森崎東監督夫妻と歩いた原城祉

鵜飼清

いまから30年も前のことになるのだが、親しくさせてもらっていた映画監督・森崎東さんの実家を訪ねたことがある。森崎さんは長崎県の島原出身であり、お母さんの法事のために帰郷されていた。

ぼくはこのとき、堀田善衛の『海鳴りの底から』を読み始めていて、監督と一緒に原城祉を歩きたいと思っていた。島原の乱を素材にしたこの長編小説は、ストーリーの間にプロムナードを配置した特色を持っている。ムソルグスキーの音楽『展覧会の絵』を意識して挿入したというプロムナードには、堀田の1つの視点から考えが述べられる。この形式にも魅力を感じ、堀田が歴史小説で試みた「現代」に対する問題意識の発露を受け止めたいと思った。

幕府軍12万5千人を相手に、一揆軍3万7千人がたたかったという原城祉を歩くと、島原の乱の説明板に出会う。畑仕事をしている農夫は「いまでも畑から人骨が出るんですよ」と話す。島原の乱が、キリスト教弾圧に抵抗する信徒たちの氾濫とみるか、ある種の経済闘争とみるのかは、別れるところである。

森崎さんは『生きてるうちが花なのよ 死んだらそれまでよ党宣言』という映画を作ったばかりだった。原発ジプシーが主人公のこの映画では、原発の怖ろしさが描かれる。科学技術文明の行先が、人力を超えたところにあることを知らされる。

原城祉の土を踏みながら、一揆で死んでいった民たちを想った。遠く天草を眺めやる地蔵に、寛永14、15年(1637、8年)の慟哭を聞くようだった。領主や代官の重税に苦しむ民たちの救いとは、なんだったろうか。今の世は地獄でも、やがて天国へ行ける、そう思っていたのだろうか。

『海鳴りの底から』(『堀田善衛全集7』)の解説「状況の全体へ向けて」で松原新一は「『海鳴りの底から』全体をとおして〈近代〉と〈反近代〉との対立・相剋の問題を、島原の乱という歴史事件を借りて剔抉せんとする堀田氏のモティーフが反映していることは確実である。」とし、谷川雁の「原点が存在する」の一節を引用する。「『段々降りてゆく』よりほかはないのだ。飛躍は主観的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ、根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。初発のエネルギーがある。」森崎映画が発するところと、堀田善衛の試みを感じるとき、この言葉がずしんと腹に落ちた。

原城祉を歩いたあくる日、ぼくは森崎監督と博多へ向かい、千石イエスの「シオンの娘」という店に行った。

(評論家)

 


宇宙をホスピスにしたい

東京の日雇い労働者の街、通称山谷地区に在宅ホスピス対応型集合住宅「きぼうのいえ」があります。2002年10月に設立され、部屋は21室、21床備えられています。ここでは、生活保護を受け、身寄りがなく、行き場のない人が、死を迎えるまでケアされています。なぜドヤ街ともいわれ、路上生活者の多い場所で「きぼうのいえ」を開いたのか。「家庭的なセンスでその人をくるんで、温かくやさしくまどろわせて、ナチュラルに死を迎えてもらう」という理事長で施設長の山本雅基さんにお話を伺いました。

 

 人間らしさを回復するためのキーワードは和解です

きぼうのいえの屋上には、「聖家族礼拝堂」がつくられている。小さな礼拝堂の中に、きぼうのいえで亡くなった方たちの遺影がずらりと並んでいる。礼拝堂で、山本さんは真摯な目を輝かせて話しはじめた。

「ここへ来る人は、みんな最初は虚無主義者です。神も仏もあるものかというね。自分以外はなにも信じないという感じです。なにしろ、路上生活をしていたときは、仲間が死ぬと警察が来て、ブルーシートでくるんで運んでいってしまう。そんな無機質で寂寥感(せきりょうかん)が漂う光景が当たり前の日常だったのですから」

日本の戦後の経済成長を影で支えてきたのが、日雇いの最底辺労働者といわれる人たちだった。地方から出稼ぎで東京に出てきて建設現場で働き、遊びを覚えて仕送りが滞る。そして、故郷へ帰れなくなり、ドヤ街に住み着くようになる。

「山谷にいる人たちのなかには、東京で暮らしていて、家の財産を全部ギャンブルで使ってしまった人もいます。それぞれがさまざまな理由から、行き場を失ってしまった人たちです」

世のなかから置き去りにされてしまった人たち。誰からも相手にされずに、ひっそりと生きている。そして、病気になればただ死を待つしかない。そのような人たちを山本さんは迎える。

「わたしのキーワードは和解なんです。元の人間らしさを回復していくことのキーワードは和解です。その和解がここの緩和ケア病棟です。いわゆる緩和ケア病棟や介護施設ではありません。ここでは愛情のシャワーを浴びせかけています。その人の心にピンとくるような愛情の示し方をしています。そうすると、荒んだ心を持っている人たちが、だんだん変わっていきます。もしかしたら、おれの人生は悲惨なんだと思っていたけれども、最後にここで命を終わらせることができたならば、おれの人生はそんなにひどいものじゃなかったかもしれないというようになっていくのです」

