ゲティ家の身代金

アメリカの『フォーチュン』誌に億万長者と認定されたジャン・ポール・ゲティの孫ジョン・ポール・ゲティ3世が誘拐された実在の事件をリドリー・スコット監督が映画化した作品『ゲティ家の身代金』をご紹介します。

1973年留学先のローマで夜の道を歩く17歳の青年ジョン・ポール・ゲティ3世(チャーリー・プラマー)が何者かに拉致されます。誘拐の報はすぐさま祖父ジャン・ポール・ゲティ(クリストファー・プラマー)のもとに知らされます。祖父ジャン・ポール・ゲティは誰もが不可能だといった中東から石油を輸入して「ゲティ・オ

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イル社」を設立し、世界でも有数な大富豪として知られている人物です。誘拐犯は身代金として1700万ドルを要求してきますが、断固として拒否します。

身代金拒否の背景には、息子との関係が絡んでいます。長男である息子は、ゲティ・オイル社で働いていましたが、ドラッグに溺れ、妻ゲイル(ミシェル・ウィリアムズ)とも離婚し、長男としての役割を果たしていなかったからでした。そして、身代金要求に応じれば、他の孫も標的にされる恐れがあると釈明もします。

一方で、自分のもとで働く元CIA職員フレッチャー・チェイス(マーク・ウォールバーグ)を呼び寄せ、親権者である母親ゲイルのもとに向かわせ、誘拐犯との交渉に当たらせます。

誘拐されたジョンは、南イタリアのカラブリア州の人里離れたアジトに監禁されていました。誘拐犯のリーダー格チンクアンタ(ロマン・デュリス)は、身代金を払わないと指を切断すると脅母親宛に手紙を書かせます。

ジョンの行方はわからないまま、身代金を出そうとしないゲティに対し、ゲイルはいらだちを募らせます。そうして、ジョンがかつて偽装誘拐を企て、祖父から身代金をせしめる計画を冗談半分で話していたと友人が証言したことにゲティはますます半信半疑となります。

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交渉がなかなか進まないことに焦り始める中、ジョンに顔を見られた誘拐犯の一人がジョンに向けて発砲します。その直後、誘拐されたときに使われた車が発見され、その中に遺体が発見されます。遺体を確認しにきたゲイルは、息子ジョンではない遺体にホッと胸を撫で下ろします。誘拐犯の遺体と確定した警察は、その出身地を割り出し、アジトを襲撃します。銃撃戦の末、チンクアンタは、ジョンをつれ逃げ出し、マフィアと合流します。

ジョンは無事帰ってくるのかはぜひ劇場で観てください。この映画はもちろんサスペンスです。ちょっと過激なシーンもありますが、その裏に隠されている物語がたくさんあります。ゲイルを演じたミシェル・ウィリアムズは、「サスペンスに満ちた映画ではあるが、同時にフェミニズム映画でもあると思う」と語っています。男社会の中で、息子を救いたい一心で、あらゆる能力を使い、周囲と対等になろうとしますが、女性ゆえに軽んじられ、過小評価されるシーンがたくさんちりばめられています。

また、監督のリドリー・スコットは「ゲティは、富の虚しさ、それに付随しうるダメージを理解し、明確に自覚していたんだ。お金でなく息子に対する愛情に突き動かされてるゲイルの鋼鉄の意志と交錯させるのが面白かった」と語っています。

サスペンスの面白さに目を奪われがちですが、家族とは何か、その愛情表現はどのようなものなのか、この映画の突き詰めていくテーマの広さは見る人を魅了することでしょう。

(中村恵里香/ライター)

監督:リドリー・スコット/脚本:デヴィッド・スカルパ/原作:ジョン・ピアースン「ゲティ家の身代金」(ハーパーコリンズ・ジャパン刊)

キャスト:ミシェル・ウィリアムズ、クリストファー・プラマー、ティモシー・ハットン、ロマン・デュリス、チャーリー・プラマー、マーク・ウォールバーグ

原題・英題 :All the Money in the World

配給:KADOKAWA

コピーライト :©2017 ALL THE MONEY US, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.

2018年5月25日TOHOシネマズ日比谷ほか全国ロードショー

公式サイト :http://getty-ransom.jp


ミサ曲 6 栄光の賛歌 Ⅱ

齋藤克弘

 バロックから古典派時代のオーケストラ全盛期に作曲された栄光の賛歌は、そのテキスト(歌詞)以上に楽器の演奏に重きが置かれ、ミサの祈りの流れとは関係なく、作曲家のテクニックが披露されるものとなったことは前回にも書いた通りです。確かに、作曲手法を世に問うための作品としては優れたものが数多く作曲されたとは思いますが、一方でミサ本来の祈りの流れという、典礼におけるもっとも重要な側面が無視されたことは否めない事実です。このような流れにくさびを打ち込んだのが、以前にも名前をあげたことのある教皇ピオ10世です。

ピオ10世が教皇就任後わずか4か月目に発布した自発教書において、栄光の賛歌と信仰宣言(当時はニケア・コンスタンチノープル信条のみを指しました)は、グレゴリオ聖歌の伝統に従って比較的短くすることが求められましたし、その他にも教会の音楽は聖歌(声)が中心であって、前奏や間奏などが長くなってはならないことも指摘されました。確かに、自発教書であって法的な拘束力があるわけではなかったのですが、この自発教書が最も基本としたものが、教会が長く歌い継いできたグレゴリオ聖歌であったことから、その後の聖歌の作曲にもかなりの影響を与え、さらには第2バチカン公会議後の典礼音楽もこの自発教書を基本にして刷新されました。

ところで、栄光の賛歌で大きな変化があったのは、テキストの区切りにおいてです。第2バチカン公会議の典礼の刷新で重要な役割を果たしたイエズス会の司祭ヨゼフ・アンドレアス・ユングマンは公会議の前に、栄光の賛歌に関する膨大な古代の資料を研究分析し、それまで前半の区切りとされていた「主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る」がそうではなく、次の句「神なる主、天の王、全能の父なる神よ」までが一区切りの終わりであることを明らかにしました。第2バチカン公会議で刷新された『ローマ・ミサ典礼書』では、このユングマンの研究成果を取り入れて、ラテン語の原文ではDomine Deus , Rex caelestis,Deus Pater omnipotens. と冒頭の天使と天の大群の歌の次のピリオドをここにつけています。ですから、栄光の賛歌に作曲をする場合には、ここを一区切りとする必要があります。ただし、第2バチカン公会議以前に発行されたミサ典礼書にのっとって作曲された曲については既得権があり、歌詞の変更に伴って曲を変更することができない場合にはそのまま曲に従って歌うことが許されていますから問題はありません。

