「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 5

戦争の消えない傷

伊藤 直接クメール・ルージュはご存じないにしても、その直後ぐらいからカンボジアの激動みたいなものは見ていらしたんですね。

後藤 そうです。一人ひとりはほとんどしゃべらないんですけれども、例えば、私の子どもだった子は、ベトナム兵をナイフで殺しているとか、同じ村の中で、あの人がポル・ポトについた、自分の親はあの人たちに殺されたというのがあります。でも、今はみんな黙ってしまって、心の中に持っていてもお互いに話しません。やはりトラウマとして残っています。あれはどうやって解決していくんでしょうか。この方たちもいつか亡くなっていくでしょうから、そこまでいかないと消えないのかなという不安はあります。彼ら一人ひとりの中にある心の傷というのは、私が戦災にあって、すごい傷を受けて、それは今でも残っています、死ぬまで消えないと思っています、そのトラウマと同じようなものを彼らもみな持ち合わせています。ただ、平和に暮らすためにそれを表に出さないというだけです。

伊藤 ラーさんと神父様とのやりとりで、誰が考えてもラーさんの両親は殺されていると思うのを……。

後藤 それは失礼だと、生きているかも知れないのにというのは、彼の実感なんですね。

伊藤 人を3人殺したという話もありましたね。

後藤 鬱になってしまって、自殺寸前までいったんです。それで放っておいたら自殺するというので、精神病院に入れたんです。精神病院なら監視がついています。自殺させないために半年まではいきませんでしたが、入れました。

伊藤 戦争というのは、殺す殺されるという単純なものではない、深いものがありますね。

後藤 これは死ぬまで持ち続けなければならないんでしょうね。

伊藤 それを学校づくりということで、癒やしとおっしゃっていましたけれども……。

後藤 それしか方法がありませんでした。いくら言葉で慰めても、効き目ないでしょうね。

伊藤 ある意味学校をつくるということで、確実に癒やしはできるということでしょうか。

後藤 そんなことで、少しお手伝いできたかなと思っています。それは同時に私の癒やしなんですね。

伊藤 映画の最後に、自分の幸せを求めていると、他人を不幸にしてしまう。でも他人の幸せを求めていると、自分が幸せになっているとおっしゃっていますね。

後藤 それは実感ですね。

伊藤 司祭職の前にキリスト者、あるいはキリスト者ではなくても、人間というのは、そういう生き方をすることで、全員が幸せになれるということなんでしょうか。

後藤 そうですね。ですから、私の中では理屈はないです。戦争絶対反対なんです。戦争によって物事は何一つ解決しないどころか、戦争によって傷を負った人は、その傷を死ぬまで持ち続けますし、それで死んでいった人たちは無念だったと思います。だから戦争による解決というのは、私は信じません。

伊藤 理屈なしに絶対反対。

後藤 反対。何が何だって反対です。

伊藤 何が何でもですね。イエスさまもそういう生き方をなさっていますね。

後藤 よく、本当のキリスト教かと言われるんです。どうも阿弥陀の匂いがすると言われます。お前のキリスト教は阿弥陀のキリスト教ではないかと言われるんです。僕は小学校6年生まで、毎晩お経の練習をさせられて、阿弥陀様の前でお経を上げて、私の中には骨の髄までしみ込んでいて、そのしみ込んだ阿弥陀様の信仰を突き抜けてキリスト教に出会った。だから僕は仏教を否定してキリスト教になったのではなく、それを受け入れて、その向こうでキリスト教に出会ったと言っています。

父に対しても同じ。最後には死ななければならない。公会議の前でしたから、あの頃は洗礼を受けなければ救われないと私もそう教えていました。父が死んだ時は、公会議の前だったんです。その時はもう神父をやっていました。そうなると、父になんとか洗礼を授けなければならないということで、いよいよ危なくなってきたという時に、「坊主何年やった」「60年やった」「何をやっているんだ。新聞配達や牛乳配達をやっているのと同じだ。お経配達して、お布施もらって生活をしてきた」。

