ミサ曲8 感謝の賛歌Ⅱ

齋藤克弘

 ピオ10世が発布した典礼音楽に関する自発教書によって、感謝の賛歌も本来の歌い方をするように改められました。感謝の賛歌は本来、奉献文の最初に司祭が救いの歴史を奏でる叙唱の結びに、共同体全体が神の前で神をたたえて歌う「すべての天使と聖人とともに」歌う賛歌です。叙唱の結びでは必ず「歌います」とか「感謝の賛歌をささげます」など、次に来る感謝の賛歌を「歌う」ということが言われていますから、感謝の賛歌は歌うことが基本というより、歌ってなんぼのものです。変なたとえになりますが、のど自慢の大会で、あるいはカラオケで前奏の後、歌詞を歌わないで読み上げる人はいないと思います。ここまでできるのはかなりの変人?かよっぽどの天邪鬼(あまのじゃく)でしょう。感謝の賛歌も歌ってなんぼのものですから、歌わないのは本当はおかしなことなのですが。

感謝の賛歌を歌うときに気を付けてほしいことが一つあります。どういうことかというと、この地上に生きているわたしたちは、感謝の賛歌を歌う第一の主体ではない、わたしたちが歌い手の主体ではないということです。こういう風に書くと、何をおっしゃるウサギさんと言われそうですが、これも叙唱の結びのことばを見れば明らかです。

「天使と大天使は神の威光をたたえ、わたしたちも声を合わせて賛美の歌をささげます。」(三位一体)
「数知れない天使は昼も夜もあなたに仕え、栄光を仰ぎ見て絶え間なくほめたたえます。わたしたちはこれに声を合わせ すべての造られたものもともに、あなたをたたえて歌います。」(年間週日六)
「あなたの恵みをたたえる天使、聖人とともに、わたしたちも感謝の賛歌をささげます。」(結婚式二)

三つの叙唱の結びのことばを列挙しましたが、ごらんになってわかるように、感謝の賛歌は天のエルサレムにおいて神の前で神をたたえて歌っている天使(や聖人)の歌に合わせて歌うものなのです。天使や聖人は時間も空間も超越した神の国において神をたたえることができますが、時間と空間に制約されて生きるわたしたちは、生まれてから召されるまで感謝の賛歌を歌うことは残念ながら不可能です。時間と空間を超越した神の国を前もって体験することができるミサの中で、天使と聖人の歌声にこころと声を合わせて歌うのが感謝の賛歌なのです。

さて、ミサに参加している皆さん、ちょっと振り返ってみましょう。いかがでしょうか、ミサで感謝の賛歌を歌っているとき、天使や聖人と一緒に歌っていると感じているでしょうか。もっと、踏み込んで言うと、感謝の賛歌を歌っているときに皆さんのとなりで天使や聖人が一緒に歌っていると感じられるでしょうか。感謝の賛歌とはそういう賛歌なのです。もし、天使や聖人を身近に、というより、一緒に歌っていると感じられたなら、どれだけ素晴らしいことでしょうか。それはもう、すでに、時間と空間を超えて神の国の宴を体験していると言っても過言ではないからです。

このような感謝の賛歌の本質を考えると、ミサに集う人々の声が、天上の天使や聖人はもちろん、すべての造られたものの声とともに神の栄光をたたえる歌声となって、時間と空間を超えた賛美の歌となるものなのです。こころのそこから、全身全霊を使った歌声となるように、そして、声の一致が心の一致を表すものとなるように、声を合わせて歌うことが大切なことなのです。

そして初めにも言いましたが、本来歌うものなのですから、やっぱり歌うことが始めの一歩なんですよね。

(典礼音楽研究家)


ミサはなかなか面白い57 「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯……」

「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯……」

 

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答五郎 さて、前回から奉献文の中で告げられるイエスのことば、いわゆる秘跡制定のことば、聖別のことばと呼ばれるものについて考えているね。ポイントはなんだったかな。

 

 

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問次郎 最後の晩餐のときのイエスのことばを思い起こして、引用して読み上げているというだけではなくて、ミサの中に現存しておられる主が今告げることばであるということが重要ということでした。

 

女の子_うきわ

美沙 それと、その今告げられるパンと杯についてのことばは、聖別の働きをもつという点も重要でした。それについて「聖変化」というだけでは不十分だというお話に入ったところでした。

 

 

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答五郎 そのことを考えるために、まず杯についてのイエスのことばを奉献文で確認してみよう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 はい。「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)。これをわたしの記念として行いなさい」ですね。

 

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答五郎 このことばも、四つの新約聖書の本文が踏まえられていることがわかるよ。ざっと見ると、一コリント10・25「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」、ルカ22・20「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」、マルコ14・24「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」、マタイ26・27~28「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」。

 

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問次郎 奉献文中の「わたしの血」は四か所すべてに、「多くの人のために流されて」はマルコ、マタイ、「罪のゆるしとなる」はマタイ、「新しい契約」は一コリントとルカ、「契約の血」はマルコ、マタイですね。

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしの血の杯」ということばは見当たりませんね。それと「永遠の契約」という句も。

 

 

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答五郎 よく気がついたね。「わたしの血の杯」は、たぶん一コリントとルカの「この杯は」という切り出し方を背景にしていると思われる。「永遠の契約」という句はたしかにこれらの四つの本文にはなくて、典礼の祈りにおける独自な伝統らしい。

 

女の子_うきわ

美沙 「ぶどう酒」ということばも、この中には出てこないのですね。

 

 

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答五郎 前後を見ると、ぶどう酒の杯であることがわかる。聖別のことばの前後に「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」ということばがあるのだ。これはマルコ14・25だが、マタイ26・29にもルカ22・18にもある。基本趣旨は同じでも、少し語句のまとめ方が違っている。

 

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問次郎 そう見てみると、「杯」もかなり重要なようですね。

 

 

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答五郎 そう、たしかにね。それは、聖体の秘跡というか感謝の祭儀が生まれる過程でも重要だったし、今の典礼でも、杯、つまりカリス(ラテン語)の役割が大きいのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 奉献文ですぐあとに「いのちのパンと救いの杯をささげます」というフレーズがありますが、そこも関係しているのでしょうか。

 

 

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答五郎 おそらくね。それはそのときまた触れることにして、聖変化といわれることに関して考えよう。新約聖書の4つの本文でも、典礼文の中でも、パンとぶどう酒についてイエスが告げることばの中で、肝にある語句はどれだったと思うかな。

 

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問次郎 煎じ詰めると、「わたしのからだ」、「わたしの血の杯」というところになりますか。

 

 

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答五郎 そこで、パンという食べ物がキリストの体という別なものになり、ぶどう酒という飲み物がキリストの血という別なものに変わるというふうに考えると、それは、たしかに聖体への変化、聖なる変化、神秘的な変化ということになる。

 

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問次郎 たしかに、自分もちょっと化学変化への連想にひっぱられそうになりました。

 

 

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答五郎 「聖変化」とは正確にいえば「聖実体変化」ということで、中世の神学者たちがどのような意味で、パンとぶどう酒がキリストの体と血になるのかを詳しく議論し考えた結果をまとめた用語なのだ。その意図自体は正しいのだけれど、用語だけが一人歩きすると、あるものが別なものに不思議に変化することだけに関心が行ってしまい、手品とか魔術のように想像してしまうこともあったのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「わたしのからだ」、「わたしの血の杯」の「わたしの」というところが大事なのではないでしょうか。だれかれのものではなく、キリストについてだけのユニークなものというところが。

 

 

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問次郎 そのユニークさを説明しているのが(典礼文でいえば)「あなたがたのために渡されるわたしのからだ」とか「あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血」というわけか。

 

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答五郎 ほんとうにそうなのだと思うよ。すべての人の罪からのあがないのために、キリストは我々に自分自身を与えた……それは究極的には十字架上の死と復活をとおして、実現したこと、そのことが、今もいつも聖体として与えられるという、とても、大きな事がここでは起こっているわけなのだ。

 

