ミサ曲8 感謝の賛歌Ⅱ

齋藤克弘

 ピオ10世が発布した典礼音楽に関する自発教書によって、感謝の賛歌も本来の歌い方をするように改められました。感謝の賛歌は本来、奉献文の最初に司祭が救いの歴史を奏でる叙唱の結びに、共同体全体が神の前で神をたたえて歌う「すべての天使と聖人とともに」歌う賛歌です。叙唱の結びでは必ず「歌います」とか「感謝の賛歌をささげます」など、次に来る感謝の賛歌を「歌う」ということが言われていますから、感謝の賛歌は歌うことが基本というより、歌ってなんぼのものです。変なたとえになりますが、のど自慢の大会で、あるいはカラオケで前奏の後、歌詞を歌わないで読み上げる人はいないと思います。ここまでできるのはかなりの変人?かよっぽどの天邪鬼(あまのじゃく)でしょう。感謝の賛歌も歌ってなんぼのものですから、歌わないのは本当はおかしなことなのですが。

感謝の賛歌を歌うときに気を付けてほしいことが一つあります。どういうことかというと、この地上に生きているわたしたちは、感謝の賛歌を歌う第一の主体ではない、わたしたちが歌い手の主体ではないということです。こういう風に書くと、何をおっしゃるウサギさんと言われそうですが、これも叙唱の結びのことばを見れば明らかです。

「天使と大天使は神の威光をたたえ、わたしたちも声を合わせて賛美の歌をささげます。」(三位一体)
「数知れない天使は昼も夜もあなたに仕え、栄光を仰ぎ見て絶え間なくほめたたえます。わたしたちはこれに声を合わせ すべての造られたものもともに、あなたをたたえて歌います。」(年間週日六)
「あなたの恵みをたたえる天使、聖人とともに、わたしたちも感謝の賛歌をささげます。」(結婚式二)

三つの叙唱の結びのことばを列挙しましたが、ごらんになってわかるように、感謝の賛歌は天のエルサレムにおいて神の前で神をたたえて歌っている天使(や聖人)の歌に合わせて歌うものなのです。天使や聖人は時間も空間も超越した神の国において神をたたえることができますが、時間と空間に制約されて生きるわたしたちは、生まれてから召されるまで感謝の賛歌を歌うことは残念ながら不可能です。時間と空間を超越した神の国を前もって体験することができるミサの中で、天使と聖人の歌声にこころと声を合わせて歌うのが感謝の賛歌なのです。

さて、ミサに参加している皆さん、ちょっと振り返ってみましょう。いかがでしょうか、ミサで感謝の賛歌を歌っているとき、天使や聖人と一緒に歌っていると感じているでしょうか。もっと、踏み込んで言うと、感謝の賛歌を歌っているときに皆さんのとなりで天使や聖人が一緒に歌っていると感じられるでしょうか。感謝の賛歌とはそういう賛歌なのです。もし、天使や聖人を身近に、というより、一緒に歌っていると感じられたなら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。それはもう、すでに、時間と空間を超えて神の国の宴を体験していると言っても過言ではないからです。

このような感謝の賛歌の本質を考えると、ミサに集う人々の声が、天上の天使や聖人はもちろん、すべての造られたものの声とともに神の栄光をたたえる歌声となって、時間と空間を超えた賛美の歌となるものなのです。こころのそこから、全身全霊を使った歌声となるように、そして、声の一致が心の一致を表すものとなるように、声を合わせて歌うことが大切なことなのです。

そして初めにも言いましたが、本来歌うものなのですから、やっぱり歌うことが始めの一歩なんですよね。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲7 感謝の賛歌

齋藤克弘

通作ミサ(ミサ曲を一人の作曲家が全部作曲すること)の場合、栄光の賛歌の次は信仰宣言なのですが、信仰宣言はほかのミサ曲と異なり、内容が賛歌ではなく信仰告白となっていますので、このシリーズでは最後に触れることにして、今回は感謝の賛歌について書いてゆくことにします。

感謝の賛歌はミサ曲の中では唯一、旧約聖書をテキストとしています。ところで聖書という言い方のほかに、旧約聖書と新約聖書という呼び方があるのは皆さんご存じのことと思いますが、どのような違いがあるか、この「陽だまりの丘」の読者の皆さんは知っておられることは思いますが、一応触れたいと思います。聖書というのはもともとユダヤ教の経典で、律法の書(モーセ五書)・預言書・諸書からなっていて、キリスト教で新約聖書が編纂された後にこれらを旧約聖書と呼ぶようになりました。新約聖書はキリスト教だけのもので、イエスの生涯の事績を書き記した福音書とイエスの弟子たちの活動を記録した使徒言行録、使徒たちが各地の教会にあてた手紙、そして神の国が完成するときの様子を預言した黙示録からなっています。ですから、ユダヤ教では今でも律法の書・預言書・諸書からなる聖書が聖典であり、新約聖書は聖書とは認めていません。キリスト教の場合には聖書のうち、ユダヤ教から受け継いだものを旧約聖書、イエスの事績を記した以降のものを新約聖書と呼び、その両方を合わせて聖書と名付けています。

さて、本題へ戻りましょう。感謝の賛歌の冒頭のことばは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は天地に満つ」という預言者イザヤが幻で見た玉座におられる主に使えるケルビム(天使)が主をたたえる賛美のことばから始まります。「聖なる」の3回の繰り返しはヘブライ語で神の聖性を最大限表現する表現方法です。「万軍」ということばは、この時代には一般に天の星を指したようですが、ここでは神のそばで仕えるものをこのように呼んでいます。現代的な「軍隊」とは意味合いが違うので、そこのところは注意が必要ですね。

