ラマダーンというイスラム教の実践

私たちが一般的に断食をするというと、健康診断で何らかのかたちで数値が引っかかって、体重を落としなさいと指導されるときや、若い女性が美容的に美しくなりたいためにダイエットするときを連想すると思います。しかし、イスラム教の断食の習慣は、その性質上、日常の中で実際に行われているものです。

イスラム教は、今でいうとサウジアラビアなど中東の石油産出国に発祥した宗教で、アラーの神である一神教で、私たち日本人の日常から見るとかなり距離を感じます。日本は古来、多神教的な宗教観をもつ風土で、自然が神になり、人間が神になります。あらゆる対象が神になる可能性を含んでいるからです。このような世界に慣れ親しんでいる私たちにとっては、イスラム教は一般にとてもわかりづらい宗教と思われています。

いくつかのイスラム教関係の事典を調べてみてわかるのは、イスラム教には断食の月ラマダーンがあるということです。これはイスラム暦9月のことで、この1ヵ月間、日の出から日没まですべての飲食が禁じられます。ラマダーンの断食を守ることは、イスラム教の5つの行為(信仰告白、礼拝、喜捨、断食、巡礼)のうちの重要な一つで、聖なる義務とされています。624年にムハンマド(マホメット)の最初の本格的な戦いであったバドルの戦いでイスラム軍が初めて勝利したのがこのラマダーンの月であるため、この勝利をもたらされた神の恵みに対する感謝の月という意味もあるそうです。

ラマダーンの期間は、イスラム教徒にとって、『コーラン』(正しくは『クルアーン』)を読み、学び直すことが大切です。『コーラン』はイスラム教徒にとってかけがえのない経典であり、預言者マホメット(ムハンマド)に初めて啓示されたアラーの神の言葉が書かれており、この神からの言葉に対して、人間の側は絶対的服従が要求されています。ラマダーンの断食を行うことは、イスラム教徒にとってアラーへの服従の行為であり、このほかにも自発的断食が日常的に勧められています。このように、イスラム教はアラーの神から与えられたシャリーアと呼ばれる聖法によって、その生活環境が定められている宗教です。

マレーシア・クアラルンプール近郊プトラジャヤのプトラモスク(写真提供:石原良明)

私たち日本人古来の宗教観からすると、自由が生活の中で少ないと感じられるかもしれませんが、仏教の中には修行としての断食が実践されていることは知られるとおりです。イスラム教と同じく、一神教の風土から生まれているキリスト教には、別稿で見るとおり、古代教会において断食の苦行があり、断食の季節としての四旬節が形成され、金曜日(キリストの受難の曜日)には鳥獣の肉を食すことを控える小斎という習慣もヨーロッパでは広く残っています。

宗教心からの行いとしての断食を、私たちの日常的な生き方の可能性として目を向けてみる新たな意義があるかもしれません。

※参考:『新イスラム事典』(平凡社 2002年)、『岩波イスラーム辞典』(岩波書店 2002年)

(高橋章/日本大学教授 & Editors)


四旬節 名前をめぐるエトセトラ~~「四十日」が意味するもの

「四旬節」とは文字通り「四十日間の季節」。カトリック教会での名称のもとはラテン語の「クアドラゲシマ」(Quadragesima)もそのまま「四十日」。東方教会のギリシア語名称も「テッサラコステー」と同じ意味です。ラテン系のヨーロッパ諸国語もやはりこの由来を伝えています。フランス語のカレム(carême)、イタリア語のクアレジマ(quaresima)、スペイン語のクアレスマ(cuaresma)、ポルトガル語のクアレズマ(quaresma)と。ちなみにキリシタン時代の日本でもポルトガル語をもとに「クハレイズマ」とか「クハレズマ」と呼んだそうです。系統を異にするドイツ語だと「ファステンツァイト」で、直訳すると断食節。四旬節の一つの特色を名にしています。英語は少し毛色が変わっていて、四旬節のことを「レント」と言います。これは、古英語で春を意味した「レンクテン」(lencten)に由来するようです。

四旬節には、それが始まる前のカーニバルという習俗がよく知られていますね。各国でもさまざまな名前と特色をもつ行事があります。カーニバルが肉断ち前の大発散の時があるということは、四旬節が「肉断ち」「断食」の季節なのだという理解が前提にあります。