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問次郎 たんなる物の変化というわけではないのですね。

 

 

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答五郎 そう、キリストと我々の関係の変化というか、新しい関係が決定されたという出来事が大事なのだよ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「新しい永遠の契約」というのがそれなのですね。

 

 

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答五郎 そうなのだよ。キリストの死と復活によって神と人類の新しい契約が結ばれた、それはとても大きなこと、人類史がひっくり返るような画期的な出来事だったのさ。そのことを思い起こし、それだけでなく、今、キリストのからだと血を受けるという中で、その契約関係の中に立ち返り、その契約がキリストによって結ばれていることをたえず喜び祝うというところに、ミサらしさがあるといってもよい。

 

女の子_うきわ

美沙 お祝いの感覚は祭りになくてはならないものですね。

 

 

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問次郎 でも、ミサがあまりお祭りの感じもしないな……。

 

 

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答五郎 「契約」ということを深く考えると祝う意味が出てくるのではないかと思うよ。続きは、また次回に考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


ミサ曲7 感謝の賛歌

齋藤克弘

通作ミサ(ミサ曲を一人の作曲家が全部作曲すること)の場合、栄光の賛歌の次は信仰宣言なのですが、信仰宣言はほかのミサ曲と異なり、内容が賛歌ではなく信仰告白となっていますので、このシリーズでは最後に触れることにして、今回は感謝の賛歌について書いてゆくことにします。

感謝の賛歌はミサ曲の中では唯一、旧約聖書をテキストとしています。ところで聖書という言い方のほかに、旧約聖書と新約聖書という呼び方があるのは皆さんご存じのことと思いますが、どのような違いがあるか、この「陽だまりの丘」の読者の皆さんは知っておられることは思いますが、一応触れたいと思います。聖書というのはもともとユダヤ教の経典で、律法の書(モーセ五書)・預言書・諸書からなっていて、キリスト教で新約聖書が編纂された後にこれらを旧約聖書と呼ぶようになりました。新約聖書はキリスト教だけのもので、イエスの生涯の事績を書き記した福音書とイエスの弟子たちの活動を記録した使徒言行録、使徒たちが各地の教会にあてた手紙、そして神の国が完成するときの様子を預言した黙示録からなっています。ですから、ユダヤ教では今でも律法の書・預言書・諸書からなる聖書が聖典であり、新約聖書は聖書とは認めていません。キリスト教の場合には聖書のうち、ユダヤ教から受け継いだものを旧約聖書、イエスの事績を記した以降のものを新約聖書と呼び、その両方を合わせて聖書と名付けています。

さて、本題へ戻りましょう。感謝の賛歌の冒頭のことばは、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は天地に満つ」という預言者イザヤが幻で見た玉座におられる主に使えるケルビム(天使)が主をたたえる賛美のことばから始まります。「聖なる」の3回の繰り返しはヘブライ語で神の聖性を最大限表現する表現方法です。「万軍」ということばは、この時代には一般に天の星を指したようですが、ここでは神のそばで仕えるものをこのように呼んでいます。現代的な「軍隊」とは意味合いが違うので、そこのところは注意が必要ですね。

続く歌詞「天の意と高きところにホザンナ」。「ホザンナ」は受難の前にイエスがエルサレムに入城したときにそれを迎えた会衆の歓呼の叫びですが、もともとは「救いをわたしたちに」というヘブライ語の「ホシアナ」ということばが転訛したものです。この「ホザンナ」は「アーメン」、「ハレルヤ(アレルヤ)」とともに、現代でもキリスト教の教会の中でヘブライ語のまま残っている由緒正しいことばです。ここまでは、旧約聖書のことばが多く使われており、感謝の賛歌の前半は、もともとユダヤ教が起源ではないかとも言われていますが、はっきりした起源については特定ができないようです。

ユダヤ教が起源ではないかと言われている感謝の賛歌、中東などの東方の教会から西方の教会に伝えられたことは間違いがないようですが、最初のころは、1回目の「天のいと高きところにホザンナ」までだったようです。その後の「ほむべきかな主の名によりて来たるもの」は西方の教会でテキストが加えられ、今度は東方の教会へ逆輸入されたと言われています。

この感謝の賛歌も他のミサ曲と同じように、挿入句を入れたトロープスや複数の旋律を歌うモテットでは元来の歌詞以外のテキストが歌われるようになっていきました。そして本来は奉献文という最も中心的な祈りの中で、司祭も参加する会衆も声を合わせて神の栄光をたたえる歌なのですが、次第に聖歌隊だけが歌うようになっていきます。

トリエント公会議の後、トロープスや複数の歌詞を歌うモテットは、他のミサ曲と同じように禁止されますが、新たな問題が出てきました。それは、これまでにも触れたように、司式する司祭と会衆や聖歌隊が同じ場所にいても、祈りを共有していなかったことから、司式司祭が沈黙のうちに奉献文の冒頭の祈りである叙唱(第二バチカン公会議以前は序唱と表記)を唱え始めると、聖歌隊や楽団が感謝の賛歌の前半を演奏し始め、演奏が終わると司式司祭は聖別のことばをやはり沈黙で唱えて、キリストの体となったパンとキリストの血になったぶどう酒が入ったカリス(盃)を背中のほうにいる会衆に見えるように高く上げ(この動作をエレベーションと言います)ました。この司祭のエレベーションが終わると司祭は奉献文の後半をやはり沈黙のうちに唱え、聖歌隊と楽団は感謝の賛歌の後半を演奏したのです。この時代の感謝の賛歌のタイトルはただ、Sanctus ではなくほとんどの場合、Sanctus-Benedictus となっていますが、それはこのような演奏をしたからです。今のミサでは考えられませんが、規則の行き過ぎた解釈がこのような演奏やそのための作曲を促したという例なのです。

(典礼音楽研究家)


ミサはなかなか面白い 56 「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」

56 「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ」

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答五郎 ミサについて式次第の順に見てきて、ようやく一つの頂点にさしかかっているかもしれない。

 

 

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問次郎 はい。第2奉献文を見始めて、きょうはいよいよイエスのことばのところになりました。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「皆、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」ですね。歌のときは「からだ」で結びますね。余韻の中で「である」と語っていると聞いています。

 

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答五郎 たしかにそれは、日本の典礼文ならではの工夫だね。ともかく、この言葉、ミサでは、どんなふうに聞こえているかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 それは、やはり「主イエスは、……仰せになりました」とあるので、イエスの言葉なのだな、とかなり、緊張します。

 

 

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問次郎 「仰せになりました」とあるので、あの最後の晩餐のときの言葉を今、唱えて思い出させているのだと、聞いています。聖書にも出ているあの場面の言葉を思い起こさせられます。

 

 

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答五郎 では、聖書の文言を見て確かめよう。美沙さん、ピックアップして読んでくれるかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26・26)、「取りなさい。これはわたしの体である」(マルコ14・22)、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である」(ルカ22・19)ですね。

 

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答五郎 もう一つ、パウロの手紙にもあるよ。ここだ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「これは、あなたがたのためのわたしの体である」(1コリント11・24)ですね。

 

 

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答五郎 これらを奉献文の文言と比べるとどういうことがわかるかな。

 

 

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問次郎 4つに共通なのは「これは、わたしの体である」で、そこにルカの「あなたがたのために与えられる」に近い「あなたがたのために渡される」が加わっている感じですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 それに「取って、食べなさい」はマタイの文言と同じです。

 

 

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答五郎 こう見ると、マタイとルカを軸にまとめられた言葉だということがわかるね。今見ているカトリック教会の奉献文は、ローマ典礼の伝統的な文言を基本にしているのだけれど、それ自体、聖書にある文言をもとにまとめられているようだね。

 

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問次郎  先ほど、答えたことですが、奉献文のその文言を聞きながら、最後の晩餐のときの言葉を読み上げているのだという受けとめ方では何か不十分だったでしょうか。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「秘跡の制定句」と紹介されているのを見たことがあります。それは、パンについての言葉と、杯についての言葉のことですね。

 

 