続く歌詞「天の意と高きところにホザンナ」。「ホザンナ」は受難の前にイエスがエルサレムに入城したときにそれを迎えた会衆の歓呼の叫びですが、もともとは「救いをわたしたちに」というヘブライ語の「ホシアナ」ということばが転訛したものです。この「ホザンナ」は「アーメン」、「ハレルヤ(アレルヤ)」とともに、現代でもキリスト教の教会の中でヘブライ語のまま残っている由緒正しいことばです。ここまでは、旧約聖書のことばが多く使われており、感謝の賛歌の前半は、もともとユダヤ教が起源ではないかとも言われていますが、はっきりした起源については特定ができないようです。

ユダヤ教が起源ではないかと言われている感謝の賛歌、中東などの東方の教会から西方の教会に伝えられたことは間違いがないようですが、最初のころは、1回目の「天のいと高きところにホザンナ」までだったようです。その後の「ほむべきかな主の名によりて来たるもの」は西方の教会でテキストが加えられ、今度は東方の教会へ逆輸入されたと言われています。

この感謝の賛歌も他のミサ曲と同じように、挿入句を入れたトロープスや複数の旋律を歌うモテットでは元来の歌詞以外のテキストが歌われるようになっていきました。そして本来は奉献文という最も中心的な祈りの中で、司祭も参加する会衆も声を合わせて神の栄光をたたえる歌なのですが、次第に聖歌隊だけが歌うようになっていきます。

トリエント公会議の後、トロープスや複数の歌詞を歌うモテットは、他のミサ曲と同じように禁止されますが、新たな問題が出てきました。それは、これまでにも触れたように、司式する司祭と会衆や聖歌隊が同じ場所にいても、祈りを共有していなかったことから、司式司祭が沈黙のうちに奉献文の冒頭の祈りである叙唱(第二バチカン公会議以前は序唱と表記)を唱え始めると、聖歌隊や楽団が感謝の賛歌の前半を演奏し始め、演奏が終わると司式司祭は聖別のことばをやはり沈黙で唱えて、キリストの体となったパンとキリストの血になったぶどう酒が入ったカリス(盃)を背中のほうにいる会衆に見えるように高く上げ(この動作をエレベーションと言います)ました。この司祭のエレベーションが終わると司祭は奉献文の後半をやはり沈黙のうちに唱え、聖歌隊と楽団は感謝の賛歌の後半を演奏したのです。この時代の感謝の賛歌のタイトルはただ、Sanctus ではなくほとんどの場合、Sanctus-Benedictus となっていますが、それはこのような演奏をしたからです。今のミサでは考えられませんが、規則の行き過ぎた解釈がこのような演奏やそのための作曲を促したという例なのです。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲 6 栄光の賛歌 Ⅱ

齋藤克弘

 バロックから古典派時代のオーケストラ全盛期に作曲された栄光の賛歌は、そのテキスト(歌詞)以上に楽器の演奏に重きが置かれ、ミサの祈りの流れとは関係なく、作曲家のテクニックが披露されるものとなったことは前回にも書いた通りです。確かに、作曲手法を世に問うための作品としては優れたものが数多く作曲されたとは思いますが、一方でミサ本来の祈りの流れという、典礼におけるもっとも重要な側面が無視されたことは否めない事実です。このような流れにくさびを打ち込んだのが、以前にも名前をあげたことのある教皇ピオ10世です。

ピオ10世が教皇就任後わずか4か月目に発布した自発教書において、栄光の賛歌と信仰宣言(当時はニケア・コンスタンチノープル信条のみを指しました)は、グレゴリオ聖歌の伝統に従って比較的短くすることが求められましたし、その他にも教会の音楽は聖歌(声)が中心であって、前奏や間奏などが長くなってはならないことも指摘されました。確かに、自発教書であって法的な拘束力があるわけではなかったのですが、この自発教書が最も基本としたものが、教会が長く歌い継いできたグレゴリオ聖歌であったことから、その後の聖歌の作曲にもかなりの影響を与え、さらには第2バチカン公会議後の典礼音楽もこの自発教書を基本にして刷新されました。

ところで、栄光の賛歌で大きな変化があったのは、テキストの区切りにおいてです。第2バチカン公会議の典礼の刷新で重要な役割を果たしたイエズス会の司祭ヨゼフ・アンドレアス・ユングマンは公会議の前に、栄光の賛歌に関する膨大な古代の資料を研究分析し、それまで前半の区切りとされていた「主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」がそうではなく、次の句「神なる主、天の王、全能の父なる神よ」までが一区切りの終わりであることを明らかにしました。第2バチカン公会議で刷新された『ローマ・ミサ典礼書』では、このユングマンの研究成果を取り入れて、ラテン語の原文ではDomine Deus , Rex caelestis,Deus Pater omnipotens. と冒頭の天使と天の大群の歌の次のピリオドをここにつけています。ですから、栄光の賛歌に作曲をする場合には、ここを一区切りとする必要があります。ただし、第2バチカン公会議以前に発行されたミサ典礼書にのっとって作曲された曲については既得権があり、歌詞の変更に伴って曲を変更することができない場合にはそのまま曲に従って歌うことが許されていますから問題はありません。

現在、栄光の賛歌はそれ自体が独立した儀式(歌)とされており、待降節と四旬節以外の主日とすべての祝祭日、および盛大な儀式のときに歌うことができます。もともとは会衆の歌であったものですから、ミサに参加する会衆一同が容易に歌えることが望まれます。新たに作曲する場合には、歌うにしても伴奏するにしても、難しいものにならないようにする必要がありますが、かといって、ミサの賛歌としての品位を欠くものでもあってはなりません。