このような認識は、四旬節のことを日本の聖公会の暦で「大斎節」、ハリストス正教会で「大斎」と言うところにも感じられます。「斎」(ものいみ。「物忌み」とも)という日本の宗教伝統にある古語(漢字)とその意味(日常的行為を控え、穢れを避けること)を取り込みながら四旬節の趣旨を表現しようとしています。日本のカトリック教会でも、「斎」の字は「大斎」(充分な食事を一回にのみすること=教会でいう「断食」の意味)や「小斎」(鳥獣の肉を食すことを控えること)という形で使われています。

『荒れ野の誘惑』フラ・アンジェリコ画、フィレンツェ、サン・マルコ美術館、15世紀

ところで、古代教会での成り立ちを見ると、四旬節の趣旨は断食だけに尽きるのではありません。復活祭(復活徹夜祭)に行われる入信式(洗礼式)に向けての準備を3週間から4週間かけて行ったことや、罪を犯した信者たちが悔い改めと償いを行ったことがもとになり、それがやがて「四十日」の理念でまとめられるようになったのです。4世紀後半のことです。なぜ四十日か。それはイエスが誘惑を受けた「四十日」(マタイ2:1-11; マルコ1:12-13; ルカ4:1-13)がこの季節の模範としてて意識されるようになったからです。現在でも四旬節第1主日にこの福音書の場面が朗読されるのはそのためです。それとともに、この季節の趣旨を告げるのは四旬節の始まりの日である灰の水曜日の福音朗読(マタイ6:1-6, 16-18)です。そこでイエスは、施し、祈り、断食に臨む心を語っています。人前で目立たせるように行うのでなく、隠れたことを見てくださっている神を意識し、神に信頼しながら果たすようにと。

教会の歴史を通じて、四旬節は断食ということが目立っているかもしれませんが、それだけではない深さと広がりがあります。何よりもいのちの源である神を思い(祈り)、自分の生活ぶりを見直し(節食、節制)、神に生かされているものとしての互いのつながりを大切にし(施し・慈善)、イエスが誘惑を退けたように、神のことば、神の国のために生きよう……そんな気持ちが「四十日」という名前に込められているようです。

(石井祥裕/典礼神学者)


1614年長崎のレント(四旬節)と村山等安

1614年は、高山右近や内藤ジョアン、原マルチノ、ペトロ岐部らのキリシタンが日本からマニラやマカオに追放された年である。12月のことであった。

その年のレント(四旬節)に長崎で何が起こっていたのか、歴史上にはほとんど現れてこないが、今ではほとんど考えられない大変なことが起こっていた。数千人規模のキリシタンが集まり、20日にわたり大デモンストレーションを敢行したのである。しかもあるものは鞭を自分の体に打ち付け、あるものは十字架を担ぎ、荒縄で身を縛るなどの「苦行」を群衆の見守る前で行った。

これを主導したのは村山等安と「ロザリオの組」である。この頃のキリシタン信徒の動きの主流は「慈悲の組(ミセリコルディア)」や「聖母の組」などのイエズス会系ではなく、「ロザリオの組」や「十字架の組」などのドミニコ会系の組であった。

イエズス会が日本の旧来の宗教や習俗に一定の理解を示すのに対して、後から参入してきたフランシスコ会やドミニコ会は妥協を許さない熱烈な信仰を示し、殉教を最高の生き方として信徒を煽っていた。その結果がこの大デモンストレーションであった。この確執は当時世界中で起こっていて、中国では「典礼論争」と言われるような事件となっている。同じカトリック教会の中でも17世紀のイエズス会とフランシスコ会やドミニコ会などの托鉢修道会の確執は醜悪であり、日本のキリスト教宣教の歴史に汚点を残した。

これが家康と幕府を怒らせ、ついに右近らの国外追放を早めたと言ってもいいだろう。まさに大挑発行動であったのである。

ところでこの村山等安という人物はとても興味ふかい生き方をした人物である。才知に長け、弁舌爽やかで。しかもたくましい商魂の持ち主で、キリシタンでありながらも秀吉にも家康にも長崎代官であることを認められた。

富と権力を得た等安は次第に堕落し、イエズス会からは大悪人と呼ばれ、家族からも見放された。

しかし、1610年ごろ劇的に回心、教会や修道会への援助をし、キリシタンの信仰を守るようになってこの大デモンストレーションを敢行、一族のほとんどが殉教するまでになっていく。

村山等安については小島幸枝著「長崎代官村山等安―その愛と受難」( 聖母文庫、2002年) が面白い。

ここにも私が書いたものがある。

参考 http://tsuchy1493.seesaa.net/article/394056621.html

(土屋至/元清泉女子大学講師「宗教科教育法」担当)