縄文時代のイキイキ生活 ⑨環状墓壙群と冬至の光~縄文時代のエンブレム~


森 裕行(縄文小説家)

スペインのサグラダ・ファミリアは信仰をもとに建てられた未完成の聖堂で、約150年かけて完成を目指していると言われる。一方、八王子市松木台には、縄文遺跡の環状墓壙(198基の土葬墓が環状に配置があり、その墓壙づくりは縄文時代の最盛期を迎えた縄文中期後葉(4700年前ころ)に始まり、後期初頭(4500年前ごろ)までの約200年間続けられた。両者はそれぞれ違う目的で造られてはいるが、どちらも世代を積み重ね、長い年月をかけていて、深い信仰が背景にあるようだ。

この墓壙群は屈葬が基本の埋葬の集積であり、副葬品も眼を引いたものは大型の深鉢やヒスイの石製垂飾品といったところで、環状集落(ムラ)の歴代の家長達の墓壙のようだ。しかし、文字の無い時代に約200年といった長期にわたり、墓壙群が済々と象徴的な円環状に造成され、しかも、4つの異なる血縁グループで分けられるようで何らかの深い信仰に基づいたルールで形成されているようである。

この遺跡は東京都埋蔵文化財センターによって1978年~1997年に発掘が行われ、1999年には報告書が完成され、その分析も精緻になされている。ただ、環状墓壙群がどのような信仰でどのように造られたかは謎の部分も依然と多い。そこで、私は次の仮定から、冬至など二至二分を強く意識し、ムラを構成する4つの集団(出自を異にする)がムラのアイデンティティを確かめつつ、構築した遺構ではないかと推定した。なお、ムラを構成する集団が単一ではなく複数の出自を異にする集団ではないかという説は、これまでの考古学の研究成果から導かれている。

 

1.魂(愛そのもので死んで身体から離れる生命体と想定)の存在を明確に信じていた。

弥生時代以降と異なり、甲信・南西関東の縄文中期のムラは環状を形成し中央には広場があり、さらに中心部には墓壙群がある構造となっていた。これは死者と生者がひとつのムラの中に共存する形で、オカルトではなく健全な魂観が存在し、広場で祭りには生者と死者が交歓するような宴があったと考える。

 

2.107遺跡はランドスケープ(景観考古学)を意識した遺跡ではないか。

当時の宗教は土器等の図像による研究などもあり、地母神信仰ではないかという説も有力である。筆者はさらに、縄文中期後葉から後晩期にかけてはストーンサークルなどの盛行もあり、環状集落もその観点から再検討する必要があると考えた。関東西南部近辺では、直径50mを測るとされている都留市の未完成の牛石遺跡のストーンサークルがあり、中期末の遺跡と考えられているが、この107遺跡多摩ニュータウン№107遺跡、以降数字のみ記す)近くにも、町田市の田端遺跡(107遺跡から4.2km)があり小さいながらもストーンサークルがある。

田端遺跡は中期のときは一般的な集落であったが、後期(加曾利B1式期)になって、この場所が丹沢最高峰、蛭ケ岳山頂に冬至の太陽が沈む位置にあることが意識され、周辺に居住する集団の共同墓地とすることで大規模に造成されたようだ。さらに、加曾利B2式期の終わり頃には、集団墓地の上にストーンサークル(環状積石遺構)が構築され、冬至の日には各地から集いあって祖霊祭が行われ、晩期中頃まで続いた。

ころで、この107遺跡には縄文中期の拠点集落72遺跡や446遺跡がごく近くにあり、このあたりの冬至日没の景観も蛭ケ岳山頂に正確に太陽が沈まないが、富士山と蛭ケ岳の中央付近の凹地に太陽が沈み、荘厳な景観となる。

また、時代が下るが、大栗川周辺では後期初頭以降は住居跡が激減し晩期の住居跡は見つからないものの、土器等の晩期の遺物は調査で連綿と見つかっており、田端環状積石遺構の祭りの担い手として大栗川周辺の縄文人も浮かび上がっている。

 

 

3.八ヶ岳西南麓 富士見町・居平遺跡は冬至を意識したムラだが、同時期の107遺跡も同じではないか。

関東西南部は甲信地方と同じ文化圏に属し、縄文中期後葉でも背面人体文土偶なども共通している。富士見町居平遺跡は冬至の日の出の太陽が東側の門に差し込むようにできていて、冬至に重きをおいた集落だったが、107遺跡も環状集落で中央土壙群を持ち共通点も多い。

以上の仮定から、環状墓壙群の形成は冬至と関わっているのではないかと考えた。二至二分を地図上で簡易的に考察する方法があった。それは小林達雄氏が指摘された方法である。

