アート&バイブル 13:聖母子

ピーテル・パウル・ルーベンス『聖母子』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

今回、紹介する絵は、ルーベンス(Peter Paul Rubens, 生没年 1577~1640)の作品です。前回紹介したボッティチェリの「書物の聖母」と同じようなモチーフですが、ルーベンスが描くとボッティチェリの作品とは異なり、あくまでも明るい、そして温かみのある聖母子の絆となります。

ルーベンス(主に活躍したフランドルの言葉[オランダ語]ではリュベンス。ルーベンスはドイツ語読み)が生まれたのはドイツのジーゲンでした。両親はプロテスタントでしたが、カトリックに転会し、やがてルーベンスはカトリックとプロテスタントの両世界に認められる画家となります。また外交官としても働いた人物です。

彼の絵は生命力のある色使いが特徴で、幼子の肌の色は生き生きとしています。また彼は合作も多い画家で、人物をルーベンスが描き、その周りの風景や植物を他の画家が描くなど、現在では思いもよらない形の作品も多いのです。これも彼が社交性に富み、人から好かれる人柄であるがゆえに可能だったことなのです。

 

【鑑賞のポイント】

(1)体温が伝わってくるような幼子の体
幼子は全くの裸で、母の乳房に顔を寄せています。やわらかな幼子の体と母の乳房のやわらかさと温かさが感じられるほどです。幼子は一番、安心できるものに包まれて幸せそうにほほえんでいます。

ピーテル・パウル・ルーベンス『聖母子』(1624年、ベルリン美術館所蔵)

(2)聖書の頁をめくる聖母の手
母の胸に顔をうずめていた幼子が、母の手が何かをしていることにふと気がつきます。聖母の手はパラパラと音が聞こえるような様子で、聖書の頁をめくっています。「聖書のいろいろな箇所にあなたの事が書いてあるのよ」というような姿にも見えます。その聖書の各頁は美しく装飾されています。すなわち、今、この聖母子が立っている周りの風景と同じく、聖書の各頁の周辺には花や植物の絵が描かれているのです。聖母子のいる世界と聖書の世界がつながっているのです。聖書を開く時に、この世界にも花が開く(平和で豊かな世界が実現する)のです。

(3)聖母の表情に浮かぶほほえみ
ボッティチェリの聖母がどこか拭いきれない憂いを含んでいるのに対して、ルーベンスの描く聖母の表情には暗さがありません。ルーベンスが生きた時代も決して平穏ではなく、キリスト教世界もカトリックとプロテスタントが激しく争っていました。にもかかわらず、その両者を知るルーベンスは「同じ聖書を基礎としている信仰ですから必ずや和解し、一致することが出来るのです」と言わんばかりのメッセージを込めているように思います。

(4)聖書と同じ机の上におかれた果実
絵の右隅にはブドウやザクロ、リンゴのような果物が描かれています。マスカットのような緑色のブドウもあれば、巨峰のような濃い紫色のブドウもあります。色は異なっても同じブドウ、つまりカトリックもプロテスタントも同じことという意味が読み取れるのではないでしょうか。

 


アート&バイブル 12:書物の聖母

サンドロ・ボッティチェリ『書物の聖母』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

2016年1月16日~4月3日、日伊国交樹立150周年記念企画として、ボッティチェリ展が東京都美術館で開催されました。そのポスターに掲載されていたのがこの「書物の聖母」でした。ボッティチェリ(Sandro Botticelli, 生没年 1544/45~1510)というと、宗教画になじみの薄い日本では、「ヴィーナスの誕生」(図1)や「プリマベーラ(春)」などギリシャ神話を題材とした、いかにも泰西名画的な作品が人気のようですが、この展覧会によって聖母を描く作品も新たに注目されたといえるかもしれません。

図1:サンドロ・ボッティチェッリ『ヴィーナスの誕生』(1483年頃、フィレンツェ、ウフィッツィ美術館)