もう一つ触れておきたいことは、先にも上げたように、栄光の賛歌が歌われる主日(日曜日は)52(1年の主日の数)-4(待降節の主日)-6(四旬節の主日)=42であり、そこに、主日以外で歌われる、平日以外で多くの人が参加する主な祭儀、主の降誕の夜半のミサと日中のミサ、神の母聖マリア(1月1日)、主の晩さんの夕べのミサ、復活の聖なる徹夜祭(1年で最も重要な祭儀)、聖母の被昇天の6回を加えても、48回にしかなりません。1年365日のうちの48回ですから、いかに少ないかがわかると思います。

栄光の賛歌は冒頭の天使と天の大群の神への賛美のことばからなっていますが、賛美とは詩編もそうであるように、歌うことが賛美そのものです。栄光の賛歌は1年のうちで歌う回数が少ないものですが、父である神と主キリスト、そして聖霊の交わりの中でわたしたちが神への賛美を声高らかに、天使と天の大群とともに全世界に響かせる賛美の歌であることを忘れずに、歌いたいものです。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲5 栄光の賛歌Ⅰ

齋藤克弘

今年の教会の暦はちょうど4月1日が復活祭となりました。復活祭はキリストの復活を祝うキリスト教の最も大切で盛大なお祝いです。だれですか、4月1日はエイプリルフールだからキリストの復活も冗談だよなんて言っている方は。キリストの復活がなければキリスト教もキリスト教が育んできた文化も、いや、今、わたしたちが使っているさまざまな物事も生まれていなかったかもしれません。

復活祭の前の約40日間は四旬節と言って、復活祭徹夜祭でキリスト教に入信する人たちの最後の準備期間であると同時に、すでにキリストを信じる人たちはこの人たちとこころを合わせ祈りと節制に努める期間となっています。その四旬節の間、ミサ曲の中でも栄光の賛歌は基本的に歌われません。四旬節が明ける復活祭前の木曜日のミサから再び歌われるようになります。他にもキリスト教の暦では一年の初めに当たる待降節と呼ばれる、キリストの降誕を待つために準備をする期間にも栄光の賛歌は歌われません。

栄光の賛歌はミサ曲の中では信仰宣言に続いて長い歌詞となっています。この賛歌の冒頭のことばはキリストの降誕を羊飼いたちに告げた天使と天の大群のことばです。現在の日本語の訳では「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」です。この冒頭のことばからミサでは最初、降誕祭(クリスマス)のミサで歌われていましたが、次第に先に挙げた季節以外の主日(日曜日)のミサでも歌われるようになっていきました。現在でも復活徹夜祭の祭儀では旧約聖書の朗読が終わった後に、唯一ともされている復活のろうそくから祭壇のろうそくに火が分けられた後、栄光の賛歌が歌われます。祭壇はキリストを示すシンボルの一つであり、祭壇のろうそくはキリストの光を象徴していますから、旧約聖書の朗読が終わった後、祭壇のろうそくに火がともされ、栄光の賛歌が歌われるのは、祭儀の進行上ではキリストの降誕を意味するものであることがよくわかります。

さて、この栄光の賛歌ももともとは司式する司教や司祭の先唱の後、会衆一同が

トリエント公会議

歌う父と子と聖霊に対する賛歌でしたが、あわれみの賛歌でも触れたように会衆にラテン語が理解できない時代になると、栄光の賛歌も他のミサ曲と同様に聖歌隊だけが歌うものとなり、比較的長い歌詞にも関わらず、トロープス(挿入句)も作られるようになりました。トリエント公会議によるトロープスの廃止によって、歌詞は元の通りシンプルなものになりましたが、時代が下って、楽器が多く用いられるようになってくると、歌だけではなく楽器の演奏も作曲の手腕を発揮するための手段となっていき、グレゴリオ聖歌のような単旋律の聖歌で平易に歌った場合に比べると、数倍の長さになるような曲がたくさんできてきます。聖歌隊やオーケストラが栄光の賛歌を数分間演奏する間、司式する司祭は演奏とは別に栄光の賛歌を一人で唱え、唱え終わると演奏が終わるまで席に座って待っていなければなりませんでした。他のミサ曲もそうですが、ミサ(典礼)の本来の流れとは別に、演奏が主体になっていたのです。

しかし、このようなミサ曲が演奏されたのは、比較的人数が多い教会や修道院、あるいは貴族や領主の礼拝堂でのことだったでしょう。片田舎の小さな村の教会ではこのようなミサ曲の演奏が毎日曜日行われていたと考えることは難しいと思われます。

現代の感覚から見るとおかしなものと思われる、ミサの流れを中断した演奏中心のミサ曲が数多く作られるようになったのは、前にもお話したように、トリエント公会議において「司祭が一人で有効にミサを奉げる」ことが重要視され、司祭以外はそれを妨げない限り何をしても問題がないと考えられるようになったからです。確かに、このような時代に多くの高名な作曲家により音楽的に素晴らしいミサ曲が数多く作曲されたのは、時代に必然であったかもしれませんが、その一方でそのような演奏中心のミサを問題視した教会関係者がいなかったのかという疑問も出てきます。音楽嫌いでモーツァルトといさかいになったザルツブルクのコロレド司教は音楽界では悪者扱いですが、見方を変えれば、ミサの流れを妨げるような演奏には疑問を呈していたと考えることもできるでしょう。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲4 あわれみの賛歌 Ⅲ

