「ほんのちょっと」


岡(宮薗)美佳(日本基督教団 大阪南吹田教会長老)

あちこち街を探し回らなくても、ネットショッピングは世界中から自分の欲しいものを手に入れることを可能にしました。一度何かを買えば、次には「おすすめ」が表示され、「同じカテゴリーのその他商品」や「この商品を見た人はこんな商品も見ています」などと、自分の買ったものと似たものが表示され続けます。自分が欲しいと思う前に、次に必要になりそうなものを提案してくれる機能は大変便利です。

しかし、世界中から納得がいくまで自分のお気に入りを探し、手に入れ、「自分の好きなもの」「楽しめるもの」「心地よいと感じられるもの」に囲まれているはずなのに、どこか閉塞感や停滞感を感じている自分に気づくことがあります。インターネットの空間は世界中に開かれているはずなのに、気がつくと、小さな画面に向かう「今」「ここ」、そして「自分の好み」「自分の感覚」の見えない檻に閉じ込められてしまっているのです。

たまには、ちょっと画面から目を上げて、時間的にも空間的にも、「今」「ここ」の範囲をもう少し広げてみて、今からほんの100年、150年前という視点で、近代文学が生まれた時代やその作品を眺めてみるのはいかがでしょうか。

夏目漱石

夏目漱石の自伝的作品に『道草』があります。大正4年6月から9月にかけて「東京朝日新聞」「大阪朝日新聞」に連載され、大正4年10月に岩波書店から単行本が刊行されました。漱石は執筆途中の『明暗』を残して大正5年12月に亡くなりますから、晩年の作品と言えるでしょう。

『道草』の中に、作家として出発する直前の漱石と重ね合わせられる主人公、健三が出て来ます。彼は大人の利害に振り回され、生みの親と育ての親の間を行ったり来たりの幼年時代を送りますが、そのような境遇から一念発起し勉学に励みます。勉学の成果が認められ留学し、作品には「遠い所」とありますが、留学から帰って来たところから物語は始まります。彼は駒込の奥に所帯を持ち、大学教師をしています。世間的には、不遇な生い立ちから自分自身の努力で現在の地位を築いた、いわば「立身出世」のお手本のような人物です。

しかし彼の平穏な生活を脅かす暗い影が忍び寄ります。育ての親である島田が彼の成功を知り、何とかその成功にあやかろうと、彼の前に現れるようになったのです。島田は老いてみすぼらしく、わずかな損をしないためには時間をどれだけ浪費しても意に介さない、大変金銭に細かい強慾な人物です。健三は、客間でランプの調子を執拗に気にする島田を目にします。その時ふと、金銭的な損をするのを何よりも恐れて、どれだけ時間が掛かっても何でも自分で直そうとした、子ども時代の記憶にある島田を想起し、島田の行動原理は今も昔と全く変わっていないことに健三は気づきます。その後の箇所を引用します。

「彼は斯うして老いた」

島田の一生を煎じ詰めたやうな一句を目の前に味はつた健三は、自分は果して何うして老ゆるのだらうかと考へた。彼は神といふ言葉が嫌であつた。然し其時の彼の心にはたしかに神といふ言葉が出た。さうして、若し其神が神の眼で自分の一生を通して見たならば、此強慾な老人の一生と大した変りはないかも知れないといふ気が強くした。

(夏目漱石「道草」『漱石全集』第十巻 岩波書店 1994年10月より引用)

強慾でみすぼらしい島田と、現在の地位を努力で築いた「立派な」自分を同一視するに至った健三は弱い人間なのでしょうか。そうではないと思います。ここでは「神」とありますが、島田対自分の二者から離れた、第三者である永遠からの視点にふと気づいたことで、むしろ健三は、島田に象徴される人間の醜悪な面や、不遇に塗り込められた自分の幼年時代を含めた自分の人生と向き合う勇気を得られたのです。

「いま」「ここ」「わたし」と時間軸を異にする永遠からの視点、また、そこから見えるであろう景色に気づくことで人生や世界の見方は変わるのではないでしょうか。

 


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