父は、法然、親鸞、蓮如のお三方が大好きでした。私も今好きなんですよ。そこで、「法然、親鸞、蓮如は極楽にはいらっしゃらないよ」。父はびっくりしてしまって、「どこにいるんだ」と言います。「当たり前だ。あんな立派な方は極楽を突き抜けて天国だ。お父さん、あなたは無理です。あなたは極楽止まりです」と言いました。すると、「俺はどうしたらいいんだ」と。ひどいですね。それは偽りの計画ですが、「あなた、そのままじゃダメです。洗礼を受けなさい」と言いました。だまして洗礼を受けさせたようなものですが、神様は許してくださるでしょうね。そういうわけで親不孝は一つ償ったつもりです。

母の方は全身焼けただれて、川に横たわっていたわけですから、この母はどうなるのかいつも心配でした。この母を天国に行ったときには探さなければならないと、キリスト教的なことを言っています。やはりすごく気になります。

伊藤 意図して仏教、真宗とキリスト教を融合したということではないんですね。

後藤 細胞にしみ込んでいて、何にも矛盾がありません。坊主が妻帯するとか、大いに結構ではないですか。その上で私がいるんですから。

伊藤 本日はいろいろとお話を伺わせていただき、どうもありがとうございました。

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

公式ホームページ:http://father.espace-sarou.com/


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 4

善意の人たちに囲まれて

伊藤 男の子10人、女の子4人を受け入れましたが、戸籍上も親子になったんですか。

後藤 それができないんです。今はどうか分かりませんが、あの頃は、カンボジアの子どもたちを引き取っても、里親になるだけで法律上は何にもないんです。私の戸籍に入れてもいいと言ったんですが、それができないということでした。それは、遺産相続で他の親族に譲りたくないので、里子のような子を自分の戸籍に入れて、その子たちに遺産をやりたいわけではないんだけれども、その遺産を憎たらしき親族に渡さないという手もあったんです。それを防ぐために、一切戸籍に入れるということができませんでした。

伊藤 では、養父として……。

後藤 僕も子育ては初めてです。今で言われたら、たぶん虐待ですね。あるひとつの言葉、絶対言ってはいけない言葉がありました。例えば、ババ抜きをしますと、ジョーカーが来て、「チェンマー」と言うんです。また、茶椀を運んでいて、落として割れたら、「チェンマー」と言うんです。それはいかにも「しまった」という感じでした。ですから私も一緒になって、「チェンマー」と言っていました。

あるとき、大学の先生をやっているカンボジア人にどういう意味かを聞いたら、彼は真っ赤な顔をして、「誰がそんな言葉を使っていますか」と言います。「うちの子どもは全員使っています」と言いますと、「普通の家庭では、カンボジアといえども、そんな言葉を使わせません」と。結局はキャンプの中で、ごたごたした生活をしている中で、いろいろな人がいますからそこで覚えたんでしょう。「その言葉を使わせてはいけません」と言われました。「意味は何ですか」と聞きましたら、「あまりにも恥ずかしくて説明できません」と言います。「僕も意味は分からなくて使っていますが、分かって禁止するのはできるけれども、分からないまま禁止することはできません」と言いました。すると、教えてくれましたが、その言葉はあまりにもひどすぎて。マーというのは母親のことです。自分の母親が侮辱されたように感じてしまって、以後一切その言葉を使ってはいけないと言いました。

「これからもしこの言葉を使ったら、お尻を出せ」。ほうきの柄で思いっきりお尻を叩いたんです。叩かれた奴は、ミミズ腫れになって、夜痛くて眠れなかったと言うんです。あれは、今でいう虐待ですね。そしたら1週間で止まってしまいました。それ以後、私のところの子どもたちは誰ひとり「チェンマー」という言葉を使わなくなって、今に至っていると思うんですけれども。

そんなことがあって、私の教育というか、子どもたちを育てるという面で、行き当たりばったりでした。行き当たりばったりの中で、私としては、この子どもたちが日本に来て、教会に引き取られて、そこで大事に育てられたということだけは、感じさせてあげたいなと思って、やりました。

今でもそのことは話に出ます。彼らは今50歳ですから。50の男が「親父に叩かれて、ミミズ腫れで痛かった」と言っています。

伊藤 私も昔、バングラデシュの子どもたち、現地の貧しい子ども、親がいなかったりとか、極貧の子どもたちの里親制度をしていたことがあります。現地にお金を送っているだけでも大変だったり、里親の方が重荷になったりします。それなのに、生身の子どもたち、それも異国の、最初は日本語もまったく分からない子どもたちを引き受けるというのは……。