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答五郎 たしかにその面がある。「わたしの記念としてこのように行いなさい」ということばが1コリントやルカにあって、それが奉献文のイエスの文言にも受け継がれている。だから、ここから聖体の秘跡が始まったということだね。総則が「制定の叙述と聖別」と書いている前半にあたる。制定の叙述だから、前回見たような「主イエスはすすんで受難に向かう前に……」といった過去の出来事を想起させる「語り」を指して言っていると思う。パンと杯に関する言葉はただ過去に告げられた言葉の読み上げではないというニュアンスでね。

 

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問次郎 そこが、「聖別」と後半に書いてある意味なのですね。ずっと話題になっていることですが。

 

 

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答五郎 そう。「これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」という言葉の役割がここで重要になるのだよ。あの最後の晩餐のときのイエスの言葉を思い出させるだけではないのだよ。

 

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問次郎 聖体の秘跡が制定された原点に立ち返るということとでしょうか。

 

 

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答五郎 それも少し近いように思うが、それだと、こちらから、過去の出来事に立ち戻っている感じだね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 イエスが「今」語っているということでしょうか。

 

 

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答五郎 実は、そうなのだよ。この晩餐のときのイエスの言葉は、ただ聖体の秘跡を定めたというだけでなく、今、ここで、与えられる、そしてミサに参加する人が受けることになる食べ物、飲み物がイエスの体・イエスの血なのだということを語る言葉なんだ。そして、そのようなものにする言葉だという、その役割、働きのことを「聖別」と言っているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 ただ単に、聖体の秘跡の由来を教えるためにイエスがいわれた言葉を読み上げて思い出しているだけではないということですね。

 

 

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答五郎 イエスのことを過去に生きた人としてミサで追憶しているというわけではないのだからね。何度も、「現存」ということを考えてきただろう。

 

女の子_うきわ

美沙 「主は皆さんとともに」ですね。

 

 

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答五郎 ミサのどの部分、どの次第の中でも、キリストが今、その共同体にいつもいてこそ、行うことができているミサだということを、ここでこそいちばん考えなくてはならないのさ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 今の話の中で、いわゆる「聖変化」ということがもう言われていたのでしょうか。パンとぶどう酒がキリストの体と血に変わるということですね。

 

 

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答五郎 それはそうなのだが、その言い方の中で何か足りないものがあるのではないかな。それがまさに「聖変化」という言い方、理解のしかたの足りないところでもあるのだけど……。イエスの晩餐での言葉をよく聞きながら考えてごらん。

252164女の子_うきわ

問次郎・美沙  ああ……、はい。

 

 

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答五郎 ただ単に、パン=わたしの体、ぶどう酒=わたしの血ということだけを言っているだろうか? そこには大事なことが一緒に含まれているのではないかな。……引き続き次回考えよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


告白小説、その結末

ロマン・ポランスキー監督といえば、『ローズマリーの赤ちゃん』や『戦場のピアニスト』、『オリバー・ツイスト』などを撮った有名な監督です。新作を撮ったというので、これはぜひ観たいと足を運びました。『告白小説、その結末』はフランスで注目されている女性作家デルフィーヌ・ド・ヴィガンの書いた『デルフィーヌの友情』(水声社刊)を原作にした映画です。この映画、はっきり言ってすごく不思議な映画です。

ストーリーを長々説明する紙幅はありませんので、かなり割愛してご紹介します。デルフィーヌ・デリュー(エマニュエル・セニエ)は、心を病んで自ら命を絶った母親との生活を綴った私小説がベストセラーとなり、新たな仕事のオファーが次々と舞い込んできています。小説の赤裸々な内容が女性たちの共感を得て、パリのブックフェアのサイン会でも「すばらしい作品」「私に希望を与えてくれた」と讃辞の嵐が巻き起こります。しかし、デルフィーヌ自身は、多忙な日々に疲れ果て、新作の構想が浮かばない状況です。サイン会を強引に切り上げ、あまり行きたくないと思っている出版業界のパーティ会場に出向きます。そこで、熱狂的ファンと称する女性(エヴァ・グリーン)と出会います。彼女は三人称の代名詞で「彼女」を意味する「エル」と名乗ります。他のファンとは一線を画するようなエルとの時間にデルフィーヌは安らぎを感じます。

仕事は進まず、ストレスを抱えているデルフィーヌのもとに「母親を売った代償は大きい。家族の不幸はさぞ高く売れただろう」という誹謗する手紙が来て、それによって、さらにストレスは高まります。そんなとき、電話番号を教えた訳でもないのに、エルから電話をもらい、近所のカフェで再会すると、心が晴れるのを感じたデルフィーヌは、エルへの依存を高めていきます。アパートを追い出されたというエルと自宅で生活をともにし、エルはマネージャーのような存在になっていきます。

エルはなぜ、デルフィーヌに近づいたのか、エルはどんな人物なのか、エルの目的は、デルフィーヌは新作を書くことができるのか、それは観てのお楽しみです。サイコサスペンス仕立てになっていて、どんどん追い込まれていくデルフィーヌとエルの関係は、観る者が手に汗握るものになっています。

ポランスキー監督は主人公の二人について「俳優同士の相性は常に良好とは限らないが、彼女たちの相性は最初から抜群だった」といっています。この二人の女性を中心にした倒錯が渦巻く世界を堪能してみてください。
(中村恵里香、ライター)

6月23日(土) ヒューマントラストシネマ有楽町・
YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー

監督:ロマン・ポランスキー/脚本:オリヴィエ・アサイヤス、ロマン・ポランスキー/音楽:アレクサンドル・デスプラ
出演:エマニュエル・セニエ、エヴァ・グリーン、ヴァンサン・ペレーズ

原作:デルフィーヌ・ド・ヴィガン「デルフィーヌの友情」(水声社)
原題:D’après une histoire vraie/英題:Based on a true story/2017年/フランス・ベルギー・ポーランド/フランス語/100分/カラー/シネマスコープ/5.1ch/配給:キノフィルムズ
©2017 WY Productions, RP Productions, Mars Films, France 2 Cinéma, Monolith Films. All Rights Reserved.


『祝福〜オラとニコデムの家〜』

私のようなクリスチャンホームに生まれ、物心ついたときにはカトリック信徒だった人間にとって、カトリックと本気で正面から向き合うのが初聖体のときです。洗礼の記憶は乳児期なのでまったくなく、カトリックのことを正面から向き合って勉強し始めるのが教会の日曜学校でシスターから教えられる聖書の話です。だから、という訳ではないのですが、1年間勉強し、真っ白なドレスに身を包み、ミサでいただく初めてのご聖体は憧れでもありました。

そんな記憶をよみがえらせる映画に出会いました。そのドキュメンタリー映画『祝福~オラとニコデムの家~』をご紹介します。

ポーランドのワルシャワ郊外、セロックという街に14歳の少女オラは住んでいます。オラの父親はお酒で問題を抱え

©HBO Europe s.r.o., Wajda Studio Sp. z o.o, Otter Films Wazelkie prawa zastrzeżone. 2016

ています。弟のニコデムは、自閉症児です。母親は、違う男性と離れて暮らしています。学校に通いながら、家事をこなし、弟の面倒を見るオラが母親の役割を一手に担っています。ニコデムは、ベルトもうまく締められない状況で、あらゆる場面でオラの手助けが必要です。

一般的に初聖体は、7歳か8歳で受けるものですが、ニコデムは13歳になってやっと受けることができるようになります。ただし、初聖体を受けるには、その前の試験に合格しなければなりません。そのためにオラはニコデムに勉強を強います。厳しく、接するオラの姿は必死です。なぜそんなに必死なのかというと、離れて暮らす母親が初聖体の儀式に来てくれれば、もう一度家族が一つになれると信じているからです。

©HBO Europe s.r.o., Wajda Studio Sp. z o.o, Otter Films Wazelkie prawa zastrzeżone. 2016