 

子どもの頃から体験していた弱い立場の者に対する共感

社会の隅に追いやられ、弱き者となってしまったような人間たちに、なぜ山本さんは目を向け、手を差し伸べようとするのか。それは山本さんの幼児体験からきているもののようだ。子どもの頃に、ダンボール箱に捨てられていた犬や猫を拾って家に帰ったら、親に怒られてもとの場所に返さなければならなかった体験があった。

「その晩はご飯も食べず、眠れませんでした。そのようなことがたくさんあったし、親は仕事の都合で転勤族でした。学校ではいじめられていました。そのなかから、弱い者の立場とかに共感する気持ちが育ったのかもしれませんね。」

山本雅基さん

大学では西洋哲学を学んでいたが、日航ジャンボジェット機の御巣鷹山墜落事故が人生最大の転機になった。520人の尊い命が奪われたことに衝撃を受ける。テレビに映された遺族の慟哭(どうこく)が、いまも記憶に残る。

「それを見たときに、私の丹田のところにグサッと光りのようなものが射し込んだのです。お前はこのような死者たちと一緒に生きろ、という啓示を感じました。それからある日キリスト教会の看板を見て教会へ行くようになり、教えを受け、これこそ私の基盤となる杭を打つ場所だという信念を持ち、洗礼を受けました」

大学に通いながら、NPO法人のファミリーハウス運動をするようになった。しかし、そこで壁にぶつかり、うつ病になる。改めて、自分がほんとうにやりたいことはなんだろうかと考えはじめた。

「ファミリーハウス運動のときに、子どもの死をたくさん見てきました。子どもの死は悲惨ではあるけれども、まだ泣いてくれる親がいました。しかし、行き場のないホームレスの人はどうなのかと思ったのです。路上で凍死する、餓死する、病死する。誰にも看取ってもらえない人たち。私の心にマザー・テレサの『死を待つ人の家』が浮かんできました」 マザーは来日したときに、山谷を訪れている。そしてそこに日本の心の貧しさがあることを訴えかけていた。山本さんは、自分が東京の住人でもあり、山谷に在宅ホスピス対応型集合住宅を建てる決心をしたのだった。

 


宇宙を聖地にするというミッションに向っていく

戦後になって経済的には豊かになったが、社会的には孤立化していく傾向にある。村落共同体や地域共同体が崩壊していき、孤独な人を結び付けていた絆が切れてしまった。都市型生活者のなかで行き場を失ってしまった最後の絆を結ぶという実験形態のあり方としても、きぼうのいえは存在する。

「山谷には3500人の住所不定、無職の人たちが住んでいます。私たちが現実的にケアできる人たちの数は限界があります。それで6年前に、ヘルパーステーションのハーモニーをつくりました。きぼうのいえの精神を伝え得るようなヘルパーをたくさん養成して、山谷の隅々にまで送り込めるようにしたいからです」

山谷から東京へ、そして日本がホスピスへ、さらには地球がホスピスへと夢は広がる。

「宇宙がホスピスになりました。そういうところで人類全体が神と出会うという究極のところへ行くことができると思います。私たちは、宇宙全体をサンクチュアリ、聖地にするというミッションに向って命を与えられて生きているのだろうと思っています」

礼拝堂には、お経観音も置かれている。夏にはお坊さんが来て、施餓鬼(せがき)供養が行われるという。

「私のバックボーンにキリスト教があったから礼拝堂だけれども、ここは祈りの部屋としています。お坊さんは、十字架に向って、イエスさまのお祈りを知りませんのでお経を詠むことで勘弁してください、南無阿弥陀仏、と手を合わせています。ここの礼拝堂は、魂が天界へ結ばれて上がっていくためのひとつの通路なんだと理解しています。宗教的多様性がここの大事なところです」

人間が生と死の橋を渡るという、最も崇高な局面で働き続ける山本さん。無縁社会といわれる日本のなかでも、最底辺で生きる人たちへ手を差し向ける山本さんの穏やかな表情から、無限の優しさを感じることができた。

(文:鵜飼清、文中敬称略)

 

山本雅基(やまもと・まさき)

東京都墨田区生まれ。1995年、上智大神学部卒。卒業後は長期入院する子どもの家族が病院近くで滞在できる宿泊施設の設立・運営に携わる。人間関係のストレスから、うつ病に倒れたことも。2001年、「ホームレスのためにホスピスを建てたい」と考え看護師の妻とともに活動を開始。

2002年10月、在宅ホスピス対応型集合住宅「きぼうのいえ」を開設。2010年、映画「おとうと」(監督:山田洋次、主演:吉永小百合、笑福亭鶴瓶)に登場するホスピスのモデルとなり、注目を浴びる。2012年、財団法人毎日新聞社会事業団より、第 回毎日社会福祉顕彰が授与。

著書『山谷でホスピスやってます』2010年、『山谷でホスピス始めました』2006年。

 


眼差しの向こうにはいつも「地球家族」がある

人と人が結ばれる絆とはなんだろうか。『こんにちわ地球家族―マザー・テレサと国際養子―』(1985年公開)という映画では「家庭」「家族」という視点からそれを見つめています。映画に込められたメッセージを受け止めようと、監督をされた千葉茂樹さんのお家を訪ねました。

