《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 40:朗読後の「神に感謝」

朗読後の「神に感謝」

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答五郎……さて、「ことばの典礼」だけでも20回目になるが、きょうはもう一度ふり返ってみて、さらに気になるところがあったら考えてみよう。

 

 

 

聖子……見学していて気になったのは、朗読後のところね。

 

 

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答五郎……はぁーん。あそこか。

 

 

聖子……ええ。第1朗読や第2朗読で、朗読が終わると隣にいる、……侍者だったかしら、侍者が「神に感謝」と言うと、みんなが「神に感謝」と言うのが多いかしら。でもある教会では、侍者が「神に感謝」と言ったあと、黙っていることもあるわ。また、ある教会では、朗読者自身が「神に感謝」という場合もあって、さらにみんなが「神に感謝」と答えているところもあるし……。

 

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答五郎……そう、たしかにいろいろなやり方があるね。気になるかい。

 

 

聖子……そう言われると……。朗読の中身のほうが大事なのよね。でも、終わったあと、「神に感謝」と言ってよいのか、よくないのか、迷ってしまって、ほんとに落ち着かないわ。

 

 

 

瑠太郎……福音朗読のあとには司祭が聖書を掲げながら「キリストに賛美」といって、皆も「キリストに賛美」と声を出して答えていますね。

 

 

聖子……それで、なんとなく元気も出るというか、しまるというか。ずっと黙っていたわけだから、声を出して答えたいというのも自然な感情でしょ。

 

 

 

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答五郎……実はね。こういう事情があるのだよ。日本語版『ミサ典礼書』、今行われているミサの基だが、ここでは、朗読が終わると、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言う、ということになっているのだが、会衆はこれを唱えるというふうにはなっていないのだよ。

 

聖子……実際そういうふうにやっている教会もあるわけだから、『ミサ典礼書』に忠実というわけね。 でも、どうしていろいろなやり方になっているのかしら。決まりを無視しているというわけ。

 

 

 

瑠太郎……侍者が言うのは決まりに従っているにしても、一同がさらに「神に感謝」と言うのは、自然な心理からなのではないでしょうか。今のミサは、いろいろなところで、会衆の応唱ですか、この一同の元気な答えというのが大事な部分になっているようですし。

 

 

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答五郎……朗読後のほんの一言に関してなのに、日本の教会では、不思議に大きな討論のテーマになることがあるのだよ。

 

 

瑠太郎……朗読の中身のほうが重要だと思うのですが。

 

 

 

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答五郎……たしかに。実は、ここのところ、『ローマ・ミサ典礼書』ラテン語版、つまり教皇庁の典礼秘跡省から出されている各国語版の底本では、ここの部分は、朗読者が「Verbum Domini 」=「主のことば」(「主である神のことば」の意味)と唱え、それに対して会衆が「神に感謝」と答えるというふうに規定されているのだよ。

 

聖子……そうなの。じゃ、朗読者は何も言わず、侍者が「神に感謝」と言い、会衆は言わないという規則は日本の教会だけで決めたことだったの?

 

 

 

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答五郎……そうなのだよ。どうしてかというと、神のことばを聴いて、沈黙を保ったまま黙想することができるように、という意図だったらしい。

 

 

聖子……それだったら、いっそのこと、朗読が終わったらなにも言わないほうがよかったじゃない。

 

 

 

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答五郎……それは一理ある。たしかに侍者が「神に感謝」と言うことにしたために、どうしてもみんなも唱えないと落ち着かないというふうに思われたらしい。他の司式者との対話句と同じようにね。もっとも、ラテン語版には、「神に感謝」を会衆が唱えることになっていて、大方の各国語版も同じようにしているから、外国人の司祭方をはじめ、それを当たり前と思う人が多くいるから、そのやり方が続いているとも考えられているよ。

 

 

聖子……結局どうしたらいいの? まちまちのままでいいの?

 

 

 

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答五郎……とうぶん続くだろうね。近い将来期待されている日本語版『ミサ典礼書』の改訂では、ここの部分は、ラテン語版と同じように、朗読者が「神のことば」(たとえばだけどね)と唱え、会衆が「神に感謝」と答える形にしていくことが予想されている。

 

瑠太郎……ずっと聞いていたのですが、むしろ重要なのは、やはり聖書朗読の中身だと思います。今回、いろいろと学び、教会で聖書が読まれるときは、神が語る、キリストが語る、聖書朗読、とくに福音朗読の中にキリストがおられるのだということが、ぼくにとっては、重要でした。

 

 

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答五郎……たしかに、答唱詩編でも、アレルヤ唱でも、福音朗読のあとの説教でも、信仰宣言でも、そして共同祈願でも、そこにキリストがいるということを意識することが大事だね。

 

 