ボッティチェリはフィリッポ・リッピ(Fra Filippo Lippi, 1406頃~1469)を師として絵を学び、それゆえリッピの描く甘美な聖母の表情、姿を引き継いでいます。当時、聖母を描く時の甘美さにおいて定評があったのはぺルジーノ(Perugino, 1445/50~1523)ですが、こちらの弟子にはラファエロ(Raffaello Sanzio, 1483~1520)がいます。ラファエロがマドンナの画家と呼ばれますが、ボッティチェリもラファエロに劣らぬマドンナの画家の一人です。

この絵は窓辺に聖母が腰をかけ、ひざに抱いた幼子イエスに聖書のことばを読み聞かせているという姿です。聖書のことばを読んでいる時、聖母は、ふとこの幼子はやがて全人類の救いのために犠牲として捧げられなければならないということに思いが至り、ことばが止まってしまった様子に気づいて、幼子が聖母を見上げて何かを語りかけているように見える作品です。

 

【鑑賞のポイント】

(1)聖母の光輪とベール
聖母の頭の背後にある光輪は金色で、繊細なレースのように描かれており、ボッティチェリらしい優雅さにあふれています。聖母の肩にかかるベールも半透明で、聖母の髪を半ば隠そうとしながらもその優美さは隠しきれない美しさとして描かれています。聖母のマントの肩には星の姿が描かれています。

サンドロ・ボッティチェリ『書物の聖母』(1483年、ミラノ、ボルディ・ベッツォーリ美術館所蔵)

(2)聖母の表情
この聖母の表情こそ、ボッティチェリの特徴、得意とするところです。ボッティチェリの描く聖母の顔には、かすかな憂いを含んでいます。しかし、それは恐怖や不安ではなく、あくまで憂いなのです。この幼子の過酷な運命、しかしそれが神の御心ならば、人間の目には悲劇的なものであろうとも、その先にあるものを信じようとする聖母の心の動きが憂いという表情の源となっているのです。

(3)聖母を見上げる幼子
聖母の声が止まってしまったことに気づいて、幼子が聖母の顔を見上げています。幼子の左手には三本の釘と茨の冠があります。この幼子が救い主として、その使命をどのように実現するかについて、イザヤ預言書の52章13節から53章12節にある「苦しむしもべの歌」(第四のしもべの歌)にイエスのメシアとしての自己理解が示されています。幼子は「お母様、心配なさらないで下さい。これらの苦しみを通してメシアは復活することになるのです。それによって御父は栄光をお受けになるのです」と語っているように見えるのです。

(4)聖母の手と幼子の手
聖書におかれた聖母の右の手と幼子の右手が重なっており、この聖母子の絆の深さがさりげなく、描かれています。その上には白と赤のバラの花も飾られています。

 


アート&バイブル 11:聖母マリアの少女時代

フランシスコ・デ・スルバラン『聖母マリアの少女時代』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

この絵の作者はフランシスコ・デ・スルバラン(Francisco de Zurbarán, 生没年 1598~1664)です。スペインで活躍した画家の中で、特に宗教画という世界では、エル・グレコ、スルバラン、ムリーリョの三人の名が思い浮かびます。

図1:フランシスコ・デ・スルバラン『神の子羊』(1635~40年頃、プラド美術館所蔵)

スルバランをスペインのカラヴァッジョと呼ぶ人々もいるようです。確かに光と影のコントラストという点ではカラヴァッジョに通じるものがあるかもしれませんが、私はむしろスルバランは「修道者の画家」という呼び名の方がふさわしいと思います。スルバランの絵はリアリズムに満ちており(図1)、その点ではカラヴァッジョと共通するポイントがありますが、カラヴァッジョのような激情をそのままぶつけるのではなく、むしろ内面の情熱を抑え、静謐さによって包まれている魂の姿というものを感じるのです。

