歓喜の街カルカッタ

私はこの『歓喜の街カルカッタ』(ドミニク・ラピエール著、長谷泰訳、河出書房新社、1987年)を見つけて読んだときにとても感動した。フランクルの『夜と霧』を読んだときと同じような感動だった。どうしてこの本を見つけたかは覚えていない。誰かに薦められて読んだという記憶もない。

『夜と霧』がそうであるようにこの本も読みにくい本である。この目を覆いたくなるような過酷な現実に満ちた世界最大のスラムがなぜ「歓喜の街」と呼ばれているのか、この本を読むと納得がいく。

以下はこの本の紹介文である。

 

サッカー場を3つ合わせたくらいの場所に7万人が住む、カルカッタ有数のスラム「歓喜の街」―。皮肉にもそう呼ばれる場所で彼らは、ゴミあさりや人力車を引きながら、1日20円ほどで家族を支えている。「20世紀に生きるわれわれにとって最も刺激的な体験は、月旅行をのぞけば、この『歓喜の街』で過ごすことである」と登場人物の一人は語る。

「パリは燃えているか?」の著者がマザー・テレサの国インドで体験した愛とヒロイズムの大型ノンフィクション! 全世界で12か国語に翻訳、300万部の大ベストセラー。日本語版ついに刊行!(単行本下巻帯より)

この街には、西欧の豊かな町のどこよりも、ヒロイズム、思いやり、そして喜びと幸福があった――確かに彼らは何も持っていない。しかし、この人たちはすべてを所有しているともいえるのだ!(単行本上巻帯より)

 

さらにこの本を原作とした映画がある。1992年作ローランド・ジョフィー監督の「シティ・オブ・ジョイ」。その紹介文はこちら。

 

貧困のシンボルの様な町カルタッタに、一人の少女の手術の失敗から立ち直れない青年外科医が吸い寄せられる。容赦なく彼を襲う“歓喜の町”の厳しい現実。年端もいかぬ少女の売春、顔役の息子の非情な搾取、暴力……。そして彼は、干ばつの北インドを逃れてこの大都会に家族共々職を求めに来た男ハザフに出会う。その友情を軸に、町の腐敗に立ち上がる主人公の、自力更生していく様をドラマティックに描く。

 

小説の方には農村からコルカタに出てきて人力車の車夫をしているバザリ、マイアミの裕福な家庭に育ったユダヤ系アメリカ人の医学生のマックス、そしてこのスラムにすみたいと言ってやってきたフランス人のカトリック神父ランベール。この3人が主人公となって物語が展開する。

映画の方には残念ながらカトリック神父は出てこない。だから宗教色はほとんど消されている。

小説の方がずっといいのだが、映画の方も決して悪くはない。私はこの映画を高校2年生の「宗教研究」のクラスの修道院泊まり込みの夜に見ることにしていた。感想については聴かないことにしているが、きっと生徒の心の奥深いところに感動を刻み込んだはずである。

小説の上巻の最後の部分にランベール神父が、マザーテレサを訪ねる場面がある。映画にはない。マックスがハンセン病の患者の施設を作りたいので助けてほしいとマザーに頼む。

 

「ユー・アー・ドゥーイング・ゴッズ・ワーク(あなたは神の望まれる仕事をなさっている)。わかりました。ハンセン氏病患者の世話をしつけたシスターを、三人行かせましょう」
ひとの身体がずらり並んだ部屋に目をやり、さらにマザー・テレサはいいたした。「あの人たちはわたしたちがあたえる以上のものを、あたえてくれます」
   (中略)
 ポール・ランベールは感無量の思いだった。
「カルカッタよ、たたえられてあれ。禍(わざわい)のなかにも、おまえは聖者たちを生みだしたのだ」

 

土屋至(元清泉女子大学「宗教科教育法」講師、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会)会長)

 