瑠太郎……ことばで行われるこの式の流れを通じて一貫しているのは、やはりそこにキリストのことば・声・祈り・教え・行いの跡がはっきりと示され、響いて、自分たちを刺激し、力づけていくということではないでしょうか。

 

 

 

聖子……それだけ大事なら、やっぱり「神に感謝!」とみんなで叫びたいわね。

 

 

 

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答五郎……ありがたい二人の言葉だ。では、少し休んで、次からは、「感謝の典礼」という部分を見ていくことにしよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


神さまの絵の具箱 26

末森英機(ミュージシャン)

世界でいちばん不運で、幸せな、わたし。とは、どんなことがあろうとも、変えたくて、変えられなくて、でも、始まりだけが、春だと覚えていること。きれいに、疑うことを、知らないこと。酔っぱらいの、ユメでもいい。なぜ、わたしに。イエスのあかしが、なされたのか?エゴがしぼんでゆくように、わたしには、見えている。イエスのスケッチが。イエスのポートレートが。イエスのスクリーンを見るように。すると、エゴはしぼみ、かれてゆくばかりだ。なぜなら?彼とともに、彼のうちにある、ということはそのことだから。きく耳を、つくってくださったのは、そのためだったから。最高、実在の化身ではない。ただ、唯一、不可分のイエス。と、わたし。祭服などまとわずに、花を集められる。いつでも、どこでも、異邦人になれる、わたし。たとえ、異教の香りのなかでさえ。頭のてっぺんから、爪先まで、すっかり変わっても、彼をして、自由。もはや、時を告げる鐘もいらない。だって、始めのない、時間から「先にガリラヤに行っている」(マタイ26:32)と、ひとつの火の粉を目印にされたイエスだから。


ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー著『世俗化の弁証法:理性と宗教について』

名誉教皇ベネディクト16世ことヨーゼフ・ラッツィンガーはどの立場から評価するにしても、第2バチカン公会議後の時代に足跡を残した神学者であることは間違いない。教皇として彼が発信したメッセージの背後にある精神を覗かれる一書の紹介:

ユルゲン・ハーバマス/ヨーゼフ・ラッツィンガー『世俗化の弁証法:理性と宗教について』
Jürgen Habermas/Joseph Ratzinger, Dialektik der Säkuralisierung: Über Vernunft und Religion (Freiburg: Herder Verlag, 2005), 64 pages

本書は、小冊子であるが、教理省長官ラッツィンガー枢機卿(生年1927)が教皇に選出され、ベネディクト16世となる2年ほど前(2003年)にドイツ、バイエルン州カトリック・アカデミーで、批判哲学のフランクフルト学派の一人ハーバマス(生年1929)と、現代社会における宗教の貢献をめぐって討論した時のそれぞれの発題を収めたものである。

ハーバマスはコミュニケーション理論、社会理論において同じフランクフルト学派の創立者であるマルクス主義的なテオドール・アドルノ(生没年1903~1969)やマックス・ホルクハイマー(生没年1895~1973)の次の世代の哲学者であり、本来プロテスタント・福音主義教会の背景をもっているため、この二人からはある距離を保っている。それでも、すでにカトリック教会の保守派という評判の神学者ラッツィンガーがハーバマスと同じ会合に出席し、友好裡に議論を行ったことは一般の人々から驚きをもって受けとめられた。

【さらに読む】
本書は、バイエルン州カトリック・アカデミーの会長フロリオン・シュラーの前置きで始まっているが、2人が用意し、まず自らの立場を語った発題内容を収録したもので、二人が交わした討論の部分はない。討論内容と雰囲気は『ライニシャー・メルクール』2004年1月22日号の詳細な記事と要約を読まなければよくつかむことができないと思われる(『ライニシャー・メルクール』は1946年から2010年までボンで発行されていた保守的カトリック系週刊新聞。2010年以降は『ディー・ツァイト』紙の中の「キリスト者と世界」という折込付録の形をとっている)。シュラーはほとんど同年輩の2人の知的巨人の出会いと友好裡に行われた議論がもたらす意義を強調している。

テーマは、いわゆるポストモダン市民社会における共通の倫理価値と基準の必要性をめぐるものであった。ハーバマスはそれを伝統的な教会に求め、多元的な市民社会に通用するように教会がもっている倫理的認識を今日に訴える言語で表現するように求めた。それに対してラッツィンガーは、現代の宗教的空白において台頭しつつある宗教的病理現象に憂慮の念を表明しながら、理性の側に立つ世俗思想と伝統的立場に立つ教会が互いに聴く力をもつようにならなければならないと応答している。