スルバランの代表作として1628年に発注されたメルセス会の創立者聖ペトロ(ペドロ)・ノラスコの生涯を描いた連作があります。この作品以後、1630年代にはセビリアを中心に活動しており、1634年にはマドリードのブエンレティーロ宮の「諸王国の間」の装飾という大きな仕事を引き受けています。1638~39年にはグアダルーペ修道院聖具室(香部屋)の装飾にも携わり、スルバランの画業は全盛期を迎えたのです。

しかし1640年代になると彼の人気は急速に衰えます。セビリアの町自体が衰退し、かつペストの流行もありました。加えて、甘美で優雅なマリア様を描いたムリーリョ(スペインのラファエロと呼ばれた)の声望と人気が高まっており、スルバランは、1658年にセビリアを去り、ベラスケスを頼りマドリードに向かい、同地で没します。

 

【鑑賞のポイント】

フランシスコ・デ・スルバラン『聖母マリアの少女時代』(1660年頃、エルミタージュ美術館所蔵)

(1)黒髪の少女として:聖母マリアはいろいろな画家によって描かれていますが、ルネッサンス期のイタリアでは、聖母の髪が金色で描かれていることが多いようです。これは理想化された女性の姿、また金色の意味する輝きが聖母にふさわしいと考えられたからでしょう。しかし、スペインの画家たちは、多くの場合、聖母の髪色を黒や亜麻色で描いています。これはそれぞれの国の女性たちの姿で聖母が描かれるという聖母ならではの特徴だと思います。

(2)女のまなざしと口元の表情:裁縫あるいは刺繍をしていた時、ふと気がつくと神様の姿、あるいは神様の呼びかける声が聞こえてきたのでしょうか、少女マリアは目を天に上げて、何かを見つめています。その表情には驚きや不安などの影はなく、純心なまなざしは幼子のようでもあり、それでいてしっかりとした大人の女性のような落ち着きがあります。口元は今にも開き、神様への賛美のことばを唱える様にも見え、また神様のことばをしっかりと味わうためにむやみに口を開こうとはしない、つつしみのある姿とも見えます。顔だけを見ると大人にも劣らぬ落ち着きを感じますが、体つきはまだ少女の小さな体です。

(3)親指を重ねた手の表情:思わず親指を重ねて手を合わせていますが、これはカトリック教会の祈りの時の姿勢であり、こちらに向けられた親指は力強さが感じられます。布の白と緑もそれぞれ、白は少女マリアの純真無垢な心を表し、クッションの緑は、若々しさや楽園を象徴する色に思えます。

 


アート&バイブル 10:復活したキリストの聖母への出現

グエルチーノ『復活したキリストの聖母への出現』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

図1:グエルチーノ『聖ペトロニラの埋葬(聖ペトロニラの祭壇画)』(1623年、ローマ、カピトリーノ美術館所蔵)

イタリアのバロック画家、グエルチーノ(Guercino, 生没年 1591~1666)を紹介したいと思います。ゲーテは「彼の筆の軽妙さ、清純さ、円熟さはただ驚嘆のほかはない」と絶賛し、スタンダールは「最後の大画家」と讃えています。2015年に国立西洋美術館で展覧会が行われましたが、それが日本でグエルチーノの作品が紹介された初めてのことでした。グイド・レーニ(Guido Reni, 1575~1642)とともにイタリアン・バロックの双璧と称されていますが、これまであまり知られていないことも事実です。

グエルチーノという名はこの時代の画家たちによくあるように通称で、本名はジョヴァンニ・フランチェスコ・バルビエーリ(Giovanni Francesco Barbieri)です。グエルチーノとは「やぶにらみ」という意味で、彼が斜視であったことからつけられたあだ名です。グエルチーノはボローニャとフェラーラの間にあるチェントという村(現在は市ですが)に生まれ、17歳でボローニャ派の画家に弟子入りしました。カラヴァッジョ(Caravaggio, 1571頃~1610)やカラッチ一族によって扉を開けられたバロック美術を発展させるという功績をあげました。