特集12 マザー・テレサ帰天20年

昨年9月4日に列聖されたコルカタの聖テレサことマザー・テレサを、帰天20年にあたり思い起こします。今、世界では、教皇フランシスコの回勅『ラウダート・シ』(2015年発布)によって、「ともに暮らす家」であるこの地球を大切にと呼びかけられ、同じく教皇の提唱により、貧しい人々のことを覚える世界祈願日が今年の年間第33主日(11月19日)から始められます。これらの動きの背景にはやはりマザー・テレサの姿がくっきりと浮かび上がってきます。たえず人の心を動かしてやまない、その影響の跡を見つけてゆきたいと思います。

 

マザーテレサ帰天20年

Missionaries Of Charity Brothers CAVITE, MaNILAのこと

眼差しの向こうにはいつも「地球家族」がある

宇宙をホスピスにしたい

歓喜の街カルカッタ(2017年9月30日追加)

(写真提供:千葉茂樹)

 


宇宙をホスピスにしたい

東京の日雇い労働者の街、通称山谷地区に在宅ホスピス対応型集合住宅「きぼうのいえ」があります。2002年10月に設立され、部屋は21室、21床備えられています。ここでは、生活保護を受け、身寄りがなく、行き場のない人が、死を迎えるまでケアされています。なぜドヤ街ともいわれ、路上生活者の多い場所で「きぼうのいえ」を開いたのか。「家庭的なセンスでその人をくるんで、温かくやさしくまどろわせて、ナチュラルに死を迎えてもらう」という理事長で施設長の山本雅基さんにお話を伺いました。

 

 人間らしさを回復するためのキーワードは和解です

きぼうのいえの屋上には、「聖家族礼拝堂」がつくられている。小さな礼拝堂の中に、きぼうのいえで亡くなった方たちの遺影がずらりと並んでいる。礼拝堂で、山本さんは真摯な目を輝かせて話しはじめた。

「ここへ来る人は、みんな最初は虚無主義者です。神も仏もあるものかというね。自分以外はなにも信じないという感じです。なにしろ、路上生活をしていたときは、仲間が死ぬと警察が来て、ブルーシートでくるんで運んでいってしまう。そんな無機質で寂寥感(せきりょうかん)が漂う光景が当たり前の日常だったのですから」

日本の戦後の経済成長を影で支えてきたのが、日雇いの最底辺労働者といわれる人たちだった。地方から出稼ぎで東京に出てきて建設現場で働き、遊びを覚えて仕送りが滞る。そして、故郷へ帰れなくなり、ドヤ街に住み着くようになる。

「山谷にいる人たちのなかには、東京で暮らしていて、家の財産を全部ギャンブルで使ってしまった人もいます。それぞれがさまざまな理由から、行き場を失ってしまった人たちです」

世のなかから置き去りにされてしまった人たち。誰からも相手にされずに、ひっそりと生きている。そして、病気になればただ死を待つしかない。そのような人たちを山本さんは迎える。

「わたしのキーワードは和解なんです。元の人間らしさを回復していくことのキーワードは和解です。その和解がここの緩和ケア病棟です。いわゆる緩和ケア病棟や介護施設ではありません。ここでは愛情のシャワーを浴びせかけています。その人の心にピンとくるような愛情の示し方をしています。そうすると、荒んだ心を持っている人たちが、だんだん変わっていきます。もしかしたら、おれの人生は悲惨なんだと思っていたけれども、最後にここで命を終わらせることができたならば、おれの人生はそんなにひどいものじゃなかったかもしれないというようになっていくのです」

 

子どもの頃から体験していた弱い立場の者に対する共感

社会の隅に追いやられ、弱き者となってしまったような人間たちに、なぜ山本さんは目を向け、手を差し伸べようとするのか。それは山本さんの幼児体験からきているもののようだ。子どもの頃に、ダンボール箱に捨てられていた犬や猫を拾って家に帰ったら、親に怒られてもとの場所に返さなければならなかった体験があった。

