アヴェ・マリア

齋藤克弘(典礼音楽研究家)

キリスト教の音楽の中で題名として有名なものというと「ミサ曲」ともう一つ「アヴェ・マリア」があげられると思います。その「アヴェ・マリア」で一番知られているのは、バッハの「平均律クラヴィーア曲集」第一巻第一番のプレリュード(前奏曲)にグノーが旋律を付けた「アヴェ・マリア」でしょうか。皆さんもきっと一度はお聞きになったことがあるでしょう。ただし、この曲はバッハの自筆譜によるものではなくシュヴェンケンというドイツの作曲家が手を加えたものに旋律をつけたものです。

「アヴェ・マリア」の冒頭の歌詞は大天使ガブリエルがマリアに聖霊によって神の子が宿ったことを伝えた際のあいさつのことばによるものです。この場面も「受胎告知」という絵画で有名ですね。15世紀の画家、フラ・アンジェリコやレオナルド・ダ・ヴィンチの作品は皆さんもご存じのことと思います。この時代の画家たちの作品は当時のヨーロッパ世界を基準にして描かれているので、背景も衣服もマリアが実際に生活していた時代のものとはかなり異なっています。

ところで、この「受胎告知」ですが、マリアにとって、また、いいなずけのヨセフにとっても大変重大な決断を迫られた出来事だったのです。当時のイスラエルは聖書(旧約聖書)の律法が守られていました。マリアがガブリエルから受胎告知されたとき、マリアとヨセフはまだ結婚しておらず、今で言う婚約が成立した状況でした。この状況でマリアに子供ができたということは、通常の常識では、①ヨセフとマリアが婚前交渉して子供ができた。②マリアがヨセフ以外の男性と関係をもって子供ができた。の二つしかありません。しかし、当時、彼らが居住していたガリラヤの人々は道徳的に高潔でしたし、ヨセフも夢で天使からお告げを受けていますからどちらもあり得ないわけですが、もし、夢でのお告げがなければ、身に覚えのないヨセフにしてみれば、マリアがほかの男性との性交渉で子供ができたと考えざるを得ません。

そうなると、当時のユダヤ社会の法律である律法によると、婚約している女性が婚約者ではない男性との性交渉をした場合、石殺しの刑にされました。石殺しの刑は被告人を約5メートルくらいの崖の上から突き落として、その上から二人の人がようやく持てるくらいの大きな石を被告の上に落とすという、今の時代で考えると、とてつもなく残酷な処刑方法です(死刑という刑自体が残酷でないというとうそになりますが)。ですから、夢でお告げを受けたヨセフがこの夢を信じることなく、ユダヤ社会の裁判を起こした場合、マリアは石殺しにされた可能性がありますし、マリアもガブリエルから受胎告知されたとき、おそらく、真っ先にそのことが頭によぎったのではないかと思います。

つまり、マリアが聖霊によって子供を身籠ったことを受け入れたことは、ヨセフが信じてくれるだろうか、もし、ヨセフが信じてくれなければ石殺しにされるかもしれない、という不安を抱えながらの受胎告知の受け入れだったわけです。また、ヨセフも当時の社会の規則通りの行動をとっていれば、マリアを石殺しにしてしまうという葛藤の中で、天使のお告げを受け入れたわけで、ヨセフもマリアのことを心底大切にしていた、今風の言い方をすれば、心の底から愛していたということができるのではないかと思います。

グノーの「アヴェ・マリア」をはじめ、この曲は甘美で優雅なものがほとんどですが、お告げを受けたマリアとヨセフにとって、このお告げを受け入れることは、ある意味、自分の命を賭けて、一人の男の子を養い育てることの第一歩だったのです。「アヴェ・マリア」を聞くとき、そんな、大きな人生の選択を受け入れた、この夫婦の思いに心を馳せてみていただきたいと思う次第です。

 


特集8 マリア様を見てる

風薫る5月。ヨーロッパでは聖母マリアを敬う月として「聖母月」と呼ばれ、広くカトリック教会の伝統となっています。それにちなみ、今月はマリアを特集します。

.