脚本・監督:千葉茂樹、音楽監督:山崎宏、主題曲:石田桃子、ナレーター:樫山文枝、企画:小島好美、製作:市民グループ地球家族の会

千葉監督が「家庭」について考えはじめたのは、1974(昭和49)年にベルギーで開かれた第2回世界宗教者会議にフィルム取材に行ったときだった。

「会議の場所は大学都市のルーベンでした。ここに滞在して いるときにいくつかの国際養子の家庭と出会ったのです。それらの家族との出会いを通じて『家庭』というものの意味を追い求めてきました。なかでも私は南ベルギーのナミュール郊外に住んでいる30代のアンドレ・ボーネッシュ夫妻に関心を持ちました。夫妻は、実子2人に加えて6人の国際養子を抱えていました。私が奥さんのリセットさんに、どうして養子を受け入れたのか聞くと『特別な理由はありません。もし、小さな子どもがお腹をすかして道端で泣いていたら、だれでもその子に声をかけて食べ物を用意するでしょう。私たちが、育てる親のいない子どもたちに声をかけて食べ物を用意するのは、それと同じです』と答えました。その言葉に強い衝撃を受けたのです」

ベルギーにはインドやベトナムなど人種のちがう養子を斡旋する養子センターがある。そのなかの1つ「喜びの種をまく人」というセンターは、フランシスコ会のデ・ローズ神父が1958年に創設したという。

「ベルギーの植民地だったルワンダに内紛が起こり多くの難民が出ました。その渦中で7人の孤児たちをベルギーに受け入れたのが、養子運動を始めた動機だと神父さんは語っていました。最初はアフリカ大陸からの養子が主でしたが、やがて『喜びの種をまく人』はインドや東南アジアなど激動する国々からの孤児たちを受け入れていくようになりました」

千葉監督は、ベルギーで出会った国際養子の家庭を短編映画『愛の養子たち』(1974年公開)に描いた。映画は文部省特選になり反響を呼ぶ。

 

マザー・テレサと国際養子

ボーネッシュさんの一家は、徐々に人数が増えて大家族になった。それまでの過程を追いかけていた千葉監督は『こんにちわ地球家族』という映画をつくったのだった。

千葉茂樹監督

「子どもたちの数が実子を含んで24人になりました。このときに特徴的だったのは2人の障害児が加わったこと、カンボジアから来た5人の兄妹がまとまって一家に迎えられたことです。いままで一家には、インド、ベトナム、韓国、ハイチ、グァテマラ生まれの養子たちが育てられていました。この大家族の実態を撮ることで、『家庭』とはなんなのかを見つめようと思いました。私たちは、親子について考えるとき、血縁に大きな価値を置いてしまいます。しかし、ボーネッシュ夫妻にとって大切なことは、家計や財産を引き継ぐとか、老後の面倒をみてもらうとかの動機は当てはまりません。子どもに幸せな家庭を準備すること、それが最大の動機なのです」

この映画の副題には「マザー・テレサと国際養子」とあるようにマザー・テレサの働きが描かれている。『マザー・テレサとその世界』(1978年公開)という映画もつくった千葉監督は、インドのコルカタにあるシシュ・ババン(子どもの家)を再取材している。

「マザー・テレサは、路上やゴミの中で棄てられていた子どもたちも家庭で大切に育てられるようにと強く望んでいました。家庭は、子どもが愛され、愛することを学ぶ場だと言っています。シシュ・ババンにはシスターたちが連れてくる棄てられた子どもたちであふれていました。マザー・テレサはシシュ・ババンに来るのが一番楽しいって言っていました」

映画には4人の子どもたちがシシュ・ババンからベルギーの家族に迎えられ、育てられているところまでが描かれる。

「マザー・テレサは、国際養子が人と人、国と国の間に愛と理解をつくり出すすばらしく美しい方法だと言います。そして、子どもは愛のある家庭で育つ権利があり、彼らが私たちに愛と平和と喜びをもたらしてくれるのだと言うのです」

 

愛の実践があってこそ「地球家族」の資格がある

千葉監督が映画のタイトルにつけた「地球家族」という言葉の本来の意味はどういうものなのか。

「私が取り上げた素材を通して、国際色豊かな養子家庭のことを想像されるかもしれませんね。私が伝えたいのはそれだけではありません。『地球家族』のほんとうの意味は、地球上の痛みを自らの家庭に反映して、痛みを分かち合う家族のことなのです。世界のどこかで逆境に遭い苦しんでいる兄弟姉妹たちがいれば、彼らのために自分の家族のぜいたくを慎んで、彼らが必要とするものを送るといった愛の実践があってこそ、地球家族と呼ばれる人たちの資格なのです。もちろん、日本国内でのことも同じです。地球家族を考える上でさらに付け加えることは、人間だけで地球家族というのではなく、鳥や魚や木や花なども含めた、生きとし生けるものたちの総和が1つの地球家族です。だから、その家族の一員として生きるためには、人間だけが勝手な振る舞いをすることは許されず、人間としての生活態度が問われるのです」