現在、栄光の賛歌はそれ自体が独立した儀式(歌)とされており、待降節と四旬節以外の主日とすべての祝祭日、および盛大な儀式のときに歌うことができます。もともとは会衆の歌であったものですから、ミサに参加する会衆一同が容易に歌えることが望まれます。新たに作曲する場合には、歌うにしても伴奏するにしても、難しいものにならないようにする必要がありますが、かといって、ミサの賛歌としての品位を欠くものでもあってはなりません。

もう一つ触れておきたいことは、先にも上げたように、栄光の賛歌が歌われる主日(日曜日は)52(1年の主日の数)-4(待降節の主日)-6(四旬節の主日)=42であり、そこに、主日以外で歌われる、平日以外で多くの人が参加する主な祭儀、主の降誕の夜半のミサと日中のミサ、神の母聖マリア(1月1日)、主の晩さんの夕べのミサ、復活の聖なる徹夜祭(1年で最も重要な祭儀)、聖母の被昇天の6回を加えても、48回にしかなりません。1年365日のうちの48回ですから、いかに少ないかがわかると思います。

栄光の賛歌は冒頭の天使と天の大群の神への賛美のことばからなっていますが、賛美とは詩編もそうであるように、歌うことが賛美そのものです。栄光の賛歌は1年のうちで歌う回数が少ないものですが、父である神と主キリスト、そして聖霊の交わりの中でわたしたちが神への賛美を声高らかに、天使と天の大群とともに全世界に響かせる賛美の歌であることを忘れずに、歌いたいものです。

(典礼音楽研究家)


ミサはなかなか面白い 53 「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」

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答五郎 さて、いよいよ狭い意味での奉献文を見ていくことにしよう。「感謝の賛歌」が「天のいと高きところにホザンナ」という句で終わって、いよいよ、ひとまとまりの長い祈りを始めるところだ。

女の子_うきわ

美沙 何かとてもあらたまって、厳粛に感じられるところですね。

 

 

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答五郎 その感覚はどこから生まれるのか。ここで行われることの大切さ、深さといったものを感じさせ
るところだね。それは見学しているだけでも感じられるだろう。では、はじめの一括りの祈りを、問次郎くん、読んでもらえるかな。

 

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問次郎 はい。「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ、いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」ですね。

 

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答五郎 ぜひ味わってほしい。まず冒頭の父である神への呼びかけの部分「まことにとうとくすべての聖性の源である父よ」だ。ここで示されていることは、奉献文全体が、父である神に向かう祈りであるということだよ。

 

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問次郎 それはわかりますが、「父よ」を修飾する句が、少しわかりにくいですね。「まことにとうとく」というのは、「ほんとうに大切な」という意味でしょうか。それに「聖性」(せいせい)という言葉も抽象的な感じがします。

 

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答五郎 それは正直な疑問だと思うよ。自分も長い間同じように思っていた。「とうとい」は、普通漢字で書くと「貴い」や「尊い」だから、大切なとか、尊重されるべき存在を連想するだろうね。だが実は、ここにも日本語訳の問題があって、ここの意味を味わうには、ほんとうは原文を見る必要が出てくるのだ。

 

女の子_うきわ

美沙 「とうとい」を平仮名にしているところに意味があるのではないかしら。

 

 

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答五郎 ともかくここの原文は、“Vere Sanctus es, Domine, fons omnis sanctitatis.”となっている。はじめの「とうとく」はサンクトゥス、聖性と訳されている言葉もそれに関連するサンクティタスだよ。今は「聖なる」と訳されることばを、かつて「とうとい」と訳していたことがあって、それが使われている部分といえる。ちなみに、「源」と訳されていることばは直訳だと「泉」で、つまり「源泉」と訳してもよいようなのだよ。つまり「主よ、あなたはまことに聖なる方、すべての聖性の泉です」というのが、現代語風の直訳になる。

 

女の子_うきわ

美沙 ということは、直前の「感謝の賛歌」の賛美の調子が続いていることになりますね。「聖なるか
な、聖なるかな、聖なるかな」と歌っていた流れが受けられているのですね。

 

124594

答五郎  まったくそうだ。神の聖なるあり方を実感して、重ねた賛美しているという句になる。

 

 

252164

問次郎 「聖なる」というのはどういうことなのでしょうか。

 

 

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答五郎 キリスト教ではいろいろなところで、この「聖なる」ことが神についていわれる。主の祈りでもそうだろう。「天におられるわたしたちの父よ、御名が聖とされますように」とね。「聖」であることは、神とはどんな方かを示す重要な側面なのだが、ことばでは説明しにくいかな。

 

女の子_うきわ

美沙 厳かさとか、清さとかを感じて聞いていますが。

 

 

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答五郎 人間を超えた存在という意味もある。この言葉で神に呼びかけるということは、なにか人間を超えた、深く、高い存在を感じていることの表れであり、畏れ多い気持ちとセットになっていることに気づかないかな。

 

女の子_うきわ

美沙 ミサ全体の厳かさは、聖なる神への祈りだからなのですね。

 

 

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問次郎 神が聖なる方であるということは、人間を超えていて近づき難い、畏れ多い存在だということを
強調しているのでしょうか。

 

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答五郎 ところがね。キリスト教の神は、ただ、ひとり聖なる方で、人間が近づいてはいけないような方、「神聖不可侵」という言葉があるけれど、そのような触れられない方、近づけない方というわけではないのだよ。そのことを示すことばがこの最初の句の中にあるのだけれど。

 

女の子_うきわ

美沙 「聖性」ですね。神は、「聖性の源」「聖性の泉」ですから、他のいろいろなものも「聖」になるための源泉が神だということがいわれているのですね。

 

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答五郎 新約聖書のパウロの手紙の中で、たとえば、ローマの信徒への手紙の中では、「神に愛され、召されて聖なる者となったローマの人たち一同へ」(1章7節)としばしば書かれている。キリスト者となった人たちは神によって、そしてキリストによって、聖なる者とされた人たちだということなのだ。

 

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問次郎 神は近づき難い方ではなく、神から人に近づいてきてくれて、人を聖なるものとしたということ
になるのか。

 

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答五郎 そうなのだよ! 神は、もちろん人間とは異なる、人間を超えた存在なのだけれども、近づき難い方ではなく、人間に近づいてきて、その聖性という本質を分け与えてくれたというところに、キリスト教のキリスト教たるゆえんがあるといえるのだ。

 