それまで、ラッツィンガー枢機卿が神学者として、キリスト教とカトリック教会の立場から政治的社会的な根本問題に関心を示していたことは、彼が教皇になってから出版された論文集『信仰・真理・寛容』の中の諸論文を読めばわかる。だから、彼がこのような討論会で、世俗的理性を代表する市民社会の弁護者ハーバマスの挑戦を受けて立ったのは決して突飛なことではない。彼はハーバマスに対して18世紀の啓蒙主義的理性を基礎とする古典的西欧市民社会が他の世界観をもつ宗教の脅威を受けるばかりでなく、人間存在の尊厳の保持が生命科学の進歩によって限界に来ていることを指摘した。ラッツィンガーが代表したキリスト教的立場からの主張の核心は、多元化した市民社会を分裂から救うものは、市民的価値に先行し、それを裏付ける根底が何であるかの認識であるという点にある。

(高柳俊一/英文学者)


『悪魔祓い、聖なる儀式』

伊藤淳(清瀬教会主任司祭)

 人間vs.悪魔/“エクソシスト”は現代に存在した!/ヴァチカン騒然!1200年も続く秘儀“悪魔祓い”外部に閉ざされてきた神秘の現場、世界初公開/本当に悪魔はいるのか?社会が抱える闇とは?さまよえる現代人必見、究極の「癒し」を体感/神父、我を救い給え/ヴァチカン騒然‼ 現代のエクソシストの実情に迫った衝撃のドキュメンタリー!

…チラシに並べられた宣伝文句の数々である。子供の頃、かの伝説的映画『エクソシスト』を観て夜中にトイレに行けなくなった経験を持つ者(私です)にとって、怖いもの見たさの感情を再燃させるに十分過ぎるこのキャッチーなコピーにのせられ、私はおそるおそる試写室の椅子に身を沈めた。

そして94分後、顔をそむけることも悲鳴を上げることもなく、無事に試写室をあとにすることができた。全然怖くなかった。むしろ面白かった。これなら、時々テレビでやってる日本の除霊の番組の方がよっぽど怖い。

この作品はドキュメンタリーであり、映し出される悪魔祓いの映像はすべて本物である。それなのに、あるいはそれゆえに、恐怖に震え

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

あがるような場面はひとつもない。首がぐるぐる回転したり、ブリッジの体勢で階段を降りたりするような悪魔の所業は、幸か不幸かまったく映っていないのである。この映画に出てくる悪魔憑きに限って言えば、それらは超常現象などではなく、常識の範囲内で説明可能なもののように私には思えた。

監督のフェデリカ・ディ・ジャコモは、本作で第73回ヴェネチア国際映画祭オリゾンティ部門最優秀作品賞を受賞しているが、審査員も監督自身も、この作品を怪奇現象をとらえたものとして評価しているわけではないだろう。この映画が描こうとしているのは、悪魔祓いのおどろおどろしさではなく、日常の営みの中で負わされてしまった精神的、霊的な悩みや苦しみや痛みを癒してもらうべく、特異なかたちで希求する人々の姿であり、その苦悩になんとか寄り添い力になろうとする、善良で純朴なエクソシストの姿なのだ。それゆえ、テレホン悪魔祓いとか、合同祓魔式とか、国際エクソシスト講習会とかいったアップトゥデイトな悪魔祓いの様子が、当事者たちの真剣さとは裏腹に、時にユーモアさえ醸し出す結果になっている。

それにしても、キャッチコピーにある「ヴァチカン騒然」というのはいったい何事か。何が原因でどのような騒ぎになったのか。そのあたりの説明は映画の中にはないので、一言ふれておく必要があるだろう。

© MIR Cinematografica – Operà Films 2016

この作品、確かにヴァチカンでは評価されなかった。それは、この映画に登場するエクソシスト神父の悪魔祓いが、公式な典礼規定から逸脱しているからであり、しかもそれを映画に撮らせ、公開してしまったからである。つまり、「大変だ!門外不出の悪魔祓いの秘儀が暴かれてしまった‼」と大騒ぎになったわけではなく、「これがカトリック伝統の悪魔祓いだと誤解されると困るなぁ…」と少しだけ心配されたのである。その程度の反応が、「ヴァチカン騒然」の真実なのである。コピーは煽り過ぎなのである。

もう一言、加えておきたい。

友人の精神科医にこの映画の内容を伝えて意見を求めたところ、映っていたような悪魔憑きは、精神医学ではトランス及び憑依障害とされ、適切な治療によって快癒する可能性が十分にあるものだと教えてくれた。そして、悪魔に憑かれた(とされる)人とエクソシスト神父との間に共依存関係が生じて症状が悪化してしまわないか心配だと、同じ神父である私を気遣ってちょっと遠慮がちに付言した。