『こんにちは地球家族』でなく『こんにちわ地球家族』になっているのはなぜだろうか。

「私たちが使ってきたあいさつでは『こんにちは』と書きますね。しかし、私には願いがあって故意的に『こんにちわ』としたのです。『わ』は『輪』で、『愛の輪・友情の輪・平和の輪』といったものに通じる願いを託したかったからです。私たち日本人も、そろそろ新しい『こんにちわ』の時代を切り拓く時代にきているのではないだろうかと思ったからです」

千葉監督はマザー・テレサの「貧しい者は誰か」という言葉を紹介してくれた。「貧しい者」とする21の例が挙げられていて、そのなかには「貧しい者は慰めの無い人である」「貧しい者は助けの無い人である」「貧しい者は望まれない人、社会に見捨てられた人である」などが並ぶ。

「私は、最後に書かれた『貧しい人はともかくも―私達自身である』という言葉を特に重く感じています。いまの時代にあって、『家族力』ということが問われています。そうしたなかで『家庭』という問題を考えるとき、この言葉に立ち返って考えなければいけないなと思います」

千葉監督の眼差しの向こうには、愛の絆としての「地球家族」が、いつまでもテーマとしてあり続けている。

(文:鵜飼清、撮影:中村恵里香)

 

千葉 茂樹(ちば しげき)

1933年福島県福島市に生まれる。1956年に日本大学芸術学部映画学科を卒業。大映東京撮影所で助監督をつとめ、1974年にドキュメンタリー作品『愛の養子たち』で初監督をする。映画監督、脚本家。市民グループ「地球家族の会」代表、日本映画学校校長、日本映画大学特任教授。川崎市のみやまえ映像コンクール審査委員長。

主な映画作品に「愛の養子たち」(近代映画協会、1974年)、『マザーテレサとその世界』(1978年)、『豪日に架ける―愛の鉄道』(1999年)、『シネリテラシー 映画をつくる子供たち ~オーストラリアの挑戦~』(2007年)、『マザーテレサと生きる』(2009年)等多数。

著書に、『こんにちわマザー・テレサ』『こんにちわ地球家族―マザーテレサと国際養子―』『映画で地球を愛したい―マザー・テレサへの誓い 』

 

 


わたしが選んだ日本の戦争映画10

平和を考えるとき、必ず戦争のことへと頭が向かう。人間が人間らしく穏やかに安らいで暮らしていける平和の日常を、戦争は無残にも破壊してしまう。戦争というものがもたらす残酷で凄惨な現実から目をそむけてはなるまい。戦争とはどのようなものか。そこを凝視し続けることこそが、平和をいつまでも持続していこうという力になるのだと思う。

ここに、わたしは10本の映画を選んだ。その映画には、戦争を産む社会背景や軍隊というものの実態が暴かれる。戦争は非戦闘員までをも死に至らしめるという非人道的なものであることを知りたい。

戦争は、人間を狂気にさせる巧みな装置である。

(鵜飼清/評論家)

 

タイトル(公開年) 監督 脚本 原作 出演者
『人間の條件』(1959年、1961年)  小林正樹  松山善三 、小林正樹  五味川純平  仲代達矢、新珠三千代、小林トシ子
『戦争と人間』(1970年~1973年)  山本薩夫  山田信夫  五味川純平  滝沢修、芦田伸介、高橋悦史
『真空地帯』(1952年)  山本薩夫  山形雄策  野間宏  神田隆、加藤嘉、岡田英次
『ビルマの竪琴』(1956年)  市川崑  和田夏十  竹山道雄  三國連太郎 、浜村純、安井昌二
『私は貝になりたい』(1959年)  橋本忍  橋本忍  橋本忍  フランキー堺、新珠三千代、菅野彰雄
『雲ながるる果てに』(1953年)  家城巳代治  八木保太郎、家城巳代治  鶴田浩二、木村功、高原駿雄
『拝啓天皇陛下様』(1963年)  野村芳太郎  野村芳太郎 、多賀祥介  棟田博  渥美清、長門裕之 、左幸子
『あゝ声なき友』(1972年)  今井正  鈴木尚之  有馬頼義  渥美清、森次浩司、北村和夫
『火垂るの墓』(2008年)  日向寺太郎  西岡琢也  野坂昭如  吉武怜朗、畠山彩奈、松坂慶子
『日本のいちばん長い日』(1967年)  岡本喜八  橋本忍  大宅壮一  宮口精二、戸浦六宏、笠智衆

 


戦争と青春 ~高校時代に出会った1冊の本から~

『あゝ同期の桜―かえらざる青春の手記―』(海軍飛行予備学生第十四期会・編 毎日新聞社)

ぼくが入学した高校は全寮制の学校だった。月に1回の外泊が楽しみで、家に帰った時は高田馬場にあるソーブン堂で本を買った。1年生のときに、なぜこの本を手に取ったかは覚えていない。ただ立ち読みしていて、1人の手記に目が留まった。それは早稲田大学の学生であり海軍少尉となった市島保男という人の手記だった。市島さんは学徒出陣で戦場に往き、還らぬ人となった一人である。