「その晩はご飯も食べず、眠れませんでした。そのようなことがたくさんあったし、親は仕事の都合で転勤族でした。学校ではいじめられていました。そのなかから、弱い者の立場とかに共感する気持ちが育ったのかもしれませんね。」

山本雅基さん

大学では西洋哲学を学んでいたが、日航ジャンボジェット機の御巣鷹山墜落事故が人生最大の転機になった。520人の尊い命が奪われたことに衝撃を受ける。テレビに映された遺族の慟哭(どうこく)が、いまも記憶に残る。

「それを見たときに、私の丹田のところにグサッと光りのようなものが射し込んだのです。お前はこのような死者たちと一緒に生きろ、という啓示を感じました。それからある日キリスト教会の看板を見て教会へ行くようになり、教えを受け、これこそ私の基盤となる杭を打つ場所だという信念を持ち、洗礼を受けました」

大学に通いながら、NPO法人のファミリーハウス運動をするようになった。しかし、そこで壁にぶつかり、うつ病になる。改めて、自分がほんとうにやりたいことはなんだろうかと考えはじめた。

「ファミリーハウス運動のときに、子どもの死をたくさん見てきました。子どもの死は悲惨ではあるけれども、まだ泣いてくれる親がいました。しかし、行き場のないホームレスの人はどうなのかと思ったのです。路上で凍死する、餓死する、病死する。誰にも看取ってもらえない人たち。私の心にマザー・テレサの『死を待つ人の家』が浮かんできました」 マザーは来日したときに、山谷を訪れている。そしてそこに日本の心の貧しさがあることを訴えかけていた。山本さんは、自分が東京の住人でもあり、山谷に在宅ホスピス対応型集合住宅を建てる決心をしたのだった。

 


宇宙を聖地にするというミッションに向っていく

戦後になって経済的には豊かになったが、社会的には孤立化していく傾向にある。村落共同体や地域共同体が崩壊していき、孤独な人を結び付けていた絆が切れてしまった。都市型生活者のなかで行き場を失ってしまった最後の絆を結ぶという実験形態のあり方としても、きぼうのいえは存在する。

「山谷には3500人の住所不定、無職の人たちが住んでいます。私たちが現実的にケアできる人たちの数は限界があります。それで6年前に、ヘルパーステーションのハーモニーをつくりました。きぼうのいえの精神を伝え得るようなヘルパーをたくさん養成して、山谷の隅々にまで送り込めるようにしたいからです」

山谷から東京へ、そして日本がホスピスへ、さらには地球がホスピスへと夢は広がる。

「宇宙がホスピスになりました。そういうところで人類全体が神と出会うという究極のところへ行くことができると思います。私たちは、宇宙全体をサンクチュアリ、聖地にするというミッションに向って命を与えられて生きているのだろうと思っています」

礼拝堂には、お経観音も置かれている。夏にはお坊さんが来て、施餓鬼(せがき)供養が行われるという。

「私のバックボーンにキリスト教があったから礼拝堂だけれども、ここは祈りの部屋としています。お坊さんは、十字架に向って、イエスさまのお祈りを知りませんのでお経を詠むことで勘弁してください、南無阿弥陀仏、と手を合わせています。ここの礼拝堂は、魂が天界へ結ばれて上がっていくためのひとつの通路なんだと理解しています。宗教的多様性がここの大事なところです」

人間が生と死の橋を渡るという、最も崇高な局面で働き続ける山本さん。無縁社会といわれる日本のなかでも、最底辺で生きる人たちへ手を差し向ける山本さんの穏やかな表情から、無限の優しさを感じることができた。

(文:鵜飼清、文中敬称略)

 

山本雅基(やまもと・まさき)

東京都墨田区生まれ。1995年、上智大神学部卒。卒業後は長期入院する子どもの家族が病院近くで滞在できる宿泊施設の設立・運営に携わる。人間関係のストレスから、うつ病に倒れたことも。2001年、「ホームレスのためにホスピスを建てたい」と考え看護師の妻とともに活動を開始。

