているイタリアの名匠である。

ホアン・アイダル神父:上智大学神学部教授・カトリックセンター長
1965年生まれ、アルゼンチン出身のイエズス会員。現ローマ法王フランシスコ(当時ベルゴリオ神父)が1980-86年にかけて院長をつとめたサン・ミゲル神学校神学科・哲学科にて通算4年間直接指導を受ける。

レンゾ・デ・ルカ神父:イエズス会日本管区長
1963年アルゼンチン生まれ、1981年イエズス会へ入会。サン・ミゲルの神学院時代、現ローマ法王フランシスコ(当時ベルゴリオ神父)に3年間直接指導を受ける。1985年来日。上智大で日本語、哲学、神学を学び、長崎に派遣され1997年より日本二十六聖人記念館副館長を務める。2004年より日本二十六聖人記念館館長を務め、キリシタン歴史研究に貢献。2017年よりイエズス会日本管区長。

※本記事ではカトリック中央協議会の方針に従い、作品名などを除いては「法王」ではなく「教皇」という表記で統一させていただきました。

 


『マンチェスター・バイ・ザ・シー』

人は誰でも、癒えない傷や忘れられない痛みを持っている――そんなことを考えさせられる映画に出会いました。それが『マンチェスター・バイ・ザ・シー』です。

この映画は、第89回(2017年)アカデミー賞で主演男優賞と脚本賞を受賞しました。マンチェスターといってもイギリスではなく、アメリカのマサチューセッツ州に「マンチェスター・バイ・ザ・シー」という町があり、本作はそこが舞台となっています。

© 2016 K Films Manchester LLC. All Rights Reserved.

ボストン郊外で便利屋として働く主人公のリー・チャンドラー(ケイシー・アフレック)は、兄のジョー(カイル・チャンドラー)の死をきっかけに、昔住んでいたマンチェスター・バイ・ザ・シーに戻り、甥のパトリック(ルーカス・ヘッジズ)の後見人として一緒に暮らしながら、自分の過去と向き合っていきます。

ここからわかるように、この物語では「過去」が重要なカギを握っているのですが、その「過去」の見せ方が実に秀逸です。というのも、回想シーンというのはどこかでまとまって描かれるというパターンが多いですが、この映画ではそうではありません。

運転しているとき、テレビを見ているとき、海を見たときなど、ふとした瞬間に過去の記憶を思い出しては消えていく、というように、回想のタイミングに非常にリアリティーがあります。その過去はどれも幸せそうで微笑ましく思える反面、こんなリーにこれからどんなことが起こるんだろう、という不安も湧き上がります。

© 2016 K Films Manchester LLC. All Rights Reserved.

また、過去の出来事もすべて明かされるわけではありません。もちろん、最も重要な出来事は判明しますし、現在のシーンから、こんなことがあったんだろうなという推測もできます。過去を描かないということによって、実はその部分こそがリーにとって一番の「癒えない傷」や「忘れられない痛み」なのではないか、と感じました。

このほかにも、説明やセリフが少ないシーンがしばしばあり、その余白をどう埋めるか想像するのも一つの醍醐味です。皆さんも是非劇場でご覧になって、余白に想像を働かせてみてはいかがでしょうか。そしてそれは、まるで本当に実在しているかのようにリアリティーのある登場人物たちの「癒えない傷」や「忘れられない痛み」に寄りそうことなのかもしれません。

(高原夏希/AMOR編集部)

 

2017年5月13日(土)よりシネスイッチ銀座、新宿武蔵野館、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国ロードショー

原題:Manchester by the Sea

監督・脚本:ケネス・ロナーガン/出演:ケイシー・アフレック、ミシェル・ウィリアムズ、カイル・チャンドラー、ルーカス・ヘッジズ、カーラ・ヘイワード

2016年/アメリカ/137分© 2016 K Films Manchester LLC. All Rights Reserved.

ユニバーサル作品/配給:ビターズ・エンド、パルコ

公式サイト :http://www.manchesterbythesea.jp/