彼自身も認めているように初期のスタイルはアンニバーレ・カラッチ(Annibale Carracci, 1560~1609)の影響を受けていますが、後期の作品には彼のライバルとも言われているグイド・レーニの作風に近づいてゆき、より明るく明瞭な絵を描くようになりました。彼はスケッチの点でも超一流で、かつ仕事が早いことでも有名でした。1621年から1623年まで、ボローニャ出身の教皇グレゴリウス15世(在位年 1621~1623)に招かれ、ローマの宮殿や教会に多くの作品を描きました。彼の最高傑作は『聖ペトロニラの埋葬(聖ペトロニラの祭壇画)』(図1)と言われています。

 

図2:グエルチーノ『復活したキリストの聖母への出現』(1628~30年頃、イタリア、チェント市立絵画館所蔵)

【鑑賞のポイント】

『復活したキリストの聖母マリアへの出現』(図2)は、聖書には書かれていない伝承に基づいたエピソードをモチーフにしています。聖書には、墓の近くでマグダラのマリアに姿を見せたこと、ユダヤ人を恐れ、鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちに姿を現したことなどが記されています。しかし、復活の朝、キリストは最初に、誰よりもキリストを愛し、また誰よりもキリストを理解し、誰よりもキリストを信じていた聖母マリアにこそ出現したという言い伝えもあるのです。

 


アート&バイブル 9:最後の晩餐

ジョット『最後の晩餐』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

ジョット(Giotto di Bondone, 1267頃~1337)の作品に興味があるならば、パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂を抜きにしては語れません。礼拝堂のすべての壁面にジョットの真筆で描かれたヨアキムとアンナの生涯、聖マリアの生涯、そしてキリストの生涯は、それ以降の画家たちにとって、様々なインスピレーションの源泉となりました。建物の描き方にはすでに遠近法が取り入れられており、12人の弟子たちの表情も様々な心の動きや感情を表しています(鑑賞のポイントとあわせて、図2参照)。

図1:12~13世紀に作られた北シリアの典礼用福音書の「最後の晩餐」の挿絵(ロンドン、大英図書館蔵)

参考のために、12~13世紀に作られた北シリアの典礼用福音書の挿絵の最後の晩餐(図1)と、ジョットの作品を比べてみてください。12~13世紀の東方の挿絵では、まだ遠近法がないためになんと最後の晩餐を描くために上から見下ろしたような構図で描かれており、円形のテーブルの周りに12人の弟子たちが横向きに描かれたり、逆さまに描かれたりと苦労がしのばれます。この挿絵ではキリストが立ちあがっており、右手をのばしてユダを指し示しています。ユダは皿の方に右手を伸べていますが、左手で思わず金袋(あるいは金をいれたポケット)に置いています。

弟子たちの表情は素朴で、弟子たちが誰であるかがまだ判別できるほど個性的には描かれていません。髭の有無や髪の毛の色の違いなどで多少の区別がつけられていますが、目や口などはイラストのように単純です。

 

【鑑賞のポイント】

(1)この中に私を裏切る者がいる

イエスが「この中に私を裏切る者がいる」と言われた時、ペトロ(イエスの胸に寄りかかっているヨハネのすぐ左隣りにいる)は、その表情を曇らせ、「それは誰ですか?」と問いかけているようです。「私と同じ鉢に手を入れている者がそれである」とイエスが答えたその時、ユダがイエスと同じ器に触れています。ユダの席はイエスの右側(ヤコブがイエス様の右隣で、そのすぐ右隣に描かれています)の席にいます。つまりゼベダイの兄弟(ヤコブとヨハネ)がイエスの左右に、それに続いてイエスに近い左右の席にペトロとユダが描かれています。

図2:ジョット作『最後の晩餐』(1304~05年、パドヴァ、スクロヴェーニ礼拝堂)