ヴァチカンより精神医学界の方がよっぽど騒然としそうな問題作ではある。

監督:フェデリカ・ディ・ジャコモ
原題:LIBERAMI/2016年/イタリア・フランス/94分/日本語字幕:比嘉世津子/配給・宣伝:セテラ・インターナショナル

11月渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次公開


 


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 39:奉献文にもある“共同祈願”

奉献文にもある“共同祈願”

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答五郎……共同祈願のところを見てきて4回目になる。前回、「困難に悩む人のために祈る」という意向3の趣旨を考えるための参考に、ビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」の一部分を見てみたところ、瑠太郎くんから、共同祈願と奉献文の関係について質問されたのだね。

 

瑠太郎……はい。今はミサの「ことばの典礼」の最後の部分にあたる「共同祈願」を考えているところで、急に奉献文の例があがったのでちょっと驚きました。

 

 

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答五郎……奉献文については、やがて扱うことになる「感謝の典礼」の中心的なところなので、あとでゆっくり扱うことにしているのだが、共同祈願との関係で少しだけ前もって見ておくことにしよう。奉献文は、ミサの見学でだいたい聞いて親しんでいるだろう。

 

瑠太郎……はい、特に「わたしのからだ」というところや「わたしの血の杯、……新しい永遠の契約の血」はとくに厳かな気持ちになります。

 

 

 

聖子……鈴も鳴るし、皆深々とおじぎをするし。少し緊張するわ。

 

 

 

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答五郎……そこは、聖別句といわれるところで、秘跡制定句と説明されることもあるのだけれど、たしかに奉献文の中心だ。そのあと、「信仰の神秘」「主の死を思い、復活をたたえよう、主が来られるまで」となるだろう。

 

 

 

聖子……そこ歌うわよね。感動が極まっているという雰囲気のところね。

 

 

 

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答五郎……そのあと、第二奉献文でいえば、「わたしたちはいま、主イエスの死と復活の記念を行い、ここであなたに奉仕できることを感謝し、いのちのパンと救いの杯をささげます」とあり、そして、そのあとに「キリストの御からだと御血にともにあずかるわたしたちが、聖霊によって一つに結ばれますように。」とあるだろう。この「一つに…」という趣旨から続きがあるのだよ。

 

瑠太郎……「世界に広がるあなたの教会を思い起こし、……」の祈り、そして「また、復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟とすべての死者を心に留め……」という祈りのことですね。このあたりは「取り次ぎ」とも呼ばれています。

 

 

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答五郎……そう。その「取り次ぎ」の祈りについて『ローマ・ミサ典礼書の総則』79にきれいな説明があるので、聖子さん、読んでみてくれないかな。

 

 

 

聖子……ええ、ここね。「取り次ぎの祈り-この祈りは天上と地上の全教会の交わりの中で感謝の祭儀が行われることを表し、キリストのからだと血によって得られたあがないと救いに参加するよう招かれた教会と、生者と死者を問わず、そのすべての構成員のために、奉献が行われることを表現する」。ふうっー、ちょっと難しいわ。

 

 

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答五郎……要は、「感謝の祭儀」は天上と地上の全教会、生者と死者を問わず教会の全メンバーによって、その全員のために行われるということを言っているのだよ。「全教会とそのすべての構成員」のために祈るというところは、「ことばの典礼」の共同祈願と似ているだろう。とくに意向1の「教会の必要のため」という趣旨と重なっている。

 

瑠太郎……でも、ここは全教会といって、やはり信仰者のことを前提としているのではありませんか。教皇や司教、またマリア、ヨセフ、使徒、聖人などのことをいうとき、それに復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟というときには。

 

 

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答五郎……でもね。教会のことを狭く考えているとも思われないのだよ、典礼の祈りは。すべての人は神に招かれているという前提で祈っている。福音も聖体もすべての人の救いのためだという精神で祈っているのだよ。神に賛美と感謝をささげ、そして横のつながりでの祈りをしているのだから。

 

瑠太郎……それで、ビザンティン典礼の奉献文(アナフォラ)では、そのような取り次ぎの祈りの中で、困難な状況にある人たちのことも祈っているのですね。

 

 

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答五郎……そう、「取り次ぎの祈り」とはわかりやすくいえば「教会共同体のための祈り」なんだ。キリストを中心とする共同体としての連帯性のもとで祈るという意味では、本来「すべての人のための祈り」である共同祈願と性格としては共通なのだよ。

 

聖子……じゃあ、ミサでは共同祈願が2回あるといってもいいわけ?