齋藤克弘

 グレゴリオ聖歌のシリーズでも触れましたが、教会改革のまさに先陣をきったのがアウグスチノ会の修道司祭だったマルティン・ルターでした。結果的にはローマ教皇庁とのボタンの掛け違いから、宗教改革という西方教会における大きな教会分裂に至ってしまいましたが、その反動としてローマ教皇庁もトリエント公会議において教会改革にも乗り出します。その中の一つが教会音楽の改革でもあり、これまで作られた教会音楽を教会改革の視点から見直して、大幅に整理してタガを締めました。その一つは世俗の歌詞が入り込んでいるようなものを禁止すること。もう一つは「ミサ曲」の中で数多く作られた「トロープス」を廃止することでした。

他の「ミサ曲」ではそれほど顕著でなかった、この「トロープス」。「あわれみの賛歌」ではかなりのものが「トロープス」で歌われていたことから、「トロープス」の挿入句を省き、歌詞の部分は「キリエ」と「クリステ」の「エ」を伸ばして歌うことにしました。ちなみに、現在のグレゴリオ聖歌の楽譜集である「グラドゥアーレ・ロマームヌ(Graduale Romanum)」の「ミサ曲」にはタイトル、たとえば、よく知られている「ミサ曲Ⅷ」には De Angelis というタイトルがついていますが、これは最初の「キリエ」の後に歌われていた「トロープス」の冒頭の二つのことばからとられているようです。

このようにしてグレゴリオ聖歌をはじめ「ミサ曲」は簡素になりましたが、実際にはグレゴリオ聖歌でミサが行われることはほとんどありませんでした。先にも書いたように、各国各地域の大きな教会や貴族の宮廷礼拝堂にはお抱えの作曲家がいて、そこでのミサのために様々なミサ曲が作曲されていったからです。皆さんも名前をご存知のことと思いますが、聖ペトロ(サンピエトロ)大聖堂の楽長だっ

サン・ピエトロ大聖堂

たパレストリーナ(ジョバンニ・ピエルルイージ)を始めとして、ルネッサンス時代にも続くバロック時代にも多くの作曲家によって「ミサ曲」が作られていくようになります。
ところで、ルネッサンス時代前半までは教会音楽は司教座聖堂付きの教役者や修道院の修道士たちがその担い手でしたが、次第に一般の民衆が演奏に携わるようになります。それにはいくつかの要因があります。まず第一に楽譜が印刷されるようになったことがあります。グーテンベルクが活版印刷の技術を発明するまでは、楽譜はすべて人の手書きによる「写本(マニュスクリプト)」でしか作ることができず、時間も費用もかかっていたことは「グレゴリオ聖歌」のシリーズでも触れましたが、活版印刷の発明によって楽譜も短時間に大量に印刷することができ、費用も安くなったことから、多くの人が手にすることができるようになりました。

もう一つの理由は教会音楽の演奏にも多様な楽器が導入されるようになったことです。皆さんもご存じのように教会の楽器で、すぐに思い浮かべるのはオルガンだと思いますが、封建領主を兼ねた司教や修道院、あるいは貴族の宮廷礼拝堂では、次第に管楽器や弦楽器が教会音楽にも用いられるようになっていきました。特に貴族の宮廷礼拝堂付きの作曲家や演奏家は礼拝のためだけではなく、宮廷で催される舞踏会などの演奏や作曲にも携わっていたのです。また、ルネッサンス後期からバロック時代にかけては、楽器の性能もよくなり、大きな聖堂やホールでも十分に響くような楽器が作られるようになり、管楽器や弦楽器は、単なる伴奏楽器ではなく、人の歌う歌と肩を並べるほど重要な表現をするようになりました。いわゆるオーケストラの走りですが、多くの楽器の演奏には教役者(聖職者)や修道士だけでは足りず、特に、貴族の宮廷においては一般の民衆の中から楽器の演奏に長けた人たちが宮廷の演奏者として召し抱えられるようになりました。いわゆる職業演奏家の時代に入ったのです。

歴史の話が長くなりましたが、実はこのような時代と礼拝や音楽の背景を知っておくことがルネッサンス後期以降の時代の「ミサ曲」の理解に欠かせないのです。

対抗宗教改革では典礼、ミサや聖務日課などに関して、司祭や修道者たちがトリエント公会議で決められた規定通りに行ったかどうかが最大の焦点になりました。言い換えれば典礼においてもあるいは教理に関しても教会の定めたとおりに正しく行ったか、従っているかどうかが重要な関心事になったのです。が、残念なことに、そればかりが強調されたことから、司祭や修道者たちが正しく典礼を執行すれば、会衆や聖歌隊は何をしても(というと言いすぎかもしれませんが)よいという風潮が次第に広まっていきました。せっかく整理されたミサ曲なども、作曲家が自らの表現をするための作品となり、テキストの大幅な繰り返しや楽器の演奏が長く続くようになっていきました。「あわれみの賛歌」も本来は Kyrie eleison 、Christe eleison、Kyrie eleison をそれぞれ3回繰り返すだけだったものが合唱や独唱者が何度も繰り返して歌い、必要以上の長さになっていきました。これは他のミサ曲でも同様でしたが固有のところに関してはそれぞれのところで触れていきます。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲3 あわれみの賛歌 Ⅱ

齋藤克弘

 グレゴリオ聖歌の時代からトロープスのできた「あわれみの賛歌」は、聖歌と同様に次第に複数の旋律で歌われるようになります。複数の旋律で歌われるようになると、これもグレゴリオ聖歌の時に書きましたが、定旋律と呼ばれるグレゴリオ聖歌の旋律の部分以外では、次第に元のトロープスとは異なった歌詞が歌われるようになりました。さらに時代が下ると、修道士・教役者が旋律すべてを自分で作曲するようになります。今で言う作曲家の始まりです。グレゴリオ聖歌の旋律にほかの旋律を付けるのは今でいう「編曲」に当たるでしょうか。