これはユダがペトロに匹敵するほど12人の弟子の中では席次が高く、弟子たちの中でも特別なポジションにいたことを表しています。ユダだけがガリラヤ出身ではなく、教養もあり、ギリシャ語も話すことができ、才覚もあり、機転の利く人物、イエスの秘書的な役割、グループの会計係りとして信頼が厚かったという描き方なのです。ジョットより後の画家たちがユダだけを仲間外れに描いたり、グループのお金を横領していたりというような悪意のある人物として描いたのに比べると、ジョットのユダの理解は現代的であるとさえ思います。

 

(2)12~13世紀の挿絵

イエスは右手で指さしていますが、左手には四角のお盆か皿のようなものを持っています。そして、12人の弟子たちの前に置かれた皿の上に丸が描かれています。まるで二重丸のように見えますが、これは各自の皿の上に聖体がイエスによって配られたことを表しているのです。ユダは聖体を受ける前に部屋から出て行ったと考える時代もありましたが、ユダも聖体を受けていたのです。

 


アート&バイブル 8:聖カタリナの神秘の結婚

ロレンツォ・ロット『聖カタリナの神秘の結婚』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

図1:『レカナーティのお告げ』(1534年頃、レカナーティ市立絵画館所蔵)

ロレンツォ・ロット(生没年1480頃~1556)はベネツィアに生まれました。家族や友人、弟子も持たず、イタリア各地を放浪しました。存命中は作品に評価が与えられず、経済面でも苦労が絶えなかったというエピソードが残っています。晩年はロレートの修道院(ロレートは「聖母の家」があることで有名な町。特集16「聖家族崇敬が生まれた状況」参照)にて穏やかに暮らしたといわれています。彼の作品で比較的知られているのは、お告げの絵(図1)です。マリアが驚いて逃げ出そうとしているような姿は当時としては奇想天外な描き方で、それゆえ奇妙に感じられていたことでしょう。

 

【鑑賞のポイント】

本日、紹介する作品『聖カタリナの神秘の結婚』(図2)では、アレクサンドリアの聖カタリナに指輪を渡す幼子イエスの姿とそれを敬虔に拝跪(はいき:ひざまずいて拝むこと)して受け取るカタリナの姿が描かれています。アレクサンドリアの王女カタリナは、美貌と博識でもって名高い女性でした。

図2:『聖カタリナの神秘の結婚』(1523年、ローマ、国立古典絵画館所蔵)

彼女は、砂漠の隠者によってキリストの花嫁に迎えられると告知されます。しかしそのとき洗礼を受けていなかったのでキリストに拒まれます。カタリナはその後、洗礼を受けて心の平安を得て、キリストと“神秘の結婚”をします。この“神秘の結婚”は幼児のキリストがカタリナに結婚指輪を授ける姿で表されます。カタリナは王女であるため、通常は王冠を被り豪華な身なりで描かれています。

カタリナは時のローマ皇帝に見初められ求婚されますが、キリストの花嫁たることを誓った彼女は、異教徒である皇帝との結婚を拒みます。皇帝は100人の哲学者をカタリナのもとへ遣わして議論させ、彼女の信仰を打ち破ろうとしますが、逆に哲学者たちが論破され、キリスト教に帰依することとなりました。

怒った皇帝はカタリナを刺のある車輪に縛りつけ、車裂きにしようとしますが、天使が現れて車輪を粉砕してしまいます。最後には、彼女は斬首され、殉教します。古代から中世にかけて尊敬を受け、祭壇画などに数多く描かれ、愛された聖女です。

 


アート&バイブル 7:玉座の聖母子

フラ・アンジェリコ『玉座の聖母子』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

フラ・アンジェリコには「べアート(至福の人)」という呼称が冠されることがあります。これは彼を讃えるものですが、カトリック教会は正式に彼を「福者」としたことがなかったにもかかわらず、「ベアート・アンジェリコ」の呼称は広く流布されていました。ヨハネ・パウロ2世はこの現実に気付き、1982年10月3日、正式に彼を「福者(べアート)」に列しました。名前の通り、彼の描いた作品は、見る人を祈りに誘います。心に清らかな光を受けたように感じられるのは、祈りながら描いた彼の生活に根ざしていると思います。