後藤 それは何も知らないからできたことです。無手勝流だからできたんでしょうね。お金もなくて、どうやっていったらいいか分からなくて。学校に行ったことがない子どもを、急に私が引き取って、しばらくして学校に行くことになった時に、前の晩震えているんです。それで一緒に寝ようと言って、2人を両脇に抱えて寝ました。それがもう50を超えた親父になってしまいました。

伊藤 でも、「お父さん、お父さん」と日本語で話す姿が映画でも出てきましたけれども、よく育てられましたね。

後藤 でもね、あれはよく育っているのが出てきているだけであって、よく育っていないのは、私の前には出てこないんです。私のところを出た途端に鉄砲玉と一緒で、二度と帰って来ない奴らもいるんです。あそこに出て来たのは、今も付き合っている子たちです。

それだけのことができたのは、たくさんの人の援助です。特に井之頭小学校の先生、武蔵野1中の先生方、理解のある先生方がよく協力してくださいました。小学校の先生で1人の先生は学校が終わってから、校長に特別の許可をもらって、私のところに来て、うちの子どもたちに日本語を教えてくださいました。中学校の1人の先生は、子どもが高校受験になったときに、朝日新聞の天声人語を読んで、先生の家に来させて、読ませて、何が書いてあるか、どういう意味なのかを教えてくれました。教え子を自分の家に呼んで教えるということはできないことですけれども、校長先生の許可を得てやってくれました。命がけで助けてくださった先生もいらっしゃいます。自分のクビがとぶかもしれないということもありました。

伊藤 一人ひとりの善意、無名の方々の善意があったからできたことですね。

後藤 それは本当に助けられたからできたので、助けがなかったら、私は本当に途中で放り出したでしょうね。

伊藤 考えずに、まずはやると決めて、そこから……。

後藤 そうですね。無鉄砲といえば、無鉄砲でした。

伊藤 実際にカンボジアにいらして、その頃はポル・ポトの影響がまだまだある頃ですよね。

後藤 プノンペンの町中に土嚢が積んであるんです。ちょっと田舎に行きますと、土嚢の上に機関銃がついていて政府軍の兵隊がいるというようなところに行ったんですけれど、われわれはあまり危機感がないのか、あまり怖いとは思いませんでした。

伊藤 そんな頃からいらしていたんですね。やっとヘン・サムリン政権になって、町中は押さえたという時期ですね。

後藤 でも町中には軍隊がいました。それがだんだん数が減って、UNTACが入ってきて変わってきたんですけれども、それから今日まで見ていて、あまりいいかたちではないですね。今度総選挙がありますが、どうなるかなとみています。

 

 


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 3

父との関係

伊藤 今のお話ですと、お父様ですが、帰って来いと言われるまでは勘当だったわけですか。映画に、お母様のことを思うあまりにというエピソードがありましたけれど……。

後藤 父が再婚すると言った時に、親父をぶん殴っちゃったんです。親を殴るもんじゃないですね。今でも僕の方がトラウマを受けてしまっています。親を殴って平気で神父業をやっているというのは、非常に恥ずかしいですね。

伊藤 映画の中で、お父様は叙階式に来て下さっていますよね。

後藤 それも行かないと言っていたんですが、その日の朝、御聖堂に入るまで父が来ているのを知りませんでした。前の日に急に気が変わって行ってやろうということになったらしいんですね。

父はその時初めてカトリックの式に与ったんです。司式は京都の司教様だったんですが、「なんだ、あのスルメの帽子。ぜんまいの杖を持って。しかもあの指輪はヤクザの指輪ではないか」と言うんです。「あれは誰なんだ」と言うんです。「あれはカトリック教会の中でもえらい司教様というんだ」と説明しましたが、その程度でした。

関係は悪い関係ではないけれども、気持ちのどこかに父を疑っていました。つまり、同じ防空壕に入っていたのに、生きているのは父だけです。後は全員死にました。私と兄は家にいませんでした。ですから全責任は親父にあるというわけで、あんた自分だけ一番先に逃げたんだろうと、責めたんです。やはり本当のことを言っていないなという疑いの気持ちはずっと続きました。だからどうしてもずれるといいますか、確執がありました。