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問次郎 神は、超えた方であるけれど、わたしたちの中に入り込んできた方でもあるのですね。遠いのに近い……逆説的なのに、なにか深い感じもします。

 

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答五郎 そこで、聖霊の働きということが出てくるのだよ。それは次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサ曲5 栄光の賛歌Ⅰ

齋藤克弘

今年の教会の暦はちょうど4月1日が復活祭となりました。復活祭はキリストの復活を祝うキリスト教の最も大切で盛大なお祝いです。だれですか、4月1日はエイプリルフールだからキリストの復活も冗談だよなんて言っている方は。キリストの復活がなければキリスト教もキリスト教が育んできた文化も、いや、今、わたしたちが使っているさまざまな物事も生まれていなかったかもしれません。

復活祭の前の約40日間は四旬節と言って、復活祭徹夜祭でキリスト教に入信する人たちの最後の準備期間であると同時に、すでにキリストを信じる人たちはこの人たちとこころを合わせ祈りと節制に努める期間となっています。その四旬節の間、ミサ曲の中でも栄光の賛歌は基本的に歌われません。四旬節が明ける復活祭前の木曜日のミサから再び歌われるようになります。他にもキリスト教の暦では一年の初めに当たる待降節と呼ばれる、キリストの降誕を待つために準備をする期間にも栄光の賛歌は歌われません。

栄光の賛歌はミサ曲の中では信仰宣言に続いて長い歌詞となっています。この賛歌の冒頭のことばはキリストの降誕を羊飼いたちに告げた天使と天の大群のことばです。現在の日本語の訳では「天のいと高きところには神に栄光、地には善意の人に平和あれ」です。この冒頭のことばからミサでは最初、降誕祭(クリスマス)のミサで歌われていましたが、次第に先に挙げた季節以外の主日(日曜日)のミサでも歌われるようになっていきました。現在でも復活徹夜祭の祭儀では旧約聖書の朗読が終わった後に、唯一ともされている復活のろうそくから祭壇のろうそくに火が分けられた後、栄光の賛歌が歌われます。祭壇はキリストを示すシンボルの一つであり、祭壇のろうそくはキリストの光を象徴していますから、旧約聖書の朗読が終わった後、祭壇のろうそくに火がともされ、栄光の賛歌が歌われるのは、祭儀の進行上ではキリストの降誕を意味するものであることがよくわかります。

さて、この栄光の賛歌ももともとは司式する司教や司祭の先唱の後、会衆一同が

トリエント公会議

歌う父と子と聖霊に対する賛歌でしたが、あわれみの賛歌でも触れたように会衆にラテン語が理解できない時代になると、栄光の賛歌も他のミサ曲と同様に聖歌隊だけが歌うものとなり、比較的長い歌詞にも関わらず、トロープス(挿入句)も作られるようになりました。トリエント公会議によるトロープスの廃止によって、歌詞は元の通りシンプルなものになりましたが、時代が下って、楽器が多く用いられるようになってくると、歌だけではなく楽器の演奏も作曲の手腕を発揮するための手段となっていき、グレゴリオ聖歌のような単旋律の聖歌で平易に歌った場合に比べると、数倍の長さになるような曲がたくさんできてきます。聖歌隊やオーケストラが栄光の賛歌を数分間演奏する間、司式する司祭は演奏とは別に栄光の賛歌を一人で唱え、唱え終わると演奏が終わるまで席に座って待っていなければなりませんでした。他のミサ曲もそうですが、ミサ(典礼)の本来の流れとは別に、演奏が主体になっていたのです。

しかし、このようなミサ曲が演奏されたのは、比較的人数が多い教会や修道院、あるいは貴族や領主の礼拝堂でのことだったでしょう。片田舎の小さな村の教会ではこのようなミサ曲の演奏が毎日曜日行われていたと考えることは難しいと思われます。

現代の感覚から見るとおかしなものと思われる、ミサの流れを中断した演奏中心のミサ曲が数多く作られるようになったのは、前にもお話したように、トリエント公会議において「司祭が一人で有効にミサを奉げる」ことが重要視され、司祭以外はそれを妨げない限り何をしても問題がないと考えられるようになったからです。確かに、このような時代に多くの高名な作曲家により音楽的に素晴らしいミサ曲が数多く作曲されたのは、時代に必然であったかもしれませんが、その一方でそのような演奏中心のミサを問題視した教会関係者がいなかったのかという疑問も出てきます。音楽嫌いでモーツァルトといさかいになったザルツブルクのコロレド司教は音楽界では悪者扱いですが、見方を変えれば、ミサの流れを妨げるような演奏には疑問を呈していたと考えることもできるでしょう。

(典礼音楽研究家)


ロバート・ロイヤル著『教皇の軍隊』

バチカン市国サン・ピエトロ大聖堂を訪れたことのある人ならば、すぐに思い出すあの独特な制服をまとった衛兵たち。スイス衛兵として知られているが、なぜ、彼らがその役割についているのか……500年に及ぶその歴史を説く書を紹介しよう:

ロバート・ロイヤル著『教皇の軍隊』
Robert Royal, The Pope’s Army: 500 Years of the Papal Swiss Guard (New York: Crossroad, 2006), xi+210 pages.

本書は、ローマのサン・ピエトロ大聖堂でだれもが目にする、あのスイス衛兵の歴史を取りあげている。彼らの本当の任務は儀式の華麗さを際立たせるためのものではなく、文字通り教皇を守ることにある。教皇は現在と違って19世紀末のイタリア統一まではイタリア各地に領土をもつ世俗君主でもあった。これらの領土を守るために教皇は君主として傭兵を抱えていた。歴史をたどると、スイス人衛兵隊は中世末の対立教皇の時代から宗教改革後のヨーロッパの国際政治情勢の中で弱体となった教皇の地位を再び高める政策の一環としてユリウス2世(在位年 1503~1513)によって結成されたものである。

枢機卿としてスイス傭兵の優秀さを知っていたユリウス2世はスイス政府に200人の傭兵隊がほしいと頼み込んだ。傭兵に対する報酬、贅沢品、略奪品の分け前という点で教皇庁は不利に立たされたが、150人限定で傭兵募集が認められた。ユリウス2世は150人のスイス護衛隊をパヴィアの戦闘で中核として投入し、勝利を得てミラノを占領した。この時、教皇はスイス人護衛兵たちを公に「教会の自由の守護者」と宣言し、教皇の鍵と教皇領の紋章の旗と自分の家であるロヴェーレ家の紋章の付いた旗を与えた。彼が死の床でスイス衛兵隊について「彼らは余に奉仕し、ローマ教会の信仰が今日あるようにしてくれた」と語ったとされている。