彼の代表作品は、今もフィレンツェのサン・マルコ(修道院)美術館で見ることができ、修道院の各部屋に仲間の修道士の祈りの題材を描いたという点でとてもユニークな修道院・美術館です。またこの修道院に世界で一番、有名な「受胎告知」のフレスコ画があります。

フラ・アンジェリコ作『玉座の聖母子』(1437年、ウンブリア国立美術館所蔵)

この『玉座の聖母子』はペルージアのサン・ドメニコ修道院の小聖堂の祭壇のために描かれたもので、三連祭壇画の中央の部分に「玉座の聖母子」が置かれ、その左右には「聖ドメニコと聖ニコラオ」と「洗礼者ヨハネとアレキサンドリアの聖カタリナ」が配置されていました。

 

【鑑賞のポイント】

(1)幼子イエスの頭の後ろに描かれている光背には赤い十字架があり、フラ・アンジェリコの作品の特徴となっています。

『玉座の聖母子』中央部

(2)子イエスは右手をあげ、2本の指を立てて祝福を与える姿です。左手には赤いバラの花を一本携えています。

(3)左右に立つ天使たちがバラの花が入った籠を捧げており、これはイエス・キリストの与える祝福が数多く用意されていることを示しています。

(4)左右に立つ天使の服の色彩も赤(愛と情熱)と青に金の星(知性・落ち着き)というマリアの服と同じ色彩で描かれています。

(5)イエスを抱きかかえる聖母の顔も、幼く見えるほどに若く、お告げの時のマリアが少女に近い年齢であったことが伺えます。

(6)フラ・アンジェリコの描く天使は、清らかで、かつ女性の姿です。天使を女性の姿で描くことはフラ・アンジェリコの残した影響の一つです。

(7)天使の服や羽根は鮮やかな色彩で描かれており、また額には聖霊の炎が描かれています。

 


アート&バイブル 6:天上の小園

上部ライン地方の画家『天上の小園』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

この絵は、ドイツの南西部に位置する上部ライン地方の画家が描いたとされる作品です。アルプスの向こう側には独自の文化がありました。この絵はドイツなどの地方でよく見られるテーマ「閉ざされた庭」(Hortus Conclusus ホルトゥス・コンクルースス)です。

上部ライン地方の画家『天上の小園』(1420年頃、フランクフルト市立美術館所蔵)

中世後期とルネッサンス期の画家たちは塀などで囲まれたあるいは閉ざされた庭で、腰を下ろす聖母を好んで描きました。フラ・アンジェリコ(生没年1400頃~1455)の描くお告げの場面も、この「閉ざされた庭」が舞台となっています。これは世俗的な汚れから完全に離脱していながらも、子どもを授かるという聖母を暗示するものでした。この「閉ざされた庭」は、旧約聖書の雅歌の一節(4・12「わたしの妹、わたしの花嫁は閉ざされた庭」)が出典元となっているのです。

上部ライン地方の画家たちもこのテーマやモチーフを好んで描きました。ケルンにある「バラ園の聖母」もこのテーマに沿ったものです。この上部ライン地方は、ローマ帝国時代にいち早くローマ文化が流れ込んだ地方であり、有名なラインヘッセンと呼ばれるドイツのワインの産地でもあります。

聖母のいる庭が楽園と同一視されたことにより、中世に入ると趣向を凝らした寓意的な花、果物、その他の物に宗教的な意味が付与されました。但し、注意深く見ると聖母の庭には動物は描かれていません。この絵にも様々な小鳥が描かれ、庭の外にある木の枝や壁や塀のところに羽を休めていたり、空を飛んでいたりしますが、聖母のいる庭に降りている姿は描かれていません。

 

【鑑賞のポイント】

(1)この中に登場している人物の中で一番上に描かれ、宝冠を被り、青い衣服を身につけ読書をしている女性が聖母マリアです。優美でやさしい表情で描かれています。

(2)その聖母の足元にいる幼子イエスはハープを奏でています。この幼子の相手をしているのは聖セシリアです。彼女は音楽の保護の聖人であり、ハープや楽器が彼女のアトリビュート(その聖人を表す持ち物)です。いたずらっぽい目をしている幼子の表情はとてもかわいらしいと思います。