昭和16年12月8日の開戦から徐々に日本の戦況は悪化していった。そのため政府は昭和18年9月23日に全国の大学、高等専門学校に在学中の学生の徴兵猶予を停止した。徴兵猶予を停止された全国の学生は、本籍地ごとに分かれて徴兵検査を受け、祖国のためにペンを持つ手に銃剣を持って出陣することになったのである。10月21日、雨の明治神宮外苑競技場で、出陣学徒の壮行会が開かれた。

市島さんは、10月5日の10時半から早稲田大学の戸塚球場で全校生徒が集合し、壮行会が催されたときからのことを記している。

 

「総長は烈々たる辞を吐き、我らも覚悟を強固にす。
なつかしの早稲田の杜よ。
白雲に聳える時計塔よ。いざさらば!
我ら銃を執り、祖国の急に身を殉ぜん。我ら光栄に充てるもの、その名を学生兵。いざ往かん。国の鎮めとなりて。記念碑に行進を起すや、在校生や町の人々が旗をふりながら万歳を絶叫して押し寄せてくる。長い間、心から親しんだ人達だ。……… 思わず胸にこみ上げてくるものがある。図書館の蔦の葉も、感激に震えているようだ。静寂なる図書館よ。汝の姿再び見る日あるやなしや。」

 

旧早稲田大学図書館(現在は會津八一記念博物館)

ぼくの父親の実家が早稲田大学の近くにあり、ぼくは幼いころから早稲田大学の周辺で遊んでいた。大隈さんの銅像からすぐのところに図書館があった。その前はよく通っていたから、市島さんの思いの風景は、直に感じることができた。市島さんは大正11年1月4日生まれだ。ぼくの父親は大正11年5月6日生まれである。同じ年に生まれた2人が、あの頃、早稲田大学の近くで生きている。

市島さんの11月21日の日記。

 

「3年前とほとんど変わっていない。大きな叡智に充ちた瞳が可愛い西洋人形を思わせる。視線が会うといたずらそうな眼をする。……… 僕が北海道へ行く前に、二人きりで息詰まる思いをしたこともある。いま眼前に彼女を見ていると、すべて夢のようだ。彼女は僕にとり永遠の謎であるのか。往けばこの謎もとく機会はあるまいと、彼女の面上に探るような強い視線を投ずると、彼女は面映ゆいようないたずらな眼でこちらをじっと見る。ああ、こんなつまらないことさえ、美しい消し難いおもいでになるに違いない。」

 

2人は多摩川園の駅でお互いが思いを寄せていることを語り合う。

 

「貴い一刻が命を刻み去って行く。無言のまま、彼女が手袋をとった手を差し出した。万感の思いをひきしめ、しっかりとその手を握り、じっと瞳を見つめる。」

 

構内へ電車が入って来た。「さようなら」と互いに口走る。電車に乗った市島さんは「走り出す電車の窓から彼女と先生の姿が階段に消えて行くのが見えた。ああ、視界から彼女の姿は消え去った。現世において相見ることは恐らくないであろう。私は静かに眼を閉じ、彼女の姿を瞼の蔭に浮かべた。彼女はかすかに笑う。さらば愛する人よ。これが人生の姿なのだ。」と綴る。

「神風特別攻撃隊」による体当たり作戦に、第十四期飛行予備学生が参加したのは、昭和20年3月からだった。予備学生たちは、飛行時間わずか100時間前後という未熟な訓練を受けただけだった。そして、九州南端の鹿屋、国分、串良などの基地からかろうじて間に合った特攻隊員として飛び立っていったのである。

市島さんは、神風特別攻撃隊第五昭和隊の谷田部航空隊に配属されていた。

4月25日の日記。

 

「………本日よりキク第四号作戦。本作戦は、沖縄周辺の敵艦船を全滅するにあり。我等は沖縄作戦最後の特攻隊となる算大なり。願わくばかくあらんことを祈る。………金子少尉ら四名、明日は谷田部に帰る予定なり。我等の出撃は明後日ごろの予定ならん。」

 

出撃を待つ市島さんだが、雨が降り続いて竹のベッドが壊れ、廃屋のごとくの兵舎と記す。

4月28日の日記。

 

「空母を含む機動部隊現わる。十二時半整列。お父さん、お母さん、二十五年間誠に有難うございました。待望の機動部隊現われ、佳き日を明日に控えた本日午後零時零分、必死必殺の攻撃をかけます。」

 

そして、両親、ほかの家族、友人の名前を書き、それぞれに一言添えて別れを告げている。

 

そのなかで思いを寄せる道子さんへ「マスコット道連れに、必殺のなぐり込み。梨の花も半分持って行きます。忘れ得ない懐かしき思い出、いろいろ有難うございました。出撃の前の気持ち、静かにして、鏡の如し。思い残すことは何もありません。」

「………
散る桜 残る桜も 散る桜
三時出撃の予定にて日の丸の鉢巻きを締め、チャートにコースを入れ、まさに命を待つのみなりしも、敵機動部隊はわが特攻攻撃を恐れ、早くも攻撃圏外に逃れつつあり。ついに出撃を取止む。」