このように、自分で旋律を作る作曲家たちは、さまざまな試みを行うようになり、世俗曲の旋律の一部をモチーフ(主題)にして「ミサ曲」を作曲するようになります。このような手法で作曲されたものを「パロディーミサ」と呼んでいます。音楽史では「アルス・ノヴァ」と呼ばれる時代で、およそ14世紀。代表的な作曲家としてギョーム・ド・マショーがあげられます。また、アルス・ノヴァとその前のアルス・アンティカの時代以来多くの作曲家(といっても教会音楽の作曲家)は教役者としてだけではなく、王侯貴族のお抱えの作曲家としても働いていました。ですから、彼らは教会音楽だけではなく、宮廷で舞踏会の時に演奏される舞曲などの作曲も手がけました。このようなわけで、世俗音楽にも精通していたことから先に挙げた「パロディーミサ」が作曲されるようになったと考えられるでしょう。

この後、時代はルネッサンスに移り、音楽の様式も年代と地域によって変わっていきますが「ミサ曲」に対する基本的な考え方は変わりませんでした。ウィキペディアなどでこれらの時代の作曲家を調べてみると、数多くの作曲家の名前を見出すことができます。これはどういうことを意味しているでしょうか。グレゴリオ聖歌の時にも触れましたが、紙はまだ高価なものでしたし、グーテンベルクによって印刷術が発明されたのは1450年、最初の楽譜が印刷されたのは1473年です。この楽譜の印刷も現代のように、一回ですべてを印刷できたわけではなく、五線、歌詞、音符と三段階の工程を必要としました。高価なものですから、印刷したからといって一般庶民の信徒は手に入れることはできなかったでしょう。また、交通機関も現代のように発達していたわけではありません。ヨーロッパの王侯貴族の間で馬車が広まるのは16世紀に入ってからですから、まだ、移動手段は徒歩がほとんどだったでしょう。

このような社会状況を考えると、各地の王侯貴族や修道院、司教座聖堂にはそれぞれの作曲家がいて、その宮廷や聖堂で歌うための「ミサ曲」を始めとする聖歌や舞踏会のための舞曲を作曲していたことは容易に伺えます。もちろん近くの作曲家同士では交流もあったでしょうが、イタリアとオランダとの間とか南フランスとイギリスとの間といった遠い地域間での交流は、楽譜の交換も含めて、まだまだ困難な時代だったと思われます。

話が「あわれみの賛歌」からだいぶ離れてしまいましたが、このような時代状況をきちんと踏まえておくことは「ミサ曲」ばかりではなく、この時代の音楽や教会の状況を理解するうえでも大切なことだと考えられます。「賢者は歴史に学び、愚者は習慣に学ぶ」と言われます。わたしたちが真の意味で、主キリストが降誕されたときに東の国から主を拝みに来た「博士」たちのような「賢者」になるためにも、歴史を振り返り、その時代の状況を精査し、そこから分かることを現代に適応していくことが求められます。それが「歴史に学ぶ」ことなのです。

さて、このように教会の中での聖歌の繁栄は他の芸術の面でも盛んになっていきましたが、その弊害として、教会の制度の面でも芸術の面でも世俗化が進んでいくことになります。教会の中では、しばしば、教会改革が求められてきましたが、なかなか実現する状況にはありませんでした。また、ミサの様態も古代の教会から比べると大きく変化していきます。古代は司教は司祭は祈りのことばを大きな声で歌唱して唱え会衆もそれに応えていましたが、教会が地中海世界だけではなくヨーロッパの特にアルプス以北に広まると、会衆はラテン語を理解できなかったので、ミサの式文も次第に教役者だけが唱えるようになり、一部の式文は「聖なることば」として「沈黙のうちに唱えられる」ようになっていきました。一方でもともと会衆の歌だった「ミサ曲」は会衆全体の代わりに「聖歌隊」だけが歌うものとなったのです。

このように一向に進まない教会改革、また、会衆と遊離した典礼に関して、次第に疑問を持つ空気が教会の中にも現れてきます。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲 2 「あわれみの賛歌 Kyrie」Ⅰ

齋藤克弘

 前回は「ミサ曲」全体の基本的なことについて書いてみました。今回からは「ミサ曲」それぞれの由来などについて書き進めていきたいと思います。

「ミサ曲」の中で最初に歌われるのが「あわれみの賛歌 Kyrie」です。前回も書いたように「あわれみの賛歌」の歌詞 Kyrie eleison Christe eleison はギリシャ語がそのまま歌詞として残りました。ということは「あわれみの賛歌」はどうやらギリシャ語を話す地域の教会が起源ではないかということが容易に推測できますね。事実その通りです。ローマを中心とするローマカトリック教会のことばは昔からラテン語だったと思われているかたがおられるかもしれませんが、実は、ローマに教会ができた頃は、ローマの教会の典礼や聖書の朗読のことばはギリシャ語でした。ちなみに使徒パウロがローマの教会への手紙を書いたのが紀元58年頃と言われていますので、ローマにはかなり早くから教会共同体ができていたようです。以後、しばらくの間ローマの教会はギリシャ語を用いていましたが、3世紀に入るとギリシャ語を理解できない人たちも多く教会共同体の中に加わったことも一因にあるからでしょうか、ローマの教会では典礼や聖書の朗読のことばをギリシャ語のまま残すのか、ラテン語に変えるかで大きな議論があったようです。最終的にはローマの教会はラテン語を使うことになりましたが、それまでもギリシャ語など地中海地方の教会でも残されていた「アーメン」「アレルヤ(ハレルヤ)」「ホザンナ」というヘブライ語の短い言葉はそのままヘブライ語で残されました。