聖母マリアの名にちなみ

マリアのlet it be

マリアを演じた女優

「被爆マリア」を知っていますか

心にのこるマリア様

切支丹の声

アヴェ・マリア(2017年5月17日追加)

 


聖母マリアの名にちなみ

マリア、という名前を聞いて聖母を思い浮かべる日本人はそう多くないかもしれません。欧米では一般的な女性の名前の一つです。そこからマンガ等々に大変よく登場してきます。ニコニコ大百科に主な使用例が列挙されています。そこだけでも40ほどはありますが、当然その程度ではないでしょう。

聖書の中では、この名前はモーセの姉であるミリアムに遡ります。エジプトを脱出したイスラエルの民をモーセとその兄弟アロンとともに導いた指導者として登場する人物です。元々はエジプトにいて、生まれたばかりのモーセが殺されないように機転をきかせて助けたのは彼女です。有名な海を渡るシーンでは、無事に海を渡ったあと、ミリアムがタンバリンを持って神を賛美して歌い出すという場面があります。別の箇所ではアロンとともにモーセにたて突いて罰を受けて病気になったりもします。このミリアムが、アラム語やギリシア語を経由して、後にマリアという名前になります。

このミリアムという名前の意味なのですが、実は詳しいことはわかっていません。「神の贈り物」、「愛された者」という意味が提案されていますが、「苦い海」「反抗する者」「太った者」という諸説も提案されています。聖書では人の名前で人物描写することが稀ではなく、このように本来の意味がわからないと、難しいとしか言いようがなくなってしまいます。物語から直接人物を想像するしかありません。

さて、ローマ帝国末期の時代の聖人で聖書解釈者として有名なヒエロニムスという人がこのミリアムの名前の意味を「海のしずく」と解釈しました。ミリは元はマルで滴という意味、アムはヤムで海の意味だというのです。ラテン語では Stilla Maris となります。これが後にどういうわけだか Stella Maris「海の星」という言葉となって、マリアの称号、タイトルとなってカトリック教会に定着していきました。羅針盤が中国からヨーロッパに伝来し発達するまでは、船乗りにとって天測、星の導きが唯一の頼りでした。中世からアヴェ・ステラ・マリスという祈りがありますが、聖母マリアに数多くあるイメージのひとつに、このような暗闇の中で輝くマリアというイメージがあります。海沿いや港町の学校や病院に「海星」や「海の星」という名前の施設がたまにあるのはこういうわけです。マリアに献げられたもの、という意味でそう名付けられるわけです。

ところで、マリアは英語ではメアリー、フランス語だとマリーになるのは有名ですが、英語圏で教会に行くと Our Lady という表記を頻繁に見かけます。ドイツ語では Unsere Lieb Frau(ウンゼレ・リープ・フラウ)、フランス語では Notle-Dame(ノートル・ダム)、ラテン語やイタリア語では Madonna(マドンナ)です。これは「我らの淑女」「私たちの貴婦人」という意味で、聖母マリアのことを指しています。「マドンナ的存在」という表現はここから来てるんですね。

文・写真=石原良明(AMOR編集部・サブカルマニア・聖書読み)


聖母マリアを演じた女優

イエスの生涯を描いた映画はたくさん作られています。ところが、聖母マリアを主人公にした映画がどのくらいあるのか調べてみると、2006年に公開された『マリア』とケビン・コスナーが監督した『ジーザス』いう映画しか見つからないということがわかり、ちょっと驚きを感じました。

『マリア』という映画ですが、実際には見ていないので、なんとも言えませんが、受胎告知から出産、その後エジプトへという道のりを描いたもののようです。そこでマリアを演じたのは、ケイシャ・キャッスル=ヒューズ。この人は『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』に出演しているので、ご存じの方も多いでしょう。

ケビン・コスナーが監督した『ジーザス』は原題が “MARY, MOTHER OF JESUS” ですので、まさしくマリアの視線でイエスの生涯を描いたもののようです。