初聖体は無事受けられるのか、母親は来てくれるのか、そしてオラの考える幸せはやってくるのかは観てのお楽しみです。監督のアンナ・ザメツカは、当初カメラを受け入れようとしなかったオラと正面から向き合って、カメラを受け入れさせることから始めたといいます。それには1年以上の時間をかけたそうです。この映画はカメラを受け入れたオラの姿が如実に出ています。また、監督は、この映画について、「『ヘンゼルとグレーテル』は私のお気に入りの物語の一つでした。この映画『祝福~オラとニコデムの家~』は親が自分の役割を果たせない世界の森で、彼らの道を探すヘンゼルとグレーテルの、非モノクロームで描かれたリアリスティックな物語なのです」と語っています。

初聖体を舞台に、家族の物語が描かれています。ぜひ、映画館に足を運んでみてください。

(中村恵里香、ライター)

 

6月23日ユーロスペースほか全国順次公開
公式ホームページ:http://www.moviola.jp/shukufuku/
脚本&監督:アンナ・ザメツカ
撮影監督:マウゴジャータ・シワク
編集:アグニェシュカ・グリンスカ、アンナ・ザメツカ、ヴォイチェフ・ヤナス

原題:Komunia|英語題:Communion|2016年|ポーランド|75分|配給:ムヴィオラ


ミサはなかなか面白い 55 「主はすすんで受難に向かう前に……」

「主はすすんで受難に向かう前に……」

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答五郎 こんにちは。元気かな。第2奉献文に入って、冒頭の神の聖性をたたえる句と、供えものがキリストのからだと血になるよう、聖霊の働きを願う祈りのところを見てきたね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ええ、わずか数行の中にも、いろいろなことが含まれていると思いました。

 

 

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答五郎 祈りの中で言われていることと、それを何と捉えるかという理解のための言葉と両方が出てくるから複雑に聞こえるかもしれないね。ついて来られているかな。

 

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問次郎 えーと、ここでは「聖霊の働きを願う祈り」、つまりエピクレーシスとか「聖別」というのが、理解のための概念ですね。

 

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答五郎 それぞれ抽象的にはなるけれど、いつもこの祈りの流れに即して使っているから、そのことも忘れないでほしいね。ここで「聖別」という言葉を使っていても、聖別一般というより、供えものがキリストのからだと血となることをいつも指していっているということだよ。

 

252164

問次郎 このところに関しては、「聖変化」と書いている解説書をちらっと目にしたことがあります。それと同じことなのでしょうか。

 

 

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答五郎 供えものがキリストのからだと血となることを指していう言葉としては同じだといえるのだけれど、ミサの祈りの中にも、また総則の用語でも「聖変化」という言葉は出ていないよ。ラテン語でも伝統的にコンセクラチオ(聖とする、聖別する)という単語だった。しかし、他の言語(ドイツ語)などでは確かに「変化」を意味する言葉が解説書や要理書で使われたこともあって、その影響があったのではないかと推測できる。これも理解用語で、基本的には聖別と同じ意味だけれど、今、典礼書では使われていないという経緯だけをちょっと頭に入れておいてほしい。

252164問次郎 なるほど、またあらためてお尋ねします。では、きょうの箇所の初めは僕が読ませてもらいますね。「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」から始まるところですね。

 

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答五郎  そうだね。そのあと、パンについての言葉があって、「食事の終わりに同じように杯を取り、感謝をささげ、弟子に与えて仰せになりました」と、杯についての言葉が続く。このことは、ミサの中でもっとも厳粛に感じられるところだろう。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。司祭が声高らかに節をつけて唱え、またホスチアの入っている器を持ち上げて示して、みんながおじぎを……、杯についてもそうなりますよね。見学していても緊張するところです。

 

 

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答五郎 そうだね。奉献文とは文というだけなく、歌われる祈りだし、さらに言葉だけでなく、体も使って動作して礼拝するということまで含む、大きなものだということがわかるだろう。

 

 

252164

問次郎 この祈りは言葉だけではないということですね。

 

 

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答五郎 そう、とても多面的といえるかもしれない。個人でひっそりと祈るのとはずいぶん違うだろう。ところで、理解の手掛かりになるかどうか、総則(79-d)でここの部分は「制定の叙述と聖別」と呼ばれている。「制定」ってなんのことだと思う?

 

252164

 

問次郎 パンについて「みな、これを取って食べなさい。これはあなたがたのために渡されるわたしのからだ(である)」というところ、杯について「皆、これを受けて飲みなさい。これはわたしの血の杯、あなたがたと多くの人のために流されて罪のゆるしとなる新しい永遠の契約の血(である)」というところですよね。

 

124594

答五郎 まあ、そうだ。簡単にいえば、パンはキリストのからだ、杯から飲むものはキリストの血であるということが定められているのだよ。その意味では、聖体の制定だということになる。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「これをわたしの記念として行いなさい」までが制定なのではないでしょうか。使徒たちが続けていくべき新しい行いを定めた、命令した、という意味で。

 

 

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答五郎 ほんとうにそうだね。聖体の制定というだけでなく、聖体の祭儀、感謝の祭儀、つまりミサそのものを制定したともいえる言葉だ。「制定の叙述」といっている以上、パンと杯についての言葉が告げられた前後関係まで含めて大事だといえるだろうね。

 

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問次郎 最初の「主イエスはすすんで受難に向かう前に、パンを取り、感謝をささげ、割って弟子に与えて仰せになりました」というのも、いかにもナレーションですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ここは、有名な最後の晩餐のところですよね。福音書にもある場面が読まれていると思っていました。

 

 

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答五郎 イエスが最後の晩餐で聖体を制定したということが書かれている福音書は、マタイ、マルコ、ルカの三つだけだよ。マタイ26・26~30、マルコ14・22~26、ルカ22・15~20だ。ただ、その部分を見ても、今の冒頭の文章がそのまま出てくるところはないよ。

 

女の子_うきわ

美沙 そうかもしれませんが、そう聞けます。三つの福音書の話全体を踏まえた自然な語りだなと思って、違和感はありません。

 

 

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答五郎 実は福音書のようにイエスの生涯を語る文脈とは違うけれど、もう一つ大切な箇所が1コリントの11・23~25にあるのだ。パウロが、自分が主から受けたものを皆に伝えるのだといって語るところだよ。「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげて、それを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」というふうに語っていく。

 

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問次郎 語りだし方は奉献文の雰囲気と似ていますね。あ、逆か。奉献文の語りだしがパウロの語り方に近いのか。

 

 

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答五郎 今あるほかの奉献文、たとえば第3奉献文ではどうなっているかな。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「主イエスは渡される夜、パンを取り、あなたに感謝をささげて祝福し、割って弟子に与えて仰せになりました」となっています。

 

 

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問次郎 あっ、語りだしは、1コリントとほとんど同じですね。

 

 

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答五郎 三つの福音書の場合、最後の晩餐の叙述には、ユダの裏切りの予告とかいろいろな出来事が含まれて複合的な物語になっているのだよ。ただ、要約すると、奉献文の短い語りともそんなには違わないだろう。

 

女の子_うきわ

美紗 杯の前のナレーションも含め、1コリントやマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書のそれぞれの語り方が背景にあって、奉献文の個々の語りが成立しているのですね。「制定の叙述」という意味も広い意味で考えたいです。「これをわたしの記念として行いなさい」と言って、この典礼を定めたイエスの言葉に教会がずっと従っていて、2000年近くもミサが行われ続けているというのはすごいことだなと思います。

 

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問次郎 でも、総則ではここは「制定の叙述と聖別」といわれているのでしたね。どういう意味で聖別 なのでしょうか。ふりだしに戻すようですが……。

 

 

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答五郎 きょうは少し長くなったし、そこのところは次回にしよう。ともかくミサを見学して、奉献文の言葉を味わっておいてほしい。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


フレデリック・J・ボームガートナー著『閉ざされた扉の向こうで―教皇選挙の歴史』

日本にも久方ぶりに教皇選挙権をもつ枢機卿が誕生した。教皇選挙の歴史を物語る本を紹介しよう。2000年以降に刊行されたキリスト教の歴史・聖書・霊性に関する洋書をセレクトして紹介してきたこのシリーズも最終回。異例の長編だが、貴重な歴史に関する概観として注目したい:

フレデリック・J・ボームガートナー著『閉ざされた扉の向こうで―教皇選挙の歴史』
Frederic J. Baumgartner, Behind Locked Doors: A History of the Papal Elections (New York: Palgrave Macmillan, 2003), xv+272 pages

21世紀に入り、2005年にはベネディクト16世、2013年には同教皇の退位に伴い、フランシスコが教皇に選出された。近年の選挙にともない、教皇選挙とはどのようにして行われるのか、あるいはどのように過去に行われてきたのかに新たな関心が集まった。本書は2003年に出版されたものだが、このような関心にちょうどよく対応するものであった。著者は米国カトリック史学会の会長を務めたことがあるカトリック史学界の長老である。

コンクラーヴェと呼ばれる教皇選挙は、西欧中世が形成される黎明期を前史として、11世紀に教皇権が西欧全体に広く認められ、教皇庁に莫大な収入が入るようになり、イタリア半島の中央を占める国家となった時代の到来とともに始まるのである。以下、少し長くなるが、注目すべき教皇選挙の歴史概観が得られるので、著者の叙述に沿って見ていこう。

 

4世紀までのローマ司教
教皇の権威は全カトリック教会に及ぶ。それは、使徒たちの指導者であり、また最初のローマ司教であるペトロの後継者であることに由来し、初代教皇は使徒ペトロだということになっている。しかし、著者によれば1~2世紀の信者は彼を司教(エピスコポス)とは考えていなかったであろうと述べている。2世紀以後、あちこちのキリスト教共同体は司教をそれぞれの教会の指導者として選ぶようになったが、250年までのローマの教会の事情を示す記録はほとんど残っていない。400年頃の記録はペトロがリヌスを後継者として任命し、さらにアナクレトゥス、クレメンスが彼に続くように支持したとしている。354年に編纂された『リベル・ポンティフィカーリス』(教皇に関する文書)は、最初の2世紀のローマ教会の記録としてはあてにならないと考えられている。3世紀半ばのカルタゴの司教キプリアヌスは、ローマの司教をペトロの後継者と尊敬の念をもってみなしながらも、自分も司教として同じ権威をもっていると考えていた。

さて、コンスタンティヌス大帝は325年にニカイア公会議を招集し、この会議にローマの司教シルヴェステル1世は二人の司祭を派遣した。コンスタンティヌスは最初のキリスト教徒の皇帝で、彼の統治法が帝国内の主要な都市の司教の選出に影響を与え始めるようになった。彼の教会に対する莫大な寄進はローマに集中したため、ローマの司教は財産の管理者としての能力を持たなくてはならなくなった。この皇帝の息子はアレイオス派の異端をローマの教会に押しつけようとし、この時、ローマの教会は二派に分かれてそれぞれの指導者が暴力に訴えて争うようになる。ローマの司教はこの時期に初めて「パパ」と呼ばれるようになった。それまでどこの司教もパパと呼ばれていた。それが4世紀に入ると帝国内の主要都市の司教(大司教)に限って使われるようになり、西方ではローマ司教だけの呼称として使われるようになった。だが、ローマの司教が「パパ」と呼ばれるようになったことはその選挙方法が変わったことを意味せず、依然として司祭たちと民衆が実際の選出権をもっていたのである。

 

派閥争いに支配された教皇選出
しかしローマ司教(パパ)の選出には、しだいに地方政治の次元と帝国政治の次元の両面から政治的意図が絡むようになる。特に門閥が要素として加わった。インノケンティウス1世(401~417。以下、年号表示は在位年)は西ゴート族によるローマ略奪(410年)の時、皇帝の宮廷に滞在中であった。彼の後、ギリシア人ゾシムス(417~418)が選ばれ、2年後、彼の支持者だった人々はエウラリウスを選出したが、彼の敵はボニファティウス1世(418~422)を選ぶという騒動になった。そこで、ホノリウス帝が介入し、最初エウラリウスを支持したが、彼の支持者が少なかったのでボニファティウス支持に回った。ホノリウスは同時に別々の選挙が行われた場合、もう一度全教会が一致して決めなければならないと命じた。ボニファティウスの後継者、ケレスティヌス1世(422~432)は反対なく全員一致で選ばれた。

これに続く、レオ1世(440~461)までの四代も騒動なしに選ばれた。レオ1世は外交交渉でガリアにいたとき、ローマ不在のまま選ばれた。聖ペトロ大聖堂に葬られた最初の教皇である。ゲラシウス1世(492~496)は、自らを「キリストの代理者」と呼び、有名な「両剣論」、すなわち、現世には二つの権威、教皇に代表された教会と皇帝に代表された国家があり、教会が上位にあると主張した最初の教皇である。ギリシアの司教たちと東方の皇帝に対する強硬な路線は、彼の後継者アタナシウス2世(496~498)が選出されたことで協調路線に変更された。しかし、ローマの聖職者の間では強い反対派がおり、彼の死の後、反アタナシウス派は両親が異教徒であったサルディナ出身のシンマクスを、親アタナシウス派はラウレンティウスを選び、それぞれバチカンとラテラノに拠点を置いて対立した。両派は衝突をくり返したが、東ゴート王国のテオドリック王(493~526。アレイオス派支持者)がシンマクスを選び、教皇として着座した(498~514)。しかし、ラウレンティウス支持者たちはなお10年間も抵抗した。

以後の教皇選挙も必ずと言ってよいくらい同じように派閥争いが続き、東方の皇帝やゲルマン人の王の介入を求めたり、その口実を与えたりした紛糾の連続であった。レオ1世とともに輝かしい功績を残したのは大グレゴリウス(1世)である。590年の彼の選挙については資料があまり残されていないが、ローマ市民を代表する聖職者と元老院によって一致して選ばれたようである。その彼もローマ貴族の家柄の出で、卓抜した行政官としての訓練も受けていた。さらに彼は教皇に選ばれた最初の修道士であり、ローマの教会の役職に修道士を好んで就けた。

 

カロリング朝フランク王国の台頭のもとで
西方ではフランク王国が台頭し、神聖ローマ帝国への道を歩み始め、ローマの教会ではフランク王国支持派が勢力を増し、聖職者の中のコンスタンティノポリス支持派と対立するようになった。767年、信徒であったコンスタンティヌスが教皇に選ばれ、同時にローマの公爵の称号を取ったとき騒動が持ち上がった。1年後の768年、より正統な手続きによってステファヌス3世(768~772)が選ばれた。対立教皇とされたコンスタンティヌスはラテラノ聖堂から引き出され、両目をくりぬかれ、投獄された。ステファヌス3世は教会会議を開いてコンスタンティヌスの選挙の無効を宣言させた。この時以来、教皇選挙はローマの聖職者全員が選挙権をもつが、被選挙人は枢機卿のみと定められた。しかしローマの貴族はまもなく選挙権を取り戻し、1059年までそれが続いた。

その次に、ローマの聖職者によって一致して選ばれたハドリアヌス1世(772~795)の治世は長くおよそ24年にわたり、教皇庁がカール大帝(シャルルマーニュ、王として768~814)と密接な関係を樹立した時代であった。彼を継いだレオ3世(895~816)はローマ聖職者によって一致して選ばれたが、強力な反対派が生まれたため、カール大帝の宮廷に亡命し、その軍の保護下でローマに戻った翌年の800年、ローマを訪れたカール大帝にローマ皇帝の冠を授けた。続く二人の教皇の選挙は平穏に行われたが、824年の選挙はフランク支持派と反対派に分かれて激しく争われ、4ヶ月の硬直状態の後、カールの子ルートヴィッヒ1世(814~40)の調停でエウゲヌス2世(824~827)が選ばれた。

 

