エンドレス・えんどう 8


人間の心には、他人に踏み込めぬ領域というものがあります。おそらく、全く秘密のない人というのは、この世にいないでしょう。

もし、ひとりの人間が、自ら歩んできた道を個人の歴史として静かに振り返るならば、そこには想像を越えた、無数の手に支えられて、自分がここまで歩いてきたことに気づくでしょう。そして、その時、自分のいのちは自分だけのものではない、と知るのです。

ずっと忘れていた多くの恵みは、陽光のように密かに降り注がれ、それは今も続いています。そのような恵みと同時に、人間は大なり小なりの秘密を持っており、その秘密を通じてこそ、実は姿のない神はその人とかかわろうとしているのです。

『深い河』第5章は、そんな「秘密」についての話です。登場人物の木口の戦友・塚田は戦地でのおそろしい記憶に苦しみ、戦後の長い年月を経てもなお、懊悩(おうのう)は続き、アルコール依存症になってしまいます。5章の始めにも描かれているように、戦後に生まれた僕の世代は、木口と塚田が戦地で体験した地獄絵図の風景を想像することさえできません。その心の傷の深さを思うならば――戦争に従事した人間にかける言葉を見つけることができません。

僕は友人の祖父Kさんの話を思い出します。Kさんは真面目な公務員でしたが、戦地で耐え難い体験をしたのか、戦後はギャンブル依存症となり、負けた夜は家族に怒鳴り散らし、働く意欲もみせず、妻が働いたお金を取り上げては飲酒や賭け事に使ってしまったそうです。七十歳を過ぎる頃に亡くなりましたが、その数日後、寝ている妻の目に哀しい表情をしたKさんが天井に現れたといいます。

僕の祖父も戦争経験者でした。戦地で心身ともに疲れ果て、戦後は療養の身でした。若い妻と幼い2人の子どもを遺し、病床でいのちを終えました。その夜、祖母は窓外にぼんやりと白い面影を確かに見た、と僕に生前、話してくれました。

この原稿を書く一週間前は終戦記念日でした。先の大戦によって、人生が変わってしまった多くの人々がいました。『深い河』第5章の頁を捲りながら、僕はそっと両手を組み合わせ、心の中で(世を去った人々の想いが天から地へと吹く風となりますように――)とひと時、祈りました。

(服部 剛/詩人)

 


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