伊藤 その確執があったから、浄土真宗のお寺の息子さんなのにカトリック司祭になった。

後藤 そうです。それは親父に社会的ダメージを与えてやろうという気持ちもあったんです。つまり、坊主の子が耶蘇になるというのは、あんな小さな町では、すぐに評判になります。実際に父は私が洗礼を受けたときに、非常に怒ったわけです。結局「お前のおかげで、自分の立場がない」というようなことでした。その時僕は殉教者気取りですから。

ちょうどその次の年にフランシスコ・ザビエルの聖腕が来ました。1949年のことです。昔の侍者服、真っ赤な袴はいて、オープンカーの前に立って香をもって、ザビエルの右腕に献香しながら、後ろ向きに町中を歩きました。それをたまたま隣のお坊さんが私を見つけて親父に言いつけました。「お前の家のバカ息子が耶蘇になってチンドン屋みたいな格好をしてなんかやっていたぞ」と。それで親父がまた怒りまして、ざまぁみろと思いました。非常に親不孝でした。ま、その償いを今しているんでしょうかね。

伊藤 そんなことがあって、カンボジアの子どもたちを引き受けた時には、必死になっていくわけですね。

後藤 償いですね。

伊藤 「father」というタイトルも、神父のファーザーと父親のファーザーがかけ合わさっているわけですね。

後藤 ですから小文字にしました。大文字にすると、私個人になってしまいます。小文字にしておけば、お父さんですし、神父であるということにもなります。


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談2

女性観

伊藤 映画では子供の頃のお母様の思い出とか、おっぱいを吸ったとかいうことをおっしゃっていましたが……。

後藤 あれは小学校の5年生ぐらいのことだったろうか。兄妹がたくさんいたものですから、親の関心が生まれてくる小さい子にいきます。母の愛情をこちらにひきつけたかったんでしょう。そういうこともありました。恥ずかしいですね。

伊藤 ドミニコ会の押田神父様が同じようなことをおっしゃっていました。お母ちゃんの垂乳根が……と。

後藤 押田神父さんのお母さんも、ここの所属だったんです。よく知っています。そうですか、垂乳根の師ですか。

伊藤 後藤神父様が司祭になろうと決めた時に、彼女からの手紙に返事を書かなかったということですが、押田神父様も同じようにドミニコ会に入る時に、お母様が駅に見送りに来てホームでずっと手を振っていたのに、見もせずに去ったというようなことをおっしゃっていました。

後藤 映画の場面ではかわいいお嬢さんでしたが、あんなにかわいいお嬢さんではなかったんです。田舎の男にとって、東京で焼け出されてきた女性でしょう。東京の女性というのはすごくきれいに見えるんです。あの頃は相合い傘だって許されないわけでしょう。だから、僕はその彼女をたった1回だけ抱きしめたの。それは昭和天皇が地方巡幸なさった時、天皇を見に行きました。彼女は私より背が低くて見えないわけです。その時に思う存分後ろから抱き上げて「見えるか」としたわけです。後にも先にも1回だけです。

伊藤 断ち切るというのは、後藤神父様や押田神父様の世代では、司祭職に向かうという時には、もう帰らないという決意だったわけですよね。

後藤 そうですね。一刀両断の元に断ち切ったという感じでした。だからそれっきり行き来もしないし……。全部断ち切ったつもりだったのに、夏休みがきて、僕は勘当されたもんですから、家に帰れなかったんですね。みんな家に帰ってしまって、神学校は、私1人になってしまいました。淋しくなって家に手紙を出しました。すると、親父がすぐ帰って来いと言ってくれました。

そして帰って行きますと、親父が今日、あいつが帰ってくるからとビールを3本買って来て、当時は冷蔵庫がありませんから、朝、籠の中にビールを入れて、井戸の中に吊して冷やして置いてくれました。1杯飲めというので、出してきて1杯飲んで、「おい、お前、彼女から手紙が来ているぞ」と言って束になった手紙をドンと出してきました。あれで助かったんです。もしあれを転送していたら、指導司祭に呼ばれて「この女は何者か」と言われ、それでクビになっていた奴もいるんです。あの頃は手紙が来ると、指導司祭がみんな封を切って見てしまいます。それでいつもいつも来ると、これは何者かということになってしまいます。