 

翌4月29日になり、いよいよ出撃を迎える。

 

「………〇六〇三より一〇一五まで空襲。専らB29にて、小型機は最近一向来襲せず。空母を含む敵起動部隊、前日とほぼ同様の位置に来る。神機まさに到来。一挙に之を撃滅し、もって攻勢への点火となさん。一二一五 搭乗員整列。進撃は一三〇〇より一三三〇ごろならん。空は一片の雲を留めず。麦の穂青し。わが最後は四月二十九日、一五三〇より一六三〇の間ならん。」

 

この沖縄方面の作戦は、8月15日の終戦まで続き、約1800機の特攻機が出撃したという。

ぼくは、寮室でこの本を読み進むうちに、市島さんのような青春を犠牲にする戦争があったことに腹が立った。

いまここにいる自分は幸せではないか。市島さんたちの殉死の上にいまの平和があることを、ありがたいことだと肝に銘じている。

(鵜飼清/評論家)

 


ローマ法王になる日まで

「激動の時代」という言葉がよく使われる。人はどの時代に生きても、それが「激動の時代」とは言えまいか、とぼくは考えてきた。日本の戦後社会を豊かさのなかで生きてきたぼくの、それが「激動の時代」いう表現への抵抗でもあった。しかし、この映画を観て、やはり「激動の時代」とはあるのだと思った。それは、息詰まるような現実という局面に対峙した一人の人間が、自らの信じる道を外さないで歩いて行く時代、と言ったらいいだろうか。

©TAODUE SRL 2015

ベルゴリオ(フランシスコ教皇)が信仰のもとに生きたアルゼンチンは、軍事政権による苛酷な時代だった。それは日本の戦時中にも等しい状況に置かれていた。政権に反対する人々は拉致され行方不明になってしまう。

人口の9割がキリスト教徒であり、その大部分がカトリックの信者だというアルゼンチンという国で、教会はどのように政権と立ち向かったのか。ベルゴリオの行動はいかがなものだったのか。

貧者とともにスラムで暮らす神父は「解放の神学」と呼ばれる活動のなかで信仰に生きた。しかし、その神父も拉致され拷問される。イエズス会のアルゼンチン管区長になっていたベルゴリオはその現実と向き合わねばならない。

©TAODUE SRL 2015

映画では軍事政権下で起こる強権発動の恐ろしさがリアルに描かれている。思想の自由などは、兵隊や銃の前ではなんら力になり得ない。トラックで兵隊がやってきたら、もう時は遅しである。

明日という希望があるのか、人々が自由に発言し暮らせる日が果たしてやってくるのだろうか。平和な生活はどこにあるのか。映画の途中で、常に頭をよぎったのがこのことだった。

日本の戦後も、なにやら怪しい気配を感ずる昨今である。『ローマ法王になる日まで』の時代背景を考えながら、昭和のなかで暗い時代を招いた過ちを二度と繰り返してはならないとつくづく思った。

©TAODUE SRL 2015

ベルゴリオが教皇になるまでを観ながら、聖ヨハネ・パウロ二世の『カロル―教皇になった男』と『聖ヨハネ二十三世 平和の教皇』の映画が思い出されてきた。なにかこの3人に共通するリーダーの条件のようなものが感じられる。そのことに考えを導いてくれたのも、この映画からの習得だったように思う。

映画のエンディングで流れるタンゴの旋律を聴きながら、ぼくはフランシスコ教皇の祈りのなかに委ねられていたのだった。

鵜飼清(評論家)

監督:ダニエーレ・ルケッティ 出演:ロドリゴ・デ・ラ・セルナ/セルヒオ・エルナンデス/ムリエル・サンタ・アナ/メルセデス・モラーン 音楽:アルトゥーロ・カルデラス
2015年/イタリア/スペイン語・イタリア語・ドイツ語/113分/カラー
原題:Chiamatemi Francesco – Il Papa della gente 字幕:山田香苗/ダニエル・オロスコ
提供・配給:シンカ/ミモザフィルムズ
後援:駐日バチカン市国ローマ法王庁/在日アルゼンチン共和国大使館/イタリア大使館/イタリア文化会館/セルバンテス文化センター東京 推薦:カトリック中央協議会広報
ホームページ:roma-houou.jp

2017年6月3日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次ロードショー


『笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ』

101歳という数字は、遙かなる数字だ。65歳のぼくには、まずその数字に気が遠くなった。このおばあさんとおじいさんはいったい何者だというのが映画を観る前のぼくの感想だった。

おばあさん、おじいさんと言っても、ぼく自身が前期高齢者に属し、国から介護保険の請求が届くようになっていて、「おまえはおじいさんである」ということを承知せざるを得ないのかと、なにか釈然としない思いにかられていたからでもある。

しかし、笹本恒子さんとむのたけじさんの101歳は、その数値を感じさせない。まず映画のなかで笹本さんとむのさんに出会えたことがうれしかった。こうした映画のすばらしさは、実際の人物と出会えるということだと思う。表情や素振り、語りのなかに、本人の人間味を知ることができる。