ある地点の二至二分の日の入、日の出の位置は上図のように見つけることができるのである。私はシミュレーションソフトの杉本智彦氏のカシミール3Dなどで分析をしていたので、眼を開かれる思いがした。ところで、縄文時代中期(約5000年前)は地球の歳差運動(約26,000年周期)等が無視できないので天体想定は難しいのではと質問されることがあるが、二至二分は殆ど変わらない。そして上図であれば緯度を中心にを求めればよいことが分かる。こうして、この遺跡ではA=29°を求め二至二分を検討することにした。計算は国立天文台暦計算室のホームページによった。

それでは、環状墓壙の分布図を検討してみる。墓壙がどのような時期に造られたかは、107遺跡の環状墓壙群は198基からなるが、そのうち約四分の一の墓壙では死者の頭部に土器が被せられていて、東京の中期土器編年(1330細別期)により、だいたいの年代幅が分かる。なお、副葬品としては深鉢型土器だけでなく石匙、装身具なども出土している。
また、深鉢型土器を副葬するのは安孫子昭二氏(多摩考古53 2025)によれば、不慮の事故などの特殊な亡くなり方をされた方に対する独特の葬法とされている。

 

 

 

次に最も特徴的な冬至の日の出と日の入りの景観をカシミールで、当時どのようにみえたのかをシミュレーションをしてみた。

現況に関しては、建物等に遮られはっきりしないが、約10m崖下の大栗川沿いの地点では富士山や蛭ケ岳が見えた。

分析の結果、二至二分に関係する線と南北線が引ける場所に墓壙が寄り添って並ぶという現象が明らかになった。これは、例えば冬至の日の出の一条の光と共に墓壙の魂たちが深い絆にむすばれたようにやって来るイメージを彷彿とさせる。このように二至二分を表す線は太陽の光と関係する。また、南北線は当時の北極を表す星(ツバン)から見つけたのであろう。

このようなイメージや想定から、逆に縄文人がどのように墓壙の場所を決めていたか物語を作ってみよう。

環状墓壙群がほぼカタチを表した第5期BC2580年に東群を当時支えていた東群のある家父長が事故で急死した。家族は悲しみに打ちひしがれるが、妻が墓壙の位置を決めるに先立ち、昨年亡くなった南群の家長の墓壙のすぐ横に杖を立て、長男が杖と冬至の日没の地点(蛭ケ岳より少し右のピークが目印)が一直線に見える自群のまだ墓壙のない場所を探す。自分の群と中央墓壙から14m(藤田富士夫氏による縄文尺35cm×40倍)から内側7mの範囲に作るという決まりも大切だ。中央墓壙は曾祖父の時代の村長の墓で、村を構成する4つの出自の異なるグループの結束を図るために特別の宴が開催された。冬至の村長の中央の墓には、その時の儀式につかった石匙(せっぴ、包丁)が大切に副葬された。

こうした方法を「縄文方位造営法」と仮に命名しよう。

 最後に環状墓壙を作ることで、縄文方位造営法はどういう信仰と結びつくのだろうか考えてみよう。平安時代の「竹取物語」には、月の光と共に天空の人がやってきて、かぐや姫が月に戻るという描写があるが、月を太陽に代えてみれば、冬至の日の出と日の入りということになるのだろうか。冬至の光と共に祖先の魂や地母神が去来するというイメージだ。かぐや姫はカグツチ(火の神)との関係が強いという保立道久氏の研究『かぐや姫と王権神話』もあり、冬至の日の入で祖先の魂を送ったり、冬至の日の出で迎え入れたりなど、当時の宗教に従った祭がくり広げたのではないだろうか。二至二分は年に4回あるが、冬至は「冬至十日」と言われるように、ほぼ同じ位置で日の入、日の出が繰り返されるので、そのころに祭儀を開催するのが一番無難だったように思う。夏至は関東では梅雨の時期であるし、春分や秋分は瞬く間に過ぎてしまう。そんな特性もあり、関東では冬至の祭りが一番になったのではないだろうか。さらに冬至は、太陽が一番弱まる死と再生の時期だ。すべてが新しくなる冬至=新年の時に祭を行うのが理にかなっている。日本の正月は縄文時代までさかのぼるのかもしれない、

カグツチ(火の神)と関係が深いかぐや姫の物語のように、光に乗って祖先の魂や地母神が去来するイメージ。それは光と闇の根源的な救済の意味も含んでいる。

さて、縄文方位造営法について107遺跡の遺構図を見ていたら、どうも竪穴住居址などにも同じような傾向があるようだった。これは次回のお楽しみ。


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