伊藤 神父様は司祭になるために断ち切っても、彼女の方は、思っていたわけですよね。

後藤 手紙を出しても何も返事は来ないし、最初の頃は熱烈な手紙ですが、だんだんトーンが下がっていくわけです。そんなわけで全部読んで、初めて悪いことをしたなと思い、その手紙をかまどにくべて焼き、ハガキで返事を書きました。あの頃のハガキは小さかったんです。その小さいハガキの表に半分線を引いて、そこから書き始めて、どうしても書き切れないので、ハガキ5枚にその1、その2、その3と番号を振って、投函しました。なぜハガキに書いたかというと、家族みんなに見てもらいたかったんです。それで終わりです。

これには後日談がありまして、今から10年ぐらい前、NHKのラジオ深夜便に2晩続けて出たんです。1ヵ月後に評判がいいからと再放送がありました。再放送が終わった次の日にインタビューをしたオリンピックをやった花形アナウンサーの川村さんが「彼女から電話ありましたか」と電話してきました。「彼女が生きているか、死んでいるか、どこにいるか知りません」と答えました。「おかしいですね。300万人の人が聞いているんですから、生きていれば聞いているはずです」というんです。連絡もないし、もし生きていて連絡をしてきたって、70何年も何の行き来もしていないのに、急に出て来たって、話題もないし、続かないし、迷惑ですよ。そういうわけでそれっきりになりました。

伊藤 神父様の方は返事も書かないのに、そんなにたくさん手紙を書いてくれたものを読んで、心は揺れなかったんですか。

後藤 その時は無我夢中で、この道しかないと思って、ちょっとでも脇見したら、不埒な心構えだと思っていました。

あの頃は「聖アルージョの模範」というのがありまして、アルージョは女性の顔は絶対見なかった。お母さんの顔も見なかったと。それをそのまま信じて、私は大学に行っても、女の子たちがいっぱいいても、女性の顔を絶対見ませんでした。見たら心揺れ動くでしょ。

神学校でブラスバンドをやっていたんです。指導者に「日本楽器に行って楽譜とラッパのピースを買ってこい」と言われました。僕は悪魔の殿堂に入るようなつもりでした。あの頃、名古屋の栄にある日本楽器は美女をそろえていたんです。悪魔の館に入るものですから、顔を見ないようにして、必要なものだけを取って、「これください」と相手の顔を見たんです。そしたら、バーンと印象を受け、しまったと思いました。家に帰るバスの中でもそのイメージが出て来ますし、その日の晩の夕の祈りの時にも、「あの子に会いたいな」と。次の日、ミサの時も「どうしたらあの子に会えるのかな。何か用事がないかな」と思うようになりました。それで私は弱いんだなと思い、この道を行くためには、女性は悪魔の手先だと位置づけたんです。悪魔の手先と位置づけたら楽なんです。

今は違いますよ。今は女性は天使の手先だと思っています。

伊藤 そうですよね。映画の中で「じいさんでも女性の足のアキレス腱を見ると心が躍る」とおっしゃっていますよね。どこで変わったんですか。

後藤 どこで変わったんでしょうか。長いこと働いていますと、悪魔みたいな人よりも天使みたいな人がいっぱいいます。これは考え違いだったなと思い、それからは天使の手先ですよ。天使の手先だから迷うこともありません。

映画の中にルオーのベロニカが出てきます。ベロニカというのは聖書の中に出てこないんです。十字架の道行きに出てくるだけです。そこで僕はハッと思いついたんです。僕はこの絵が好きだったんです。じっと見ていて気がついたんですが、小学校に上がる前に大好きだったむつこさんという一緒に遊んでいた子がいました。この子から始まって、僕の心を揺れ動かすような女性がいっぱいいたわけです。僕はその女性たちを無意識の中でベロニカの中に押し込んだんです。だから今でもベロニカを見ると、「あぁ、あの子どうしているかな」ということも出てくることがあるんですが、非常に心は穏やかで、揺れ動きません。

(第3話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

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「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談