さて、イエスの生涯を描いた映画に必ず出てくると思っていた聖母マリアですが、調べたかぎりでイエスの生涯を描いた映画が約20作品。そのうちマリア様が登場する映画は12作品でした。意外に少ないようにも思いました。

では、聖母マリアを演じた女優陣はというと、これが公開当時すごく有名な女優というのは案外少なく、後に有名になった女優さんも存外に少ないこと気がつきました。

最後に映画名、原題、監督名、公開年、マリアを演じた女優名の表を記しておきますので、ぜひ参考になさってみてください。

1979年に公開された『ジーザス』は、日本では公開されていませんが、無料でインターネットからダウンロードして見られます。この映画は、ジョン・ヘイマン監督が制作した作品で、新約聖書の「ルカによる福音書」を忠実に映像化することでイエス・キリストの生涯を描いた異色作として評価されています。出演者やエキストラは、ユダヤ人やアラブ人を多く起用したことでも注目されています。70以上の言語に翻訳されており、58億人の人が見たということです。ちょっと教育映画的な要素がありますが、じっくり聖書を読んだことのない人にはお勧めかもしれません。

(中村恵里香/ライター)

マリアを演じた女優(表)

邦題 (原題) 公開年 監督名 マリアを演じた女優
ベン・ハー
(Ben-Hur: A Tale of the Christ)
1925年 フレッド・ニブロ ベティ・ブロンソン
キング・オブ・キングス
(King of Kings)
1927年 セシル・B・デミル ドロシー・カミングス
ゴルゴダの丘
(Golgotha)
1935年 ジュリアン・デュヴィヴィエ ジュリエット・ヴェルヌイーユ
キング・オブ・キングス
(King of Kings)
1961年 ニコラス・レイ シオバン・マッケンナ
奇跡の丘
(Il vangelo secondo Matteo)
1964年 ピエル・パオロ・パゾリーニ マルゲリータ・カルーソ
偉大な生涯の物語
(The Greatest Story Ever Told)
1965年 ジョージ・スティーヴンス ドロシー・マクガイア
ナザレのイエス
(Jesus of Nazareth)
1977年 フランコ・ゼフィレッリ オリヴィア・ハッセー
ジーザス
(Jesus)
1979年 ピーター・サイクス、ジョン・クリシュ エリー・コーエン
最後の誘惑
(The Last Temptation of Christ)
1988年 マーティン・スコセッシ ベルナ・ブルーム
ジーザス
(MARY, MOTHER OF JESUS)
1999年 ケビン・コスナー ジャクリーン・ビセット
パッション
(The Passion of the Christ )
2004年 メル・ギブソン マヤ・モルゲンステルン
マリア
(The Nativity Story)
2006年 キャサリン・ハードウィック ケイシャ・キャッスル=ヒューズ
サン・オブ・ゴッド
(Son of God)
2014年 クリストファー・スペンサー ローマ・ダウニー


マリアのlet it be

中学3年生の「宗教」で「聖母マリア」を読む

マリアを取りあげる授業はビートルズ「Let it be」を聞くことからはじめる。

「この歌知っている人?」

ときくとほとんどが手を挙げる。いつになっても不朽の名作だと思う。

「じゃ、Let it be ってどういう意味かな?」

「『なるようになるさ』という意味じゃないの?」

「『あるがままに』だっていうのを聞いたことがあるよ」

「ここに和英両訳の歌詞付きのカラオケ映像があるので、見てみよう」

「これは『あるがままに』だよね。でも他のセリフに気がついた? 『聖母マリアがやってきて知恵の言葉をささやいた』っていうところ。この言葉は聖書に出てくる聖母マリアの言葉なんだよね。しかも『知恵の言葉』だという。で、そこの所を読んでみよう。ルカ1章27節〜38節だ。」

 

……………{朗読省略}……………

 

「この中に『Let it be』があるのだけれどどこかわかるかな?」

「え、わからな〜い!」

「ヒントはマリアの言葉だ」

「そうするとここかな?『マリアは言った。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」そこで、天使は去って行った。』でもここには『あるがままに』も『なるようになるさ』も出てこないよ」

「じゃあ、英語訳をみてみよう。英語訳はこうなるんだ。

And Mary said, ”I am the handmaid of the Lord; let it be to me according to your word.