2002年10月、在宅ホスピス対応型集合住宅「きぼうのいえ」を開設。2010年、映画「おとうと」(監督:山田洋次、主演:吉永小百合、笑福亭鶴瓶)に登場するホスピスのモデルとなり、注目を浴びる。2012年、財団法人毎日新聞社会事業団より、第 回毎日社会福祉顕彰が授与。

著書『山谷でホスピスやってます』2010年、『山谷でホスピス始めました』2006年。

 


眼差しの向こうにはいつも「地球家族」がある

人と人が結ばれる絆とはなんだろうか。『こんにちわ地球家族―マザー・テレサと国際養子―』(1985年公開)という映画では「家庭」「家族」という視点からそれを見つめています。映画に込められたメッセージを受け止めようと、監督をされた千葉茂樹さんのお家を訪ねました。

脚本・監督:千葉茂樹、音楽監督:山崎宏、主題曲:石田桃子、ナレーター:樫山文枝、企画:小島好美、製作:市民グループ地球家族の会

千葉監督が「家庭」について考えはじめたのは、1974(昭和49)年にベルギーで開かれた第2回世界宗教者会議にフィルム取材に行ったときだった。

「会議の場所は大学都市のルーベンでした。ここに滞在して いるときにいくつかの国際養子の家庭と出会ったのです。それらの家族との出会いを通じて『家庭』というものの意味を追い求めてきました。なかでも私は南ベルギーのナミュール郊外に住んでいる30代のアンドレ・ボーネッシュ夫妻に関心を持ちました。夫妻は、実子2人に加えて6人の国際養子を抱えていました。私が奥さんのリセットさんに、どうして養子を受け入れたのか聞くと『特別な理由はありません。もし、小さな子どもがお腹をすかして道端で泣いていたら、だれでもその子に声をかけて食べ物を用意するでしょう。私たちが、育てる親のいない子どもたちに声をかけて食べ物を用意するのは、それと同じです』と答えました。その言葉に強い衝撃を受けたのです」

ベルギーにはインドやベトナムなど人種のちがう養子を斡旋する養子センターがある。そのなかの1つ「喜びの種をまく人」というセンターは、フランシスコ会のデ・ローズ神父が1958年に創設したという。

「ベルギーの植民地だったルワンダに内紛が起こり多くの難民が出ました。その渦中で7人の孤児たちをベルギーに受け入れたのが、養子運動を始めた動機だと神父さんは語っていました。最初はアフリカ大陸からの養子が主でしたが、やがて『喜びの種をまく人』はインドや東南アジアなど激動する国々からの孤児たちを受け入れていくようになりました」

千葉監督は、ベルギーで出会った国際養子の家庭を短編映画『愛の養子たち』(1974年公開)に描いた。映画は文部省特選になり反響を呼ぶ。

 

マザー・テレサと国際養子

ボーネッシュさんの一家は、徐々に人数が増えて大家族になった。それまでの過程を追いかけていた千葉監督は『こんにちわ地球家族』という映画をつくったのだった。

千葉茂樹監督

「子どもたちの数が実子を含んで24人になりました。このときに特徴的だったのは2人の障害児が加わったこと、カンボジアから来た5人の兄妹がまとまって一家に迎えられたことです。いままで一家には、インド、ベトナム、韓国、ハイチ、グァテマラ生まれの養子たちが育てられていました。この大家族の実態を撮ることで、『家庭』とはなんなのかを見つめようと思いました。私たちは、親子について考えるとき、血縁に大きな価値を置いてしまいます。しかし、ボーネッシュ夫妻にとって大切なことは、家計や財産を引き継ぐとか、老後の面倒をみてもらうとかの動機は当てはまりません。子どもに幸せな家庭を準備すること、それが最大の動機なのです」