ニコラウス2世による教皇選挙改革 
962年からの神聖ローマ帝国時代には、教皇はいわば皇帝のローマにおける行政官となってしまい、その支持と任命を実質的に受けることとなった。ベネディクトゥス9世(1032~1044、復位1043~46、再復位1047~1048)の選挙の時ほど事態が混迷したことは珍しかった。皇帝冠を受けるためにローマに到着したとき、皇帝ハインリッヒ3世(1039~56)は3人も教皇がいることを発見し、全員を廃位させ、自分好みのクレメンス2世(1046~1047)を教皇座に着けた。彼は続く10年の間に3人の教皇を任命し、選挙の手続きを無視した。彼の子ハインリッヒ4世(1056~1106)は6歳で即位したため、皇帝側は教皇庁の支配権を失った。こうして皇帝の権力から独立して、教皇選挙制度の抜本的な改革を行うチャンスがめぐってきた。

11世紀半ば、イタリア半島の中央部で得た膨大な収入による財力により、教皇の地上的権力は神聖ローマ皇帝に匹敵するまでになっていた。1059年1月ブルガンディア出身のフィレンツェ司教ゲラルドゥスがローレーヌ公爵から送られた軍隊の支持を受けてローマに入り、ラテラノ大聖堂で教皇ニコラウス2世(1058~1061)として聖別式を行った。これはビザンティン皇帝の即位式の要素を取り入れたものであり、以後、教皇聖別式が選挙後の儀式となった。ニコラウス2世は1059年教皇選挙の手続きを決める教会会議を招集し、教令を発布した。その基本はステファヌス9世が、769年に選挙人をローマの聖職者に限り、被選挙人を枢機卿に限った改革の路線を受け継ぐものであったが、最も重要なのは一定の条件の下にローマ以外の人間も被選挙人として認めたことであった。教皇座に着く人物をローマ出身の聖職者以外にも求める可能性を認めることによって、教皇の全教会に対する普遍的権威を真剣に考え始めたことが窺われる。

ニコラウス2世は、シチリア島を含む南イタリアを支配していたノルマン王国と同盟を結び、神聖ローマ帝国の皇帝に対抗して教皇権の独立性を維持しようとした。その結果、以降の中世を通じて、イタリア半島における皇帝派と教皇派の紛争が長く続くことになる。特に教皇グレゴリウス7世(1073~1085)と皇帝ハインリッヒ4世の争いでは、「カノッサの屈辱」(1077年)でいったん教皇が勝利したように見えたが、ハインリッヒ4世は教会会議を招集してグレゴリウス7世を弾劾し、ローマを占領。グレゴリウス7世はノルマン王国に逃れてそこで没した。彼はローマの司教以外はパパの称号を使うことを禁止する勅令を発布し、教皇至上権の確立の第一歩を画したが、死後、彼が指名した3名の枢機卿の中から後継者が選ばれることを命じていたので、事態は紛糾し、改革派がヴィクトル3世(1086~1087)の選挙にこぎつけるまで1年を要した。

 

ローマ市民の反発と支持の間の教皇たち
1086年以後の歴代の教皇は修道士、修道院長出身であった。修道院長は純粋な信仰と行政能力に長けていると考えられたからである。モンテ・カッシーノの修道院出身で1086年選出されたヴィクトル3世はローマ出身ではなかったことから、ローマ市民の反発を受けてモンテ・カッシーノで没するが、その後継者としてフランス人司教枢機卿がウルバヌス2世(1088~1099)として教皇に選出された。これがニコラウス2世の定めた規定による最初の教皇選挙であったようである。ウルバヌス2世の治世は第1回十字軍の派遣によって知られているが、彼自身は十字軍のエルサレム占領の2週間前に没している。ローマで教皇選挙が行われ、パスカリス2世(1099~1118)が教皇となった。この教皇はローマ市民の反対に遭い、19年間の長い治世の終わりの数日前までローマの外にいた。

パスカリス2世の後継者ゲラシウス2世(1118~1119)の選挙も1059年の勅令通りに行われた。49人の枢機卿、ローマの聖職者、有力市民が一致して助祭枢機卿であった彼を選挙した。しかし、ローマ市では反対派の勢力が強かったので、選挙はラテラノ大聖堂ではなく、ある修道院で行われ、聖別式はナポリ近くのガエタで行われた。その後ゲラシウスはローマに戻ることができず、フランスに亡命し、1119年クリュニーで没した。

4人の司教枢機卿がゲラシウスとともにフランスに亡命しており、彼の意向を受けて現地で選挙を行い、カリストゥス2世(1124~1130)を選び、ローマの枢機卿たちの同意を得るために手紙が直ちに送られた。カリストゥス2世自身は自分の選挙の合法性について確信しており、ヴィエンヌ大聖堂での即位式の準備に直ちに取りかかった。14ヶ月たたないうちに、彼はローマに入り、ローマ出身でなかったにもかかわらず、熱烈に群衆から歓迎された。本来改革派であったが、グレゴリウス7世の遺産である帝国との敵対関係のしこりをもたず、皇帝ハインリッヒ5世(1106~1125)とヴォルムス協約(1122年)を結び、没する2年前までに教皇側に有利に叙任論争にけりをつけることができた。しかし、教皇選挙が規則に従って粛々と行われるという希望は砕かれ、ローマにおけるノルマン王国支持派貴族と、皇帝支持派貴族の党派対立が始まった。

 

枢機卿団による「閉ざされた部屋での選挙」(コンクラーヴェ)の始まり
しかしこの間、教皇選挙一般に今日に至る重要な仕組みが形成された。一つは、ローマの枢機卿たちはいわゆる枢機卿団意識を持ち始めた。「枢機卿団」という言葉は1148年に初めて使われた。枢機卿団は7人の司教枢機卿、ローマの主要な教会の数の28人の司祭枢機卿、18人の助祭枢機卿から成り立っていた。続く時代に枢機卿の数は減少し、20人以下になった。ローマ以外の司教が枢機卿に任命されるようになったが、司祭枢機卿と助祭枢機卿はローマの聖職者の独占物となった。さらに、教皇制は君主制の様相をますます呈し始め、その権威が増大していった。それとともに、教皇庁の官僚機構が整備され、枢機卿たちは教皇の顧問となり、法的問題に関与し、教皇勅令に名を連ねるようになった。一時期、「ローマ教会の元老院」が使われたが、後世まで続く名称は「クリア」である。1200年までに教皇が枢機卿を招集して行う枢機卿会議(コンシストリウム)が始まり、数人の教皇の下ではそれが毎日行われた。

具体的には教皇グレゴリウス9世(1227~1241)と皇帝フリードリッヒ2世(1215~1250)の争いが発端である。1240年までに二人の間に軍事衝突が頻発し、皇帝軍はローマを封鎖した。グレゴリウス9世は皇帝を弾劾するためにローマに教会会議を招集したが、皇帝軍はローマに来る枢機卿や司教を捕縛。グレゴリウス9世が没したときには12人の枢機卿しかおらず、うち2人は捕縛されていた。おきまりの親皇帝派と反皇帝派の争いが起こり、どちらの側も3分の2を獲得することができず、会議は夏の終わりの暑さの中で続いていた。ローマの政府の長官オルシーニは枢機卿たちを設備の充分でない建物に枢機卿たちと彼らの従者と共に閉じ込め、枢機卿が病気になっても医者が入ることを禁じた。一人の枢機卿が死亡し、ローマ市民が、亡くなった教皇の遺骸を暴くと脅かした結果、枢機卿たちは最初の投票で多数を獲得した人物を教皇にすることに合意し、ケレスティヌス4世(1241)が教皇となった。このときの選挙が「コンクラーヴェ」と呼ばれるものの最初であった。「コンクラーヴェ」(conclave)の語源は「クム cum +クラーヴェ clave=鍵とともに、鍵によって」である。このように「閉ざされた部屋」で選挙をすることが慣習となるのは30年後のことである。以後の教皇選挙はコンクラーヴェで行われ、今日まで教皇選挙の歴史はコンクラーヴェの歴史だということになる。