さて、本題に戻りましょう。3世紀には式文もラテン語になったローマの教会ですが、簡単なしかし重要なヘブライ語の単語が残ったのと同様に、ギリシャ語の祈りのことばも残ることになります。5世紀の終わり(492年から496年)にローマ司教(教皇)としてゲラジウス1世が在位していた時に、東方、おそらくギリシャ教会からミサの冒頭に嘆願の祈りが導入されます。最初の嘆願の祈りは助祭(東方教会では輔祭)が唱え、会衆は最後に Kyrie eleison と応唱していたようです。ローマの教会では同じ嘆願の祈りである「信徒の祈り」(現代の共同祈願)が後の部分(説教の後)にあったことから、嘆願の祈りが重複しないように、この嘆願の祈りが省略されて、Kyrie eleison と Christe ekeison の祈りだけが唱えられるようになりました。この祈りは主キリストにあわれみを乞う祈りとして司式する司教が合図をするまで何回も繰り返されていましたが、8世紀の頃には 最初のちKyrie eleison 次のChriste ekeison 最後のKyrie eleison をそれぞれ3回繰り返して終わるようになります。
9世紀になるとこの3回ずつの唱え方を最初のKyrie は父である神への祈り、次は文字通りキリスト(子)への祈り、最後のKyrie は聖霊への祈りというように、三位一体の神への祈りと解釈されるようになり、それが信心書で広まっていきました。しかし、元来、初代教会からKyrie とはナザレのイエスに対して特にパウロが好んで用いた尊称でした。実はこのKyrie という尊称はローマ皇帝にだけ用いることが許されたもので、それをナザレのイエスに対する呼び方としたことは、ローマ皇帝に対する反逆とみなされ、初代教会時代の迫害の原因の一つとなったものだったのです。

さて、同じことばの繰り返しだけの「あわれみの賛歌」でしたが、グレゴリオ聖歌の時にもお話した「トロープス」という様式で作られるようになります。これもグレゴリオ聖歌のところでもお話ししたかもしれませんが、もともと「ミサ曲」は会衆の歌として歌われていましたが、北から南へと移動してきた人々が教会共同体へ加わり、あるいはキリスト教自体がアルプスよりも北へと広まっていくと、まったく異なったことばを話す人々にはラテン語を理解することはできず、「ミサ曲」は次第にラテン語を学ぶことができた修道者や教役者(聖職者)が歌うものとなっていきました。音楽的にも訓練を受けたこれらの人々にとって、同じことばの繰り返しでは満足できなかったことが「トロープス」を生み出す要因の一つになったのでしょう。詩を作ることにも曲を作ることにもつながった「トロープス」によって歌い方はどんどん複雑になっていきました。この頃になると聖歌は皆がこころを一つにして一緒に祈るものではなく、一部のエリートが神様だけに聞かせる歌になってしまったのです。今のわたしたちの常識から考えれば残念なことですが。

(典礼音楽研究家)


ミサ曲 1

齋藤克弘

 教会の音楽というと一番なじみの深いものは「ミサ曲」ではないかと思います。音楽を専門に勉強されていない皆さんも「ミサ曲」という名前はご存じでしょう。モーツァルトのミサ曲、特に「戴冠ミサ曲」をはじめ、ベートーヴェンの「荘厳ミサ曲」、あるいは、バッハの「ロ短調ミサ曲」など、どこかで聞いたことがあるかもしれませんね。モーツァルトでは映画「アマデウス」で有名になった「レクイエム」も正式には「死者のためのミサ曲」と言います。他にも古くは14世紀ごろから現代まで、多くの作曲家が「ミサ曲」を作曲しています。
名前もご存じで聞いたこともある「ミサ曲」。その実態については意外とご存じないことが多いのではないでしょうか。そこで、今回からこの「ミサ曲」について少しうんちくを傾けてみたいと思います。

「ミサ曲」と言っても現代のミサは式次第(式文)すべてを歌うことが原則ですからミサ自体が一つの曲のようになっているわけですが、1962年から開催された「第二バチカン公会議」による典礼の刷新以前、式次第のほとんどの部分は司祭が一人で、場合によっては沈黙で祈っていたので、信徒が唱えたり歌ったりする部分はほんのわずかでした。その中で特に信徒が大きな役割を担えたのが「ミサ曲」だったのです。今は一般的なことばである「信徒」と書きましたが、当時、すなわち典礼の刷新以前は「信徒」と言っても「ミサ曲」を歌ったのは、多くの場合「聖歌隊」だったようです。その理由は、といったことはおいおい書いていくことにして、まず、ちょっと固い言い方ですが「ミサ曲」の定義についておさらいしておきたいと思います。

「ミサ曲」(ラテン語=Missa)は「あわれみの賛歌(Kyrie)」「栄光の賛歌(Gloria)」「信仰宣言(Credo)」(ニケア・コンスタンチノープル信条)「感謝の賛歌(Sanctus 、後半の Benedictus を別曲とする時代もあり)」「平和の賛歌(Agnus Dei)」の五曲を総称する呼び名です。時代によっては派遣のことば Ite Missa est (行きなさい ミサは終わった)を加える場合もありました。最初にも触れた「レクイエム=死者のためのミサ曲」の場合は構成が異なりますが「レクイエム」についてはこのシリーズの中で何回か触れる機会を作って、そこで詳しく書きたいと思います。なお、「ミサ曲」五曲の「信仰宣言」が入っていないものを「Missa blevis(短いミサ曲)」と呼ぶこともあります。また、プロテスタント教会の場合は、式文の中に「感謝の賛歌」と「平和の賛歌」がないことから「あわれみの賛歌」と「栄光の賛歌」の2曲だけを「MIssa blevis」と呼びます。