ほらここにあるだろう? でもね、マリアの言葉は『let it be to me according to your word』なんだけれど”Let it be”の訳では『to me according to your word』をすっとばしちゃったんだ」

「ほんとだ。『おことばどおりこの身になりますように』というのと『なるようになるさ』や『あるがままに』ではまったく違うよね。ビートルズはどっちのつもりでうたっていたんだろうか?」

「ほんとだ。おもしろ〜い!」

「ところでマリアはどのようなところでこの応えをしたんだろうか? ここは有名な「受胎告知」とか「お告げ」といわれる場面だけれど。 誰か説明して」

「ある日、天使ガブリエルがマリアの前に現れて、『あなたは間もなく男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい』といわれる。まだ結婚もしていないのに唐突にそういわれたマリアはビックリしちゃって『そんなことはありえない。まだ結婚もしていないのに』という。すると天使は『あなたは聖霊によって身籠もる。神さまにできなことはない』っていう。その応えが『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように。』というわけです」

「そうだね。このマリアの応えについてどう思う。」

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ『受胎告知』(Ecce Ancilla Domini)、テイト・ミュージアム(ロンドン)

「う〜ん。なんといえばいいのかな? 大胆というか勇気があるというか。」

「信仰が篤いというか、神さまにまかせ切っちゃっている。」

「マリアはこのお告げをことわることもできたと思う。私にはとてもそんなことはできないっていってね。でも彼女はことわらなかった。私はこのマリアの応答を「神さまのいわれることだからなんとかなるさ」というように訳すのが一番好きだな。そうすると「なるようになるさ」っていうのに近いかな。」

「この場面、昔から多くの画家によってえがかれている。「受胎告知 絵画」で検索するとたくさんでて来るけれど、どの絵が好きかな? フラ・アンジェリコ、レオナルド・ダビンチなどなど。マリアがおびえている表情をしているのもあるね。これについてはまた別のチャンスでふれたいけれど、今日はひとつだけ紹介しよう。

ダンテ・ガブリエル・ロセッティ(1828〜1882)の「Ecce Ancilla Domini」という1850年の作品だ。このマリアのモデルは妹のクリスチーナ・ロゼッティだといわれ、天使は自分自身(彼の名はガブリエル)だとされている。クリスチーナ・ロゼッティという名を聞いたことがあるだろうか? 小学唱歌の「た〜れかか〜ぜをみ〜たでしょう♪」の童謡の作詞家(訳:西条八十、作曲草川信)として知られる。この「かぜ」の歌(クリスチーナ・ロゼッティ「かぜ」はヨハネ3章8節を歌った歌なんだ。」

「トリビア〜!」

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


「被爆マリア」を知っていますか

枝川葉子(「ピタウ先生を語る会」代表)

日本から運ばれた被爆マリアは、イタリア・サルデーニャ島のボナリア聖母教会祭壇前に安置された。

私はカトリックの信者ですが、2009年まで「被爆マリア」の存在を全く知りませんでした。ところがそれ以来、「被爆マリア」の導きとも思えるようなドラマが次々と身の回りに起きて大きく展開するようになりました。

2012年暮れにはクリスマスの数日後から、「被爆マリア」のお供としてイタリア、サルデーニャ島で毎年末に開催される平和行進に参加し、各地の聖堂で大歓迎をうけました。お供の一行は長崎・浦上教会主任司祭(当時)の小島栄神父と上智大学元学長ピタウ先生の「ピタウ・ファミリー」とも言える上智大学の卒業生6人の仲間です。

そして2013年1月2日には思いがけずバチカンのパウロ六世ホールで、「被爆マリア」と共に教皇の特別謁見という栄誉にあずかることになったのです。

 

「被爆マリア」とは

今、「被爆マリア」(The “bombed” Mary)の存在をどのくらいの人が知っているでしょうか。

長崎の30年の年月をかけて建てられた浦上天主堂は、1945年8月9日、長崎に投下された原子爆弾のために崩壊しました。爆心地から500メートルしか離れていない教会のすべては失われたと思われました。しかしそのガレキの中から中央祭壇の上に設置されていた寄木造りの聖母像の頭部だけが発見されたのです。