しかし、中世末の教会分裂の時代をもたらしたものはこのコンクラーヴェが機能しなかったことによる。1270年、クレメンス4世の後継者選びのコンクラーヴェはヴィテルボの宮殿で行われたが、紛糾し、長引き、ヴィテルボ市民は最後には聖霊が自由に働くためにと屋根を取り払ってしまった。もちろん、枢機卿たちはヴィテルボ市に聖務停止を執行すると脅し、仮の屋根がつくられたのだが、教皇選挙で聖霊が働くという考え方はこのとき初めて現れた。ヴィテルボ市民の行動の裏にはアンジュウ公とフィリップ3世がいたと見られていたが、フランシスコ会総長ボナヴェントゥラが、コンクラーヴェが早く結論を出すことを求め、シリアの十字軍で教皇使節であったテオバルド・ヴィスコンティを選ぶように勧告し、彼がグレゴリウス10世(1271~1276)として教皇に即位するまで、前任者が没してから40ヶ月もかかっていた。

 

グレゴリウス10世の定めた手続き
グレゴリウス10世は即位後、1274年のリヨン公会議で勅書『ウビ・ペリクルム』を発布してコンクラーヴェの手続きを定め、教皇没後10日後に行われなければならず、開催地は教皇が没した都市、その都市が聖務停止の罰を受けているならば近い都市で行われなければならないことを定め、該当の都市の行政官は選挙が適切に行われるように配慮しなければならないこと、コンクラーヴェのために隔離される枢機卿は、一人の召使い、必要な場合二人しか許されないこと、全員がカーテンで仕切られた一つの部屋で睡眠しなければならないこと、コンクラーヴェにはいった瞬間から互いに連絡してはならないこと、さらに食事についての細かい規定を定め、5日目以降パンと水と少量のブドウ酒に限られるように定められた。コンクラーヴェの間中、枢機卿たちは教会を守るため以外の仕事を一切禁じられた。枢機卿たちはコンクラーヴェの間収入を引き出すことが禁じられた。多少の変更があったものの、教皇選挙は1274年の形を維持することとなった。グレゴリウス10世没後のコンクラーヴェでインノケンティウス5世(1276)が選ばれ、このときの選挙は模範的とされたが、これはむしろ例外であった。選挙のたびにフランス王や強力なローマ貴族の利害が衝突して選挙が長引き混迷することが多かった。

そのなかでも、ボニファティウス8世(1294~1303)は、教皇の力と富と威信を享受した人物であった。その即位の直後からボニファティウスの選挙は無効だとする主張が広まった。フランス王フィリップ4世(1285~1314)がイングランドとの領土争いで戦費が必要になり、フランスの聖職者に税金を課したとき、ボニファティウス8世は教会会議を開いて教皇の許可なくして聖職者に課税できないと宣言させた。1301年フィリップは一人の司教を反逆罪で投獄したとき、ボニファティウスは教皇の権威が現世の君主のものを超えると宣言する勅書『ウナム・サンクトゥム』を発布した。

 

アヴィニョン教皇時代から西方教会大分裂へ
ボニファティウスの後継者、ベネディクトゥス11世(1303~1304)が早く没したのちのコンクラーヴェは一年も続き、枢機卿の中で候補者を絞れず、フィリップ4世が承認したボルドー大司教ベルトラン・デ・ゴットが選ばれ、彼はリヨンでクレメンス5世(1305~1314)として即位した。クレメンスはローマ居住の義務をなかなか果たさず、1309年にようやくローマに向かったが、病を得てアヴィニョンに留まることになった。こうしてアヴィニョン教皇の時代が始まる。

その70年間のあいだ136名の枢機卿のうち112名がフランス人であった。アヴィニョンはプロヴァンスにあったのでフィリップ4世の領土ではなく、教皇の臣下ナポリのシャルル王のものであり、1229年以来教皇に寄進されたヴェネサンに隣接していた。クレメンス5世が同地で没したとき、コンクラーヴェが初めてイタリア以外の場所で行われた。以後、度重なるローマ市の要請にもかかわらず、ローマの群衆による暴動を枢機卿たちは恐れ、コンクラーヴェはアヴィニョンで行われた。

これまで122年間、教皇の61パーセントはローマ以外の都市であったが、アヴィニョン時代の教皇がローマ司教でありながら、帰還の意図をまったく示さないことは教会にとってスキャンダルであった。グレゴリウス11世(1370~1378)はシエナのカタリナの言葉に動かされてローマに帰還したが、健康を害して没した。彼の遺言によって教皇選挙は党派的衝突を避けるためにローマの外で、しかも度々場所を移動してもいいとの指示によって行われた。しかしコンクラーヴェはローマ出身の教皇の選挙を要求する群衆の叫び声の喧噪の中バチカンで行われた。枢機卿たちは妥協策としてバリのイタリア人大司教バルトレメオ・プリニャーノを選び、彼はウルバヌス6世(1378~1389)と称した。ローマ出身者でない人物が選ばれたと聞いた群衆は暴徒化し、枢機卿たちの宮殿、特に新教皇の宮殿を略奪した。しかし枢機卿たちが彼の指示を拒絶したとき、ローマ市民は彼の支持にまわった。ウルバヌス6世は激しい気性で、2ヶ月以内に12人の枢機卿がローマを逃げ出し、残ったのは4名だけになった。その後、3人も逃げ出し、1378年8月2日、枢機卿たちは選挙の無効と教皇座の空位を宣言し、ウルバヌスに対して教皇の称号を用いないように要求した。彼らはフォンディで選挙を行ったが、3人のイタリア人枢機卿はフランス人枢機卿の策略にはまって欠席し、ジュネーヴ大司教枢機卿がフランス人枢機卿によって選ばれ、クレメンス7世(対立教皇 1378~1394)と称した。

ウルバヌスとクレメンスは互いに相手とそれぞれの側の枢機卿を破門し会い、クレメンスは自分の枢機卿を新たにに任命した。ウルバヌスはローマ市民の支持を得て、教皇座を明け渡す意志を示さなかったので、クレメンスはアヴィニョンに教皇座を占めた。両方の側に正統性の根拠があった。二人の没後、両方の側の枢機卿はそれぞれの教皇を選出した。こうして以後、西方教会における教会大分裂の時代が続く。

 

改革公会議の時代
この大分裂が収拾されるのはコンスタンツ公会議においてである。それまですでにローマの教皇を正統な教皇のリストにあげる伝統が確立していた。コンスタンツの都市の商人たちの倉庫でコンクラーヴェが開かれ、説教、「ヴェニ・クレアトール・スピリトゥス」(創造主である聖霊来てください)が歌われた後、これまでで最大数の50人による選挙が行われ、有力なローマの貴族の家柄で、教皇を出してきたコロンナ家のオドンネが選ばれ、マルティヌス5世(1417~1431)と名乗った。ローマ市は荒廃していたが、以後、教皇はローマに居住することになり、自分からはけっしてローマ市以外に居を構えることがなくなった。マルティヌスに始まり、20世紀後半にヨハネ・パウロ2世が登場するまで、教皇はイタリア人でなければならないとする強力な伝統も生まれた。

コンスタンツ公会議は、公会議によって教皇の権力を拘束しようとした公会議至上主義によって知られている。マルティヌスの跡を継いだのはエウゲヌス4世(1431~1447)であった。彼はコンスタンツ公会議の間、公会議至上主義の枢機卿たちのリーダーだったが、教皇に選ばれるやいなやその立場を変え、公会議の敵となった。彼はバーセルに招集された公会議をフィレンツェに移すように提案したが、バーセルに残った参加者たちが彼を廃位し、サヴォイの前の公爵をフェリクス5世(対立教皇)として選出した。エウゲヌス4世の功績はバーゼル公会議に対抗してカトリック君主たちを味方につけるために、枢機卿団をスペイン人4人、フランス人2人、イングランド、ドイツ、ハンガリー、ポーランド、ポルトガルそれぞれ1名というように初めて国際化したことである。