【さらに読む】
ローマ略奪(1527)を経て定着

ユリウス2世の次の教皇レオ10世(在位年 1513~1521)は、オスマン帝国の勢力拡大に脅威を感じ、スイスに1万3000の兵力を派遣するように要請した。スイス政府は一万まで承認したが、神聖ローマ帝国皇帝の選挙が間近いことがあって実際には兵力を送らなかった。レオ10世の死去とともにオランダ人の教皇ハドリアヌス6世が即位したが、彼が目指した教会改革はまったく実現せず、その死後の教皇選挙では、フランスに支持されたメディチ家出身のクレメンス7世が1523年に選ばれた。その頃までにローマは美しい姿を取り戻し、有力貴族の館ができ、ピアッツァ・ノヴァのサピエンツィア大学の建物がミケランジェロの設計に基づいてラファエロによって完成された。しかしクレメンス7世は、神聖ローマ帝国皇帝と対立し、戦争となる。皇帝は北イタリアのパヴィアでフランス軍を打ち破り、フランス王を捕虜としたのち南下してローマを占領した。ローマ市は1526年と1527年の2度にわたる略奪を受ける。教皇はカステロ・サンタンジェロ城に逃れ、籠城した。ことに1527年の略奪は熾烈を極め、クレメンス7世は囚われる寸前にバチカンから42名のスイス衛兵に守られて、ほうほうの体で城に逃げ込んだ。スイス衛兵隊はスペインとドイツの傭兵からなる皇帝軍との戦いで、この一日の戦闘だけで隊長を含む4分の3の兵力を失った。華麗なルネサンス都市の容貌は変わり果て、ローマ市民はこの大殺戮・略奪の間、恐怖のどん底に陥れられた。クレメンス7世は、7ヶ月間籠城したのち、農夫に変装して抜け出し、ローマの北のオルヴィエトに逃れた。彼はそこで偶然、英国のヘンリー8世から派遣された使節と出会った。自らの離婚に関する件でのことである。1530年、和議が成立し、教皇はスイス衛兵に守られてボローニャに赴き、カール5世の神聖ローマ帝国皇帝としての戴冠式に出席した。

他国介入に対する抑止力として

クレメンス7世の後継者パウロ3世(在位年1534~1549)は、フィロナルディ枢機卿の強い勧めで、やっと1537年、スイス衛兵隊再建に乗り出した。枢機卿がこれを勧めたのは、オスマン帝国に対する備えと当時強力な軍事力をもつスイスとの結びつきがあれば、他国が教皇庁に圧力をかけることを抑止できるという理由からであった。この背景には、ローマ略奪の悪夢から解放されるために教皇庁が取った施策があった。クレメンス7世は皇帝軍がローマを去ったあと、ミケランジェロをローマに呼び、システィナ礼拝堂の最後の審判の仕事を完成させた。それはあたかも略奪時のローマ市民の苦難を反映しているかのようであったが、後任のパウロ3世にとっては悲劇の記憶の浄化となった。1546年、パウロ3世は、ドイツ兵にかわって、スイス人兵士を護衛部隊として望むことを表明し、おりしもローマに滞在していたスイス軍人フォン・メッゲンにそれを依頼した。ルツェルンの市長だったメッゲンは、人文主義者で、中近東での軍事経験のあった甥のヨストを司令官候補として推薦した。ヨスト・メッゲンは有能な司令官であると同時に外交官であり、教皇庁とカトリック諸国の絆を強めさせ、カトリック改革の推進役を果たした。彼のもとでスイス衛兵隊は安定期に入ったのである。

フランス革命とナポレオンの時代の変遷

教皇庁がフランス革命政府とナポレオンとの対応に苦慮する時代を迎える。ローマは革命軍に占領され、革命軍は不人気にもかかわらず共和主義を押しつけ、市民は反発した。ピウス6世、7世ともにローマから連れ去られて幽閉され、不利な政教条約を押しつけられた。この時期の革命政府によってスイス衛兵隊は解散させられた。しかし、ピウス7世がローマに帰還すると、スイス衛兵隊の再建を企図した。ローマにはまだ36人の元衛兵と5人の隊長が残っていたので、この仕事は簡単であった。ナポレオンはローマをフランス帝国の「自由な帝国都市」にし、教皇と教会を支配下に置こうとしていた。1809年、フランス軍司令官ラデ大佐の指揮でフランス軍がクイリナーレ宮殿に現れ、ピウス7世を幽閉所に連れていったが、その時、彼は無駄に血が流されないよう、スイス衛兵に武装解除を受けることを命じた。1814年、ナポレオン帝国が崩壊し、教皇がローマに戻ったとき、スイス衛兵隊は直ちに再建された。

イタリア統一から現代まで

1870年、北部からイタリア統一軍がローマに進軍してきたのは、ちょうど第1バチカン公会議の開催時であった。教皇の不可謬性についての決議後の状況下、教皇ピウス9世はスイス衛兵隊に統一軍が城壁を破った際には降伏するように命じた。領土を失い、サン・ピエトロ大聖堂周辺のわずかな土地に閉じこもる「バチカンの囚人」になることによって、かつての教皇領とローマ市の実効支配はイタリア王国に移ったが、教皇がそれらに対する主権を放棄したのでなく、事態はいわゆる「ローマ問題」として残存した。1929年にムッソリーニ政権との間でラテラノ条約が締結されたことで、教皇はそれらの領土権の主張を放棄し、正式にバチカン市国が成立する。教皇の夏の別荘であったクイリナーレ宮殿は、王宮から第2世界大戦後は大統領官邸に変貌する。ラテラノ条約締結後、スイス政府はスイス衛兵隊が外国の軍隊でなく、単に警察力でもなく、誰でも衛兵となるために政府の許可を必要としないと宣言した。しかしバチカン市国はれっきとした主権国家であり、教皇所有の土地は治外法権の下に置かれた。

教皇の身辺警護とバチカン市国領域の警護がスイス衛兵隊の最大の使命となったのは、第2次世界大戦後半のナチスドイツ軍のローマ占領期間であった。バチカン上層部とスイス衛兵隊幹部はナチス政権が教皇ピウス12世を拉致しようと試みた場合、どうしたらよいかと憂慮していた。すでに連合軍がローマに迫りつつあった1944年3月12日、ピウス12世は教皇在位5周年を祝っていた。ファシスト政権の集会禁止令は及ぶことなく、サン・ピエトロ広場には数万の人々が教皇の演説を聴きに押しかけていた。バチカン当局は、イタリア解放戦線の地下組織が教皇演説終了と同時にドイツ軍撤退を要求するデモ行進を行う準備をしているとの情報を得ていた。広場の要所要所にバリケードを設け、スイス衛兵を配備することによって衝突は回避された。