奇跡的に見つけ出された聖母像のそのお顔は、「被爆マリア」と呼ばれています。被爆後の火災で頬と髪も焼け焦げ、ガラス製の眼球は溶けて黒い空洞になっています。そのような惨めなお姿になってもなお、私たちに、世界の平和を訴え続けているのです。

 

2012年暮れにおこなわれたサルデーニャ島の第26回平和行進は、被爆マリアを迎えてかつてない盛り上がりをみせた。中央の薄茶のべレー帽をかぶった女性が著者。

サルデーニャ島での第26回平和行進に参加

この「被爆マリア」の平和巡礼行進は、ピタウ神父の弟アンジェロ・ピタウ神父の教区デットリ司教が、マリア像のある長崎浦上教会に派遣要請され実現したものです。サルデーニャ島は、四国ほどの大きさでローマの西の沖に位置しています。

到着した翌日 28 日は、サルデーニャ島のカリアリ大司教区ボナリアの教会で集会が持たれました。小島神父が「被爆マリア」を掲げて入場すると、聖堂を埋めた大勢の方が立って、その視線は一斉にマリア像向けられました。イタリアの人々に強く温かい信仰心で迎えられました。私は、この光景に感動して鳥肌が立つほどでした。原爆投下にもかかわらず永らえた「被爆マリア」のことは、新聞やテレビで報道されていて、来島を待ちかねていたのだそうです。

翌29日私たちは、サン・ガヴィーノ・モンレアーレへ移動し、サンタ・キアラ教会での歓迎会、ミサに出席しました。第26回平和行進は、3時から聖職者と州知事、市長と市民5、6千人が参加して、ブラスバンドの演奏に合わせて村道をのんびり行進しました。

被爆マリアはイタリアでは「マドンナ」と呼ばれました。一緒に写真におさまってはしゃぐサルデーニャの人々。

さらに翌30日、「被爆マリア」と一緒に島内のサン・ニコロ教会、サクロ・クオレ教会そしてピタウ先生の故郷ヴィラ・チドロのサンタ・バルバラ教会を訪れ、大歓迎を受けました。素朴なサルデーニャの人々の篤い信仰心に心打たれました。

 

サルデーニャからローマへ

ローマ教皇との謁見があるかもしれないことは、東京でスケジュールの打ち合わせをしているときから聞いていました。しかし、正式に決まったと聞いたのはサルデーニャでのことです。それも一般謁見とは別の特別謁見だというのです。それは一体、どういうものか。分からないながらも緊張が高まりました。31日のうちにローマへ移動し、正月1日はジェズ教会で新年のミサに与りました。

 

教皇ベネディクト十六世との謁見

そして2日は、いよいよバチカンでの教皇謁見の日です。

謁見の場所はパウロ六世ホールという1万人も収容できそうな広間でした。新年の教皇のメッセージを聞こうと集まった世界中からの信者でごった返すホールに着くと、「被爆マリア」と代表4人は特別謁見ということで、最前列の座席に案内されました。

その時です、檀上から大きな大司教がこちらへ向かって降りていらして、「みなさん、こんにちは」と挨拶してくださるではありませんか。それは上智大学元副学長でルクセンブルク大司教のオロリッシュ先生でした。余りの偶然の出会いに何かのお計らいを感じました。

それから間もなく、万雷の拍手で教皇が迎えられ、クリスマスメッセージが伝えられました。檀上の30人ほどの神父たちが各国語に訳された教皇スピーチを読み上げます。

そしていよいよ8グループほどの特別謁見が始まりました。教皇の前に20名ほどが2列に並び順番に階段を上ります。代表の一人が白手袋をはめた手で「被爆マリア」を抱え持ち、わたしたちは横一列に並んで教皇様に拝謁いたしました。

