眞﨑 遥(田園調布雙葉小学校教員)
私は、田園調布雙葉学園で宗教科の授業を教えています。現在、小学校と中学生の授業を担当していますが、皆さんは宗教の授業というと、どのようなものをイメージされるでしょうか。
おそらく宗派や各学校でも、それぞれ異なる内容や雰囲気、カリキュラムで授業をされていることと思います。また同じ学校の中でも、担当教員によって着目点も異なる部分があるかも知れません。
宗教の授業は、公立学校の道徳の授業にとって代えられるものですが、1番大きな特徴は、宗教の授業を通して伝えるメッセージの根底に、神の愛があることだと私は考えています。全ての人にとっての良き知らせ。神が私達一人ひとりを愛している。これは、私が宗教科教員として1番伝えたいことです。
そして、授業で扱うゆるし、愛、使命、性、死など様々なテーマを通して、自分なりに考えて選択し、その人らしく神から与えられたいのちを生きていく力を育てたいと考えています。
宗教の授業をする上で、私が大切にしていることは、主に3つあります。1つは、神の愛を感じられること、また、自分を愛してくれる神によって与えられた自分のいのちを、自分らしく生きていくこと。2つ目は、自分を取り巻く他者、また小さくされた人に目を向けること。そして3つ目は、イエスが教えたこと、全ての人にとっての良き知らせを伝えていくことです。
以下に詳しくご説明していきます。
1)神の愛を感じられること、また、自分を愛してくれる神によって与えられた自分のいのちを自分らしく生きていくこと
「愛を知っている者は、自分の人生において、他者を愛することを選ぶことができる」と聞いたことがあります。授業の中では、なるべく子どもたちに神の愛を感じてほしいと考えます。具体的には、以下の通りです。
小学生に対しては、自分自身が受け入れられているという感覚を大切にしています。子どもたちには、神の温かさが感じられるように、また「神様大好き」という感覚を持ってもらえるように工夫しています。受容的なクラスの雰囲気の中で、心が優しさで温かくなるような絵本を読んだり、子どもを褒めたりし、教員である私自身が子どもの言葉をしっかり聴くことを大切にしています。
中学生に対しては、ありのままの自分自身を見つめ、福音を通して自分を振り返り、自分らしさを深めていけることを大切にしています。福音が自分とどのように結びついているか、また自分自身がそこにどのような考えを持っているかを見つめるための大切な時間です。私自身の体験を話すことによってそれぞれの身近な生活に結びつけ、自分の感想を書く時間をじっくりとっています。自分の体験については、自分の足りなさや苦しみを話すことも多いのですが、宗教の授業という独特の受容的な雰囲気の中で話をすることは、私にとっても大きな気付きや実りの時でもあります。
2)自分を取り巻く他者、また小さくされた人に目を向ける視点
例えば、死について考えることで、自分が置かれている状況を理解し、自分の身近な人との関わりについて見つめることができます。また、ホームレスや貧しい国に暮らしている人々の存在を知り、自分から離れたところにいる、抑圧されて小さくされている人々の存在に目を向けることを心がけています。ほかにも、同じ地球に生きる者として、小さくされた人のために祈ることや寄付活動などを通して、他者と共に生きていく意識を育みたいと考えています。他者との関わりを見つめ、イエスの「憐れに思い」という表現のように、他者に共感し、自分が彼らのために何ができるかを考える時間は、使命についても考える時間にもなります。
3)イエスが教えたこと、全ての人にとっての良き知らせを伝えていくこと
学校教育の中で神について語る時は、子ども達にイエスが伝えたメッセージを伝えたいと考えています。「神が私たち一人ひとりを愛してくださっている」など、イエスの良き知らせは、信者だけではなく、全ての人に与えられているものです。したがって、宗教の授業は信者を量産することを目的とした教育ではありません。
もちろん、在学中や卒業後に信者としての道を選んだり、考えたりする人もいますが、それは在学中やその後の学び、出会いなどを通して、その人が神との関わりの中で選ぶ道であると考えています。
子どもとの関わりの中で、私が勤めている学校がカトリック学校で良かった、宗教を大切にする学校で良かったと思うことが多くあります。例えば小学校では、学校にとって大切な人が亡くなったときに皆で祈る時間があり、悲しみを共に分かち合うことによって、それぞれ悲しみが癒されるのを感じたことがありました。毎年東日本大震災について学び、苦しみに心を寄せて祈る時間を持っていますが、苦しむ人に共感し、苦しんでおられる方々と祈りを通して繋がる時間も非常にかけがえのない体験になっています。痛ましい事件が起こったあとなどに、傷ついた方のために祈る時間は、自分が何もできない小さな存在であっても、神によって当事者のために悼むことはできるということを思い出させてくれる時間でもあります。
また、子どもたち同士の小さい喧嘩などであっても、毎朝の祈りなどを通して、自分の至らなさに気付かされたり、他者や自分をゆるすことの大切さを思い出させてくれたりもします。
中高では、毎年夏に希望者が集まって、宗教合宿を行っています。分かち合いと祈りを通して、自分が普段考えていることや悩んでいることを皆の前で勇気を出して話したり、それを受け入れてもらったりすることで、私自身も人生を変えられ、神と出会った貴重な体験でした。
また私自身、どんな子どもも神にとっては最高傑作であり、どんな子どもも神様から愛されて生きている、という価値観の中で教育に携われることで、純粋に子どもとの出会いに感謝することができたり、レッテルを張ることがないように気を付けたりすることができるなどの有難さも日々感じています。
競争社会の中では、イエスの教えを吸収して生きることは、時に損をする生き方ともなると考えられます。アウシュビッツで身代わりの死を選んだコルベ神父様のように「友のために命を捨てる」という生き方は、競争社会において、ある意味で損をする生き方でもあることでしょう。
しかし、私は自分のことを優先し、他の人に勝っていくことばかりが、本当の意味での幸せには繋がらないように思えます。東日本大震災が起こった時、人々は「繋がり」を求めました。私自身、本当に苦しい時に助けてくれるものは、お金で買うことができないものであることも実感しています。
例え競争社会にあっても、人が感じる本当の意味での幸せは、競争社会に勝ち抜くことで得られるものでは必ずしもないと感じます。人間誰しも、生きていればそれぞれの苦しみにぶち当たるものですが、そこで生きる意味を模索した時、その答えはきっと自分の得だけを考えた生き方の中にはないように思われます。信者として生きる使命を、必ずしも自分の中に感じていない人にとっても、「互いに愛し合う」という掟をはじめ、イエスのメッセージは、困難にぶち当たった時、私たちに生きる意味を見つける手がかりや、真の幸せに至る道への道しるべとなるように思います。
子どもたちがたとえ信者にならなくても、自分なりに人生の中で、イエスの言葉を吸収して生きることは、社会に一つの生き方や価値観を示し続けることでもあるのではないかと考えています。