笹本恒子さんは、日本初の女性報道写真家であり、時代を彩った人物も撮られている。カメラマンだけではなく、フラワーデザインなどにも関わってきたユニークな人である。

むのたけじさんは、戦前戦後を生き抜いた伝説のジャーナリストである。戦後すぐにふるさとの秋田で週刊新聞「たいまつ」を発行する。常に戦争反対の姿勢を崩さず、平和の尊さを訴え続けた。

この映画のなかでもプロフィールは描かれるが、91分の尺では、2人の人生の長さを捉えることは難しい。パンフレットに書かれた2人の歩みや、著作一覧を参考にして、映画を観たあとでもう一度2人の足跡を辿り直したくなる。

映画とは、その映画を2度3度観ることで、登場する人間を深く鑑賞し味わうことができる。そして批評する眼を持つことで、なお一層1本の映画から学ぶことできると思う。監督のメッセージを受け止めるには、このような観る側の姿勢も求められているだろう。

笹本さんが住む高層のアパートで語る「人生には山あり谷ありだから、ここから飛び降りたくなったこともあるわよ、よくここまで生きてきたわ」という言葉に、正直な笹本さんを知る。

むのさんが入院し、生死をさまよってから発言した「生命について改めて考えてみたい」というような言葉にも触発されることがある。

若い人からはなんだか悟ったような話ばかり聞かされているような気がしてきたぼくは、101歳の2人からは若さをいただくことができた。

人間にとって、数値はあくまでもひとつの尺度にすぎまい。生きるとは、常に生々しくあれということをしっかりと教えてもらった。

鵜飼清(評論家)

6月3日、東京都写真美術館、ヒューマントラストシネマ有楽町ほか全国順次公開

監督・脚本:河邑厚徳(『天のしずく 辰巳芳子“いのちのスープ”』)
出演:笹本恒子、むのたけじ 語り:谷原章介 音楽:加古隆

プロデューサー:平形則安 撮影:中野英世、海老根務 編集:荊尾明子 音楽監督:尾上政幸
製作:ピクチャーズネットワーク株式会社 配給マジックアワー、リュックス
2016年/日本/ドキュメンタリー/カラー/91分/デジタル
© ピクチャーズネットワーク株式会社

公式ホームページ http://www.warau101.com/


雨のち晴れではじまった「遠藤周作文学館」

鵜飼清

ある人の面影を偲びたくて、また訪ねたい場所がある。

それは長崎県の外海町にある遠藤周作文学館なのだが、ある人とは遠藤周作その人ではない。

2000年5月13日に、遠藤周作文学館がオープンした。そのセレモニーに私も出席している。セレモニーがはじまる前にザーッと大雨が降って来て、入り口の前で受付けを待っていた大勢の参列者が、あわてて屋根のあるところへと集まっていった。受付が用意されたら雨はやみ、晴れ間がのぞいてきたように思う。参列者のなかからの「遠藤先生らしいわね」という声が耳に入ったのを覚えている。

聖堂のようなエントランスホールで式典が行われた。ホールは参加者であふれていて、私はホールには入れず、ホールの外で式典を覗いていた。開式の辞や式辞などの声はよく聞き取れなかった。

私がなぜ、遠藤周作文学館の落成式に行ったのか。それは私の岳父・上総英郎が遠藤周作の評論を書いていたからである。私が遠藤周作の小説を意識したのは上総英郎によって書かれた評論からであった。

上総英郎は『沈黙』の評論を「共感と挫折―『沈黙』について」として発表したが、それが遠藤周作の目に留まり、2人の交流がはじまった。以来、上総は遠藤文学の評論家として注目される。

落成式のとき、上総は車椅子の人であった。遠藤周作亡き後、『沈黙』の舞台となった場所に文学館が出来、そのオープニングに参列した上総の思いをいま改めて感じている。

遠藤周作は1996年9月29日に73歳で亡くなった。そのあとで『遠藤周作のすべて』(文藝春秋編)が出された。そこに上総は「遠藤周作の小説について―カトリックとしての活躍」を書いている。その冒頭は「遠藤周作がこの世を去ってから、一年余が過ぎた。いまだに『さよなら』と呟くことができそうもない。それは彼の最後の作品群について、まだ語ることができないことで、自分の目に歴然としているのだが、私の中では、彼の作品群の流れについて、いまなお見落としたことどもがあるような気がしているのだ。」と記されている。

上総英郎も2001年7月21日に70歳で旅立ったが、最後まで遠藤作品について追究の姿勢を崩さなかった。

遠藤周作文学館のテラスから眺める五島灘はことのほか美しい。その美しさと遠藤文学を想像するとき、車椅子で首を傾げていた上総が瞼に焼き付いて残る。あの人と、また会いたい……と思う。

(評論家)


『沈黙』はいまの日本を考えさせる

江戸時代の初期に、民(農民や漁民)たちがどのような生活をしていたのか。この映画はリアルに表現している。民の手は汚れ、爪には土が入っている。泥で凸凹になった道を、井上筑後守が歩く足取りがふらついている。スコセッシ監督は、民の暮らしの有り様を描くことで、生きることの重さを見せる。沈黙_メイキング_Photo Credit Kerry Brown