1960年代、第2バチカン公会議には世界中から2000人以上の司教が集まることとなり、警備が最大の問題となった。パウロ6世は、スイス人衛兵隊を除く他の警備隊を1970年に廃止したため、警護のすべての責任がスイス人衛兵隊の責任となった。しかしパウロ6世がこのことを発表する直前の1970年12月アジア歴訪の旅で、マニラを訪れたとき、ある人から刀で斬りつけられた事件があったばかりであった。スイス衛兵隊はそれから近代的組織に生まれ変わったが、それでも今度は1981年サン・ピエトロ広場でヨハネ・パウロ2に対する暗殺未遂事件が起こる。教皇の警備という任務がますます現実性を持つことになった一面である。こうしてスイス衛兵隊の任務は、表面的には伝統的な儀式を華麗に彩るところにあるが、各国情報機関と緊密に協力・連携して教皇を警護する役割も持つようになっているのである。

(高柳俊一/英文学者)


ミサはなかなか面白い 52 奉献文の「文」って何?

奉献文の「文」って何?

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答五郎……季節はもはや初夏という感じだね。ミサの「感謝の典礼」に入ってだいぶなるけど、きょうからいよいよ、狭い意味での「奉献文」という部分に入ろうと思うのだけれど……。

 

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問次郎……すみません。いきなり質問なのですが、狭い意味の「奉献文」と広い意味の「奉献文」について確認させてください。

 

 

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答五郎……ちょっとややこしい感じがするかな。広い意味の「奉献文」とはミサの式次第の中の「感謝の典礼」の中で、これが「供えものの準備」-「奉献文」-「交わりの儀」から成るというときの真ん中の部分を指している。

 

女の子_うきわ

美沙……冒頭の対話句、叙唱、そして「感謝の賛歌」も、式次第としては「奉献文」に入るのですね。

 

 

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答五郎……そう。そして「感謝の賛歌」が終わってから、ようやく狭い意味での「奉献文」という、ひとまとまりの祈りが始まる。たとえば、「まことにとうとく聖性の源である父よ、……」とね。

 

女の子_うきわ

美沙……あっ、第2奉献文ですね、いちばんよく聞きます。ほかに第1、第3、第4というふうに数で呼ばれる奉献文が全部で4つあるのですね。

 

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答五郎……1970年に今のミサが始まったときに奉献文はこの4つになったのだよ。その後いくつかの奉献文が加わっているけれど、基本はこの4つで、ふだんは第2奉献文か第3奉献文が読まれるだろう。

 

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問次郎……狭い意味、広い意味の区別はわかってきましたが、「奉献文」がどうして「文」というのかが疑問です。式次第の一部なら行為を表しているほうが自然です。「準備」とか「交わり」とか。

 

女の子_うきわ

美沙……私も気になっていました。唱えるというか、全体が歌われますよね。全体が大きな祈りですね。
それなのに、なぜ文字で書かれたものを指す「文」というのかしら……。

 

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答五郎……率直な質問だし、考えるべき問題だと思うよ。信者さんたちは慣れているところがあって、この部分で行われていることがミサのもっとも重要なところだということは経験的に知っている。式次第では「文」と書かれていてもあまり気にしない人が多いかもしれない。

 

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問次郎……外からミサを見学したり、式次第を見たりして学ぶ僕らには、やはり呼び名は気になります。

 

 

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答五郎……では考えていこう。まず「奉献文」は日本語のミサ典礼書を作る段階で考えられた呼び名だ。

 

 

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問次郎……もとはなんという言葉なのですか。

 

 

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答五郎……「プレクス・エウカリスティカ」という。「エウカリスティアの祈り」、直訳すれば「感謝の祈り」だけれど、「エウカリスティア」にはたくさんの意味があって「感謝のいけにえ」 「感謝のささげもの」という意味合いがここでは重要だ。なので「奉献」をメインに訳したのにはそれなりに意味がある。ギリシア語圏の教会で古来この祈りが「アナフォラ」(ささげもの・奉献)と呼ばれてきていることも参考にしたといわれている。

 

女の子_うきわ

美沙……では、「奉献の祈り」と呼べばいいのに、どうして「奉献文」なのでしょうか。

 

 

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答五郎……これは推測なのだけれど、昔、ミサがまだラテン語で行われていた時代には、ミサの式次第や祈りの内容を翻訳して信徒が読めるようにした『ミサ典書』があった。その時代は奉献文が一つで「カノン・ロマーヌス」と呼ばれるものだった。これを「ローマ典文」と訳したことがあったらしい。今でいう「第一奉献文」のことで、今も「ローマ典文」が副称として残っている。そのように「典文」と呼ぶ例があるので「奉献文」という言い方が生まれたのかもしれないのだ。

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問次郎……「カノン」ということばの意味は何ですか?

 

 

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答五郎……「カノン」というのは基準とか規範といった意味のラテン語で、いろいろなところで使われている単語だ。教会法もカノンというぐらい。ミサの中でのこの祈りの典範といったニュアンスだ。典文という訳語も適切だろう。もっとも、もっと昔にはラテン語でもさまざまな呼び名があったようで、オラツィオ(祈り)もあれば面白いのはアクツィオ(行い)という呼び名もあった。

女の子_うきわ

美沙……ラテン語で行われていた時代は、司祭がミサ典礼書のこの典文を唱えていたと聞きました。だとすると「文」としてもよかったのかなと思います。

 

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答五郎……実は唱えるというよりも、声を出さない沈黙の祈りとして唱えていたらしい。

 

 

女の子_うきわ

美沙……ええっ? ますます今とは違いますね。今は、信徒たちもと最初から全部聞きますし、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるところでは一生懸命司祭のことばに聞き入ってうやうやしく礼拝を一緒にしますよね。ほんとうに「祈り」だし「行い」だという気がします。

 

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問次郎……たしかに、ミサでもっとも緊張するというか厳粛な気持ちにさせられるところです。

 

 

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答五郎……そこまで感じ取ってくれているとは素晴らしい。たしかに「文」どころではないね。奉献文そのものを味わっていくと、ここで行われていることの豊かさもわかってくる。それを一つの名称にまとめるのは至難のわざなのだ。それを踏まえると、全体としてはひとまとまりの祈りという意味で「文」といい、その内容を「奉献」ということばで示すのは、言葉の限界を考えたら次善の策だったといえるかもしれない。