エウゲヌス4世の死後ニコラウス5世(1447~1455)が教皇になった。対立教皇フェリクス5世は枢機卿に任命されたのち没し、それによって対立教皇は消滅した。ニコラウスの死後、15人の枢機卿がバチカンにコンクラーヴェのために集まり、以後6回を除いて現在までバチカンがコンクラーヴェの場所になった。この時以来、コンクラーヴェの規則や設備は実質的には変わっていない。枢機卿が連れてくることを許される随員がはっきりと定義され、他の枢機卿と話すことが許されていない枢機卿のために他の枢機卿の随員を通して接触する、秘書というよりも助言者的人物とはっきりこの時規定された。

 

ルネサンス時代から現在へ
しかし、教皇をめぐる駆け引きや混迷が終わったわけではない。ニコラウス5世の死後の選出は長引き、77歳のスペイン人アルフォンソ・ボルハが暫定的に枢機卿たちの合意で教皇となり、カリストゥス3世(1455~1458)と称した。彼の死によってコンクラーヴェが行われ、カリストゥスによって任命された人文主義者アエネアス・シルヴィウス・ピッコリミニが教皇となってピウス2世(1458~1464)となった。

彼が教皇の座に着いたことはコンクラーヴェがルネサンス時代に入ったことを意味する。以後の教皇選挙には、イタリア貴族家間の教皇座の奪い合い、オスマン・トルコの脅威、ドイツ、オーストリア、スペインにまたがるハプスブルク家の神聖ローマ帝国とフランス王国の外交的あるいは軍事的圧力が、宗教改革とバロック時代を通じて加わった。

啓蒙主義から19世紀にかけては、コンクラーヴェに集まった枢機卿にはそれぞれの出身国、特にフランスとオーストリア政府の意向が反映し、調停がつかなかった時にはコンクラーヴェは長期に渡った。コンクラーヴェが今日のように公明正大に新教皇を選挙できるようになるのは19世紀末から20世紀になってである。ちなみに、新教皇が選出されたかどうかを告げるための黒い煙、白い煙の習慣は1294年頃始まったが、明確化したのは1823年のレオ12世(1823~1829)選出の時以来の比較的に新しい習慣である。

 

現在
ピウス10世以後、教皇選挙の手続きは厳格に規定された。パウロ6世はコンクラーヴェに参加する枢機卿の年齢を80歳以下とし、ヨハネ・パウロ2世は1996年の使徒座憲章によって教皇選挙手続きを詳細に規定した。従来慣習の抜本的な変更として、投票数の3分の2の秘密投票によって新教皇を決定することが明記された。さらにコンクラーヴェの内部の事柄について厳重な秘密厳守を、違反したときは破門の罰に処すると命じた。これによって教皇選挙はスピードアップされることになった。ヨハネ・パウロ2世は、盗聴が行われることを警戒し、念入りに探索するように命じたほどである。21世紀になっての最初のコンクラーヴェはヨハネ・パウロ2世の改革をもとに、かつ同教皇の終焉が予想されていたため、新教皇選挙も準備ができており、ベネディクト16世も早々に選ばれたのである。

(高柳俊一/英文学者)

※教皇選挙の歴史については、『新カトリック大事典』(研究社刊)第2巻の項目「教皇選挙」も参照のこと。


ミサはなかなか面白い 54 「いま聖霊によってこの供えものを……」

「いま聖霊によってこの供えものを……」

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答五郎 こんにちは。前回は、ようやくという感じで、第2奉献文に入り始めたね。そのほんの最初の、「父よ」にかかわる表現だけでもいろいろ見どころがあっただろう。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。聞き流してしまうような句にも、神とはどういう方なのかについて考えさせるいろいろなことが含まれていました。

 

 

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答五郎 きょうは、早速というか、ようやくというか、続きを見よう。「いま聖霊によってこの供えものをとうといものにしてください。わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」。何か気になることはあるかな。

 

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問次郎 「とうといものにしてください」は、前の「まことにとうとく」と同じようなことでしょうか。
「とうとい」というのはつまり「聖なる」ということだと……。

 

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答五郎 そう理解していいね。ここの前半の祈りはラテン語の原文だと、さらに面白いので見ることにしよう。“Haec ergo dona, quaesumus, Spiritus tui rore sanctifica”となる。
「とうといものにしてください」と訳されている「サンクティフィカ」は、「聖なるものとしてください」「聖としてください」「聖化してください」とでも訳せる動詞だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「いま聖霊によって」という「いま」が重要だと感じていたのですが、それはありますか。

 

 

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答五郎 実は「いま」を意味する直接の単語はここにはないのだよ。あるのは「エルゴ ergo」という接続詞でね。「それゆえに」「したがって」という意味だよ。

 

女の子_うきわ

美沙 なるほど、神はまことに聖なる方で、すべての聖性の源である方だから、それゆえに、この供えものを聖なるものにしてくださいという、関連が示されているのですね。

 

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答五郎 ただ、日本語で「それゆえに」とか入れると、論述ではいいのだけれど、式文ではふさわしくないと思われたのかもしれないね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 ところで、気になったのですが、原文に「霊」はあっても「聖霊」とは言われていませんね。

 

 

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答五郎 たしかに「聖霊」でなく、「あなたの霊」となっている。結局は聖霊のことだから「聖霊によって」としていると思う。ところで、日本語に訳されていない単語(rore)があって、直訳すると、「あなたの霊のしずくによって聖なるものとしてください」と言われているのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 「しずく」ですか! 美しいですね。それに前の句の「聖性の源」が「聖性の泉」とも訳せる単語だったことを思い出します。

 

 

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問次郎 泉としずく。水つながりか!

 

 

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答五郎 実はこの「しずく」にはもっとほかにも深い意味が隠されているのだけれど、それについては、このAMORの特集9「聖霊」の中に「聖霊のしずく」という記事があるので参照してほしい。ともかく「まことにとうとく」から始まり、「とうといものにしてください」まで、「聖なる」ということがテーマだということは確かめておこう。

 

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問次郎 つまりは聖体に関係するわけですね。次が「わたしたちのために主イエス・キリストの御からだと御血になりますように」ですから。

 

 

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答五郎 そうだね。ちなみに、このように聖霊の働きを求める祈りを「エピクレーシス」という。ギリシア語で、上に向かって叫ぶ、祈るというところから来ている典礼学の用語だ。まあ、覚えなくていいのだけれど、奉献文の伝統的な要素の一つなのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 さきほど、原文には「いま」という単語はないといわれましたが、結局、聖性の源である神から
の霊が、いまここで働くように祈るという趣旨からすると、「いま」というのも、とても大事な意味合いを表現しているのではないでしょうか。

 

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答五郎 ほう。日本語の式文を作った先輩たちが泣いて喜びそうだ。たしかに働きを願う以上、いま、ここでの働きだからね。これも、ちなみになのだけれど、ここは「聖別」のためにエピクレーシスともいう。「聖別」ってわかるかな。

 

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問次郎 いままさにいわれた「とうとういものにしてください」、つまり「聖なるものにしてください」「聖体にしてください」ということですよね。

 

 

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答五郎 ズバリそうだよ。「聖別」 というと、日本語として硬いし、「別」って何とも言われそうだけれど、要するに「聖なるものとする」「神のものとする」という意味だと覚えておけばよい。ラテン語ではコンセクラチオだ。いろいろな文脈で使われる単語だけけど、奉献文の中では、たしかに「聖体にする」という意味で、パンとぶどう酒が聖体になるのには、聖霊の働きが必要だという考えが示されているところでもあるのだよ。

 

女の子_うきわ

美沙 第3奉献文も、比べて見ているのですが、ここですね。「あなたにささげるこの供えものを、聖霊によってとうといものとしてください。御子わたしたちの主イエス・キリストの御からだと御血になりますように。」

 

252164

 

問次郎 「御からだと御血になりますように」というところで、司祭が十字架のしるしをしていて、重々しく、大切なところなのだという気持ちが高められますね。

 

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答五郎 そして、次にいわゆる聖体の制定と呼ばれる叙述に入っていくから、だんだんと重々しさが加わっていく。そういう祈りの情調の深まりを感じることも大事だね。次回はその制定の叙述を見てみよう。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)