この映画の副題には「マザー・テレサと国際養子」とあるようにマザー・テレサの働きが描かれている。『マザー・テレサとその世界』(1978年公開)という映画もつくった千葉監督は、インドのコルカタにあるシシュ・ババン(子どもの家)を再取材している。

「マザー・テレサは、路上やゴミの中で棄てられていた子どもたちも家庭で大切に育てられるようにと強く望んでいました。家庭は、子どもが愛され、愛することを学ぶ場だと言っています。シシュ・ババンにはシスターたちが連れてくる棄てられた子どもたちであふれていました。マザー・テレサはシシュ・ババンに来るのが一番楽しいって言っていました」

映画には4人の子どもたちがシシュ・ババンからベルギーの家族に迎えられ、育てられているところまでが描かれる。

「マザー・テレサは、国際養子が人と人、国と国の間に愛と理解をつくり出すすばらしく美しい方法だと言います。そして、子どもは愛のある家庭で育つ権利があり、彼らが私たちに愛と平和と喜びをもたらしてくれるのだと言うのです」

 

愛の実践があってこそ「地球家族」の資格がある

千葉監督が映画のタイトルにつけた「地球家族」という言葉の本来の意味はどういうものなのか。

「私が取り上げた素材を通して、国際色豊かな養子家庭のことを想像されるかもしれませんね。私が伝えたいのはそれだけではありません。『地球家族』のほんとうの意味は、地球上の痛みを自らの家庭に反映して、痛みを分かち合う家族のことなのです。世界のどこかで逆境に遭い苦しんでいる兄弟姉妹たちがいれば、彼らのために自分の家族のぜいたくを慎んで、彼らが必要とするものを送るといった愛の実践があってこそ、地球家族と呼ばれる人たちの資格なのです。もちろん、日本国内でのことも同じです。地球家族を考える上でさらに付け加えることは、人間だけで地球家族というのではなく、鳥や魚や木や花なども含めた、生きとし生けるものたちの総和が1つの地球家族です。だから、その家族の一員として生きるためには、人間だけが勝手な振る舞いをすることは許されず、人間としての生活態度が問われるのです」

『こんにちは地球家族』でなく『こんにちわ地球家族』になっているのはなぜだろうか。

「私たちが使ってきたあいさつでは『こんにちは』と書きますね。しかし、私には願いがあって故意的に『こんにちわ』としたのです。『わ』は『輪』で、『愛の輪・友情の輪・平和の輪』といったものに通じる願いを託したかったからです。私たち日本人も、そろそろ新しい『こんにちわ』の時代を切り拓く時代にきているのではないだろうかと思ったからです」

千葉監督はマザー・テレサの「貧しい者は誰か」という言葉を紹介してくれた。「貧しい者」とする21の例が挙げられていて、そのなかには「貧しい者は慰めの無い人である」「貧しい者は助けの無い人である」「貧しい者は望まれない人、社会に見捨てられた人である」などが並ぶ。

「私は、最後に書かれた『貧しい人はともかくも―私達自身である』という言葉を特に重く感じています。いまの時代にあって、『家族力』ということが問われています。そうしたなかで『家庭』という問題を考えるとき、この言葉に立ち返って考えなければいけないなと思います」

千葉監督の眼差しの向こうには、愛の絆としての「地球家族」が、いつまでもテーマとしてあり続けている。

(文:鵜飼清、撮影:中村恵里香)

 

千葉 茂樹(ちば しげき)

1933年福島県福島市に生まれる。1956年に日本大学芸術学部映画学科を卒業。大映東京撮影所で助監督をつとめ、1974年にドキュメンタリー作品『愛の養子たち』で初監督をする。映画監督、脚本家。市民グループ「地球家族の会」代表、日本映画学校校長、日本映画大学特任教授。川崎市のみやまえ映像コンクール審査委員長。