 

 

 

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答五郎……そういえるかもしれないね。「ことばの典礼」の共同祈願は、その日の神のことばにこたえてする「すべての人のための祈り」だとすれば、奉献文の取り次ぎの祈りは、「感謝の典礼」でささげられる「すべての人のための祈り」つまり共同祈願というふうにね。

 

瑠太郎……こういう言い方もできませんか。福音にこたえて祈る共同祈願と、聖体のもとで祈る共同祈願というふうに。

 

 

 

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答五郎……なるほど! ずいぶんミサの核心に入ってきたね。たしかにミサには「みことばの食卓」と「キリストのからだの食卓」があるといわれることがあるね(総則28参照)。それぞれの食卓からささげられる共同祈願ということになるね。

 

 

聖子……だんだんともう、「感謝の典礼」のことが気になってしかたがないわ!

 

 

 

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答五郎……そうだね。でも「感謝の典礼」のことに入る前に、次回もう一度「ことばの典礼」全体のことを振り返っておくことにしたいな。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


神さまの絵の具箱 25

「今は、鏡に映して見るようにおぼろに見ている。しかしその時には、顔と顔を合わせて見るだろう」(コリントⅠかみさま13:12)
語るに、まことにふさわしいこと。わき腹の傷口に、手をいれるまでもない。
主を、間近に見られたなら。主に対して、生きることは、生つまり命に対して、生きることだから。主の体に、触れる。主への愛に、心を結ばれる。主の香りを、感官は味わう。ともに語る、機会を得る。すべての涙は、主の頬に戯れる。おさなごのように、膝枕で、髪をなでられる、まぶたに、くちずけされる。
さらに、主とともに、眠り、憩い、集う。主とともに座り、休む。きっと、食事も摂る。そうなれば、心とからだのすべてを、尽くして主にささげることを、もっと学べる。なにも、囁き合うこともせずに、サマリアの女のときのように、見つめ見つめ合う。風のひとかけらのような、気息(いき)を、唇に受けて。心で、生を追いながら、生で主の心を追おうとする。
主の毛髪、大地の髪。愛ゆえに流れよう、こぼれようとする涙を、こらえきれない。太陽のまつ毛、月の光のまぶた。なぜ、ひとが、互いに、責め合い、攻め合い、戦いばかりを好み、競り合って、盗っ人になったのか? 主への愛に、むすばれたい! 贈り物を、手渡したい! 主の耳で、なにかを、聞こうとする。主の音に、心を、没頭したい。
立ち昇る、犠牲の煙は、ますます、穢れ。だれもが、じぶん以外の生き物の、流す涙を見ようとしない。主のまなざしは、魂のなかに光り。重荷を和らげるためだけに、降誕された。
主に奪ったもの。主から、力ずくで、奪ったものを、返したい。生ける死! 「わたし」と「わたしのもの」を放棄したい。主の姿を、見たなら、わたしたちの目は、無上の喜びを味わう。心を喜びで、満たしまでした、あの蜘蛛の巣のように薄い、マナのように。わたしたちの表情(かんばせ)は、きっと、主の心を、魅了するだろう。


タラントンのたとえばなし

タラントンのたとえ話(マタイ25章14~30節)はけっこうよく知られているたとえ話である。

ある人が旅に出るとき、自分の財産をしもべたちに預けた。それぞれの力に応じて、あるものには5タラントン、あるものには2タラントン、あるものには1タラントンを預けた。5タラントン預かったものは町に出てそれで商売をして5タラントン儲けた。2タラントンを預かったものも、同じように2タラントン儲けたが、1タラントンを預かったものは出て行って穴を掘り、そこに埋めておいた。

さて主人が帰ってきて、しもべたちと預かった金の精算をした。預かった金と同額のもうけを生み出したしもべは主人のお褒めをいただくのだが、土に埋めておいたものは「主人の厳しさをおそれて地に埋めておいた」とこたえて、主人の怒りを買う。「怠け者の悪いしもべだ。私が蒔かないところから刈り取り、ちらさないところからかき集めることをしっていたのか!」といって預かったものを取り上げられ、外の暗闇に放り出されてしまった。

心のともしび・幸せの訪れ

https://tomoshibi.or.jp/happiness/happiness-093.html

このたとえから「タレント(才能)」という言葉が生まれたのだそうだ。つまりこれまでの解釈は、タラントンは神から預かった才能や能力を意味し、それを活用してもうけた人はほめられ、その才能を土に埋めて使わなかったひとはとがめられるというのがこれまでの普通の解釈であった。

ところがこのたとえ話は腑に落ちないところがいくつかある。

そのひとつは「タラントン」が今のお金でどのくらいかというと、ほとんど億単位の金なのだそうだ。とても庶民に手の届く額ではない。それくらい才能とは高価なものだと意味するというだろうが、それにしてもあまりに巨額である。

その二つめは、そんな巨額の金を預かったら、とても恐ろしくて使えないと思うのが庶民である。私もきっとそうしたであろう。その庶民が「怠け者」とのそしりを受けるのは、小さきもの貧しきものの見方であるイエスには全くふさわしくない。