 

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問次郎……奉献文は「文」にして「文」にあらず。少し謎が残ったほうがよいということですかね。

 

 

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答五郎……では、その豊かさを、次から、まず第2奉献文、続いて第3奉献文を見ながら調べていこう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


「ブランカとギター弾き」(日本カトリック映画賞授賞作)

2018年度の日本カトリック映画賞は、この作品『ブランカとギター弾き』に授与されることになった。

1年前の封切の時に、私はすでにこの作品を銀座の映画館で観ていて、その時は「おっ、なかいいじゃん」と思っていたのではあるが、いざ日本カトリック映画賞受賞となると、ちょっと意外な気がしたのである。断っておくが、それはけっして作品の出来不出来という観点でではなく、受賞対象としての条件面においてである。

まず、この映画のストーリーの舞台なのだが、日本ではなくフィリピンなのである。登場人物も全員フィリピン人であり、それを演じる俳優も当然のことながらみんなフィリピン人である。日本人は一人も出てこない。さらに加えてこの映画、制作国さえ日本ではない。なんとイタリアなのである。ジャパニーズなのは、長谷井宏紀監督(と脚本の大西健之氏)だけなのである。

また、カトリック国フィリピンが舞台であるにもかかわらず、シスターの姿がちょろっと映っているだけで、教会も神父も登場しない。スクリーン上に見出せるカトリック的なアイテムといえば、ブランカが首からぶら下げたロザリオくらいのものである。

こんなに不利な条件が揃っていながら、よくぞ難関を潜り抜け、「日本」「カトリック」映画賞を受賞することが出来たものだと、感心してしまう。

監督の長谷井氏だが、セルビアの巨匠エミール・クストリッツァ監督の主催する映画祭で、短編がグランプリを受賞したのをきっかけに映画を作るようになったそうで、本作品も、日本人として初めてヴェネツィア・ビエンナーレ&ヴェネツィア国際映画祭の全額出資を受けて制作された映画であり、ヴェネツィア、フリブール、カルカッタ、サンタンデール、シネジュヌ、テルアビブ、オリンピア、リムースキ、シネキッド、キノオデッサ、プロヴィデンス、キキーフの各国際映画祭で高い評価を得ている、きわめてインターナショナルな新人日本人監督なのである。

『ブランカとギター弾き』は、フィリピンの大都会マニラのスラム街を舞台に、段ボールハウスに暮らす孤児の少女ブランカと、盲目のギター弾きピーターとの関わりを描いた、ハートウォーミングなロードムービーである。孤独を抱えながらそれを表に出さない勝気な主人公ブランカは、スリを生業にしていたが、やがて母親を金で買うことを思いつき、偶然出会った路上のギター弾きピーターとともに旅に出る。見知らぬ街で、ピーターが勧めるままに歌をうたっていたブランカは、たまたま通りかかったレストランの支配人に認められ、仕事を得てお金を稼げるようになる。しかし幸運もつかの間、店の売上金を盗んだという濡れ衣を着せられ、追い出されてしまう。心ならずも少年窃盗団(かわいいものだが)に引き入れられ、泥棒稼業に戻ってしまったブランカに、さらに思いもよらぬ危険が迫ってくる。危うしブランカ! 急げピーター‼

…とまぁ、ストーリー展開には既視感がないわけではない。しかし、予定調和も本作では良い方に働いていると思われる。仮にそれを差し引いたとしても、マニラのスラムでスカウトされたピーターや子どもたち素人役者のキャラクターが抜群に素晴らしく、また愛おしく、生きることへの肯定感や人間の信頼性がスクリーンいっぱいに醸し出されていて、『日本昔ばなし』じゃないけれど、「人間ってい~な~」と再認識させる説得力に満ち溢れており、少なくともこの点においては、『ブランカとギター弾き』はきわめてキリスト教的な映画だと言えよう。

日本カトリック映画賞受賞もむべなるかな、なのである。

(伊藤淳、カトリック清瀬教会主任司祭)

日本カトリック映画賞の受賞式は2018年5月12日に東京・中野ZERO大ホールにて行われます。

チケットは聖イグナチオ教会案内所、スペースセントポール、サンパウロ書店、ドン・ボスコ社、天使の森で販売しています。
もしくは、SIGNIS JAPANのホームページからも申込みができます。
メールでのお申し込みは、info@signis-japan.orgまでお願いいたします。


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 5

戦争の消えない傷

伊藤 直接クメール・ルージュはご存じないにしても、その直後ぐらいからカンボジアの激動みたいなものは見ていらしたんですね。

後藤 そうです。一人ひとりはほとんどしゃべらないんですけれども、例えば、私の子どもだった子は、ベトナム兵をナイフで殺しているとか、同じ村の中で、あの人がポル・ポトについた、自分の親はあの人たちに殺されたというのがあります。でも、今はみんな黙ってしまって、心の中に持っていてもお互いに話しません。やはりトラウマとして残っています。あれはどうやって解決していくんでしょうか。この方たちもいつか亡くなっていくでしょうから、そこまでいかないと消えないのかなという不安はあります。彼ら一人ひとりの中にある心の傷というのは、私が戦災にあって、すごい傷を受けて、それは今でも残っています、死ぬまで消えないと思っています、そのトラウマと同じようなものを彼らもみな持ち合わせています。ただ、平和に暮らすためにそれを表に出さないというだけです。

伊藤 ラーさんと神父様とのやりとりで、誰が考えてもラーさんの両親は殺されていると思うのを……。

後藤 それは失礼だと、生きているかも知れないのにというのは、彼の実感なんですね。

伊藤 人を3人殺したという話もありましたね。

後藤 鬱になってしまって、自殺寸前までいったんです。それで放っておいたら自殺するというので、精神病院に入れたんです。精神病院なら監視がついています。自殺させないために半年まではいきませんでしたが、入れました。

伊藤 戦争というのは、殺す殺されるという単純なものではない、深いものがありますね。

後藤 これは死ぬまで持ち続けなければならないんでしょうね。

伊藤 それを学校づくりということで、癒やしとおっしゃっていましたけれども……。

後藤 それしか方法がありませんでした。いくら言葉で慰めても、効き目ないでしょうね。

伊藤 ある意味学校をつくるということで、確実に癒やしはできるということでしょうか。

後藤 そんなことで、少しお手伝いできたかなと思っています。それは同時に私の癒やしなんですね。

伊藤 映画の最後に、自分の幸せを求めていると、他人を不幸にしてしまう。でも他人の幸せを求めていると、自分が幸せになっているとおっしゃっていますね。

後藤 それは実感ですね。

伊藤 司祭職の前にキリスト者、あるいはキリスト者ではなくても、人間というのは、そういう生き方をすることで、全員が幸せになれるということなんでしょうか。

後藤 そうですね。ですから、私の中では理屈はないです。戦争絶対反対なんです。戦争によって物事は何一つ解決しないどころか、戦争によって傷を負った人は、その傷を死ぬまで持ち続けますし、それで死んでいった人たちは無念だったと思います。だから戦争による解決というのは、私は信じません。