フラ・アンジェリコ作『受胎告知』(1430~32年頃、プラド美術館所蔵)

(3)セシリアの背後に二人の女性が描かれています。一人は立ち上がって、手を伸ばし、サクランボを収穫しているようです。足元にはカゴが置かれており、その中にもたくさんのサクランボが入っています。サクランボは「天国の果実」と呼ばれることがあり、天国の報酬を暗示する果物として、聖母子とともに描かれることがあります。サクランボは二つの実が対になって実ります。楽園の真ん中にあった二本の木、「知恵の木の実」と「永遠のいのちの木の実」を表すものとして描かれたのでしょう。

(4)もう一人の女性は石の桶のようなところから柄杓で汲み出しています。ライン地方であることを考えると、これは石の酒舟(ブドウを踏んで絞り、ワインを作る)ではないでしょうか? またイエスを葬ったお棺を暗示するものとも……。

 


アート&バイブル 5:聖母子と聖クララ

オラツィオ・ジェンティレスキ『聖母子と聖クララ』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

オラツィオ・ジェンティレスキ(Orazio Lomi Gentileschi, 生没年1563~1639)は、バロック期に活躍したイタリアの画家です。カラヴァッジョ(生没年1573~1610)から大きな影響を受けた画家の一人です。娘のアルテミジア・ジェンティレスキ(生没年1597~1651頃)は、当時としては珍しい女性画家でした。

オラツィオ・ジェンティレスキ作『聖母子と聖クララ』(1615~19年頃、国立マルケ州美術館所蔵)

オラツィオ・ジェンティレスキ、本名オラツィオ・ローミは、ピサに生まれ、1570年代後半からローマに移り住みます。その間、風景画家アゴスティーノ・タッシと交流を持つようになり、ロスピリオシ宮殿、クイリナーレ宮殿などの壁画制作に参加したと推定され、その他にもサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(『キリストの割礼』)、サン・ニコーラ・イン・カルチェレ教会、サンタ・マリア・デッラ・パーチェ教会(『キリストの洗礼』)、サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラーノ大聖堂などでもフレスコ画の制作に携わりました。したがって、ローマの主たる聖堂で、ジェンティレスキの作品を見ることができます。

しかしながら、ジェンティレスキが最も影響を受けた画家は、当時ローマにいたカラヴァッジョでした。ジェンティレスキはカラヴァッジョとともにローマの通りで騒ぎを起こしたことも伝えられており、1603年にはカラヴァッジョに対する訴訟の証人として法廷に立ったという記録があります。

カラヴァッジョがローマから去った後はディティールの正確さや色彩・色調の明るさを発展させてゆき、マニエリスムの影響も見られるようになりました。1613年から1619年にかけてはマルケに滞在、1621~1623年にはジェノヴァに移り、その後、パリに移ってフランス王妃マリー・ド・メディシス(生没年 1573~1642)に仕え、1626年にはイングランドに赴いて国王チャールズ1世(在位1625~1649)のもとで働き、余生をイングランドで送りました。彼の作品は徐々に型にはまったものになりましたが、イングランドの貴族社会からの評判はよかったようです。1639年ロンドンで死去。

(Wikipedia 日本語版、小学館『世界美術大事典』などを参照)

 

カラヴァッジョ作『ロレートの聖母』(1604~1606年、サンタゴスティーノ教会所蔵)

【鑑賞のポイント】

(1)カラヴァッジョの影響を受けたといわれるジェンティレスキですが、人物を照らす光はやわらかく画面左上から、右下へと人物を包んでいます。カラヴァッジョの影響からジェンティレスキ独自の画風へと変わりつつある一枚であり、聖母子と聖クララの親密さが優雅に表されています。幼子の口元と手に注目してみてください。口元は何かを語りかけるように、手がクララの胸元(心)に触れようとしているように見えます。

