松橋輝子(東京藝術大学音楽学部教育研究助手、桜美林大学非常勤講師)
死者のためにささげられる音楽として真っ先に浮かぶ聖歌に「いつくしみ深き」があります。この聖歌は、日本の教会で行われる結婚式や葬式で頻繁に演奏され、広く日本人に親しまれています。
日本においての来歴は、プロテスタント教会の宣教師が日本にこの聖歌を持ち込んだことに始まりますが、日本独自の歌詞が幾通りかつけられています。1910年(明治43年)に文部省唱歌となった「星の界(よ)」(杉谷代水作詞)や、「星の世界」(川路柳虹作詞)、「秋に寄せて」(山崎紀一郎作詞)などがあり、中には小学校や中学校の教科書に掲載されていたものもあります。最近では、朝ドラ「エール」で歌われたことでも話題になりました。
前述のとおり、この聖歌の日本における起源はプロテスタント賛美歌集にあるため、カトリック聖歌集に収録されたのは『カトリック聖歌集』(1966年)以降です。『カトリック聖歌集』においては、「キリスト教会用「さんびか」からの聖歌」の項目に含まれています。
この聖歌はお葬式のイメージが強いかもしれませんが、原曲の歌詞はむしろイエスへの深い信頼と愛が表現されています。作詞者のジョセフ・スクライヴェン (1819~1886)は、自身の婚約者を失った悲しみの中、それでも闘病中の母親を励ますために、この詩を母に送りました。後にチャールズ・コンヴァース(1832~1918)がこの詩に出会い付曲したことで、現在の形で知られるようになりました。
What a Friend we have in Jesus, Have we trials and temptations? |
イエスという友は 私たちは試練や誘惑に惑わされるのか。 |
絶望の中にあった作者が、イエスへの深い愛と信頼を込めて、祈りをささげる様子が目に浮かびます。ここで改めて日本語訳された歌詞を見ると、原曲に基づく訳詩が与えられていることがわかります。
いつくしみふかき ともなるイエスは
つみ とが うれいを とりさりたもう
こころのなげきを つつまず のべて
などかは おろさぬ おえる おもにを
いつくしみふかき ともなるイエスは
われらのよわきを しりて あわれむ
なやみ かなしみに しずめるときも
いのりに こたえて なぐさめたまわん
いつくしみふかき ともなるイエスは
かわらぬ あいもて みちびきたもう
よの とも われらを すてさるときも
いのりに こたえて いたわりたまわん
イエスへの信頼と、イエスへの祈りを通して与えられる救いがこれらの詩の主題ですが、これはキリスト教における死への向き合い方を表しているとも考えられます。
「キリスト教においては、死というものが神のみもとに帰り、永遠のいのちにあずかるということから、亡くなった人の魂が永遠に安らかに憩うように祈りをささげることをかねてから教えられてきました。(中略)故人が天国に入るためにはその霊魂があらゆる罪の汚れから清められ、神のみもとで永遠の幸福にあずかることができるように祈ることによって死者を助けるだけでなく、死者がわたしたちのために執り成しをしてくださる」のです。
(カトリック中央協議会「死者の日とは?」より)
死者のためにささげられるミサはその入祭唱(Requiem aeternam dona eis, Domine, Et lux perpetua luceat eis. 主よ、永遠の安息を彼らに与えてください。そして、彼らを永遠の光で照らしてください)に基づいて「レクイエム」と呼ばれ、そうしたミサのためのミサ曲も「レクイエム」と呼ばれます。モーツァルト、フォーレ、ヴェルディによるレクイエムは、三大レクイエムとしてよく知られています。
モーツァルト(1756~1791)の《レクイエム》は、死の淵にあったモーツァルトが最後に取り組んだ作品です。そして未完のまま、この世を去ります。初演は、未完のままモーツァルト自身の追悼ミサで行われました。絶筆となった〈ラクリモーサ(涙の日)〉は、まさに魂が天へと昇る様子を描いているようです。
フランスの作曲家、フォーレ(1845~1924)の《レクイエム》は、天国的な穏やかさと喜びに満ちた作品です。死の恐ろしさが表現されていない点で、当時は批判されるほどでした。死とは恐怖ではなく、永遠の命に結びつく喜びであると考えたフォーレ自身の思いが作品に現れています。
イタリアのオペラ作曲家ヴェルディ(1813~1901)が作曲した《レクイエム》は、実にオペラ的な作品です。ヴェルディが敬愛していた作家アレッサンドロ・マンゾーニ(1785~1873)の追悼のために作曲されました。ドラマティックで深い感動を呼ぶ作品です。
これらの《レクイエム》の中でも特に特徴的な部分として〈ディエス・イレ(怒りの日)〉があります。これは、かつての『ローマ・ミサ典礼書』(1570~1962)で、死者の日の続唱として採用されていた歌です。歌詞には、最後の審判に関する言葉やイメージが多く含まれ、最後の審判の日の恐ろしさが強調されています。第2ヴァチカン公会議以降、これらの歌詞があまりに死への恐怖や不安の側面に偏っているとの見方から、〈ディエス・イレ〉は死者の日の典礼からは外されています。
一方、〈ディエス・イレ〉は、作曲家の腕の見せ場でもありました。モーツァルト、ヴェルディの《レクイエム》においては、炎が燃えている様子が描写されるかのような非常にドラマテッィクな楽章となっています。一方、フォーレの《レクイエム》では省略されています。前述のとおり、フォーレの死へのイメージから、意図的に省略されています。《レクイエム》は、他の多くの宗教作品と同様、作曲家の宗教観、死生観などが反映されています。
▼モーツァルト《レクイエム》より〈ラクリモーサ(涙の日)〉
▼フォーレ《レクイエム》より〈In Paradisum(楽園より)〉
▼ヴェルディ《レクイエム》より〈ディエス・イレ(怒りの日)〉