伊藤 理屈なしに絶対反対。

後藤 反対。何が何だって反対です。

伊藤 何が何でもですね。イエスさまもそういう生き方をなさっていますね。

後藤 よく、本当のキリスト教かと言われるんです。どうも阿弥陀の匂いがすると言われます。お前のキリスト教は阿弥陀のキリスト教ではないかと言われるんです。僕は小学校6年生まで、毎晩お経の練習をさせられて、阿弥陀様の前でお経を上げて、私の中には骨の髄までしみ込んでいて、そのしみ込んだ阿弥陀様の信仰を突き抜けてキリスト教に出会った。だから僕は仏教を否定してキリスト教になったのではなく、それを受け入れて、その向こうでキリスト教に出会ったと言っています。

父に対しても同じ。最後には死ななければならない。公会議の前でしたから、あの頃は洗礼を受けなければ救われないと私もそう教えていました。父が死んだ時は、公会議の前だったんです。その時はもう神父をやっていました。そうなると、父になんとか洗礼を授けなければならないということで、いよいよ危なくなってきたという時に、「坊主何年やった」「60年やった」「何をやっているんだ。新聞配達や牛乳配達をやっているのと同じだ。お経配達して、お布施もらって生活をしてきた」。

父は、法然、親鸞、蓮如のお三方が大好きでした。私も今好きなんですよ。そこで、「法然、親鸞、蓮如は極楽にはいらっしゃらないよ」。父はびっくりしてしまって、「どこにいるんだ」と言います。「当たり前だ。あんな立派な方は極楽を突き抜けて天国だ。お父さん、あなたは無理です。あなたは極楽止まりです」と言いました。すると、「俺はどうしたらいいんだ」と。ひどいですね。それは偽りの計画ですが、「あなた、そのままじゃダメです。洗礼を受けなさい」と言いました。だまして洗礼を受けさせたようなものですが、神様は許してくださるでしょうね。そういうわけで親不孝は一つ償ったつもりです。

母の方は全身焼けただれて、川に横たわっていたわけですから、この母はどうなるのかいつも心配でした。この母を天国に行ったときには探さなければならないと、キリスト教的なことを言っています。やはりすごく気になります。

伊藤 意図して仏教、真宗とキリスト教を融合したということではないんですね。

後藤 細胞にしみ込んでいて、何にも矛盾がありません。坊主が妻帯するとか、大いに結構ではないですか。その上で私がいるんですから。

伊藤 本日はいろいろとお話を伺わせていただき、どうもありがとうございました。

4月21日(土)より東京・吉祥寺COCOMARU THEATERにて絶賛上映中

公式ホームページ:http://father.espace-sarou.com/


『モリのいる場所』

「生きるよろこび」とはなにか

昭和49年。結婚52年目の画家とその妻の、夏の1日――これがこの映画の99分である。

熊谷守一という実在した人物を映画にする。映画にするからには、ドキュメンタリー映画でも劇映画でも、監督の人為的な創作が加わる。だから熊谷守一も監督の沖田修一という人間の眼で追うことになる。もちろん、演技者の守一役―山崎努、妻の秀子役―樹木希林の芝居にも付き合うわけである。この映画には、そうした魅力も含まれている。

築40年以上という家と木々に覆われた庭がモリカズの生活のすべてである。庭へ出て虫と戯れ、池の傍に座って魚を眺める。庭にはいくつか特定の座る場所が設けられている。蟻をじっと見つめ、その足の動きを凝視する。その真剣な眼差しは、まるで無邪気な幼子のようである。

モリカズは言う「草や虫や土や水がめの中のメダカやいろいろな物を見ながら回ると、毎日回ったって毎日様子は違いますから、そのたびに面白くて…」

モリカズの画風は、「モリカズ様式」と呼ばれ、明るい色彩と単純化された形を特徴としているが、この画風は戦後確立されていった。清貧の暮らしなかで、モリカズは絵を描き続けた。それをじっと支えたのが秀子だった。
夜、秀子はモリカズと碁を打ちながら「うちの子たちは早く死んじゃって」と呟く。これは希林のアドリブだと言う。5人の子どものうち、3人を赤貧で亡くしているから、単に、のほほんと人生を送ってきた夫婦ではないという背景を出したかったのだそうだ。

モリカズはいつも夜にアトリエ(画室)で絵を描く。碁を打ったあとで「…ほーら」って秀子が言うと、モリは「みんな、学校がなくていいな」とアトリエに入る。モリカズがアトリエに行くのは、学校に行くことなのだ。そのあと、秀子が肩をすぼめてフフフと笑う。このシーンがなんとも微笑ましい。

仙人のように生きるモリカズは、淡々として人生を達観していたのだろか。
「『いま何をしたいか、何が望みか』とよく聞かれますが、別に望みというようなものはありません。だがしいていえば、『いのち』で

豊島区立熊谷守一美術館

しょうか。もっと生きたいことは生きたい。みなさんにさよならするのはまだまだ、ごめん蒙りたい、と思っています」
自分が生きたい道を究める人間は、あくまで生きることに生々しい執着を持っている。モリカズは97歳まで、虚飾のない人生を全うした。

映画のなかでは喜劇タッチの場面もあり、超絶の人を親しみやすい身近な存在にしてみせる。沖田監督は劇映画としての熊谷守一を、沖田流の作法で観客を飽きさせることなく、エンディングまで引っ張っていく。そこに、「熊谷守一」が厳然として存在した。山崎努の抑えた演技も光る。劇映画として、守一と秀子という実在の人物を忘れがたいものにしてくれている。

「誰が相手にしてくれなくとも、石ころ1つとでも十分暮らせます。石ころをじっとながめているだけで、何日も暮らせますから。」と

いうモリカズの言葉が忘れられなくて、この映画を観たあとで、初夏の陽気のある日、ぼくは熊谷守一に会いたくなって豊島区にある「熊谷守一美術館」に行った。ここには確かにモリカズが居て、「生きるよろこび」についてぼくに問いかけていたのだった。

(鵜飼清、評論家)