(2)クララはアッシジのフランシスコの精神を最も純粋に受け継いだ聖人であり、アッシジではフランシスコと並んで称される聖人です。ジェンティレスキも聖クララに特別な尊敬を抱いていたことは、この絵の中で、幼子イエスを包む白い布とクララが身に着けているベールや肩掛けが同じ白(純粋、無垢、清らかさ)であることが強調されていることからわかります。聖母マリアの衣服はクララよりも世俗の人々の服装に近く、カラヴァッジョの描いたロレートの聖母などの姿に似ているように思います。

 


アート&バイブル 4:聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)

シャルル・ル・ブラン『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』

稲川保明(カトリック東京教区司祭)

シャルル・ル・ブラン(Charles Le Brun, 生没年1619~1690)は、第2回で紹介した芸術家です。19歳の若さで宮廷画家としてすでに仕事を依頼されていました。彼の豪華で強烈な個性は絵画だけにとどまらず、下記のようにヴェルサイユ宮殿の装飾など美術工芸品にも影響を与えました。イタリアにおけるルネッサンスの天才たち、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロたちが建築や建築の装飾などを手掛けたことと共通しているかもしれません。

繰り返しになりますが、ル・ブランは1619年2月24日、パリで彫刻家の家に生まれました。1632年、フランソワ・ペリエ(生没年1560~1650)に絵画を学び、その後ル・ブランの才能を認めた大法官ピエール・セギエ(生没年1588~1672)により、1634年シモン・ヴーエ(生没年1590~1649)の工房へ預けられます。1638年にはすでに宮廷画家として宰相リシュリュー(生没年1585~1642)から最初の注文を受けていましたが、1642年、セギエの経済的支援を受けてニコラ・プーサン(生没年1594~1655)とともにローマに赴き、プーサンのもとで最先端の美術を学びます。

シャルル・ル・ブラン作『聖家族(聖家族と眠る幼子イエス)』(1655年、ルーヴル美術館所蔵)

1658年以降、建築家のルイ・ル・ヴォー(生没年1612~1670)、造園家アンドレ・ル・ノートル(生没年1613~1700)とともに財務卿ニコラ・フーケ(生没年1615~1680)が所有するヴォー=ル=ヴィコント城の建設に着手(1661年完成)。この城はこの3人による初めての共同作品で、彼らがここで造り上げた景色や物による絢爛豪華な新秩序は、その後のルイ14世様式の始まりとなりました。フーケの失脚後、彼らはヴェルサイユ宮殿を造るのです。ル・ブランは、ルイ14世(在位年 1643~1715)によって、1664年、王の「第一画家」とされ、爵位と年間12,000リーブルの年金を与えられます。国王は彼を「古今の最も偉大なフランスの芸術家である」と宣言したそうです。1690年2月22日没。(以上、Wikipedia日本語版ほかを参照)

 

【鑑賞のポイント】

(1)この絵の中心には、聖母マリアと幼子イエスが描かれていますが、眠りに入った幼子に布をかけようとしている人物はアンナ(マリアの母)と思われます。

(2)アンナとマリアの間に両手をあわせて幼子を礼拝する様なポーズをとっている人物はザカリア(洗礼者ヨハネの父)です。

(3)マリアの肩越しにもう一人の幼子・洗礼者ヨハネを心配そうに見守っているのはヨゼフです。

(4)ヨゼフの隣にいて、眠る幼子を指さしながら、我が子ヨハネがイエスを起こさないように腰帯を引いて抑えようとしているのはエリザベト(ヨハネの母)です。幼いヨハネは「ねぇ、あそぼうよ!」という感じでイエスに手をのばしています。

(5)マリアが指を立てて、「あのね。今やっと寝たところなのよ。起こさないでね」とことばが聞こえてきそうです。

(6)よく見るとヨハネがよりかかっているのはヨゼフが作ったゆりかごのようです。