その3つめは、1タラントンを預かってそれで投資をしたら、全部損をして失ってしまったとしたらこの主人はどうしたのだろうか? そこが書いていないところも腑に落ちない。

そうした疑問を持ちながらこの箇所を読んでいたときに、とても明快な解釈をしてくれた牧師がいた。富田正樹牧師である。同志社香里高校の聖書科の先生であり、キリスト教資料集の編著者であり、「信じない人のためのイエス入門」という書を書いた人であり、なおかつ徳島北教会の牧師でもある。

富田牧師は「実はこの物語は、この世の資産家たちがいかに貧しい者を搾取するのか、裕福な者はもっと裕福になり、貧困者はもっと貧困になってゆくという事実を、イエスが庶民の側に立って怒りを代弁したたとえ話であると解釈できるのです」と述べている。金が金を生んでいく、持てるものはますます豊かに、持てないものはますます貧しくなっていく格差を拡大していくはなしであって、イエスがそういう側には立たないことは明白であろう。「今の世の中はかくも不公正にできている」ということをイエスはいいたかったのではないだろうか。それはイエスの時代だけでなく現代の世界も全く同じことが言えるだろう。

ただ、このたとえの冒頭には「天の国はまた次のようにたとえられる」(マタイ25章14節) という言葉で始まっているのが気になるのだが………。

ついでながら、ルカ19章には「ムナのたとえ」がある。このタラントンとよく似た話であるが、こちらはあまり話題にはならない。

二つを読み比べてみると、まずお金の単位が違った。当時の労働者の1日の稼ぎとなるのが1デナリ、その200日分の稼ぎ200デナリが1ムナ、その60ムナが1タラントンにあたるという。1ムナは200万円くらいで1タラントンはやはり億単位の額である。

さらにルカの方は10人の雇い人にみな平等に1ムナをあたえ、「私が帰ってくるまでこれで商売をしなさい」と指示する。タラントンにはこういう指示はなく、単に預けておくだけである。

で、もうけた額に応じて、町を管理する権利をあたえた。5ムナも受けたものには5つの町を治めさせたのである。金儲けのうまい人物に町を任せたら、きっとその町は繁栄するであろう。

このムナの話の方が少しは合理的なような気はするが、金を包んでしまっておいたものに厳しいのはタラントンの話と同じであり、「誰でも持っている人はさらにあたえられるが、持っていないひとは持っているものまでも取り上げられる」という格差拡大の結論も同じである。

土屋 至(元清泉女子大学講師 「宗教科教育法」担当)


《対話で探求》 ミサはなかなか面白い 38:「困難に悩む人々」のために

「困難に悩む人々」のために

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答五郎……共同祈願のことを考え始めて3回目だね。前回は、「すべての人のための祈り」という共同祈願の特質が、意向1では「教会の必要のため」と意向2では「国政にたずさわる人々と全世界の救いのため」という二つの側面から考えられていることを見たね。今回は、意向3の「困難に悩む人々のため」という側面について考えてみよう。

 

瑠太郎……この部分では、最近では『聖書と典礼』の例文などで内戦や自然災害などで苦しんでいる人、病気で苦しんでいる人などはよく言及されている気がします。これも教会の伝統なのですか。

 

 

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答五郎……実は、前回も引用した「テモテへの手紙 一」2章1~2節で、とくにあげられているのは「王たちやすべての高官のためにも」ということだから、困難に悩む人々のことが特別にあげられているわけではないのだけれどね。実際に困難に悩んでいる人を助けることについての教えは、イエス自身が示しているよね。

 

瑠太郎……はい、イエス自身が、あの当時の社会のなかでさげすまれている人と一緒に食事したり、病気の人をいやしたりしていました。

 

 

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答五郎……それに、たとえば、マタイ25章31~46節の最後の審判についての教えの中でも、飢えている人、渇いている人、旅をしていて宿のない人、服のない人、病気の人、牢獄に入れられている人を助けることは、「わたし」(イエス)を助けることだと語られている。これら「最も小さな者の一人」を助けることがイエスを助けることだといわれているのだよ。

 

聖子……教会の歌で「小さな人々の」という歌があったわね。「♪小さな人々の一人ひとりを見守ろう、一人ひとりの中にキリストはいる」(『典礼聖歌』400)

 

 

 

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答五郎……そう、その歌はまさにそのマタイ25章の教えに基づくものだよ。
ちなみにね、前回も見たユスティノスの『第一弁明』(67章6節)ではね、日曜日の礼拝集会では施しを集めて困難にある人を助けたということが書かれている。「次に、生活にゆとりがあってしかも志ある者は、それぞれが善しとする基準に従って定めたものを施します。こうして集まった金品は指導者のもとに保管され、指導者は自分で孤児ややもめ、病気その他の理由で困っている人々、獄中につながれている人々、異郷の生活にある外国人のために扶助します。要するに彼はすべて窮乏している者の世話をするのです」とね。「孤児ややもめ」とは、旧約聖書の時代から社会的弱者の代表のように言及されている人のことだし、そのあとのところは、さっきのマタイ25章の教えとも対応しているのがわかるだろう。