そこでもオロリッシュ大司教が教皇の傍に立ち、ドイツ語で長崎からいらした小島神父と私たちを紹介してくださいました。彼らは上智大学の卒業生です、と。教皇も「SOPHIA UNIVERSITAET」と繰り返され一人一人と握手してくださいました。教皇のお手は、とても温かく柔らかかったです。

2013年1月2日の謁見で、ローマ教皇ベネディクト十六世は被爆マリアに手を添えて見つめ、しばし語りかけた。それから間もなく退位する教皇は核廃絶の悲願を被爆マリアに託すかのようでした。

教皇様はそっと両手を添えられて4、5秒じっと被爆マリアの目を見つめ対話されているご様子でした。教皇ベネディクト十六世は、1月11日に2月28日をもっての退任を発表されましたが、この時どのような思いで被爆マリアと対話なされたのか・・・すでに退任のことを決意されていらしたのではと推察いたします。

ベネディクト十六世との謁見が、ほとんど最後という機会に恵まれましたことも大きな喜びになりました。この時、教皇からいただいたロザリオは、お恵みのお裾分けとして、病気で入院中の仲間、友人たち、沢山の方に触れてもらいましたし、私自身が祈るためとお守りとして日々持ち歩いて大事にしています。

 

最後に

私たちにとってマリア様に使っていただいたこと、この経験は大きなお恵みでした。今回巡礼団ではサルデーニャでのピアノコンサートや原爆資料展など、思いがけず多くの方々の尊い協力に支えられ実現することができました。それから特筆しなければならないのは、元上智大学長のピタウ先生という大樹あってすべてが可能になった事です。ピタウ先生という存在の偉大さを改めて感じる巡礼でした。

「被爆マリア」は、過去3回海外へ平和巡礼をされました。1985年バチカン市国での原爆展、2000年ベラルーシ共和国ミンスクでの「世界の核被害展」、2010年のローマ、ゲルニカ(スペイン)、そしてニューヨークへ世界平和の使者として巡礼の旅をされ、この度は4回目の平和巡礼でした。そして「被爆マリア」の平和の祈りが叶えられるまで、「被爆マリア」のご意志によって平和巡礼はつづいていくことになるでしょう。

(写真提供:「被爆マリア」平和巡礼団)


心にのこるマリア様

眞﨑 遥(宗教科教員)

私の心にのこる聖母マリアは、「親指のマリア」です。カルロ・ドルチによって描かれ、シドッチ神父がイタリアから、鎖国中の日本に潜入した時に持ち込んだものです。現在は、東京国立博物館に所蔵されています。

私が初めてこのマリア様に出会ったのは、大学1年生の春でした。受験が終わり、ほっとした気持ちで美術館に行ったとき、このマリア様が目に入りました。「親指のマリア」は、悲しみの聖母ですが、マリア様のお召しになっている衣の青さを通して、マリア様の悲しみと強さが伝わってきて、はっとしたことを覚えています。

当時は、まだ「親指のマリア」についての知識は持ち合わせていませんでしたが、大学で学び、教員として潜伏キリシタンや日本のキリスト教の歴史に触れる中で、この聖母の御絵がシドッチ神父様によって日本に来たことを知りました。

今、改めて聖母を見て感じることは、マリア様がいかに悲しい思いをして、イエス様の受難を受けとめたかということです。最愛の息子が罪人として蔑まれ、殺されていく苦しみは、私の想像を遥かに越えます。

そして私は、命の危険にさらされながら、信仰を守り続けたシドッチ神父様や潜伏キリシタンの人々は、そんなマリア様と出会ってどのように感じただろうと思います。同時に、マリア様は、潜伏キリシタンやシドッチ神父様をどのように見ていらしただろうと想像するのです。

東京国立博物館研究情報アーカイブズより

そしてそれを考えたとき、マリア様の深い悲しみと愛を感じます。信仰を公の場で大切にすることができなかった苦しみ、そして信仰をもっていることによって、受ける様々な苦しみに寄り添い、祈っておられるマリア様が私の中に浮かびます。