主な映画作品に「愛の養子たち」(近代映画協会、1974年)、『マザーテレサとその世界』(1978年)、『豪日に架ける―愛の鉄道』(1999年)、『シネリテラシー 映画をつくる子供たち ~オーストラリアの挑戦~』(2007年)、『マザーテレサと生きる』(2009年)等多数。

著書に、『こんにちわマザー・テレサ』『こんにちわ地球家族―マザーテレサと国際養子―』『映画で地球を愛したい―マザー・テレサへの誓い 』

 

 


Missionaries Of Charity Brothers CAVITE, MANILAのこと

末森英機(ミュージシャン)

両方の目から、涙があふれるのは、もう十二分に人が、地球の重荷になったということだろう。家族や友人、愛する人の死に、バケツいっぱいに、あふれるほどの涙をしても、イエスさまのために、スプーンひと匙ぶんの、涙するものがどれくらい、この世にいることだろう。あの泣くマリアさまの像も、片方の目から、涙していたっけ。けっして、両方の目から、涙していたわけではなかった。

涙にぬれた左の目を見て、右の目は、じつは同じ涙でいっぱいになった。あなたやきみを通して、神さまが悲しめと、本気でおっしゃるので、左の目は、涙にあふれた。けれど、神さまについてゆきます、とこころしたならば、希(ねが)うならば、神さまに苦しみなさい、哀れみなさいと、うながされようと、右の目が涙であふれることはない。

左の目が、とてもかわいそうになるので。そのことが、理解できても、まぶたは、まつげとその涙を、せきとめるから、のどにこみあげる、そして、つまる。スッと、かすかに、そう流れずに流れる、ホーキ星の光のしっぽのように光るだけだ。涙はうつくしい。人は、醜(みにく)く、美しいわけがある。それは「だれもが、ひとりで生まれ、ひとりで続け、ひとりで死ぬから……」。そこには、だれもいない。いることはできない。では、歌い、踊るこのマニラの広大な、ガベージ・エリアのスラムに捨てられている子どもたちは何なのか? 炎が燃えていると、人はなぜ、いのちを思うのか?東の空、西の空とたわむれる雲や鳥たちに、 眠りと目覚めがあると、どうして思うのか?

死と生が、眠りと目覚めのように、陰と陽のように。出会うのだ。「あなた」は「わたし」というように。「あなた」と「わたし」ではなく、「あなた」に「わたし」だ。ゴミの山に棄(す)てられた障害をもった子どもたちの「あなた」、それをほほえみながら抱きすくめて、拾って持ち帰るブラザーたちの「わたし」。殺されかけた子どもたち、見殺しにしようとしたおとなたち、ではない。世紀のゴミの山、かつての、スモーキー・マウンテンで、小さな小さな、一瞥(いちべつ)が起きる。「あなた」は「わたし」という。そこには、二者(プロティノス)はない。

生まれ落ちたそのとき、その瞬間から、死のもとへ、巡礼の旅は始まる。一瞬一瞬が、誕生と死だ。それがすべて。生と存在が、人が許してもらった事実。深い安らぎに満ちる。永遠の安らぎに、まったき、休息のなかに。見つめるこのふたつの目が、知っている。人そのものが、安らぎになることを。

ブラザーたちが、いとうものはなにもない。恋人たちが、お互いのなかに、死ぬことができるように、貧しく生きる、スラムのひとびとと暮らしている。

試される、という言葉がある。ブラザーたちに、この言葉はとても、不向きだ。神は体験されなければならない。ブラザーたちは、この子どもたちになる、そんなユメさえ見る。それを、笑顔の光で包んで、胸に思いつづける。ならば、朝になって眠り、救われた子どもたちも、ブラザーになる夢を見るだろう。ふたつの目が、それを訴える。涙は、ひとつぶであろうと、方舟を、アララトの頂に押し運ぶ、力があることを、すでに子どもは知っているのだ。

神父・ダニエーレが、ついに修道士・フランチェスコ修道士になった。抱きしめたい。かれはこれからも、子どもたちといっしょ、いともかんたんに、神のこころをとかして、しまうだろう。いっさいのものが一となる日よ!!

