ミサはなかなか面白い 61 「主の死を思い、復活をたたえよう」


「主の死を思い、復活をたたえよう」

答五郎 さて、ここの話も、ミサの頂点ともいえる奉献文、そのさらにまた頂点でもある対話句にさしかかったね。「信仰の神秘」をまず考えたが、こんどは会衆の応唱を見ていこう。

 

 

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問次郎 とにかく、このような対話句は画期的ということでしたね。じっさい、応唱のところは皆よく歌いますね。「♪主の死を思~い~、復活をたた~えよう~、主が来られるま~で~」。ぼくも見学しながらいちばん早く覚えました。

 

 

答五郎 「信仰の神秘」はローマ・ミサの奉献文(ローマ典文)の伝統の中にすでに含まれていたのに対して、会衆の応唱のことばは、現在のミサになって新たに加えられたものなのだよ。

 

 

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問次郎 新たに創作されたものというわけですか。

 

 

答五郎 いや、そうではなく、聖書にというか使徒の教えに基づいている。もう一つの文言「主の死を仰ぎ、復活をたたえ、告げ知らせよう、主が来られるまで」も含めて、ここの応唱は、パウロの1コリント書で、主の晩餐のことを伝えていた部分の末尾(11章26節)を基にしているので、読んでみてもらえるかな。美沙さん。

 

女の子_うきわ

美沙 はい。ちょうど、「『わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」のあと
ですね。「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。

 

答五郎 ここの「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせる」というところを、意味としては含まれ
ている内容を広げて、復活、思う(記念する)、たたえると言われているようだよ。

 

 

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問次郎 意味としては含まれている?

 

 

答五郎 パウロが「主の死」と言っていることに注意すると、単にイエスの死と言っているのではなく、復活して父である神の右の座に着き、御父とともにすべてを永遠に支配しておられる方であるということを前提として言っていることになるのだよ。だから死ということには復活ということが含まれていると考えて、典礼文では「復活」をはっきり出しているということだと思う。

 

女の子_うきわ

美沙 そして「告げ知らせる」にも、「思う」「たたえる」が含まれているわけですね。たしかに思い起こさなければ、告げ知らせられませんね。

 

 

答五郎 それと、「告げ知らせる」というと横にいる人たちに伝える告知のような意味で考えるかもしれないけれど、告げることは、神の前ではっきりと宣言する、神を賛美するということも含まれているのだよ。だから、いつも歌うことばの「たたえよう」にも、告げ知らせるという意味が入っているのだね。

 

女の子_うきわ

美沙 「主が来られるまで」という句にミサの本質が示されていると感じていました。ミサとは「主が来られるまで、主の死を記念して、復活をたたえる」ことなのだなと。そのままですけれど。

 

 

答五郎 ところでね。実は調べてみて、ずいぶん驚いたことがあるのだけれど、ラテン語の原文を見てみると、ここの部分は、直訳すれば、「主よ、あなたの死を記念し、あなたの復活をたたえます。あなたが来られるまで」となっているのだよ。

 

 

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問次郎 「主よ」とキリストに呼びかけているわけだ。

 

 

女の子_うきわ

美沙 大きな違いですね! 今の日本語文だと「主の死を思い……」と三人称で主のことを言っているのに対して、ほんとうは、主は二人称で、このことばを告げる相手なのですから。

 

 

答五郎 日本語式文の作成にあたった先輩たちの中にも、現在のような訳にしてよかったかどうかと反省していた人もいるらしい。大きなことだと自分も思うのだよ。「主の死を思い~~」と歌うとき、ずっと遠い存在を追想するようにイメージしていたからね。でも、そうではなかったのだ。

 

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問次郎 ああ! そうか、主は、いま聖体におられる方なのですよね。ということは聖体が主自身なのですよ。今、目の前にいるという方なのですね。

 

 

女の子_うきわ

美沙 その目の前にいらっしゃる主に向かって、「主よ、あなたの」と呼びかけているのですね。

 

 

答五郎 聖体として現にあることを「秘跡的現存」という言い方をする。「主の死を思う」といって、あの一回限りの十字架の出来事は、たしかに歴史的なこととして思い起こしてよいのだが、聖体における主の現存という大切なことを意識できなかった気がする。今までの文言ではね。ここは、次の改訂のときに、見直されることになるようだ。

 

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問次郎 これまでの訳を弁護するわけではないですが、今、ここにいる「主であるあなた」に向かいつつ「あなたが来られるまで」というのが不自然な感じにさせるからではないでしょうか。

 

 

答五郎 う~ん。どうだろう。そこが、秘跡的現存といわれる主の現存の神秘なのだよ。難しいことだけど、大事なことだと思う。もちろん、今の歌の雰囲気が、遠い過去をしみじみと追想し、主の来臨を遠くに待ち望むような感じになっている気もする。

 

女の子_うきわ

美沙 今のお話、聞いていて、驚くと同時に少し感動しています。ほんとうに聖体に主はいる。聖体というからにはもう主なのですね。その主に向かって、こんなに近くから「主よ、あなたの死を記念し、あなたの復活をたたえます。あなたが来られるまで」と言えるのは素晴らしいと思いました。

 

答五郎 もう、ほとんど信者さんの感想だね。聖体拝領前の信仰告白というところで、主に向かっていうことばが日本語の式文にはあるだろう。

 

 

女の子_うきわ

美沙 「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧。あなたをおいてだれのところに行きましょう」ですね。そこも印象深いです。

 

 

答五郎 このことばは日本語ミサ独自の式文なのだよ。そのことはまた後で見るけれど、このことばのもつ、主に対する直接の宣言としてのインパクトは、本来、この奉献文の真ん中にある対話句の応唱にあったといえるのだ。

 

 

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問次郎 奉献文中の直接の信仰宣言というわけか。それは、ミサの印象がだいぶ変わりますね。

 

 

答五郎 次は、これに続く部分を見よう。ここもとても重要なのだよ。

 

 

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問次郎 結局、全部重要なのではないですか! ほんとうにそうなのでしょうね。

(企画・構成 石井祥裕/典礼神学者)


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