©2017「モリのいる場所」製作委員会

5月19日(土)シネスイッチ銀座、ユーロスペース、シネ・リーブル池袋、イオンシネマほか全国ロードショー

監督 /脚本:沖田修一
出演:山﨑努、樹木希林
加瀬亮 吉村界人 光石研 青木崇高 吹越満 池谷のぶえ きたろう 林与一 三上博史
2018年/日本/99分/ビスタサイズ/5.1ch/カラー

配給:日活
製作:日活 バンダイビジュアル イオンエンターテイメント ベンチャーバンク 朝日新聞社 ダブ

公式ホームページ:mori-movie.com
twitter @mori_movie
facebook @morimovie2017


「father カンボジアへ幸せを届けた ゴッちゃん神父の物語」対談 4

善意の人たちに囲まれて

伊藤 男の子10人、女の子4人を受け入れましたが、戸籍上も親子になったんですか。

後藤 それができないんです。今はどうか分かりませんが、あの頃は、カンボジアの子どもたちを引き取っても、里親になるだけで法律上は何にもないんです。私の戸籍に入れてもいいと言ったんですが、それができないということでした。それは、遺産相続で他の親族に譲りたくないので、里子のような子を自分の戸籍に入れて、その子たちに遺産をやりたいわけではないんだけれども、その遺産を憎たらしき親族に渡さないという手もあったんです。それを防ぐために、一切戸籍に入れるということができませんでした。

伊藤 では、養父として……。

後藤 僕も子育ては初めてです。今で言われたら、たぶん虐待ですね。あるひとつの言葉、絶対言ってはいけない言葉がありました。例えば、ババ抜きをしますと、ジョーカーが来て、「チェンマー」と言うんです。また、茶椀を運んでいて、落として割れたら、「チェンマー」と言うんです。それはいかにも「しまった」という感じでした。ですから私も一緒になって、「チェンマー」と言っていました。

あるとき、大学の先生をやっているカンボジア人にどういう意味かを聞いたら、彼は真っ赤な顔をして、「誰がそんな言葉を使っていますか」と言います。「うちの子どもは全員使っています」と言いますと、「普通の家庭では、カンボジアといえども、そんな言葉を使わせません」と。結局はキャンプの中で、ごたごたした生活をしている中で、いろいろな人がいますからそこで覚えたんでしょう。「その言葉を使わせてはいけません」と言われました。「意味は何ですか」と聞きましたら、「あまりにも恥ずかしくて説明できません」と言います。「僕も意味は分からなくて使っていますが、分かって禁止するのはできるけれども、分からないまま禁止することはできません」と言いました。すると、教えてくれましたが、その言葉はあまりにもひどすぎて。マーというのは母親のことです。自分の母親が侮辱されたように感じてしまって、以後一切その言葉を使ってはいけないと言いました。

「これからもしこの言葉を使ったら、お尻を出せ」。ほうきの柄で思いっきりお尻を叩いたんです。叩かれた奴は、ミミズ腫れになって、夜痛くて眠れなかったと言うんです。あれは、今でいう虐待ですね。そしたら1週間で止まってしまいました。それ以後、私のところの子どもたちは誰ひとり「チェンマー」という言葉を使わなくなって、今に至っていると思うんですけれども。

そんなことがあって、私の教育というか、子どもたちを育てるという面で、行き当たりばったりでした。行き当たりばったりの中で、私としては、この子どもたちが日本に来て、教会に引き取られて、そこで大事に育てられたということだけは、感じさせてあげたいなと思って、やりました。

今でもそのことは話に出ます。彼らは今50歳ですから。50の男が「親父に叩かれて、ミミズ腫れで痛かった」と言っています。

伊藤 私も昔、バングラデシュの子どもたち、現地の貧しい子ども、親がいなかったりとか、極貧の子どもたちの里親制度をしていたことがあります。現地にお金を送っているだけでも大変だったり、里親の方が重荷になったりします。それなのに、生身の子どもたち、それも異国の、最初は日本語もまったく分からない子どもたちを引き受けるというのは……。

後藤 それは何も知らないからできたことです。無手勝流だからできたんでしょうね。お金もなくて、どうやっていったらいいか分からなくて。学校に行ったことがない子どもを、急に私が引き取って、しばらくして学校に行くことになった時に、前の晩震えているんです。それで一緒に寝ようと言って、2人を両脇に抱えて寝ました。それがもう50を超えた親父になってしまいました。

伊藤 でも、「お父さん、お父さん」と日本語で話す姿が映画でも出てきましたけれども、よく育てられましたね。

後藤 でもね、あれはよく育っているのが出てきているだけであって、よく育っていないのは、私の前には出てこないんです。私のところを出た途端に鉄砲玉と一緒で、二度と帰って来ない奴らもいるんです。あそこに出て来たのは、今も付き合っている子たちです。

それだけのことができたのは、たくさんの人の援助です。特に井之頭小学校の先生、武蔵野1中の先生方、理解のある先生方がよく協力してくださいました。小学校の先生で1人の先生は学校が終わってから、校長に特別の許可をもらって、私のところに来て、うちの子どもたちに日本語を教えてくださいました。中学校の1人の先生は、子どもが高校受験になったときに、朝日新聞の天声人語を読んで、先生の家に来させて、読ませて、何が書いてあるか、どういう意味なのかを教えてくれました。教え子を自分の家に呼んで教えるということはできないことですけれども、校長先生の許可を得てやってくれました。命がけで助けてくださった先生もいらっしゃいます。自分のクビがとぶかもしれないということもありました。

伊藤 一人ひとりの善意、無名の方々の善意があったからできたことですね。

後藤 それは本当に助けられたからできたので、助けがなかったら、私は本当に途中で放り出したでしょうね。

伊藤 考えずに、まずはやると決めて、そこから……。

後藤 そうですね。無鉄砲といえば、無鉄砲でした。

伊藤 実際にカンボジアにいらして、その頃はポル・ポトの影響がまだまだある頃ですよね。

後藤 プノンペンの町中に土嚢が積んであるんです。ちょっと田舎に行きますと、土嚢の上に機関銃がついていて政府軍の兵隊がいるというようなところに行ったんですけれど、われわれはあまり危機感がないのか、あまり怖いとは思いませんでした。

伊藤 そんな頃からいらしていたんですね。やっとヘン・サムリン政権になって、町中は押さえたという時期ですね。

後藤 でも町中には軍隊がいました。それがだんだん数が減って、UNTACが入ってきて変わってきたんですけれども、それから今日まで見ていて、あまりいいかたちではないですね。今度総選挙がありますが、どうなるかなとみています。