吉祥寺教会の後藤文雄神父様をご存じでしょうか。現在ドキュメンタリー映画「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」で話題になっている神父様です。この映画公開を記念して、AMORでは、編集委員に参加していただいている清瀬教会の伊藤淳神父様との対談を実現しました。神父様同士の対談は、映画の裏側を少しのぞくことができると思います。映画を観てからお読みになっても決して飽きさせることのない面白い対談になっています。4回にわたって、連載する形になりますが、その後、実際の対談現場の映像も流させていただく予定です。ぜひお楽しみください。(編集部)

カンボジアの子供たちの支援を始めるまで

伊藤 一番最初に後藤神父様を存じ上げるようになったのは、私がまだカトリックの女子校で教員をやっていた時のことで、神父様は毎月母親たちのための講話をしに来ておられました。その頃から「カンボジアの神父様」というのがキャッチフレーズのようになっていました。カンボジアに関わる活動自体を始められたのは1981年ですね。映画の中で私がすごく感銘を受けたというか、そうかと思ったのは、大和の定住促進センターの女性が神父様のところに援助のお願いに来て、神父様は吉祥寺という大きい教会で……。

後藤 信者さんにお願いしても、誰も応じてくれませんでした。

伊藤 私も、まったく同じ経験ではないですけれども、神父をやっていますと、そういうことはありますよね。信者さんにお願いして、いいことだと思うのに全然反応がないということは。その時、神父様の横にいた支援者の女性は恨めしげに……。

後藤 教会にはこんなにたくさん部屋があるのに、何で引き取れないのかというようなことを言われました。信者の皆さんにはお願いはするけれども、私自身がやるという発想はまったくありませんでした。信者にお願いしようと思ったのですが、誰も応えてくれない。そして、「この教会、部屋がたくさんありますね」と言われ、そうかと思いました。皆さんにお願いするよりも、まず自分でやらなければいけないのではないかと気づいて、始まったんです。

伊藤 映画の中でその話をなさっているときに、その女性がじっと見ていて、教会のお部屋のこととかを言い出したときに、神父さんが心底憤慨したとおっしゃっているのを聞いて、後藤神父でもそんな気持ちになることがあるのかと思ったのですが、それは本当だったのですか。

後藤 それは本当で、その時は自分でやるつもりはありませんでした。

伊藤 私が、さすがは後藤神父様と感ずるのは、自分もこの女性と同じことを信者にしていたんだと気づかれたのですよね。

後藤 そうなんですよね。それがことの始まりでした。それが最後にこういう形まで辿り着くとは思っていませんでしたけれども。

伊藤 私なんかですと、憤慨して、腹立って、言葉に出すかどうかは別にしても、「いい加減にしてください」とか、「今日はこれでおしまい」ということになりそうなところを、よく続けられましたね。

後藤 それは、私自身戦災に遭って、一晩で家族から何から何までなくしてしまい、住む場所も何もない、ただ人の情けに頼る以外に生きる道がなかったものですから、そういう経験が中に響いていたと思います。

でも僕はカンボジアがどこにあるのか知らなかったんです。あの辺だろうというのは分かったんですけれども、タイとベトナムに挟まれた小さな国というのも知りません。歴史も全然知りませんでした。そういうのが突然現れてきたわけです。ですから彼らを受け入れるというのも、全部分かった上で受け入れたのではなく、全然分からないままに、来てしまった彼らに居場所がないというのは気の毒だということだけでした。

伊藤 ここは神言会の修道院でもあるわけですよね。部屋が空いているということは、物理的にはその子供たちを受け入れ可能だったわけですね。修道会の方はどうだったのですか。

伊藤 特には問題にならなかったんですね。

後藤 ええ、全然。問題にはならなかったんですが、あいつが勝手にやっているんだから、というわけで、1981年から子供たちを預かっている94年までの間に、1回だけある管区長が「お前大変なことをやって、えらいな」とポケットマネーをくれましたが、あとは一切援助はなかったです。

伊藤 では、良くも悪しくも自由にどうぞということだったわけですね。

後藤 そうそう。あの頃カンボジアに行くと言ったら、まだポル・ポトが全国土の3分の1もしくは、半分ぐらい支配していた時ですから、勝手に行くんだったら、勝手に死んでも勝手にしろと言われました。

伊藤 そこまで言いますか。でも、広い意味では会の理解はあったということですか。

後藤 あったんでしょうね。やめろとか、出て行けとは言われませんでしたからね。

(第2話に続く)

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中