英国の登山学校「アウトワード・バウンド・スクール」の思い出2


古谷 章

 

集合時の点呼で

ミニ列車の終点、エスクデール駅から学校はすぐ近くにある。校舎と寄宿舎は池のほとりに建っていた。昔の貴族の別荘を使った石造りの小さな城のような立派な建物だ。

特に「入学式」のような儀式があるわけでなく、校舎の前庭に集まった入学者たちはインストラクターから一人ずつ名前を呼ばれた。私も言いにくそうな発音で「アキィラ・フュルゥヤァ」と呼ばれて、元気よく「イエェス」と答えて手を挙げた。

その時「〇〇〇〇」と何度か呼ばれても返事のない者がいて、最後にひときわ大きな声で「〇〇〇〇 from Northern Ireland!」と呼ばれた途端に集まった生徒たちは一斉に爆笑した。(結局その生徒は入学をキャンセルしたようだった。)

当時の北アイルランドではカトリックとプロテスタントの紛争が続いていて、世界中の耳目を集めていた(先ごろ公開された映画「ベルファスト」は1969年を舞台としておりその時の混乱状況がよく描かれている)。特に1972年にはIRAによるテロ行為が激化し、多くの死傷者を出していたのだが、他の英国の若者にとっては深刻な問題と認識されていなかったのだろうか。

OBSを修了した後、私は北アイルランドのベルファストにも旅行したのだが、街中には銃を持った兵士が大勢いて、辻々には土嚢を積み上げた銃座が築かれ、小銃が人々を睨んでいた。そして至る所で軍による検問が行われて所持品を改められるなど、ものものしい雰囲気だった。にもかかわらず、同じ英国国内でありながら、あの反応は何だったのだろうかと考えてしまった。

 

寮室の既視感

点呼を終えた後、私たちは8、9名ずつに6つの班(patrol)に分けられ、班ごとに担当のインストラクターによって寄宿舎内の寮室に案内された。その寮室に入った途端に既視感におそわれた。初めてのはずなのになぜなのか、と考えたら高校入学時に読んだ池田潔の名著『自由と規律』(岩波新書)に描かれていた英国のパブリック・スクールの寮の雰囲気そのものだったのだ。

私はパブリック・スクールを範とする日本の全寮制の高校をその2年前に卒業したのだが、同書に感動して在学中から憧れていた世界がそこに広がっていたというわけだ。

 

班の仲間たち

寮室内で山行計画を立案中の班の仲間たち

 班の仲間とはすぐに打ち解け、いろいろと助けてもらいながら学校生活をすることになった。彼らの職業は印刷工、少年兵、警察学校生、エンジニア、それに高校生など様々だった。雇い主か学校がスポンサーとなって若い従業員や生徒を入れることが一般的だそうだ。学校の夏休みなど長期の休暇期間には学生・生徒も多いそうだが、この時期には少なかった。

お互いにファーストネームで呼び合うのだが、担当のインストラクターに対しても同様なのには最初は少々たじろいだ。けれどさすがに校長やチーフ・インストラクター、寮母などにはミスターやマダムを冠して呼びかけていた。

6つの班の名前は、戦前にエベレストに挑み「そこに山があるから」の言葉を残したマロリーや、スリングスビーなど有名な英国の登山家や探検家らの名前が冠されていた。彼らの名は英国の誇る英雄として一般的に知られていているようだった。私の属した班の名は『エンデュアランス号漂流記』で知られるシャクルトン(Shackleton)だったが、私の耳にはどうしても「シャコトン」としか聞こえなかった。

 

救急法の授業で見た映画

カリキュラムにはアウトドア活動などの実技だけでなく、読図や救急法などの座学もあり、救急法の授業では最初に映画を見せられた。山で滑落した時や交通事故に遭った時などの場面の後、戦場でケガをした時というシーンが出てきたのには驚いた。戦車の後ろから銃を構えて進んで行く際に敵の砲弾が近くで炸裂して負傷した兵士を安全な場所まで引きずって行って応急処置を施すという、実に生々しいものだった。日本と異なり英国では「軍隊」あるいは「戦争」というものが一般的に身近にあるということを認識させられた。

 

 

スポーツの得意種目

学校内には広くはないが校庭もあり、その片隅に鉄棒があった。私が何気なくそこで逆上がりをしたら、それを見ていた仲間たちの驚きは大変なものだった。ちょうど開催中のミュンヘン・オリンピックで日本の体操選手が大活躍中だったこともあり「さすがにアキラはジムナスティックの国から来た」ということで感心されてしまった。大車輪でもして見せたのならともかく(そんなことは私にはできない)、低い鉄棒で地に足の付く状態からの逆上がりをしただけなので、驚かれた私の方が驚いてしまった。

一周半マイル(800m)の池をも抱える広い敷地の学校ではあったが、山あいの場所なので広い平坦地は確保できず、比較的狭い所でもできるチームでするボールゲームということでバレーボールもカリキュラムに含まれていた(当時の英国ではバレーボールを普及させようとしていたらしい)。ここでも私はバレーボールの「名人」ということになった。私は中学時代にはバレー部にいたこともあるが、日本の若者ならだれでもできる程度のパスをする姿は、ほとんど未経験の彼らからすると驚きの対象だったようだ。しかし、何と言ってもサッカーの国だけあって、彼らが手を使わずにヘディングだけでパス回しをして相手コートに返すのにはこちらが驚いた。

また、中長距離走も映画「炎のランナー」に描かれているように、さすがに英国人と感心させられた。私は中学、高校とも1500m走は5分前後で走り、陸上部員は別として、クラスではトップクラスだったのだが、5マイル(8㎞)のクロスカントリー競技会では辛うじて中位に食い込むのがやっとだった。

毎日朝食前に前述の校地内の池の周りを一周走ることが日課だった。結構アップダウンがあり、最後は冷たい池の水の中に飛び込まなくてはならない。9月ともなれば、この地方の朝はまだ薄暗くて寒い。そんな中でも彼らは平然としていて、私は追い付くのに必死だった。

オリンピックなどの国際競技で好成績を収めるのはその選手個人の力量もさることながら、その国民の間での競技の裾野の広さがトップ選手を支えているということ、そしてその競技は国によって異なるのだということを痛感する出来事だった。


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