 


マザーテレサ帰天20年

野田哲也(介護士、神の愛の宣教者会ボランティア)

カルカッタ(現コルカタ)のマザーテレサの修道会(Missionaries of Charity 略はMC。神の愛の宣教者会)の本部の1階にはマザーのお墓がある。その墓石の上にはファティマのマリア像があり、墓標にはこう刻まれている「Love one another as I have loved you」マザーはまさにこの聖書の言葉のように生涯を生き抜いた。

マザー・テレサの墓(写真提供:町田雅昭)

私はマザーハウスに行く度、まずマザーに逢いに行き、マザーの長方形の墓石に両手をあて、その文字を黙読しながら、それがじわじわとほんもののマザーの顔のように見えてくると、いつの間にか、マザーと祈りのうちの会話を始める、それが1日の糧となり、癒しとなり、私の身体を動かせてくれた。言葉になるものから言葉にならぬものまでが私の全身を駆け巡り、気づくと愛で満たされるのであった。それから私はゆっくりと跪(ひざまづ)き、額を墓石にあてると、肌身でマザーの愛を感じられるのであった。

3代目になる現総長のドイツ人シスタープリマは朝食後仕事に向かう前に必ず1人でマザーとの会話をしている。マザーの肌の温もりは感じないであろうが、もしかすれば、マザーの肌の温もりを感じるかのごとく、心のうちに現存しているマザーとの会話をしていた。

MCを継続させていくためのシスタープリマの重圧とはいかなるものなのか、それはマザーが背負った十字架であり、マザーは彼女を最愛の娘を守るように今もなおしっかりと見守っているだろう。2016年3月にはイエメンのアデンでMCシスター4人とワーカーたち12人がテロリストによって銃殺された。その時本部のマザーハウスから世界中にあるMCの施設にはシスタープリマから手紙が届けられた、その手紙が驚くほどイエスの愛に満ちていた。きっとシスタープリマはマザーと一緒にその手紙を書いたのかも知れないと思うほどであった。

物質的なことを言えば、死を待つ人の家ニルマル・ヒルダイやプレムダンの遺体安置所にはマザーが亡くなってからクーラーがついた。これは必要だとあるMCブラザーは言った「遺体からの死臭がすごかったこともあったから」「遺体を運ぼうとして持った時に自分の指が遺体に食い込んだこともあった」と。

私は20年前からカルカッタに行くたび、路上から患者を施設に運ぶことをしてきたが、患者たちやその現状に変わりはない。シアルダー駅の郊外にあるMCの治療所で一緒に働いたシスターもそう言っていた。

現在もMCは各国に新しい施設を作っている、最近では5月にアルゼンチン・ブエノスアイレスにシスターたちの施設ができた。その場所にはとても危険な地区にあり、私の友人は司祭かシスターと一緒でなければ1人では歩けない場所だと言っていた。

マザーが生きていた時と同じようにシスターたちは現在も変わらずにイエスの愛をあらゆる場所に微笑みを持って運んでいる。マザーは徹底的に聖書の言葉に生きた、それを誰もが見てわかるように行いとしていた、それは現在のシスターたちも変わりようがない。マザーはただひたすらにその生涯をGood News「福音」を伝えようと生きた、それは現在のシスターたちも変わりようがない。

マザーはいつも言っていた「ほほえみを保ちなさい。苦しみのなかにあって、イエスにほほえみなさい。なぜならば、神の愛の宣教者になるためには、あなたは快活ないけにえとならねばならないのです」マザーのイエスへの愛はマザーの愛する子たち、MCシスター、MCブラザー、MCファーザーたちによって、神に見守られながらいきいきと引き継がれている。