もう一つ、現在ではほとんど使うことがないことばですが、「ミサ曲」をはじめとする一年を通じて基本的にことばが変わることのないし気分を「通常式文(ordinarium)」、その日の典礼によってことばが変わるものを「固有式文(proprium)」と呼びます。前者には「ミサ曲」のほかに「主の祈り」などがあり、後者は「入祭の歌(入祭唱 introitus)「答唱詩編(昇階唱 graduale)」「アレルヤ唱(alleluia)」などがあります。現在では奉献文もそこに含まれる叙唱も季節や典礼の種類に応じて使い分けをすることなどから、この「通常式文」と「固有式文」という名称は用いられなくなっています。ただ、音楽史などの勉強をする場合には、まだ、この名称が使われる場合がありますので、覚えておくこと便利かもしれませんね。

最後になりますが、今までの記述の仕方を見ていただいてわかると思いますが、「ミサ曲」は基本的に、第二バチカン公会議の典礼の刷新以前は基本的にラテン語の歌詞が用いられていました。「基本的に」と書いたのは最初に歌われる「あわれみの賛歌」Kyrie leison Criste eleison はギリシャ語の借用、感謝の賛歌の中の Hosanna はヘブライ語からの借用です。ほかにミサの式次第の中では「アーメン」と「アレルヤ(元はハレルヤ)」がヘブライ語からの借用なので、ここからも「ミサ曲」は相当古い起源をもつ歌ではないかと想像できると思います。このようなことを基本にして、次回から「ミサ曲」のいろいろな側面を見ていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)

 


グレゴリオ聖歌 8

齋藤克弘

 クリスマスの話題二題で中断しましたが、グレゴリオ聖歌の話題を続けます。音楽史でいうルネッサンスの頃から歌われなくなったグレゴリオ聖歌は、数百年の時を経て現代によみがえりました。フランス革命で廃墟になっていたフランスのソレーム修道院を再興したベネディクト修道会の修道士たちによってこの修道院でグレゴリオ聖歌による典礼が行われるようになりました。グレゴリオ聖歌の研究・復興運動はすでにほかの研究機関などでも行われていましたが、再興されたソレーム修道院では、グレゴリオ聖歌が本来歌われていたのは典礼の場であるから、典礼の祈りとして歌うことで本来の姿を表すことができるという考えに基づいて、グレゴリオ聖歌を自分たちの生活の一部である典礼の場で歌うことで復興したということが大きな特徴といえるでしょう。

ソレーム修道院で復興されたグレゴリオ聖歌は、典礼や聖歌の改革に力を注いでいたピオ10世の助力もあり、教会の最も重要な成果と

ピオ10世

して位置づけられます。そして、20世紀の初めにはグレゴリオ聖歌の規範版(教会の公式の書物)が発行され、ソレーム修道院の歌唱法が教会の標準的なグレゴリオ聖歌の歌い方として全世界の教会に広まりました。ソレーム修道院で確立された歌唱法が広まった理由はいくつかあげられると思いますが、まず、音符の長さが八分音符という、とてもシンプルなものであったことでしょう。その他にこれは音楽的なことではありませんが、グレゴリオ聖歌の誕生期とは違って、印刷した楽譜をだれもが簡単に手にすることができたこと、また、録音技術の発達によって、同じように多くの人が録音されたグレゴリオ聖歌を聞くことができ、楽譜と録音されたものを聞いて歌えるようになったことが考えられます。

その後、四線譜ばかりではなく、最初期の楽譜である「ネウマ譜」の研究が進み、四線譜による八分音符だけの音価(音の長さ)よりも微妙なニュアンスで歌われていたのではないかという推測がされるようになりました。グレゴリオ聖歌を研究する人々の中では、ソレームの歌い方は本来の歌い方ではないということが共通した認識となっています。

では、グレゴリオ聖歌の今後はどうなるのでしょうか。第二バチカン公会議という教会が現代にふさわしいあり方を議論した会議の後、祈りのことばはそれぞれの国や地域の言語で行われるようになり、各地で歌われる聖歌もその地域のことばや音楽で作られて歌われるようになりました。それでもグレゴリオ聖歌は基本的に教会の最も基本的な聖歌であることには変わりありません。

もう一つはグレゴリオ聖歌の歌唱法の問題です。ソレームの歌唱法は誰もが歌いやすいものであったことから教会に広まりました。しかし、この歌唱法はあくまでも19世紀の終わりのフランスの一修道院で考案されたものであり、歴史的にさかのぼることができるものではありません。ですから、グレゴリオ聖歌の本来の歌い方とは異なることもまた事実です。とはいえ、研究者の提案する歌い方も、多くの人が簡単に歌えるような歌い方ではありませんし、四線譜でしか書かれなくなった時代のグレゴリオ聖歌は、ネウマ譜の歌い方では歌うことができず、祈りの整合性(典礼という一つの祈りの流れ)を考えると、異なる歌い方で祈りを統一するということはできません。加えて、ネウマ譜を研究していったとしても、録音が残っていない以上、ネウマ譜の確立期の歌い方とまったく同じ歌い方を再現することができるという保証もありません。

こういうふうに書くと、否定的なように思われるかもしれませんが、やはり一番大切にしなければならないのは、グレゴリオ聖歌の復興に力を入れた教皇ピオ10世が願ったように、祈りに集まった人がこころを一つにして歌える歌い方が大切なのだと思います。人類(ホモ・サピエンス)の本来の食が肉食だったからと言って、現代の人類が昆虫や野生動物の肉を生で食べることができないように、グレゴリオ聖歌の誕生期の歌い方が現代の教会の祈りとしての歌い方としてふさわしいかどうかも考えてみることも必要でしょう。