「将軍より偉い者がいて、人間は平等である」などとは、当時の為政者としては許すべからざる考え方だった。しかし、神を信じるキリシタンたちにとって、それは苛酷な毎日のなかで、唯一の救いだっただろう。いままで支えにしてきた心の拠り所を、突然に棄てろと強制される。信仰を棄てなければ命が危ない。命がけで守り抜かねばならないものとはなにか。わが命に代えてでも守るべきものとはなにか。「生きること」の意味が問われる。

アーノルド・J・トインビーは、キリスト教布教にあたって、最初はキリスト教を直接宣教することが抵抗を生み、次に文明から入ることで静かなる宣教を果たしていったと言うようなことを書いた。『沈黙』は、弱き人間へスポットライトを浴びせることで、苛酷なキリシタン弾圧のなかでの日本におけるキリスト教宣教を考えさせる。「抵抗」とはいかなるものか、そこに宗教性の真髄を読み取らねばならない。

戦後間もなく日本に来たトインビーは、これからの世界のなかで日本に魅力を感じていたそうである。遠藤周作の「母なる神」は戦中・戦後を生きた遠藤が生み出したキリスト教の世界である。踏み絵を踏む足の痛さを、遠藤は描く。それは、井上洋治神父の言う「文化内開花(インカルチュレーション)」にまで繋がるもののように思えてならない。パードレは棄教した。しかし、現代を生きる私がこの生きづらい毎日のなかで、生きることの意味を問い続けるとき、踏み絵を踏んだパードレにこそなにか近しさと深愛を感じてしまうのである。

2017年1月21日(土)全国ロードショー

2017年1月21日(土)全国ロードショー

『沈黙』は、いまの日本を考察するにはもってこいの題材であり、スコセッシ監督が28年がかりで完成させた映画『沈黙』の公開に最大級の賛辞を贈りたいと思う。

(鵜飼清/評論家)

 

原作:遠藤周作「沈黙」(新潮文庫刊)
監督:マーティン・スコセッシ
脚本:ジェイ・コックス  撮影:ロドリゴ・プリエト 美術:ダンテ・フェレッティ 編集:セルマ・スクーンメイカー
出演:アンドリュー・ガーフィールド リーアム・ニーソン アダム・ドライバー 窪塚洋介 浅野忠信 イッセー尾形 塚本晋也 小松菜奈 加瀬亮 笈田ヨシほか
配給:KADOKAWA


一番すてきなクリスマス

町にジングルベルの音楽が鳴りはじめ、夜にはイルミネーションが飾られるころになると、ぼくにとってはいつも思い出すカレンダーがあります。それは燦葉出版社にいたときにつくった『天使トニーの一番すてきなクリスマス』というアドベンントカレンダーです。クリスマスまで、1日、1枚ずつ下ろして物語を読んでいきます。%e3%83%88%e3%83%8b%e3%83%bc%e8%a1%a8%e7%b4%99

天使トニーがかみさまから「一番すてきなクリスマス」をさがしてきなさいと言われて、小高い丘に降りてきたところから物語がはじまります。町の一番にぎやかなところにさがしに行ったものの、トニーは騒がしくて退散してしまいます。そこで、こんどは人々が生活している静かな町の方へ飛び回ることにしました。すると、ひっそりとした児童公園で一人の女の子が手紙をポストに入れるところに出会います。女の子は北の国のサンタさんへ手紙を届けようとしていました。しかし、住所がありません。そこへゆうびんやさんがやってきて、その手紙を受け取って行きました。女の子の手紙には「交通事故でお父さんが天国へ行ったので、去年の家ではなく、こっちの家に来てください」と書かれていました。トニーは、住所もないのにサンタさんへ届けられるのか不思議に思いました。%e3%83%88%e3%83%8b%e3%83%bc1

トニーは町を飛びながら、老人ホームや病院でのクリスマスを知ります。そして、おばあさんがしせつの子ども(いろいろわけがあって自分の家で暮らせない子ども)3人を家に泊まらせてあげて、クリスマスをお祝いしていることも知りました。%e3%83%88%e3%83%8b%e3%83%bc2

女の子へは、ゆうびんやさんがサンタさんになり、自分でチョコレートを買ってクリスマスプレゼントを贈ります。「あったかいこころを、めぐまれない人にプレゼントして、みんなでいっしょによろこぶ、これがすてきなクリスマスだったんだ」と天使トニーは、はっきりとわかりました。天使トニーは「一番すてきなクリスマス」を見つけて、かみさまに報告するために空へとのぼっていきました。

%e3%83%88%e3%83%8b%e3%83%bc3ぼくは、毎年このカレンダーを飾りながら、ほんとうのクリスマスってなんだろうかと思うのです。今年も、そのことを考えながらお祝いしなければと思います。

みなさんも、こころのあたたまるクリスマスをお迎えください。

%e3%83%88%e3%83%8b%e3%83%bc4『天使トニーの一番すてきなクリスマス』燦葉出版社(文・吉田よりこ 絵・楢喜八)〈現在品切れ中です〉

(鵜飼清/評論家)