不思議なことに、私がこの「親指のマリア」からうけるイメージは悲しみだけではありません。このマリア様から私が強く感じるのは、希望です。マリア様に見て取れる悲しみは、復活を前にした受難の悲しみです。そしてその先には希望があります。

潜伏キリシタンの苦しみも、明治に入り、浦上4番崩れの後、ようやく終わりを告げます。潜伏キリシタンたちは公に自分の信仰を言い表すことができるようになり、彼らは自分たちの教会を建てて、祈ることができるようになりました。彼らにとってそれは、どんなに大きな喜びだったことでしょうか。それは、大きな希望に他なりません。

「親指のマリア」を見る時、私はシドッチ神父様の生き様、潜伏キリシタンの人々の信仰、そしてマリアの強さと愛を感じます。そして彼らの信仰を思うとき、私は自分の信仰を深く見つめさせられるのです。

 


切支丹の声

服部 剛(詩人)

「日本人とキリスト教」―― この両者は互いに溶け合わないようで、実は、遠い過去から密かな糸で結ばれているのではないか、と私は思う。もし、今までの日本にキリスト教が存在していなかったとしても、この国は変わらずに存在してきたかもしれない、とも思う。そう仮定するほど、「日本人の心に届くキリスト教」は、未だに実現していない。作家・遠藤周作はそのテーマを生涯追い求め、道標(みちしるべ)となる作品を世に遺していった。

日本は島国であるゆえに、昔から異国の文化を〈受け入れる〉という性質をもっている。その〈受け入れる〉という性質は、母性に通じている。女性が子を生むように、日本は異文化を自らの内に受け入れ、より良いものとして生み出してきた。例えば、自動車も日本にきて、より性能の良いものとしてリニューアルされた。仏教についても、禅寺の庭を眺めるひと時に感じるのは、遠い国から渡ってきた仏教の根本的な宗教性を受け入れ、生かしながら、日本人にとって血の通うものへと変容されていった。だが、キリスト教については、日本人の文化や精神になじんだ変容が成されていないように、私は感じる。

遠藤周作文学館(長崎市)、書斎の再現

〈異国のものを受け入れ、日本らしく生み出す〉という性質をキリスト教で考えるならば、遠藤はパイオニアであり、その象徴の一つは、迫害時代に隠れながらも切支丹が拝んだ「マリア観音」であろう。遠藤は短篇『母なるもの』の中で、父と別れた母が縋(すが)った信仰についての葛藤を、自らの思春期を投影しつつ描いている。母の信仰に背を向けるように、悪友と遊ぶ自分の心の中には絶えず、後ろめたさがあったという。

やがて大人になった遠藤は、すでに世を去っていた母の信仰のルーツでもある長崎へ旅に出る。そして、切支丹の里を巡り、その子孫の家を訪れ、神棚の垂れ幕がゆっくりめくられると、キリストを抱く聖母の絵が現れた。それは聖母であると同時に、野良着姿で胸がはだけ、乳飲み子を抱く農婦の姿であった。

「私はその不器用な手で描かれた母親の顔からしばし、眼を離すことができなかった。彼等はこの母の絵にむかって、節くれだった手を合わせて、許しのオラショを祈ったのだ。彼等もまた、この私と同じ思いだったのかという感慨が胸にこみあげてきた。 ~中略~ 私はその時、自分の母のことを考え、母はまた私のそばに灰色の翳(かげ)のように立っていた。*1」

同記念館のテラス

かつて、迫害の恐怖の中で踏み絵に足をかけながらも、心の中では許しを乞い、信仰を棄てきれなかった隠れ切支丹の後ろめたさと、自分が信仰に生きる母に抱いてきた後ろめたさは通じるという、時を越えた「切支丹の声」を、遠藤は長崎の旅で聴いたのだった。

そして、遠藤文学の中の登場人物のような誰かが、どんなに失敗しても、回り道をしても、汚れた足で再び立ち上がれるように、「母なるもの」の密かなまなざしは今日も、夕焼け空の雲間から、悲嘆の人の心にそっと光を射すであろう。

(文中、敬称略。*1は『母なるもの』遠藤周作(新潮社文庫)より引用しました。)