教会がグレゴリオ聖歌を祈りの歌として最もふさわしいものであると考えているのは、そこで歌われる祈りのことばを最も美しく表現する品位ある音楽であることが一番の理由ではないかと思います。その反面、グレゴリオ聖歌で使われていることばはほとんどがラテン語であり、だれもが生活のことばとしては使っていない言語です。それはどの民族にも国家にも帰属しない客観的な言語であると同時に、だれもが話さない生活とはかけ離れた言語とも言うことができます。この点も長所と短所が併存しますが教会が祈りの歌として勧める一つの理由と考えることができるでしょう。

グレゴリオ聖歌についてのお話、少し尻切れトンボのようですが、今後のことは研究者の努力と教会の実践に委ねることにしましょう。次回からは、皆さんも名前はよくご存じの「ミサ曲」についての話をしていきたいと思います。

(典礼音楽研究家)


降誕祭の歌

齋藤克弘

「グレゴリオ聖歌」シリーズが完結していませんが、今回は時節柄「降誕祭の歌」について書くことにしました。12月に入ってから、スーパーやコンビニ、あるいは商店街などでは「クリスマスソング」がBGMで流れるようになりましたね。

洗礼を受けて間もない頃、学生時代に教会の友人から聞いた話ですが、「テレビの街頭インタビューでインタビュアーが呼び込みのお兄さんに『クリスマスに教会にはいかないんですか』と尋ねたら、お兄さんは「え、教会でもクリスマスやるの』」と言っていた、という、笑うに笑えない話がありました。もう40年近い前の話ですが。日本では「クリスマス」というと、予約したケーキやオードブルを買って帰り、みんなで一緒に食べる日という印象が強いですね。

先にも触れましたがBGMで流れているいわゆる「クリスマスソング」も、たまには『讃美歌』(主に1954年版)にあるものもありますが、具体的な曲名はここでは挙げませんが、どちらかというと、クリスマスにちなんだ、ポピュラーソングやフォークソングが主流だと思います。

教会で歌われている聖歌や讃美歌で一番なじみ深い曲は「きよしこの夜(讃美歌)・しずけき(カトリック聖歌集)」でしょう。この曲は1818年に現在のオーストリアのオールベンドルフという村の小教区の助祭だったヨゼフ・モールが作詞した詩に、同じ村の音楽の先生だったフランツ・グルーバーが曲をつけて歌われたのが最初です。元の歌詞は6番まであり、最初はギターの伴奏だったそうです。巷説では、教会のオルガンが壊れたのでモール助祭が急遽、作詞してグルーバー先生がやはり速攻で作曲して、オルガンの代わりにギター伴奏で歌われたと語られていますが、現在の研究によると、そのような事実はなかったようです。この聖歌、最初はこの小さな村の小教区で歌われておしまいになりそうでしたが、さまざまな経緯からドイツ語圏に広まり、さらにヨーロッパ各地の言語に訳されて各国のことばで歌われるようになりました。

この他にも、クリスマスにちなんだ聖歌や讃美歌は数多くありますが、現在、よく歌われているものはほとんどの曲が18世紀あるいは19世紀に作曲されたものです。しかし、よく考えてみると、クリスマスはその頃ようやく祝われるようになったわけではありません。神のひとり子がおとめマリアを通してナザレのイエスとしてこの世に来られた時がその起源です。教会では最初のうちは「クリスマス」という行事は重要視されていなかったようで、現在のように12月25日という日付も定まっていませんでした。詳細を書くと長くなるので簡単にしか触れませんが、この日がキリストの誕生の祝日となったのは325年のニケア公会議の頃以降のこととされています。カトリック教会の場合は「主の降誕」が正式な名称となっています。

さて、話がだいぶ脇道にそれましたが、ナザレのイエスが生まれたその夜に歌われた重要な歌があります。それは聖書にも書かれているもので、現在もその歌詞を歌いだしとして教会では一部の主日(日曜日)を除いたお祝いの日(主日・祝祭日)には必ず歌われているもので「栄光の賛歌=Gloria呼ばれています。イエスが生まれた時に羊飼いたちにその誕生を告げた天使と天の大群が歌った歌で、現在の教会の日本語の歌詞では「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」というものです。

そして、教会が伝統的に大切にしてきた歌、それは「主の降誕」や「主の復活」を記念するすべてのミサで歌ってきた大事な歌が「詩編」です。詩編はユダヤ教の時代に編纂されてキリスト教にも受け継がれた150編からなる歌です。ユダヤ教の時代の歌ですから、直接にイエス・キリストの名前が出てきませんし、ユダヤ教時代の神の民のさまざまな出来事が土台になっているものです。しかし、キリスト教会はこの詩編を単なる歴史の出来事に基づく歌ではなく、旧約時代の人々が、自分たちのうちに来られるであろう「キリストに関する預言」、ユダヤ教徒として生活していたナザレのイエスやイエスの弟子たちが会堂や神殿で歌った祈り、キリストが復活してから弟子たちがキリストの復活について証した聖書の歌、という理解のもとに絶えることなく歌い続けているものです。連載でお伝えしている「グレゴリオ聖歌」でも一番重要な歌詞とされているのが、この詩編ですし、「主の降誕」をはじめ、すべてのミサで、グレゴリオ聖歌では詩編が歌われなかったことは一度もありません。巷には様々な「クリスマスソング」が流れていますが、詩編こそイエス・キリストにまでさかのぼる、伝統的な教会の聖歌なのです。

「主の降誕」のミサでは、夜半のミサで詩編96が、日中のミサでは詩編98が先唱者を通して朗唱されます。皆さんもぜひそれぞれのミサで朗唱される詩編を味わい、その前後に歌う答唱句を歌って、キリスト降誕の喜びをかみしめていただきたいと願っています。

(典礼音楽研究家)