 

瑠太郎……そうしたことは、教会の実践として勧められていることですよね。それが共同祈願の意向にも反映しているということですか。

 

 

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答五郎……「すべての人」に目を注ぐということは、さらに「さまざまな状況や境遇にあるあらゆる人」にも目を注ぐということだし、その場合、祈りによって支えるべき人は、おのずと何らかのかたちで困難な状況にある人ということになるだろう。それは、さまざまあるし、むしろ、それぞれの共同体の中で具体的な状況を考えていっていいようなものだよ。

 

 

聖子……ときどき、何かの献金日にちなむ意向が例文としてあがっているときがあるわね。先週(10月22日=10月の最後から2番目の日曜日)は「世界宣教の日」となっていたわ。

 

 

 

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答五郎……これは、世界中の宣教活動のために霊的援助と物的援助をともにしようという意味で、とくに物的援助のために献金を集めるよね。でも、そのような事業には霊的援助が不可欠だろう。そこで、なるべく献金日が定められているときには、そのことを共同祈願の意向に反映しようという姿勢から例文があげられているわけだよ。困難に悩むという原則を広い意味で考えていることにもなる。どのような宣教活動にも、困難はつきまとうからね。

 

瑠太郎……その意味では、共同祈願は教会の実践の心を表すものともいえるのですね。

 

 

 

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答五郎……そういう見方は大事だね。祈りは言葉だけで終わるものではないからね。実はそこで参考になるのは東方教会の奉献文なんだ。8〜9世紀頃にまとまったとされるビザンティン典礼の奉献文「バシレイオスのアナフォラ」には、王や皇帝のための祈りもあれば、教会を構成するほんとにあらゆる人々のことが祈られている。その広がりの中で困難に悩む人たちのことも祈っている。試しに訳した文章があるので、その部分を、聖子さん、読んでもらえないかな。

 

 

聖子……はい、ここね。「(神よ、汚れた霊によって苦しめられた人々を解放し、航海する者たちとともに航海し、旅する人々と道をともにしてください。身寄りのない子どもたちを保護し、とらわれ人を解放し、病気の人を見舞ってください。裁きの場に置かれている人、追放されている人、あらゆる困難と不幸の中にある人々を心にとめてください」。いいかしら。

 

瑠太郎……たしかに、聖書の教えとつながる内容もあるし、世の中にいつもいる弱い立場の人々のことが触れられていますね。教会はイエスや使徒たちの時代からずっと変わらずに、いつもこのような人たちのために祈り、援助しているということでしょうか。

 

 

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答五郎……助け合うという実践にこめられる心を表すために祈りが行われるし、また祈ることによってみんなを実践へと動かしていくこともあるだろうね。

 

 

瑠太郎……答五郎さん、今、読んだ例文は奉献文のものだと言いましたよね。奉献文と共同祈願は別なものと思っていたのですが、関係があるのでしょうか。

 

 

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答五郎……ほう、そのことか。その点は次回に考えてみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)

 


グレゴリオ聖歌 6

齋藤克弘

 なかなか話が進まなくてじれったい方もおられるかもしれませんが、もう少し、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃の状況を知っておいていただきたいと思います。

皆さんは、小学校から中学校、つまり、義務教育を受けているとき、学校で教科書を持っていない児童や生徒はいなかったと思います。大きくなった(というとおかしな言い方ですが)皆さんも、自分で本を買ったり、最近は少なくなったかもしれませんが、図書館で本を借りたりしたときにも、自分で本をもって読むのは当然ですね。しかし、グレゴリオ聖歌が広まりだした頃、今から1100年くらい前は、今のように自分で本を持つということは考えられない時代でした。

この時代、まだ紙でできた書物はヨーロッパにはありませんでした。何か記録をするには羊皮紙といって羊の皮をなめした(きれいにした)ものを使わなければなりませんでした。羊の皮をなめして作ったものですから、大量に作ることもできませんし、それだけの費用も掛かりましたから、到底個人では手に入れることはできませんでした。また、現代のような印刷をする技術もありませんでした。世界史で習われたかもしれませんが、16世紀にドイツでグーテンベルクが活版印刷の機械を作るまでは、大量の印刷物を作ることもできませんでした。ですから、グレゴリオ聖歌が広まりだした時代、楽譜を作るには、羊皮紙を手に入れることができるだけの財力と、そこに、手で楽譜を書いてゆく(あるいは書き写す)ことのできる人材と時間が必要だったわけです。

実際、このようなことができたのは、当時、財力のある修道院だったわけです。修道院は良くも悪くも多くの人の巡礼や貴族たちからの

Vera Minazzi(ed),Musica: Geistliche und weltliche Musik des Mittelalters,(Herder 2011) 48.所収

寄進によって富が集まってきました。修道士の人数も多かったので、グレゴリオ聖歌の楽譜をはじめ、ミサや典礼で使われる儀式書を専門に作る修道士がおり、その修道士たちが文字や絵を羊皮紙に書いていきました。その作業は時間と忍耐と根気と集中力がいる作業だったと思います。皆さんの中にも写経や聖書のことばをその通りに書き写す作業をされた方もおられるかもしれませんが、修道士たちが行っていた作業は、一日や数日でできるものではなく、何か月もかかって一冊の本を完成させ、それが完成すると次の本を作るというものだったでしょう。こうしてできたグレゴリオ聖歌の楽譜は今でいえば座布団くらいの大きさがあり、それを暗い聖堂の中で何人かの修道士が楽譜の周りに集まって、練習し、それを暗譜(暗記して楽譜は見ないで歌えるように)したと考えられています。

もう一つ、この時代の儀式のことばはほとんどがラテン語でした。ラテン語はもともとローマ人が話したことば。でも、フランクやゲルマン、あるいはイングランド、スコットランドの人たちがなぜ、自分たちのことばで儀式をしなかったのか疑問ですよね。なぜなら、この時代、ラテン語以外のことばは文字を持たず、字にして書くこと(文書化と言います)ができなかったのです。ちょっと信じられないかもしれませんよね。でも皆さん、ちょっと考えてみてください。皆さんの中で、アイヌ語で書かれた本を知っている方はおられますか。アイヌ語も文字を持たなかったので、文書化して書物を作り、出来事の記録をすることができなかったのです。ここで、一つ断っておきますが、言語が文書化できるかどうかと文化の優劣とは全く関係はありません。

キリスト教が広まった現代のヨーロッパ世界では、このように文書化して文字を記録することのできることばがありませんでした。それは、もう一つ、翻訳ができなかったということにもなります。しかしながら、教会の典礼祭儀(儀式)を文字を持たない言語の文字を作って、その言語の文書化できる状態にして、翻訳するまで待つことはできませんね。そんなことをしていたら、その間、ミサも祈りもできなくなってしまいます。ですから、当時のヨーロッパ世界ではラテン語で典礼を行っていく以外方法がなかったのです。

さらに、この時代には現代のように教育制度がありませんでしたから、ラテン語を勉強できるのは、これも財力や権力、あるいは時間に余裕のある人々に限られていました。すなわち、王侯貴族や修道院などの修道士たちだったのです。このように書くと、教育も読み書きもこのような人たちが独占して、一般の人々を排除したような印象を持つかもしれませんが、先にも書いたように、自分の生活のことばを文字で書き表すことができないということは、すべての人が読み書きをする状況になかったのです。

グレゴリオ聖歌の楽譜が発明されて、グレゴリオ聖歌の楽譜を見て、グレゴリオ聖歌を歌うことができたのは、修道院の修道士やその修道院から楽譜を買うことができた、大きな教会(司教座聖堂)の司祭たちだけだったのです。このような人々の間で歌われたグレゴリオ聖歌、しばらくはその黄金時代を享受しますが、その繁栄も長くは続きませんでした。

(典礼音楽研究家)


神さまの絵の具箱 24

末森英機(ミュージシャン)

あるとすれば、正義の戦(いくさ)に、〝奇跡〟は、瞬間の出来事(もの)。露で顔を洗ってくれるような〝癒(い)やし〟は、進行するもの。
「主は、主のときにわたしをいやす」(ルカ17:12-19)
神の時まで、待つ!
子どもにする、おやすみの、小さなキスのようなもの。だれかの手が、やわらかい髪に触れるのを感じ、それから、ひたいにうっすらとした、ほおに、小さなくちづけを受ける。両方の腕で、受けとめてくれる。
世界の一方のはずれから、世界のもう一方のはずれまで、主とともに、過ごすならば。信じる者にとって、足りないものは、なにひとつない、と聖書は言っています。
踏みつけられた花にも、しおれた花にも、摘み取られた花にも、襲いかかる混沌(カオス)さえ、愉(たの)しみにかえる愛ににているもの。けれど、癒やしは、わたしたちのやり方で、起こりません。〝とげ〟のある美しさを、恵みという力でいただく。わたしたちが、「はい」と、深くうなずいたときに、覚えるもの。
天国か地獄か!それは、わたしたちしだい。水のなかに、苦しみがふしぎとなく、おぼれてゆくようなもの。主の時に。